第38話 旅立ち2

 頭を撫でる手の温かさが伝わってくる。

 どんなときでも救ってくれる手。守ってくれる手。その手の持ち主は危険も顧みずリィナを助けてくれる。

 リィナはうれしさや申し訳なさとは別に、その事をどうしようもなく不思議に思う。彼には犠牲を強いるばかりのことなのに。

「どうして私を助けてくれるんですか……?」

 リィナは後ろから回ってきているヴォルフの手を見つめながらつぶやいた。

「何か言ったか?」

 小さなつぶやきはヴォルフの耳にははっきりとは届かなかったらしい。

 思わず口を突いて出ただけで、意図して問いかけたわけではなかった。けれど、リィナは意を決して尋ねる。

「ヴォルフ様が私の逃亡に手を貸すということは、罪に問われるのですよね?」

「ばれたらそうだろうな。だとしても一緒に逃げているから問題ないだろう」

 からかうようにヴォルフが笑った。

「そうじゃなくて……!」

 リィナは唇を噛む。彼が気楽そうに笑っているのは、自分に心配をかけさせないためだ。そのくらいわかる。

「私はヴォルフ様に何も返せません。迷惑かけて、罪を背負わせて……。私のせいでヴォルフ様がここまでしなければ行けない理由は何もないのに、どうしてここまでしてくれるんですか?」

 知らず、責めるような口調になる。感謝こそすれ、責めることではないのに。そう思うのだが、ヴォルフに背負わせた重荷を考えると、やはり辛さが先に立つ。

「か弱い女性を守るのは、騎士の仕事だろう?」

 ヴォルフの口調は先ほどと変わらぬ軽さだ。

「騎士の誉れってやつさ」

「そんな事で……!」

 あくまでも冗談めいた態度を崩さないヴォルフに、思わず非難するような目を向けてしまう。なのにヴォルフは目を細めて微笑むのだ。

「……そんな事が大切なときもあるさ。心配しなくていい。姫巫女を守るのは、剣士の役目だろう? そしてちびちゃんは俺の姫巫女だ。何度も言っているだろ。頼むから俺から剣士の役を奪うなよ」

 笑っているのに、からかう様な口調も変わらないのに、視線だけは、それらを裏切るほど真摯に見えて、リィナは言葉を失った。

 そんな簡単な問題で済まして良いはずがない。けれど、それ以上言いつのる言葉を見つけられなかった。きっと、何を言ってもヴォルフの答えは変わらない、そんな気がした。

 リィナは目をそらし、また前を向く。馬の背は揺れながら前へと進む。揺れる景色と、過ぎて行く地面を見つめ、そして手綱を握るヴォルフの手をもう一度見た。

 ごつごつとした、無骨な男の手だった。所々に傷跡も見える。この手が、どうしようもないぐらい優しくて、あんまりにも優しく守ってくれるから、何も考えずにすがっていいように思えてしまう。いろんな物を守るために鍛えられた手だった。騎士として、そして次期領主として。

 私なんかが自分のためだけにすがっていい手ではなかったのに。

 けれどリィナには自分の身を守る術一つもないがために、こんな事態に巻き込んだ。ヴォルフの優しさにつけ込んでしまった。

 助けてくれたことを、うれしいと、ありがとうと言った時点で、リィナは彼に頼る覚悟は決めていたが、迷いがなくなったわけでもない。

 突然、ヴォルフの右手が手綱から離れた。

 そして、その手がそのままリィナの頭に乗せられる。

「あんまり深く考えるな。はげるぞ」

「はげません!」

 思わず反応したリィナに、後ろで、ヴォルフがぶっと吹き出したのが聞こえた。

「~~~~!!」

 もう!!

 振り返ると、彼は笑いながらリィナを見ていた。

「俺の姫巫女は、元気な方が良い。頼むから笑っていてくれ。その方が守りがいがある。姫巫女の笑顔を守るのが、剣士の役目だ。なあちびちゃん。剣士の俺が姫巫女の笑顔を奪ってるなんて事は、遠慮したいんだが?」

 にやにやと笑うヴォルフの意地悪な笑顔が、どうしようもなく優しく見えて、リィナは無理矢理にでも笑おうと思った。

 不安は山のようにある。申し訳ない気持ちはきっと消すことはできない。けれど、頼ると決めたのなら、彼に甘えることしかできないのなら、自分にできる事をしなければいけない。

 自分に出来ること。考えてみたけれど、出来る事なんてほとんどない。何をすれば良いんだろう、どうすれば彼の役に立てるのだろう。

彼の思惑がどこにあるか、なぜこうまで助けてくれるのかは、リィナにはわからないことだ。けれど、そこには確かな思いやりがある。

 考えを巡らせば、ひとつの結論にたどり着いた。

 そうだ、私が出来ることは、笑うことだ。

 ヴォルフが向けてくれる優しさが泣きたいぐらいうれしくて、だからこそ辛くて、けれど、その辛さは二度とヴォルフには見せないとリィナは自分自身に誓う。

 悔やんで懺悔してヴォルフが救われるのならいくらでも悔やむ。けれど悔やむことも、懺悔することも、謝罪も、全て自分の自己満足にすぎない。ヴォルフにそれを見せるのは、気を使わせ心配をかけるだけでむしろ負担となるだろう。

 悔やむのは、もう、これが最後。

 リィナは自分に言い聞かせるように誓う。

 私自身が迷ってたたらダメなんだ。自分のつまらない不安や罪悪感でヴォルフ様を煩わせてはいけない。笑っていろといってくれたのだから、私は笑っていよう。

 精一杯笑って、ヴォルフ様に心配をかけないようにする、それがたったひとつ、私に出来ること。

「ありがとうございます」

 笑顔が嘘にならないように。

 リィナは思いつく限りの感謝を胸に抱いてヴォルフを見た。

 一瞬ヴォルフがひるんだように見えた。え、とリィナが確認するまもなく、ヴォルフはすぐにいつもの笑顔になって、頭をポフポフとたたく。

 ヴォルフは無言のままにうなずくと、視線を進行方向に向けた。リィナはそんなヴォルフの顔を少し見つめ、いつものヴォルフの顔だと納得すると習って前を向く。

 訪れた沈黙は、決して居心地の悪い物ではなかった。不安はまだある。リィナ自身のこと、ヴォルフのこと、そして逃げてきた諸々に対して。けれど、今は背中の後ろにある、大きな安心感に包まれて、何とかなるような気がした。

「今度こそ……守るから」

 突然、風の音に紛れるようにそう聞こえた気がして、リィナは一度振り返ったが、ヴォルフは静かに前を向いたままだった。

 気のせい……?

 リィナは、「今度こそ」の意味が分からず首をかしげる。気のせいかもしれない。

「じゃあ、まずはカルコシュカに向かうぞ。今夜まではちびすけは神殿にもいるわけだからな。それまでは確実に大丈夫だ。様子を見てカルコシュカから船で国外に出る」

「はい」

「心配するな、俺が守る」

 そう言って、ヴォルフが笑った。



 もしヴォルフがこの少女との関係は、と尋ねられれば、赤の他人としか言いようがない。今までの人生を振り返れば、この少女との出会いや関わりなどはすれ違った程度のものだった。その時だけ関わって後は無関係になる、その程度の出会いで終わっても不思議ではなかった。

 ヴォルフは腕の中のリィナを見つめたまま、今自分が成そうとしていることと、今までを振り返る。

 冷静に考えれば考えるほどに、この選択は愚かなのだろうとヴォルフには思えた。出会ったのはたった半年ほど前。関わったのはほんの二ヶ月で舞いの練習の時のみ。ただの知り合いに過ぎない少女のために、己の人生を全て捨てようとしていた。家族も、生活も、そして望んでいた未来も、全て。

 分からなかった。この衝動は何なのだろう。何が自分をこんな行動に駆り立てているのか。理屈では説明できないことばかりだった。

 ただ、これだけは分かっていた。

 リィナを守りたい。

 それは何よりも確かな感情だった。それを諦めたのなら必ず自分は後悔する。だからこそ決意するのに躊躇いはなかった。リィナを見捨てる後悔は、飽きるほどにした。あんな胸が引き裂かれるような後悔は二度としない。

 いかに自分の選択が愚かだとしても、今この道を選んだことを後悔していない。

 この先の未来、どんなに悔やむ日が来ようとも、もし、今この瞬間に戻ったのなら、俺は何度でも同じ選択をする。

 一つの道を選ぶと言うことは、残り全ての道を捨てるということでもある。

 後悔のない人生などない。

 道を選ぶと言うことは、どの後悔を選ぶのかということ。絶対にしたくない後悔を見極めるということ。

 故郷を捨てる後悔、罪人になるであろう後悔、家族に迷惑をかける後悔、仕事や未来を放棄する後悔、そしてリィナを見捨てる後悔。選ぶ道によって数えきれない後悔が生まれるだろう。

 その中で決して選びたくない後悔があるとするのならば、それは、リィナを見捨てたという後悔だ。

 この先どんな後悔をしようとも、二度とリィナを見捨てる後悔だけはしない。他の可能性全てを捨てる価値が、そこにはある。捨てた可能性全ての後悔を引き受けても尚、有り余る価値がある。

 視界の端で、さらさらとリィナの金糸の髪が揺れる。ヴォルフは腕の中のその温もりを見つめ、そしてまっすぐと前を向く。

 それだけで十分だった。

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