第32話 逃避1

 新しい姫巫女が生まれたという話は、グレンタール以外では周知されていないようだった。

 ヴォルフは首都エドヴァルドで神殿のことを調べている内に、新たな姫巫女の噂さえ聞いたことがない事に気付いた。

 確かに、リィナは姫巫女の地位を初めから与えられていたとはいえ、修行中の身であり、発表には尚早であろう。

 しかし神殿が新たな姫巫女の存在を全く開示しないのは他に何らかの意図があるのではないかとヴォルフは考えた。新たな姫巫女の出現は、神殿からするとその力を示す機会であるというのに、秘して語らず……ということは、秘さなければいけない理由があるはずなのだ。神殿のやり方があまりにも強引だった事も、疑念を持つ一端である。

 ただそれが何なのかまでは知る事が出来なかった。それでも姫巫女が生まれたという事実は非常に大きな意味を持つ出来事である。神殿に縁の深い人間の間では知られていたが、それでもあくまで伝聞の域を出ていなかった。

 グレンタールに限らず市井の者にとって、情報が詳しく伝達する手段が、まだコルネアでは発達していない。あくまでも伝聞がほとんどである。

 故に姫巫女が生まれたという噂はグレンタールから離れたエドヴァルドでほとんど囁かれることなく、神殿からの正式な発表がなされないために、そのまま沈静化していた。

 グレンタールでの盛大な発表は、リィナの退路を断つ為ではないかとヴォルフは考えている。

 そんな状態のため、どれほど情報を得ようとしても、ヴォルフの元にそれほど詳しいグレンタールの姫巫女の情報が入るわけではない。

 けれど神殿に近しい人間から新しい姫巫女の情報を得るのはそう難しいことではなかった。

 グレンタールの次期領主が、舞を一緒に踊ったというグレンタール神殿の新しい姫巫女のことを気にかけるというのは、それほどおかしな事でもなく、不審に思われることもない。とはいえ、知る事ができるのは姫巫女に対する神殿側の対応がどのような物であるかという程度なのだが。

 そしてヴォルフにも、遅れながらもその情報が入ってきた。

 遅れがちで曖昧な情報が多い中、それはヴォルフが放置できないような情報であった。

 グレンタール神殿の姫巫女が、皇太子の後宮に入るのだという。


「後宮だと?」

「ああ。まだ噂段階だが、かなり確かな話だ」

 ヴォルフの顔がこわばった。

 ヴォルフの耳に入る情報は、得てして、だいぶ遅れた物となる。

 その話が出たのはいつのなのか。表に出てきていると言うことは、だいぶ進んでいると考えた方が良いのか。

 ヴォルフは焦りを覚えた。このままここにいては、どうにもならない。

 本当に後宮などに入ってしまえば、とてもではないが、ヴォルフには手が出せなくなってしまう。

 いろいろ考えたが、この場でできる事など皆無だ。

 ヴォルフはすぐに適当な理由を付けて休暇を取ることにした。

 グレンタールに戻るのだ。

 幸い良い口実があった。エドヴァルドの先読みの姫巫女がグレンタール神殿に行くという情報が入ったのだ。グレンタールの次期領主として、村の警備の面でもなんでも仕事があるとでっち上げるのは簡単である。特に忙しい時期でもない今、急な申請にもかかわらず、ヴォルフは半月ほど休みを取ることが出来た。

 ヴォルフはすぐさまグレンタールに向かう。

 詳しい情報がない今、何が出来るのか、そもそも何か出来るのか、それさえも分からない。けれど行かなければ何も出来ない。こんな先の見えない状態でただ向かうなど愚かだとは思ったが、今すぐ行かなければならないという思いは、どうしようもない衝動となってヴォルフを突き動かしていた。


 ヴォルフはグレンタールに戻ると、まずコンラートを尋ねた。

 リィナが神殿に上がるときは簡単に退けられたが、状況が状況である。グレンタールの守人でありリィナの父親でもある彼ならば情報も多く持っているだろうし、何より、今回のような状況ならば、協力が望めるかもしれない。

 突然家まで押しかけたときには、さすがに驚いた顔をされたのだが、後宮入りの話を尋ねると、コンラートが厳しい顔をした。

「なぜ、君が知っている」

「……ご想像通りです」

 ヴォルフが肩をすくめて笑うと、コンラートは眉をひそめた。

「俺はリィナを助けることを、諦めたつもりはありません」

 コンラートは引くつもりのないヴォルフを見つめて、深い溜息をつく。

 沈黙と、その合間に交わされる視線での攻防の後、低い声でコンラートが負けを認めた。

「……今度ばかりは、君の力を借りたくなっているよ」

 ようやく望んだ協力が得られる。ヴォルフは力を込めて頷いた。

「望むところです」




『あなたの進む道に、幸運を』

 エドヴァルドの姫巫女の言葉で、リィナが思いついたのは、「いつ神殿を抜け出すか」という問題の答えだった。

 この時しかないとリィナが狙ったのは、姫巫女がグレンタールを出た夜だった。

 最も高貴な姫巫女が無事グレンタールを出たとなれば、人の気はゆるむ物である。強化されていた警備も通常にもどり、切り替わるときに慌ただしさもあるだろう。それ故に警備も自然とゆるみやすいだろうと踏んだのだ。リィナはそれを狙った。

 神殿内が寝静まって一刻ほどは過ぎただろうか。傾いていた月が、今は真上にある。

 少し前、建物の外に人の気配がしたのだが、今はもうない。警備の見回りは、この時間を過ぎるとしばらく来ないことは確認済みだ。

 リィナは体を起こすと、ベッドからそっと起きだした。音を立てないように、そっと服を着替える。といっても、巫女の服を着るわけにはいかないので、寝間着を整え上着を羽織る程度なのだが。

 窓の外に人影がないのを確認して、リィナは身を乗り出す。リィナの部屋は二階。そのまま飛び降りれば、結構な足音になる。リィナは後ろ向きになって窓にぶら下がると手を離した。

 このくらいの高さなら、たいしたことはない。グレンタールは山間の村である。子供が遊ぶのは山の中、木登りなどで高いところから飛び降りるのはやすい物なのだ。

 とすんという足音がして、リィナの足に衝撃が走る。リィナの耳にやけに大きく響いた足音だったが、すぐに動かず、音を聞きつける人がいないことを確認する。

 ついに神殿から逃げるのだ。リィナは恐怖と興奮とに胸が高鳴るのを聞く。どくんどくんと鳴る心臓の音を聞きながら、そっと見回りの少ない、裏手に回る。

 通用門の近くの塀には、登るのに手頃な木があり、そこを乗り越えるのだ。

 リィナが木をつたい、登りきって、壁の向こう側の枝にぶら下がったときだった。

「誰かいるぞ!」

 男の声が響いた。

 枝にぶら下がるリィナの姿が見つかったのだ。

 リィナはすぐさま手を離し、飛び降りると、一目散に駆け出した。

 慎重に気をつけていたのに、ようやく出られる安心感か、周りの確認が甘かった。

 悔やんでも仕方がない。

 必死で走るリィナの耳に後ろから、追っ手のかかる声がする。リィナは少しでも見つかりにくくなるよう、森の中へと足を踏み入れた。

 道なき道をリィナは必死で駆け抜ける。擦れる草木の音。時折肌をかすめるぴりとした痛みも気にせずに走るが、兵士達は確実にその距離を詰めてくる。

 神殿側から聞こえるその声に、「姫巫女」や「逃げた」という言葉が途切れ途切れに聞こえ、もうリィナが逃げ出したことが把握されていることを知る。

「いたぞ!!」

 すぐ後ろで声がした。思わず振り返ると、思った以上に近くにいることを知る。

 いや……!!

 リィナは胸が潰れるような恐怖で、半狂乱になって走った。しかし、追ってくるその音は次第に大きくなり、兵士の息づかいまでもが聞こえるほど迫っていた。

「姫巫女様……!」

 捕まる……!!

 恐怖に心臓が止まるかのように思えた。胸の痛みに、このまま死んでしまうのではないかと。

 ヴォルフ様。

 脳裏に浮かんだのは、ずっと心の支えにしてきた、あこがれの剣士。

 あの時、あなたの手を取っていればよかった……!!

 涙があふれそうになる。

 こんなところで捕まりたくない、もう、あそこには戻りたくない……!!

「……やっ、いやぁ……!!」

 今にもリィナの手をつかもうとする兵士の姿に、リィナは悲鳴を上げる。

 その瞬間、リィナの視界がゆがんだ。

 リィナを捕まえようと迫る兵士の姿がぶれる。

 なに?

 ゆっくりと、ゆっくりと時間が過ぎていくような、そんな不思議な感覚。

「姫巫女様」とリィナを呼ぶ兵士の声も、どこか遠い。

 ゆっくり、ゆっくりと時間が過ぎる。

 これは、なに?

 理解できないその感覚の直後、まるで意識が途切れるように、世界が突然変わった。



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