第33話 逃避2
「姫巫女様……!!」
リィナの手をつかもうとした兵士が悲鳴を上げた。
その時、その場にいた誰もが自分の目を疑った。たった今までそこにいた姫巫女の姿が、わずかに揺らいだ後、忽然と消えたのだから。
それを確かにその目で見た兵士達は、さざめくがごとく動揺を口々に漏らしたのだった。
すぐさまその報告は神殿で待つ神官長まで届けられた。
そのすぐ脇には、紫泉染を纏ったエドヴァルドの神官もいる。エンカルトであった。
「そうですか」
エンカルトはさほど驚いた様子も、怒る様子もなく、静かに頷く。
「……さすがは時渡りの姫巫女。先読みの姫巫女様にそうと予言された方」
楽しげな男のつぶやきに、神官長はぴくりと反応した。
「リィナ様が、時渡りをされたと……!」
まさか、というようなその声に、エンカルトはにっこりと微笑む。
「だからこそ姫巫女としてお迎えしたのです。姫巫女にふさわしい方だと申し上げたはずですが。力の不安定さなど、補ってあまりある力。疑っておいでたのですか」
口元は笑っているようなのに、見据えるようなエンカルトの瞳をうけて、神官長はわずかに目をそらせた。
「ともかく、このことは姫巫女様にご報告いたします」
エンカルトは話は終わったとばかりに神官長に背を向けた。そして側に控える数人の兵士にいくつか指示をすると、エンカルトはそのままグレンタールを離れ、エドヴァルドに向かう途中にある町、リュッカへと向かった。
一晩馬を走らせ、明け方、エンカルトは姫巫女のいるリュッカの神殿へとたどり着いた。
リィナの逃走を報告すると、姫巫女は小さく頷いた。
「今日でしたか」
「はい」
頷くエンカルトに、姫巫女は視線を向ける。
「で、手はずは出来ていますか?」
「ええ、あちらには伝書を飛ばし、予定通り追うよう手はずも整えて参りました。既に動いているはずです」
「……そうですか」
静かに頷いた姫巫女の表情はわずかに陰り、そしてそれはすぐに消え去る。
「あの子はグレンタールの……いえ、神殿の命運を握る娘です」
「ええ」
私は、こうするより他になかった。
エンカルトの耳に、そんな苦しげな声が聞こえた気がした。
けれど、見つめる先の姫巫女の表情はどこまでも冷静で、汲み取れる感情など垣間見ることさえ出来ない。
「……全ては、あなた様のご意向のままに」
礼を取るエンカルトに、姫巫女は小さく頷いた。
夜が明け、辺りを光が包見込むように照らしていた。
しん……とした、森が、そこにあった。
はぁ、はぁ、という自分の息づかいだけが、リィナの耳に届いていた。
兵士、は?
リィナはたった今自分を捕まえようとした兵士の姿を探す。
けれど、いくらあたりを見渡しても、先ほどまで確かにいた兵士はいない。神殿の方角からも何の音もしない。
森の中に、ぽつんと、リィナだけが存在していた。
あがった息を整えながら何度も辺りを見回すが、やはり人の気配は全く感じられなかった。
リィナは自分の身に、何が起こったのか分からなかった。
ここは?
と、辺りを見渡すが、そこは変わらず森の中で、リィナが逃げてきた場所である。この先を進めばグレンタールに出る。
そうして辺りの様子を確かめながら、がさがさと草をかき分けて少し進み、そして、おや、と気付いた。振り返ると、さっきから進んだ数歩分だけ草がわずかに人をよける形に踏みしだかれているが、兵士に追われながらリィナがかき分けてきたはずの草は、まるで踏みしだかれたことなどないように、うっそうと茂っている。
更にもう一つ違和感に気付く。
周りは薄暗いが、どうやら月明かりではないようだった。もっと全体に淡く照らすような薄暗さ。
リィナは空を見上げ、息をのんだ。
夜明け?!
たった今まで夜中だったというのに、明け方になっていたのだ。まだ明けそうにはないが、それでも、東の空の明るさが、そうと示している。
何故、と混乱したのもつかの間、まさかという思いに衝撃を受ける。
時渡り。
その言葉がリィナの頭をよぎる。彼女に期待されていた姫巫女の力だ。有るはずがない、扱えるはずがないと思っていた力が、こんな形で発露したのか。
混乱して何も考えられず、呆然と周りを見渡す。信じられなかった。信じたくないというのが今のリィナの心情かもしれない。しかし、先ほどまで追いかけられたその痕跡を探すが、それに相当する物は全くない。人の声も、神殿の騒ぎも、何一つないのだ。
時渡りをしたのではないかという不安が更に増す。何でこんな……と、リィナは恐慌状態に陥りかけた。
けれど、それは一瞬だった。それ以上に大切な事実を思い出したのだ。
そう、今は誰もいない、騒ぎも起こっていない。
そう気付くと、改めて周りを見渡す。
おそらく、誰も。そう、誰もリィナの逃走を気付いていないのだ。
リィナは我に返る。
そうだ、逃げないと。
リィナは動揺に震える体を叱咤して、足を動かした。おそらく誰も気付いていない今が逃げる絶好の機会なのだ。リィナはグレンタールに向かい足を進め始める。
がさがさと草の音を立てながら、リィナはこの状況がどういう事なのかを考えた。
誰も気付いていないという事は、これは私が逃げ出す前なのかもしれない、と思い至り、とりあえず村へと向かう事にした。とにかく人の目に付かない、早朝である今のうちに。
グレンタールを出る前に、父と母に一目会いたかった。
過去へ時渡りをしたのなら、会っても良いはずだ。そう自分に言い訳する。二人に会える、最後の機会なのだ。
そして、叶う物ならば……ヴォルフとも。
リィナはグレンタールを出る前に会いたい人を思い浮かべた。
あのとき「助けてやる」と言った彼の姿を心に描き、今また再び糧にする。
一目で良い。遠目で良い。ヴォルフ様に、会いたい。
森を下りグレンタールを目指しながら、リィナはヴォルフを想った。
けれどヴォルフは首都エドヴァルドにいる筈だ。会えるはずがない、と理性が訴える。けれど、今、無性に会いたかった。
「ヴォルフ様……」
小さい声でお守りのようなその名を呼んだ。
それは思いがけず、薄明かりを纏った暗闇に大きく響く。少なくとも、身を隠したいリィナには思った以上に大きく聞こえた。
自分の声に驚き、リィナは口をつぐんだ。周りはしんとしているのだから、どちらにしろ、自分の歩く音、草をかき分ける音は十分に響いているのだが。
人目につかないよう道から外れた獣道を下っていたところで、突然自分の居場所と離れた場所からガサリと草をかき分ける音が響き、リィナは体を震わせた。まさか、こんな時間に人がここを通るだろうか。それとも獣だろうか。
心臓が早鐘を打つかのように高鳴った。
どちらにしろ逃げなければ。
リィナが辺りを見渡し、逃げようとしたとき、懐かしい声がした。
「……リィナ?!」
え……?
木の陰から、大きな人影がのぞく。その人は驚いた表情でリィナをまっすぐに見つめていた。
「ヴォルフ、様……?」
リィナの目の前には、夢にまで見たヴォルフがいた。
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