第37話 旅立ち1
どのくらい走っただろう。日はもうずいぶん高いところまで登っている。グレンタールを出るまでは、馬上に慣れないリィナを支えつつ馬を駆けさせたヴォルフだったが、人目につきにくいところまで出ると、リィナに負担がかかり過ぎない程度にまで速度を落としていた。それでも人の歩みに比べれば格段に早い。
グレンタールからはずいぶん離れたところにまで来れたのではないだろうか。そう思うと、リィナは少しほっとして、肩の力が抜けるのを感じる。背後からヴォルフの大きな体がリィナを守るように支えており、なおのこと安心感が増した。
もう、良いだろうか。ここまで来たら、もう……。
無言のままに進みながら、リィナはぎゅっと鞍の端を握りしめた。
このままで良いはずがない。覚悟を、決めなくちゃ……。
さっきからずっと考えているのに、なかなか言葉に出来ずにいることがあった。けれど、もう、いいかげんに言わなければいけない。
リィナは息を吸い込むと、耐えるように胸をぐっと押さえた。
「ヴォルフ様、あの、もう、ここまでで良いです。ヴォルフ様を巻き込むわけにはいきませんから」
胸が軋むように痛むのを感じながら、リィナはヴォルフを振り返った。
上手く、笑えているだろうか。
吐き出す息が震える。笑おうとする頬が引きつる。
苦しい、息をするのも苦しい。
リィナは言葉にした直後に、自分の言葉に対して後悔していた。
離れたくなんかない。ヴォルフ様と、離れたくなんかない。
既にそんな思いがリィナの心を占めていた。けれどヴォルフはグレンタールの次期領主だ。こんな事は許されない。こんな事をして良いはずがない。それなのに。そう思うとリィナの胸は軋む。
グレンタールを出てから今までの数刻、ヴォルフが一緒にいる安心感はリィナに心の余裕を与えていた。それは同時に、自身がヴォルフに背負わせようとしている罪にまで考えを及ばせていたのだ。自分のことで精一杯の間は縋るしかなくて、なにも考えず甘えていられた。しかし、未来を考える余裕ができた今、いろんな事が現実味を持って、恐怖と不安をかき立てるのだ。
私はヴォルフ様になんてことをさせているのだろう。
考え始めると、怖くてたまらなくなったのだ。
だから、必死の思いで「もういい」と言ったはずなのに。
言葉にしたとたん、ヴォルフと離れなければならないという恐怖が、リィナを襲っていた。
理性と感情がたたき出す正反対の思いに、リィナは震えた。どちらも嫌だった。どちらになっても、辛い。
どうしよう、どうしたら良いんだろう。
何もかもが急に怖くなる。胸を打つ鼓動は、今までにないほど強く、そして早くたたきつけてくる。
けれど答えを持っているのは、ヴォルフなのだ。
鞍を握りしめ、リィナは震えそうになる体に耐えた。
そんなリィナの頭の上で、軽やかに、からかうような笑う吐息が漏れた。
顔を上げると、呆れた様子で笑っているヴォルフの顔があった。
「俺の姫巫女を放り出せと言うのか? まったく俺の姫巫女は薄情だな。剣士の仕事を奪うんじゃない」
からかうように言うその姿は、リィナの決心を笑い飛ばしているかのようだった。
けれどリィナは知っている。そんな単純なことではないことを。
「でも!」
悲鳴を上げるように叫んだリィナに、ヴォルフがまるでバカにするかのように笑った。
「おちびちゃん。じゃあ聞くが、君は一人で逃げられるか? どうやって逃げる? よしんば逃げられたとして、一人で生きていけるのか?」
幼い子供をからかうように、たしなめるように。
リィナは言葉に詰まった。何も考えずに逃げてきた身だ。おそらくすぐに困り果てる羽目になる。泣きたくなった。ヴォルフの言葉は真実だ。自分は頼るしかないのだ、その現実がリィナを打ちのめす。
けれど、頼って良いはずがないのだ。
自分の情けなさを、そして無力さを突きつけられた。
ヴォルフがからかうように目を細めて笑っている。
彼は分かってこんな言い方をしているのだ。私が負い目を持たなくてすむように。私が一緒にいることを認めやすいように。私の言葉が詰まるような言い方を、わざと。ヴォルフ様は私の逃げ道をふさいでくれているのだ。……あなたは、優しすぎます……。
リィナはこみ上げてくる涙で、のどがきりきりと痛むのを感じていた。
「伊達や酔狂でこんな事を引き受けたりはしない。俺が望んで関わったことだ、そのくらいの責任を持たせろ。君は俺に守られていればいい。俺がおちびちゃんの剣士だ。分かったな、俺の姫巫女?」
肯いて良いはずがない。良いはずがないのだ。
でも。
リィナはあふれる涙をぬぐった。
一緒にいたい。ヴォルフ様と、一緒にいたい。
リィナは今にも嗚咽を上げそうなのどの痛みに耐える。
この腕の中は心地よすぎた。差し伸べられた手を拒んだときの、あの胸が引き裂かれる苦しみを、もう一度耐えられる自信がない。今のリィナに、別れを切り出す痛みを、もう一度味わうほどの勇気はない。
リィナの中で葛藤が続く。
ヴォルフ様に迷惑かけるのは分かっている。
でも、一緒にいたい。この腕に、差し伸べられた手に、甘えてしまいたい。
駄目だ、駄目なのに。
でも、ヴォルフ様。
リィナの目に、手綱を操るヴォルフの逞しい腕が映る。それを見つめているだけで、思いがあふれるような気がした。リィナの心は自分の感情ばかりでいっぱいになる。甘えを受け止めている彼に、全てをゆだねたくなる。
ごめんなさい。
リィナは心の中で謝った。たどり着いた想いは一つだった。
一緒にいたいです。ヴォルフ様と離れるのは、辛いです。ヴォルフ様と、離れたくないです。
けれど今にもあふれ出しそうなそれを口にはできない。リィナはぎりぎりその言葉を出す事を踏みとどまる。
こんな自分勝手なこと、言えるはずがない。甘えて良いはずがない。
リィナは必死で口をつぐみ、言葉が出てこないよう胸の中に押し込める。
なのに、彼は言うのだ。
「……言っただろう? 俺を頼れ。助けてやると言ったあのときから、俺の気持ちは変わっていない。いいかげんに信用しろ」
信用なんて、とっくにしている。リィナでも分かるようなこの危うい状況を、リィナと違い世間を知っているヴォルフが把握していないはずがないのだから。それでもこうして守ってくれているこの人を、リィナは誰よりも信頼していた。だからこそ頼ってはいけないのに。
けれど、私は弱い。
がんばって、がんばって、ここまで来た。辛くて、心が壊れそうだった。追い詰められて必死に逃げて、そんな状況で出会ったこの守ってくれる逞しくて優しい腕を、振り払うだけの強さはなかった。
「……ヴォルフ様に、もしかしたらご家族にも、迷惑をかけてしまいます……」
肯きそうな自分を叱咤して、リィナはつぶやいた。自分では振り払えない。けれど、もし、ヴォルフが手を引くというのなら、それならば、もしかしたら、がんばって手放せるかもしれないと。
反面、それでも守ると言ってくれるのではないかという期待もあった。でも素直にその手を取る勇気もまた、なかった。この優しい人の側にいたかった。この優しい人を巻き込みたくなかった。
それを、ヴォルフが諦めたように笑い飛ばして言う。
「迷惑じゃないと言っているだろう。俺の家族のことも心配するな。あいつらは俺よりもよっぽどしたたかだ」
何でもないことのように言って、ヴォルフの大きな手がリィナの頭に乗せられた。
いつものようにくしゃりと撫でられ、リィナの髪がさらさらとその指の間をこぼれて行く。
ヴォルフ様、ヴォルフ様。
リィナはヴォルフの声を聞きながら、呪文のように、心の中で何度も何度も彼の名を呼ぶ。
側にいない間も、その名前を思うだけで私を支えてくれた人。
うれしくて、苦しくて、幸せで、悲しくて、申し訳なくて、でも、どうしようもなく愛しくて胸がいっぱいになる。
「ちびすけ、俺を頼れ。いいか。俺に悪いと思うのなら、笑って「ありがとう」って言うんだ。ちびすけが泣こうが、嫌がろうが、笑おうが、喜ぼうが、俺の決意は変わらないんだからな。ただ、決意は変わらないが、ちびすけが笑うと、俺は喜ぶ。さあ、どうする?」
あっけらかんとそう言って、彼が笑う。
「ヴォルフ様は、ずるい、です……」
優しすぎです。
逃げ道を、全部塞いで、さあ頼れと言わんばかりに、リィナが一番選んではいけない、けれど一番望む道を差し出してくる。
リィナはあふれる涙をこらえながらヴォルフを見上げた。
ごめんなさい。弱い私はあなたに甘えてしまう。駄目だと分かっているのにその手を取ってしまう。差し伸べられた手はあまりにも甘やかで、私は、自分の弱さに負けてしまう。縋りついてしまう。
ごめんなさい、ごめんなさい。巻き込んでしまってごめんなさい。弱くてごめんなさい。頼ってしまってごめんなさい。側にいてくれて、うれしいと思ってしまってごめんなさい。許されないのは分かっている。でも、私はあなたの側にいたい――。
私を見捨てないでいてくれて、ありがとう……。
そしてリィナは、涙とこみ上げてくるしゃくりで、顔をゆがませながら笑った。
「あ、あり、ありがと、ござい、ますっ うれしい、です……!!」
リィナは申し訳なさと、頼ってしまう情けなさと、そしてどうしようもないうれしさを胸に、泣きながら、けれど笑顔で言った。
「それでいい」
ヴォルフがうれしそうに笑みを浮かべた。
「俺の姫巫女が笑ってくれるなら、がんばり甲斐があるというものだ」
ヴォルフがリィナの不安を吹き飛ばすように、おおらかに笑って、ガシガシとリィナの頭を撫でた。
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