名付けの君

わたしの夫は、名のない人だった。

幼い頃に失ってしまい、ずっと探していたのだという。


私の方もまだ幼なかったので、名がないというのがどういうことだかよくわからなかった。ただ、名を呼べないのではさぞかし不便だろう、とは思われた。

それで名を付けた。


名というのは単に呼ばわるための道具ではなく、魂を結び合わせるものだ、とは聞かされていた。よくない言葉を名にしてしまうと、よくないものが魂に結び合わされてしまう。だから名を付ける時はよく考えて、魂に相応しい名を与えなければならないのだと。

だから、彼の銀色に輝く、しずかな瞳に相応しい名を付けたのだ。

月、と。


だけれど、私はひとつ思い違いをしていた。名は単にその人とその人の魂を結び合わせるだけのものではなかったのだ。名は、付けた人と付けられた人の、互いの魂をも結び合わせてしまう。

飼い犬は名付けによって自分のものとなり、一生を共にする。名付けた者には名付けられた者への責任が生じる。そういうことを知らずに、私は彼に名を付けてしまったのだ。


事の重大さに蒼醒めた私はすっかり動転して、だから、自らの誤ちを償うつもりで、更に誤ちを重ねてしまったことにまったく気付かなかった。


私の説明を聞いて、両親は渋い顔になった。父は私に、自分が何を言っているか解っているのか、と尋き、母はとりあえず連れてきなさい、と言った。

幸いにして彼は、素性が知れない(なにしろ今まで名がなかったので)という問題はあったにせよ、真面目で穏やかな人だったから、両親は私たちのことを認めてくれた──というか、私が責任を取るように命じられたのだ。


謝罪のつもりで私が彼に願ったこと、つまり、一方的な名付けではなく互いに名を付けようという提案は、親によって名付けられ家と結び合わされていた関係を解きほぐし、互いの結魂けっこんへと変じる行為であり、生涯を誓い合って行なうべきことだったらしい。それを親から聞かされた私は更に動転したのだけれど、彼は落ち着いて、私の手をそっと握ってくれた。それは漠然と夢に描いていたような、胸ときめかすような出会いではなかったけれども、この人とならば幸せになれるのではないかと、わけもなくそう思った。


彼が私に付けた名は、風。

気まぐれでそそっかしいのを見透かされたのかと思ったけれど、故郷では月とつがいで語られるものだそうで、出会った時からそんな気がしていたのだ、と真顔で言われ、私はまた動転した。

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