連作短篇集「キミの短い命のことなど」
トオルKOTAK
STORY1 鹿沼土(1/8)
だれも知らなくて、だれも裁けない罪が完全犯罪なら、完全恋愛だってある。
最後までだれも知らない恋愛。
でも、罪の意識は消えない。あの人を想う気持ちに時効がない限り、一生。
モニターに浮かぶ歌詞を眺めて、そんなことを考えた。
「相沢さん、何か歌ってください」
抜け殻みたいな私に、新人の星野香織がリモコンを向けてきた。
スーツの下の白い開襟シャツがまぶしくて、愛想笑いでやんわり断ると、隣に座る同僚が私の脇腹をつつき、ノリの悪さを責めるふうに眉間に皺を寄せた。
女6人の送別会。
私は最後まで拒んだのに、所長の横尾さんに言い負かされて、カラオケルームで肩身を狭くしている。
店の入口で、「ミキちゃん、今日は送別会じゃないのよ。慰労会よ」と所長は私に囁き、「たまに営業所のメンバーで飲むのが、仕事のエネルギーになるんだから」と茶目っ気たっぷりにウィンクした。
週末の金曜日、みんなはそれぞれの予定があるはずなのに、私という勝手な退職者のために時計の針を合わせてくれた。
それでも、1週間前にデスクを片づけ、社員証とオフィスのカードキーを総務部に戻した私には、この仲間たちが前世の知り合いくらい遠い存在に思えてしまい、なんだか申し訳ない。
「カオリちゃんがね、今週、2人の契約を取ったのよ」
乾杯の後で、横尾さんは正面に座る私を見つめて、独特のハスキーボイスで業務報告した。
別の先輩社員が「おめでとう」の言葉を重ね、乾杯のグラスをもう一度掲げると、横尾さんは「でも、今夜の主役のミキちゃんは、着任1週間で3人も契約させたのよ」と、我が子を自慢する目を向けて、「あたしたちの営業所がエースを失うのは残念だけど、そのうち戻ってくるでしょう」なんて、豪快に笑った。
仕事の“完了”ではなく、“休憩”をメッセージする所長に、当の私はうまい返事ができず、うつむいたまま、ビールの泡を舐めるだけ。
大学を出てから、この会社で必死にがんばってきたのは本当のこと。
でも、私はエースなんかじゃなく、キャリアを放り出し、人生さえもドロップアウトしそうな中途半端な30女。
エースと呼ぶべき、伝説のセールスレディは“肝っ玉所長”の横尾さんの方で、1週間に最低1人を成約させる辣腕ぶりを、ここにいるみんながリスペクトしている。自分の子供を成人させ、会社に貢献し続ける彼女の姿こそ生保レディの成功モデルで、憧れの対象だ…いや、私にとっては、対象だった。
カラオケ店に入ったのに、しばらくはガールズトークといった感じで、運ばれてきた料理をつつき、幹事がお替わりのドリンクをオーダーしたタイミングで、マイクとリモコンがテーブルを行き交い始めた。私はレモンサワーに切り替えて、カラオケ大会の観客に徹していた。飲めないわけではない。歌えないわけではない。
「主役なのにノリが悪い」と咎められても、冬眠途中の体が言うことを聞かなかった。部屋にひきこもり、だれとも口をきかなかった1週間。実家のメールに返信するくらいで、視線を合わせたのもコンビニの店員ひとりだけ。それも、「1円足りません」と言われ、顔を上げたときに、偶然。
5人のよどみないトークと、スピーカーが放つ音の洪水に押し流されないよう、背中に力を入れる。「ミキちゃん、もっと食べないとダメよ。それ以上、スマートになってどうするの?」
運ばれてきたお好み焼きを、横尾さんが6等分して小皿に取り分け、初対面の人に保険を薦める笑顔で、まず、私に向けてくれた。最後の“母親の優しさ”に胸がきゅっとなり、「いただきます」と声を出す。
マヨネーズと青海苔にかかった鰹節が、仕事の思い出みたいにゆらゆら揺れている。
しんみりした空気が部屋の中に入り込まず、笑い声と歌声だけが交差していた。
「留学なんて、すごいですね。アメリカですか?」
流行りのJ-POPを歌い終えた星野香織が、唐突に、私に尋ねてきた。天井のミラーボールの光が丸い瞳に立体感を与え、程よいアルコールがほんの少し頬を赤らめている。
「そう! 思い切ったわよねぇ。あたしの時代は留学なんて夢のまた夢。外国は新婚旅行で行ったきりよ」
リモコン操作の手を止めた横尾さんに、私は「まだ決めたわけじゃないんです」と返し、渇いた喉にサワーを通した。
退職の理由は留学なんかではない。しばらく日本を出て、海外で独りになりたいという思いに、ありきたりな体裁を重ね着しただけ。
「でも、飛行機だって怖いわよねぇ。乗り物の事故って防ぎようがないわ」と横尾さんが続け、両隣の同僚が頷いた。
…みんなが、あの事故を思い出している。
私たちの社員を奪った、あの事件。
たった53日前の生々しい記憶は私だけのものじゃなく、多くの人の中に留まり続けているのだ。しかし、みんなにとっては、[ひとりの社員]でしかないけど、私には違った。
53日…あの日からずっと数えている。
過去と現在の境目を見つけられず、けして埋めることのできない喪失感で、私の心と体のブレーカーはパタンと落ちた。突然、予告もなしに。
やがて、ルーム予約の終了を告げるコールがあり、幹事が「それじゃあ、みんな!」と手を叩いた。
カラオケの音が止み、満員電車ふうの室内が一瞬で熱を冷ます。
「相沢美希ちゃん、8年間の勤務、本当にお疲れさま! 長い間、ありがとう」
マイクを通した後、所長はテーブル越しに私を長くハグした。
拍手と花束。
慰労会が紛れもない送別会になって、この場にいない社員も一筆寄せてくれた色紙を渡される。
その桜色の真ん中には、[名前のとおり“美しい希望”の未来へ]と、筆ペンで書かれていた。
だれかが機械に送った卒業ソングが、イントロを奏でていく。そうして、挨拶を求められ、私の感情が生まれたての動物みたいに理性を失くしてしまった。
みんなが順々に私の体に触れてきて、やるせなくて、切なくて。
秘密を抱えたまま、みんなと別れる自分。
内緒にしている退職の理由。
“罪”という言葉が、あぶり出しの文字になって、また私の頭に浮かんだ。
(2/8へ続く)
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