第36話 逃避5

 部屋の中の荷物を探りながら眺める数ヶ月ぶりの我が家は、何も変わってなくて、そして、懐かしかった。けれどそんな感慨にふけるまもなく、最低限の生活用品に日持ちのする食料など、旅立つ準備をしていると、突然ラウラがぽつりとつぶやいた。

「助けてあげられなくて、ごめんね」

 思いがけない言葉に、リィナは手を止めた。

「助けてくれたよ。必ず助けてくれるって思えたから、がんばれたの。今だって……っ」

 だからそんな風に言わないでと母を見つめれば、ラウラは「ありがとう」と小さく頷いた。

 母子でこうしていられる時間は、もう残りわずかだ。準備の手を動かしながら、二人でいろんな事を話した。

 神殿での毎日のことも、先読みの姫巫女と話をしたことも、話せるだけ話した。

 ずっと、こうして何でも話しをしてきた。いつも誰よりも側にいてくれた人だった。血が繋がってなくても、リィナの一番身近な存在だった。

「……お母さん、一緒に行こう」

 もしかしたらこのまま会えなくなるかもしれないと思うと、耐えられずに、リィナは懇願した。

 失うのが怖かった。そして、離れるのが怖かった。

 けれど、ラウラは首を横に振るのだ。

「子供のことを一番に考えるのが親の仕事よ。リィナが幸せになるのが私の幸せなの。だから、お願い。お母さんのわがままを聞いて。今度こそ、自分の事を一番に考えて。あの時とは違うから。お父さんとお母さんは、自分の身は自分で守るから。神殿に戻りたくないのなら、今はまず自分の事を考えなさい。私達のことを心配するなら尚更、精一杯、自分が幸せになる道を進むのよ」

 まっすぐに見つめて言うラウラの言葉に、リィナは首を横に振った。

「でも、お母さんとお父さんが、血の繋がってない私の為に犠牲になる必要ない」

 涙を堪えていったリィナに、ラウラが、つんとすました言い返す。

「じゃあ、あなたも、血の繋がってない私の為に犠牲になる必要はないわ」

「ちがうもん、お母さんは私を育ててくれた」

「私は、リィナにいっぱい笑顔をもらって、幸せをもらったわよ」

 ラウラは自慢げに笑った。

 リィナはそんな母を見て泣きそうな顔をして首を横に振った。

「でも」

「リィナ。血のつながりは確かに大きなつながりの一つだけど、愛情は血のつながりだけじゃないでしょ。愛情は、自分たちで築き上げていく物だから。私がリィナを大切に思うのは、私とリィナが赤ちゃんの時から積み上げてきた愛情があるから。私が「リィナを」愛してるから。お母さんの愛を、見くびるんじゃないわよ。わかった?」

 返す言葉を失ったリィナに、ラウラはこの話はこれでおしまいとでも言うように、「それから、これも」と袋を一つ渡す。ずっしりと重みのある袋には、リィナのような少女が持つには、過分すぎるほどのお金が入っていた。


「お待たせ、準備が出来たわよ」

 居間に戻れば、ヴォルフがコンラートとこの後のことについて話し合っていた。

「リィナ、夜が明ける前に家を出なさい」

 軽口を叩くまもなく告げられたコンラートの言葉に、そんなにすぐ、とリィナは不安を覚える。辺りはもうずいぶん明るくなりかけている。離れがたい思いがリィナの胸を占めていた。反面、そうするのが最善という事も分かる。人が動き出す前に移動した方が良いのは当然だ。

「お父さん、本当に一緒に逃げなくて大丈夫なの?」

 不安げな声に、コンラートはいつもの穏やかな表情で確かに頷く。そして彼の大きな手がそっと伸ばされ、リィナの頭にそっと触れた。

「お前は今神殿にいる、だから私達は何の関与もしていない。知らないことを罪には問われないよ。そうだろう? それに、私達はおまえの足枷にしかならない。逆に言えば、私達はリィナを思い通りにするための道具にもなる。側にいると互いに危険だ。おまえが捕まらなければ、なんの罪もない私達は大丈夫だ。だから精一杯逃げなさい。お前が捕まりさえしなければ私達の身は逆に安全なのだよ。おまえに言うことを聞かせたければ、私達が生きていないと、ダメだろう?」

「でも、あの人は、そんなに簡単に騙されてくれないでしょう?」

 詰め寄るリィナに、コンラートは、クスリと微笑む。

「エンカルトのことかい?」

 頷いたリィナに、コンラートは困ったように首をかしげた。

「そうだね、彼を騙すのは、ちょっと難しいかもしれない。でも、あの子はきっと、私達を処刑するようなことはまずしないと思うよ」

 ……あの子?

 あの冷徹な男を示すのにふさわしくない言葉に、一瞬リィナは戸惑う。

「どうしてそう言い切れるの?」

「私達は、おまえを得る為の切り札だからだ。むしろ、リィナが捕まらない限りは、大切に保護してくれるだろうね。ああ見えて可愛いヤツなんだ。彼が引き留めるのを私が振り切って神殿を出たもんだから、すっかりひねてしまっているが、未だに根に持っていたところを見ると、十五年も経っているのに、まだ拗ねているんだろうよ」

 可愛いだろう? と、冗談めかしてコンラートが笑う。

 楽しそうに笑うから、そうだろうかとうっかり納得しかけたが、いや、それですまして良いはずがない。リィナは食い下がった。

「……でも、あの人、私を神殿に入れるとき、本気でお父さんとお母さんを殺すつもりだったよね?」

 コンラートは人を煙に巻くのがうまい。これははっきりさせておきたいとリィナが不安を口にすれば、コンラートが苦く笑った。

「そうだな、あの時はおまえが決断してくれたことを、……正直、感謝したよ。あの子は確かに、紛れもなく本気だった。おまえを得る為なら、迷わず私達を処刑しただろう。しかしその際、まず犠牲になるのは、ラウラだ。おまえの決断は、間違いなくラウラを救った」

 コンラートは、重い口調で肯いた。

「だが今回は大丈夫だ。あの時とは状況が違う。私達を使って脅すには、おまえが目の前にいなければどうしようもない。私達も、おまえの安全が保証されているのなら、何とでもなる。伊達に神殿に長くいた訳じゃないんだよ。私達のことは心配するな、大丈夫だ」

 コンラートが、にこりと笑った。希望ばかりの子供だましな内容だが、それでも真実を織り交ぜての言葉は説得力を持ち、リィナには、それなりに納得の行く答えとなった。信じたいと思う気持ちが、リィナの目を曇らせたのかもしれない。

 苦くも肯いて了解を示したリィナに、コンラートはにっこりと笑ってリィナとヴォルフを見た。

「それに……二人が行けば、私達は初めての夫婦水入らずなのだよ」

 ふふっとコンラートが笑い、リィナとヴォルフは突然の話の転換に面を食らう。隣にいたラウラまで目を剥いてコンラートを見た。

「……は?」

「リィナは私達の娘だが、親が一生子供を守る物ではない。いずれは私達の手から羽ばたいてゆく存在だ。子とはそういう物だ。私が一生をかけて守りたいと思う者は、ラウラだけなのだよ」

 そう言ってコンラートが彼を見上げるラウラに視線を合わせる。

「……え?」

 話の展開が読めない。それはコンラートの視線を受け止めるラウラも同じだったようだ。

「……あなた?」

「君に、私は守られてばかりだったが、今度は、私が守る番だ」

 ラウラを抱き寄せるコンラートに、ラウラが心底うろたえた様子でコンラートとリィナとヴォルフを順番に見る。

「……コンラート殿」

 ややあって、ヴォルフが頭に手をやって、うめくようにつぶやいた。

「なんだい?」

「そういうのは、俺たちが行ってから、二人でやって下さい」

 ヴォルフの隣で、リィナがこくこくと肯く。ついでにラウラも顔を真っ赤にして肯いた。

 それを受けてにっこりとコンラートが笑う。

「そうだね。それでは、ヴォルフ殿、リィナを頼むよ」

 ラウラを抱きしめたまま笑うコンラートを見て、ああ、とヴォルフは得心する。

 彼は、しめやかな別れなど望んでいないのだと。どこか未来のある、いつかまた会える、そんな予感を演出しているのだと。

「まかせて下さい。リィナは俺が守ります。お二人は、のちほどどうぞよろしくやって下さい」

 あえてからかうような物言いをすると、コンラートが微笑んだ。

 彼の望み通りの答えが出来たようだと、ヴォルフは思う。

「お父さん、お母さん、ごめんね」

 リィナが二人を両手いっぱいに抱きしめる。

「後のことは気にするな。私達で何とかなる。リィナは思うように、いきなさい」

「……はい!」

「リィナ、これを……」

 ラウラが、自分の首から肌身離さず提げていた首飾りを外し、リィナの首にかけた。

「……私が姫巫女様から……あなたを生んだお母様からいただいた守石よ。私をずっと支えてくれていたの。姫巫女様と、私たちと、リィナを思うみんなの気持ちが込められているわ。お守りと思って、持って行って」

「うん……ありがとう」

 リィナはそれを首にかけると、大切そうに、それを握りしめた。

 間もなく夜が明ける。明るさを増した空に、彼らは準備の手を早めた。

 そして、慌ただしく、別れの時は来た。

 ヴォルフとリィナは馬に乗ると見送る二人に手を振り、夜明け前のグレンタールを駆け抜けていった。










*****************



「さて、行ってしまったね」

 コンラートは腕の中のラウラにほほえみかける。

「はい」

 すんと鼻をすすったラウラの鼻の頭に、コンラートはキスをする。

「あの……」

「ん?」

「その……」

 ラウラは躊躇いがちにコンラートを見つめる。コンラートはそれを愛おしく思いながら見つめていた。

「何度も言ったよね、私が愛しているのは、君だと」

「……だって、エリノア様は……」

 ラウラが悲しげにつぶやくのを見て、コンラートは溜息をついた。

「やっぱり、まだ彼女のことを気にしていたんだね。あれは、昔のことだ。さすがに、もう引きずっていないよ。私も後ろを向いて生きていく気はない。私が共に前を向いて歩んでいきたいのは、君だけだ」

「……それでも、エリノア様を、愛しているでしょう? あなたが、私の事を大切にしてくれているのは、分かっているの。仮の夫婦役として生きて行くには、十分すぎるぐらい、大切にしてもらったわ。でも、リィナも行ってしまった今、私が、あなたの人生を……」

「ラウラ。君は聞いていなかったのか? 私は、今まで、君に守られて生きてきた。君に、どれだけ私とリィナが守られてきたと思っているんだ。今更、君なしの人生など、どうして私が生きていける? ようやく、私は君を守るために生きることが出来るんだ。今までは、君に何をしても、私がやる事はリィナのためだと君は思い込んできた。違うと言っても、君は笑って、うなずいて、心の中で勝手にそう解釈する。どれだけ愛していると言っても、君は信じてくれない。リィナは旅立った。きっとヴォルフ殿がいればあの子を幸せにしてくれる。私が守るべき者ではなくなった。いいかげんに、私の気持ちを信用してはくれないか?」

「……だって、一生の恋だと……」

「勘弁してくれ。若いときの熱病だ。確かに、一生の恋をしたよ。エリノアを恋うたことは、きっと一生忘れないだろう。しかし、今、私が愛しているのは君だ。仮にエリノアが私の妻になると言っても、私は彼女を選ぶことはない。私の妻は君だけだ。共に歩んでいきたいのも、誰よりも守りたいのも、君だ。あんな熱病に浮かされたような恋ではないかもしれない。しかし、私が男として一生をかけるほどに愛しているのは、ラウラしかいない。……それとも、君は、私に同情しただけだった? エリノアに捨てられた男を仕方なく慰めただけで、こんな事を言われるのは、迷惑なのか?」

 苦しそうにつぶやくコンラートに、ラウラは必死で首を横に振る。

「そんなわけ……っ」

「じゃあ、君も、私を愛している?」

「ええ、あなたを、愛しているわ」

「君の同情心と、エリノアへの忠誠心につけ込んだのかと思うと、ずっと恐かった」

「あなた?」

「……これでも、恐かったのだよ。リィナが行った今、君が私の元にとどまらなければならない理由もなくなった。君が出ていくのではないかと」

「……ちょっと、考えたけど」

「冗談じゃないよ。君に出て行かれたら、私は地の底まで追いかけるよ」

「……ホントに? 溜息をついて、その場に座っていそうです」

「……まあ、エリノアの時は、そうだったけどね。私は、君に関しては、諦める気はないよ」

 ちらりとラウラを見つめるコンラートの目が笑うように弧を描く。しかし、笑っているようには到底見えないほどに、物騒な笑みだった。

「君もそろそろ、私の本気を理解した方が良い。私は、気は長い方だけれど、そろそろ待ち疲れたしね。ついでに執念深いんだよ、これでも」

 にこにことコンラートが人の良さそうな笑みで言う。しかし、むしろ目は獲物を狙う肉食獣並みの物騒さがやどり、えも言えぬ迫力に、ラウラが一歩下がろうとした。

 けれど、あっさりと遮られ、ラウラはコンラートの腕の中にとらえられた。

「じっくりと、話し合おうじゃないか」

 にこにこと笑うコンラートに、ラウラは身を小さくして、「はい」と、小さな声で肯いた。


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