第34話 逃避3
信じられなくて思わず呼びかけていた。
衝動的に体が動き、リィナは草をかき分けてその人に駆け寄る。手を伸ばしてその胸に触れると、指先は確かにその存在を感じさせてくれた。
触れた指先を見つめ、そしてリィナはその顔を仰ぎ見た。
そこには確かにずっと心に描いていたヴォルフの顔があり、懐かしい青灰色の瞳がリィナを見つめていた。
「本物……? 本当に……?」
信じられなくて、思いが言葉になってこぼれた。
「……それは俺の台詞だ。リィナ、なぜこんな所にいる」
リィナ以上に驚いた顔をしているヴォルフを見上げたまま、リィナはじわりとこみ上げてくる涙を必死にこらえた。
「に、逃げて、きま、した……」
ようやく絞り出した声は、それ以上言葉にならず嗚咽にかき消された。
ヴォルフ様だ、本物の、ヴォルフ様だ。
ヴォルフに触れる指先に力を込めて、存在を確かめるように服をきゅっと握る。その感触と共に、ヴォルフの体に指先が引き寄せられるような手応えが確かにあり、彼がそこにいることが感じられた。
うれしさと安堵がこみ上げ、それは涙となってあふれ出す。
「あいっ、あいたっか……た、ですっ」
目の前のヴォルフの服を、両手で更に強くぎゅっと握りしめ、これが幻でないよう、もう、夢の中のように消えてしまわないように願う。
ヴォルフの腕が伸び、リィナの体はヴォルフの胸に押さえつけられた。リィナの背にはヴォルフの腕が回っていて、ヴォルフの胸にすがりつく姿で、抱きしめられているのだと気付く。
恥ずかしいとか、照れくさいとかそんな気持ちがリィナの頭の片隅をよぎるが、今は、リィナを守るように回されたその腕が、たとえようもなく気持ちよく、そして心強く、暖かだった。ここにいれば安心だと、そう思えた。
「がんばったな。もう、大丈夫だ。安心して良い」
抱きしめられたリィナの頭の上から、ヴォルフの静かな声が降ってくる。
それは、信じられないほどに、リィナを安心させた。
安心できるその腕の中で、少し落ち着いたリィナは、ヴォルフの胸に頭を預けたまま尋ねた。
「ヴォルフ様は、どうしてここにいるんですか?」
「おちびちゃんと一緒だ。会いたかったからさ」
冗談でも言うかのように軽く笑って言っているが、その声はなぜか不思議に真実味を帯び、抱きしめられるその腕の強さが、その言葉は決して冗談などではなく真実だとリィナに感じさせた。
「助けに来たんだ。もし、ちびちゃんが後宮入りを嫌がっているようなら、無理矢理にも連れ出すつもりだった。嫌がってなくても、このちびちゃんを後宮なんかに入れるわけには行かないけどな。あんな所は、深窓のご令嬢が入る所だ。ちびちゃんには似合わない」
そう言ってからかうように笑ったヴォルフに、リィナの表情もゆるむ。
「そ、ですよね」
ふふっと泣き笑いになったリィナを、ヴォルフが優しく見つめていた。
「ああ、そうだ。あんな陰謀ばっかりの牢獄に、俺のかわいい姫巫女をやってたまるか」
ヴォルフは呟くと、リィナを抱え込むように抱きしめ直す。リィナはその言葉に、また涙がこみあげる。
ヴォルフがこんなにも心配してくれていた。
うれしかった。
とく、とく、とく、とヴォルフの心臓の音がリィナに伝わってくる。その音が心地よい。
リィナを抱きしめるヴォルフから、安堵したような深い吐息がこぼれた。
「出会えて良かった。まさか、ちびちゃんが逃げ出してくるとはさすがに思わなかったからな。偶然とはいえ、会えていなかったらと思うと、ぞっとする」
そう言って笑ったヴォルフを見て、リィナは、その目が決して笑っていないことを知る。ヴォルフにとっても予想外な状況の筈だ。彼も見た目ほどには落ち着いていないのかもしれない。
「ほんとに、助けに来てくれたんですね……」
それを実感して、リィナはうれしさをかみしめるように呟いた。
「ああ。今日はまだ下見だったんだが……。明日、コンラート殿達と共におちびちゃんを助けるつもりだった。それにしても、よく見つからずに逃げ出せたな」
ヴォルフが、ほぅっと溜息をつき、ぐっと抱きしめる腕に力を込めた。彼がどれだけリィナのことを心配していたのかをおぼろげに感じ取り、リィナは、うれしさと安堵とをその腕の中で覚える。
そして、ヴォルフの服をつかむ手に力を込めた。
「あの、でも、それが、見つかったんです……」
リィナは、逃げ出したときのことを詳しく話しはじめた。
「それは……」
聞き終えるとヴォルフが驚きに言葉を失った。そこにはまさかという思いともしやという思いとが浮かんでいる。それを読み取り、リィナは頷く。
「はい、たぶん時渡りなのだと思います。時渡りが出来るかもしれないとは言われていましたが……まさか本当に出来るとは……。信じられないのですが、そうでなければ説明がつきませんし。……神殿の修行では、まるっきりダメだったのに。不思議な物ですね」
苦く笑ったリィナの背を、ヴォルフの手が、優しく撫でる。
「それはきっと、君にとって、神殿で必要のない力だったからだ。君に世界が閉ざされた神殿は似合わない。それでいい。それでよかったんだ」
ヴォルフの迷いのない断言に、リィナは胸を締め付けるようなうれしさと、肩の荷を下ろしたような開放感を覚える。
ずっと力が出せないことを、神殿で無言のうちに責められてきた。けれど、ヴォルフはそれで良かったのだという。
リィナ自身、嫌だと思いながらも、そんな自分を責めてきていたのだ。それがヴォルフによって、許された気がした。力が出せなくて良かったのだと、リィナは自分を許せた気がした。
全部、全部、これで良かったんだ。逃げ出したのは、間違いじゃなかった。
そう思えたとたん、こみ上げてきた涙がまたこぼれた。リィナはまたあふれてきた涙を手の甲でぐいっとぬぐう。
これでよかったんだ。
ヴォルフを見上げ、その目をまっすぐに見つめる。
「はい」
リィナは久しく浮かべることのなかった、満面の笑顔で頷いた。それを受けて、ヴォルフの表情が柔らかくゆるみ、そしてリィナを受け入れるように、小さく頷く。
抱きしめるその手がほどかれ、ヴォルフがリィナにほほえみかけた。
「じゃあ、いくか」
ヴォルフがリィナに向けて手を差し伸べた。
リィナの目の前に、ヴォルフの手がある。
「はい」
リィナは頷くと、ヴォルフから差し伸べられた手に向けて、自分の手を差し出した。
ずっと、ずっと夢にまで見ていたその手。
リィナはもう一度涙を拭って、そしてヴォルフを見て微笑む。
差し伸べられたその手を、今、ようやくリィナは取ることができたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます