STORY1 鹿沼土(2/8)
大きな花束だった。
地味なワンピースに合わない色鮮やかな花が、私の腕の中で咲いている。
横尾さんの深紅のジャケットにはブルーサファイアをあしらったブローチが光り、営業スーツの4人でさえも、私との時間のために洒落たピアスやブレスレットをさりげなく付けていた。それなのに、当の自分はまるで近所のスーパーにでも行くようなさえない格好…。
2次会でみんなと紅茶を飲んで別れ、塞いだ気持ちのまま、家に向かう。
そして、日付がもうすぐ変わりそうな電車で、あの人の住んでいた駅がアナウンスされて、だれかに肩を押されるみたいにホームに降りてしまった。
もちろん、彼の家には行ったこともなく、彼の家族が住む場所を…彼のいたこの街を避けていたので、駅の改札を抜けるのも初めてだった。
ほんの思いつきの行動。衝動的な時間。
終電と万が一のときのタクシー代だけ確認して、私は人波と逆の方向を目指した。
バッグを肘にかけ、両腕で花束を抱えながら、シャッターの降りた商店街を歩くと、ときどき吹く風が梅雨入り前の生温かい空気を運んできた。消費者金融の赤い看板が薄闇で息を潜めている。
早足でもないのに心臓が動きを速め、人とすれ違うたびに、私は視線を路上に落とした。
アーケードのいちばん端の100円ショップの前で、車の走行音にカラスの甲高い声が重なり、折からの警告に聞こえる。
馴染みのない時間の、見慣れない風景。
でも、私はグーグルマップで、ここを何度もたどっていた。毎朝、彼が歩いていた道だから。
電線のたわみ、ゴミ置き場のネット、ガードレールの擦れ傷…細かな情景を記憶に刻み、交差点を右に折れたところで、足が止まる。
車道が広くなり、行き交うテールランプは駅前よりもスピードを上げていく。
そうして、信号のひとつ先、光を消したマンションの1階で、24時間営業のコンビニの明かりが仄かにアスファルトを照らしていた。
目的地は、そこから数メートル離れた場所だった。
破裂しそうな胸の内側が視界を拒否するけど、引き返す気持ちに頭(かぶり)を振って、私は一歩一歩近づいていく。
昨日までは訪れるつもりのなかった空間。
たった2か月前の出来事を過去にすっかり葬るかたちで、新しくなった停留所が深緑色のベンチと一緒に佇んでいた。
両足が震え、膝から下の感覚がなくなる。
もし、彼が電車を利用していたら、いまでもここは私とは無縁の場所で、心と体のブレーカーが落ちるなんてことはなかった。
真新しい排水溝の蓋に想像がかき立てられる。急に、両腕の肌が粟立つ。
歪み倒れた器物。
救急車のサイレン。
報道された光景が目の前に現れる。
道の反対側で、トラックがクラクションを鳴らし、急停車したタクシーを追い抜いていく。
標識柱の足元に花束を置くと、包装の先端が向かい風で裏返り、カスミ草の細い茎に微かに触れた。
目を閉じて、私は長い時間、両手を合わせた。
あの人の声が、耳に聞こえてくる。
(3/8へ続く)
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