第42話 旅立ち6

 自分を守るように背後に囲いながら、剣を構えるヴォルフを見つめる。彼の視線は、先ほどまで戦っていた騎士に向けられていた。仮にも姫巫女を連れ帰るための兵士である。追い詰めた余裕もあるのだろうが、足場の悪い崖の際でむやみに襲ってくる様子はない。

 他の兵士を押さえるようにして前に立つ騎士はヴォルフより少し年上だろうか。

「騎士が姫巫女を攫うとは……ダリウスが嘆くぞ?」

 挑発するように騎士がヴォルフを見た。

「何のことか、分かりかねる」

 ヴォルフが白々しく抑揚のない声で返すのに、騎士は余裕を見せて笑った。

「お前の所属する騎士団の団長だろうが」

「知らんな」

「腕も、その図太さも嫌いではないが」

 騎士は言葉を切ると、ヴォルフに守られながら背後に立つリィナへと目を向けてきた。

「あなたの返答次第では、あなたの剣士は死んでもらうことになる」

 騎士はリィナの視線をとらえて、静かに脅迫をしてくる。リィナは息が止まりそうな衝撃から逃れるように、ゴクリと息を飲み込んだ。

「聞かなくていい」

 ヴォルフは騎士を睨み付けたまま、ぼそりとリィナにつぶやく。

「君は心配しなくていい」

「この期に及んで、そんな口がたたけるとは、ずいぶんと阿呆なのか。それとも、そこな姫巫女様に、少しでも良いところを見せたいか」

 嘲るように騎士が笑った。

「姫巫女。将来有望なそこな騎士を助けたいのなら、どうぞお戻りを」

「黙れ。そうやってこの子の心を殺す場所になど、やるつもりはない。あなたの言ったとおり、俺は、姫巫女の剣士だからな」

 笑って軽口を叩いているように見えるが、ヴォルフが楽観視していないことを、リィナは感じ取る。

「帰りません」

 リィナは、ヴォルフの背に守られながら、きっぱりと言い切った。

 ヴォルフを守りたい。帰ればヴォルフは助かるのかとも考えた。しかし、答えは、否だ。

 姫巫女を攫ったとその騎士は言ったのだ。リィナが素直に帰ったところで、ヴォルフがおとがめなし、というわけにはいかないだろう。そして、リィナは、自分には何の力も発言権もないことを、数ヶ月の神殿での生活で理解していた。リィナがいくらヴォルフの身の安全を訴えたところで、聞き入れてもらえるとは思っていない。神殿側のすることをリィナは何一つ信用する気はなかった。

「あんな場所に戻るぐらいなら、死んだ方がマシです。私を殺したくないのなら、引いて下さい。そうでなければ、私はここから飛び降ります」

 震える声で、リィナはきっぱりと言い放った。

 死にたくない。死ぬ気などない。ヴォルフがせっかく未来を見せてくれたのだ。死んでたまる物かと思う。けれど、これは取引なのだ。この場を逃げるための駆け引き材料と言えば、もう自分の命ぐらいしかない。そして、価値を認められた命は、確かに交渉の材料となりうるのだと、リィナは身をもって知っている。

「リィナ、バカなことを言うな」

 とがめるヴォルフの声が耳に響く。

 ヴォルフの視線は騎士に向けられたままだが、ひどく心配をさせているのだろうとリィナは感じる。ヴォルフが全ての危険を引き受けて守ってくれている。だからこそ、リィナは力を得た。ヴォルフの背中に隠れて強がっても滑稽かもしれない。けれど、言いたいことぐらい、言ってみせる。

「あんな場所に、戻るつもりはありません。だって、私の大切な人は、誰一人として、私が人身御供になってまで助けようとすることを望む人はいないもの。私が不幸になって喜ぶ人はいないもの」

 しかし、その言葉を、騎士が子供の戯言というように嘲笑う。

「けれど、あなたが帰ってこなければ、確実にその方々に迷惑がかかりますよ?」

 リィナは唇を噛み締め、騎士をにらむ。そして、すぐ側にいるヴォルフの服をぎゅっとつかんだ。

「私の大切な人を一人でも不幸にした時点で、神殿は時渡りの姫巫女を失うでしょう」

 震える声で、しかしきっぱりと言いきったリィナに、騎士がわずかに眉をひそめ沈黙する。

「……国外に出してしまうよりは、今ここでなくなっていただいた方が、まだいいでしょうかね?」

 静かに、騎士がつぶやいた。

 リィナを射貫くようなその瞳に、リィナは恐怖に震えた。

 本当に殺されるかもしれない。

 脅しているだけだ、と、理性では思う。けれど、もしかしたらという不安と、本能的な恐怖が、リィナを恐慌状態に陥れようとしていた。

 恐怖に耐えるように、リィナはヴォルフの服を強く握りしめる。厳しい顔で騎士を睨み付けているヴォルフが、囁くようにつぶやく。

「大丈夫だ」

 ヴォルフが騎士から守るように、リィナを騎士から隠す。

「それは姫巫女に仇なす言葉と受け取るが……?」

「もちろん、最悪の事態に至るのなら、という仮定ですよ、姫巫女様?」

 リィナの視界はほぼヴォルフの背中で隠れている。しかし、騎士のいる方向から、リィナ達に向かう足音が聞こえた。

 ざくり、ざくり。

 大きな音ではないが、その足音はリィナの耳に、この逃走の終わりを告げるかのように響いた。

「……来ないで下さい……!!」

 リィナは叫んだ。

 すぐ後ろは崖。あと二歩、後ろに下がれば、足場はない。

 死にたくなかった。死ぬ気などなかった。

 命を取引の手段にしたのは、ただ、恐かっただけだった。神殿に戻ることが。そして両親が殺されてしまうかもしれないことが。そして、こんな所までヴォルフに付き合わせ、彼に罪を背負わせることが。

 けれどあくまでも、取引の手段でしかなかった。

 死にたいなど、欠片ほども思っていない。

 ただ、今の間際、ほんの少しだけ。自分が死んだ方が良いのではないかと、思った。一人ならば、ヴォルフは逃げられるのではないかと。

 その思いがリィナを一歩後ろに下がらせた。

 しかし目をそちらにやり、眼下の断崖絶壁にリィナは身震いをする。

 死んでしまおうかと思った気持ちが急速に恐怖で萎えた。死にたくない。その崖は恐ろしくて、この崖を飛び降りるのは無理だと思った。

 けれどリィナの持つ選択肢には、望む物は一つもない。目の前には、じりじりと距離を詰めようとしている騎士がいる。

 死にたくはなかったのだ。飛び降りる気など、本当になかった。

 だからその瞬間は、ただ恐怖と躊躇いと、選ぶことの出来ない決断を突きつけられて、少しだけ、無意識に後ずさっただけだった。

 なぜこの崖の際で足が動かしたのか。

「きゃぁ!!」

 がらりと音を立てて下げた方の足場が崩れた。片足ががくんと崖に引きずり込まれ、そのままリィナの体は後ろに向けて倒れて行く。

 うそ……。

 リィナの頭の中が真っ白になった。自分を支える物のない浮遊感だけは理解できた。片足は確かに地に着いているのに、落ちる先に地面はなかった。

 無情にも、とっさに握りしめていたヴォルフの服からも滑るように手が離れ、体は宙へと投げ出される。

 不思議なほど何が起こっているのかはっきり分かるのに、体がそれについて行かない。体が、崖の下へと吸い込まれているかのように感じた。

 瞬くほどの時間なのに、不思議なほど目の前の景色はゆっくり、ゆっくり動いている。

 リィナの、視界の端に、ものすごい形相のヴォルフがうつる。

「リィナ!!」

 そう叫んでいるように見えたが、声は聞こえたような気もしたし、聞こえなかったような気もする。

 その直後、ヴォルフがリィナに向かって手を伸ばし、そのまま崖から身を投げるようにその体が宙に舞う。

 ヒッと、胸の奥が萎縮した。

 ヴォルフ様!!

 リィナはゆっくりと過ぎる瞬くほどの瞬間に、何が起こっているのかを明確に知る。

 ヴォルフが死んでしまう。

 その事実はリィナの体を打ち抜くような衝撃となって認識される。それは途方もない恐怖となってリィナの体を突き抜けた。

 言葉にならない感情がリィナの中を駆け巡った。

「いやぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 目の前が真っ白になった。

 そしてそのまま絶望と共に、リィナの意識は途切れた。

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