第31話 神殿5

 早く逃げ出さなければという焦りをよそに、毎日は何事もなく過ぎて行っていた。

 エドヴァルドの先読みの姫巫女がやって来るというので、多少神殿内は慌ただしくなってはいたが、リィナには何の関わりもなく、周りだけがせわしく流れていくようであった。あくまで他人事で、単調な生活には変わりはない。

 ただその雰囲気は、リィナの高揚感をあおるようにせき立てていた。

 早くここを逃げたい。いつになったら逃げ出せそうな時が来るのか。時折波のようにリィナを焦りが襲う。

 少なくともそれは今ではないと分かっているが、周りの醸し出す慌ただしさにあおられて、落ち着かない気持ちを持て余していた。


 昨日、ついに先読みの姫巫女がグレンタール神殿に訪れたらしいという話を、リィナは守人から伝え聞いた。

 通常、彼の姫巫女が王都を離れることはほとんどない。更に今回の訪問は、その目的さえも伏せられていた。

 故にグレンタール神殿に来たのも公的な物ではないらしいという噂だけはリィナの耳にも入っており、先読みの姫巫女がグレンタール神殿に滞在中、表に出る予定はないとのことであった。

 リィナがそれを聞いたときは思わずほっとした。

 生みの母親と言っても、この現状に至る原因となった人である。複雑な思いもあり、顔を合わせたところでどうしたいのか、どうして欲しいのか分からなかった。もし顔を合わせて、何かあっても、もし何もなくても、あまりいい思いを抱けないような気がしていた。それならいっそ顔も合わせることなく済ませたかった。

 なのに、それは突然に訪れた。


 こんこん、と扉を叩く音が控えめに響き、客が来たことを知らせる。

 目を向けると、女性が一人入ってきた。年の頃は、リィナの母ラウラと同じぐらいだろうか。

 見知らぬその女性を見て、リィナは息をのんだ。

 ふわりと波打つ金色の巻き毛。洗礼された物腰。

 この人は……。

 リィナは硬直したまま彼女を見つめた。

 目の前にいるのは、会いたくないと願ったエドヴァルド神殿の先読みの姫巫女、その人だった。

 紫泉染のベールがその証拠。

 そしてラウラの言ったとおり、リィナと同じ翡翠の瞳をしていた。


「あ……の……」

 リィナは彼女の突然の訪問に言葉に詰まらせた。周りを見渡すが、他に誰かいる様子もない。神殿内とはいえ、コルネアの時渡りの神殿で最高位の姫巫女が、連れの者一人も連れず、唯一人でやってきていた。

「突然、ごめんなさい」

 戸惑うリィナに、にこっと笑いかけた顔は、意外に人なつっこいようにも見える。けれど彼女を包む高貴な雰囲気は大きな存在感を持ち、いかんともしがたくリィナを圧倒する。

「でも、あなたの顔を見に来たのです。無理言って、ようやく時間がとれました」

 ふふっと姫巫女は微笑むと、懐かしむように目を細めた。

 伏せられた姫巫女の目的の真相に、リィナは唖然とする。まさか、何かの冗談だろうと思おうとするのだが、元々、噂としては、新しい姫巫女に会いに来たという話もあったのだ。ただ先に姫巫女となっているエドヴァルドの姫巫女の方が会いに行くというのは威信の問題であるため、それがおおっぴらに噂されることはなかったのだが。リィナからすると、まさかの言葉であった。

 しかし姫巫女は、リィナの驚きなど気にした様子もなく、静かに言葉を紡ぐ。

「大きくなりましたね」

 そう言って微笑むと、懐かしむように、じっとリィナを見つめる。

「あなたのその髪は、コンラートにそっくり。そして、あなたのまなざしは……」

 言葉を句切ると、姫巫女は、愛おしそうにリィナを見つめている。

 リィナは、その瞳を受け止め、ぐっと歯を噛み締め、睨み付けるように彼女を見つめ返した。

 私の目はあなたの瞳に似ている? そうして私はあなたの娘だと言うつもり……?

 姫巫女の次の言葉を予想して怒りがこみ上げてきた。

 私は、あなたの娘じゃない。

 そう言ってやろうと思っていたリィナの耳に、思いがけない言葉が続く。

「あなたのまなざしは……ラウラに、そっくり」

 愛おしむように姫巫女がつぶやく。その声は噛み締めるように、愛おしそうに響き、リィナの耳に届く。

 そうしてリィナに向けて伸ばしてきた手が、そっと髪に触れた。

 リィナとラウラの目の色は全く似ていない。ラウラの瞳は茶色で、目元の形も、似てると言われたこともない。

 姫巫女の手からさらりとこぼれるように、リィナのまっすぐな髪が揺れた。

「優しくて、真っすぐで、意志の強いまなざし。私は、あなたのお父様と、お母様を、誇りに思っています」

 わずかに悲しげに瞳が揺れ、けれど、はっきりと姫巫女が言う。

 姫巫女は、自分が母とは、決して名乗ろうとしなかった。

 当然だ、と、リィナは思う。名乗ろう物なら「私の母はラウラしかいない」と言うつもりであった。

 けれど目の前の姫巫女は、リィナの母親はラウラだという。

 その通りなのだが、複雑な気持ちにもなった。

 リィナは、ラウラが語った姫巫女の人柄を思い出す。

 ラウラは愛おしそうに思い出しながら、今リィナの目の前にいるこの人のことを語った。

 本当にすばらしい方だと。優しくて、思いやりの深い、そして大きすぎる責任を背負った方だと。

 姫巫女を目の前にして、リィナは何となく母の言葉が分かるような気がした。

 私の目をお母さんとそっくりって言った。お父さんとお母さんを誇りだと言った。この人は、それをどんな気持ちで……。

 目の前のその人の瞳にあるのは、限りない優しさに見えた。

 母とは呼べない。呼びたくもない。けれど、この人は確かに自分を産んでくれた人なのだと、好きで手放したわけじゃないというラウラの言葉は真実なのだろうと、母としての愛情を持ってくれているのかもしれないと、リィナには思えた。

 けれど優しげな瞳のその奥底には、冷然とした厳しさがあるようにも見える。しかし、リィナは、それは嫌いでなかった。紛れもなく「姫巫女」として神殿の頂点に立つ厳しさのようにも思えた。責任を背負った者の厳しさ、優しそうに見えても、人を圧倒する存在感。それがとても似合う人だと思った。

 この人と両親の間に過去何があったのかと思いをはせるが、リィナはそれを知らない。

 けれど、父や母がこの人を愛したようにであれば、私も愛せるかも知れない。

 敬愛するにふさわしい人なのかもしれないと、漠然と思えた。

「……あなたの、望むとおりにいきなさい」

 姫巫女がそう言って微笑んだ。

「あなたの進む道は、行く道であり、来た道でもある」

 それは神託のように、静かに、厳かに響いた。

 そして寂しげに微笑む。

「先読みとは、幸運にも、そして、不幸にも、確かな物ではないのです。けれど同時に巫女にとっては代えがたい確かな物なのです。しかし、過去見は、常に、あった物を見つめる」

 姫巫女の瞳が、まっすぐにリィナをとらえる。

 彼女が何を言いたいのかつかめずにいるリィナに、姫巫女は、最初に浮かべたような、どこか人なつっこい微笑みを浮かべた。

 そして突然に、リィナはその腕に包み込まれた。

「あなたの進む道に、幸運を」

 抱きしめてくる腕の感触、耳元で囁かれた声。

 それは、祈るような響きを持ってリィナの心に届く。

 きっとこの人は、その言葉を言う為だけに、ここへ来た。

 何故かリィナにはそう思えた。ただそのためだけにこの人はここへ来たのではないかと、そう思えた。その心は生みの母であるが故の愛情なのか。

 リィナにそれを知る術はない。

 けれど、うれしいような寂しいような、けれど胸にじわりと滲むような暖かさが広がる。

 私の幸せを、願ってくれますか?

 心の中で問いかけるが、それは決して言葉には出来なかった。

 その後、姫巫女は来た時と同じように、簡潔に退室を告げると、一人で静かにリィナの部屋から出ようとした。

「あの」

 思わず呼び止めると、姫巫女が振り返った。

 何か明確な意図があって声をかけたかったわけではない。けれど、何か一言言いたかった。恨みの言葉でもない、かといって好意を向ける言葉でもない。ただ、何か言葉をかけたかった。けれど、そんな思いは言葉になるはずもなく、リィナは姫巫女の視線を受けて戸惑いがちに、ぽつりと声を絞り出した。

「さようなら」

 そう、ようやく出せた言葉に、姫巫女はわずか悲しげに微笑みを返し、リィナの別れに答えることなく去った。


 一人になった部屋の中で、リィナはこれまでのことをゆっくりと思い返す。ここに来ることになった経緯も、ヴォルフのことも、修行も、三人の巫女のことも、そして、生みの母である姫巫女のことも。

 ゆっくりゆっくり思い返しながら、そして、自分が取りたい道、進むべき道への決意をあらためる。

『あなたの望むとおりにいきなさい』

 リィナの胸に、姫巫女の言葉がじんわりと響いて行く。

 まさしく、今リィナが必要な言葉であった。

 ええ。

 リィナは心に誓う。

 私は、私の望むとおりに生き、私の望む道を行く。

 リィナの中で、出発のその瞬間が見えた。


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