第30話 神殿 閑話
「姫巫女様」
呼ばれて振り返ったリィナは、びくりと体を震わせた。
「ベレディーネ……!!」
知らず、体が後ずさる。
最近では話しかける事もなくなっていたが、目が合ってもすぐにそらして逃げるばっかりだった巫女の彼女が話しかけてきたのだ。とうとう面と向かって悪意でもぶつけに来たのか、思わずそう身構えてしまう。
今はもう近寄ることさえなくなっている彼女たちが、これ見よがしに悪意の言葉を囁き、隠すことがなくなっていったたことは、苦しみとして残っている。
あまり悪意に敏感でなかったリィナが身構える姿を見て、ベレディーネが痛ましく顔をゆがめた。
わずかに身を引きつつ、リィナは彼女を見つめる。
「……どう、したの?」
その問いかけに、ベレディーネはつっと美しく礼を取った。
「お別れを、する為に参りました」
「お別れ?」
「はい、グレンタール神殿での修行が終わりましたので、私は間もなく故郷の神殿に戻ります」
そんな事を個人的に言いに来る必要はないのに、なぜ。
「そう、なの」
眉をひそめながら、リィナはベレディーネの様子を探った。
ベレディーネに誘われ、躊躇いながらも自室へと彼女を招き入れる。
その間もリィナはベレディーネの表情を窺っていた。
警戒していないと、いつ、ひどい言葉で胸をえぐられるか分からない。耐える為に身構えていたのだ。
探るリィナに、ベレディーネは思いがけない言葉を向けてきた。
「今まで、姫巫女様と共にこのグレンタール神殿で過ごせましたことを、光栄に思います」
思わずリィナの顔が悲しげにゆがむ。その言葉を本心から信じる事が出来たら、どんなにうれしいだろう。そう思ったのだ。けれど今更そのように取り繕われても、むなしいだけだ。悲しみと決意と、そしてほんの少しの嘲りを胸に、リィナは彼女を真っ直ぐにとらえる。
「……ホントに? ベレディーネ。口先だけの礼儀なら、もう聞きたくないの。嘘は言わないで。私が気に入らないのでしょう? 力も出せないのに姫巫女なんてあがめられている私が」
言葉にする内に、わずかな怒りも込み上げてきた。リィナ自身気付かない内に、確かに彼女たちに対する怒りもあったのだ。
ベレディーネは、悲しげに、ゆっくりと首を横に振る。
「……私は、姫巫女様のことが、好きですわ。おそらく、ビアンカも、ローリアも」
その言葉に、リィナは思わず叫んだ。
「……どこが? 無視して、悪口言うことの、どこに好意があるの?」
突き放された苦しさが、今更そんな事を言って惑わしてくるベレディーネへと向かう。
彼女はわずかにうなだれ、けれど、静かにぽつりぽつりと話す。
「姫巫女様。私どもは、巫女です。先を読み、過去を読み、人々の助けになることを誇りに思っています。より強い力があれば、人を助けられることが多くなるのです。姫巫女様におかれましては、その大きさで、この国をも守るほどのお力を秘めておられるのです。なのに、姫巫女様はその力を厭うておられる。私どもが望む力を持っておられながら、力を目覚めさせる努力すらなさろうとしない。どれだけ歯がゆく感じるか、きっと姫巫女様にはわかっていただけないでしょう」
言葉の中にどこか責められているような物を感じたリィナは、やりきれなさを吐き出すように言いつのった。
「確かに、私は力を疎んじているけど、本当に力の出し方なんてわからないのよ……!! 舞の修行の時だって、まぐれとしか言いようがないの。何が起こったのかさえ、わからなかったの。力が現れたって事は、何かが見えてないといけないのでしょう? 私は、何も見えなかったの。力がどう発揮されていたのかさえ分からなかったの! 本当にわからないのよ!」
叫ぶように言ったリィナに、ベレディーネは、ゆっくりと頷く。
「……そうですわね。きっと、それが姫巫女様におかれましては、真実なのだろうと、思います。この神殿を出るに至って、私も、ようやく落ち着いて姫巫女様のことを冷静に考えることが出来るようになりました。舞の練習でおいでたときから、姫巫女様は真剣に取り組んでおられましたことを、知っていましたのに。姫巫女様の力の発露には大きなむらが真実あるのでしょう。けれどそれは、私たちにはわからないのです。私たちは時を読もうと思えば、託宣出来るほどではなくとも、時の流れを感じることが出来ます。守石の輝きが強い者ほど、それは顕著に感じ取れるそうです。だから本当は見えてるはずだと、それをしたくがない為に目をそらしているのだと……そんな風に思いたい気持ちがあったのです。私どもは、嫉妬に目がくらみ、あなた様のお心を見失っていたのですわ……。悔やんでも、悔やみきれません」
ベレディーネはそう言うと、おもむろに膝をつき、「申し訳ありませんでした」と、深々と謝罪を示す。
けれど、リィナが望んでいたのは謝罪ではなかった。望んだのは、リィナが、リィナとして認められることだったのだ。リィナの胸の中にあった怒りは、彼女たちがリィナ自身を見てくれていなかったと言うことなのだ。
「……そんなの……っ」
そんな事の為に……!
リィナの胸が軋む。そんな事の為に、リィナは全てをこの神殿で否定されたのだ。「姫巫女となりうるほどの力」のために、リィナの全てがそれに取って代わられたのだ。
悔しかった。悲しかった。やりきれなさが胸を占める。
ベレディーネが今ようやくリィナの思いを認めてくれた、それは望んでいたことだったのに、今となってはその事が、むしろリィナの中にある姫巫女という立場に対する不快感を強める事になった。姫巫女などにならなければ、力が認められなければ、せっかく友達になった彼女を失わずにすんでいたはずなのだから。彼女らとの価値観の相違が生んだ溝が確かにあった。それが埋まることはおそらくこの先なく、互いに理解することはないのかもしれない。
こんな事の為に。必要としていない力の為に。
そう思う気持ちがふくらんで行く。
「私は片田舎の巫女ですから求められる力がそれほど大きいわけではありません。ただ、ビアンカも、ローリアも、エドヴァルドの巫女。素直にあなた様を認めるのには時間もかかりましょう。ですが、いつか私のように目を覚ます日も来るでしょう。あなた様のお心に気付く日が。……私は、あなたと過ごした日々を、光栄に思います」
今更、光栄などと言われても、それをうれしく思う気持ちは、もはやリィナにはない。なぜなら、近い内にその地位を捨てて逃げるのだから。その時には今の言葉を簡単に翻すのかもしれないと思えたから。
ただ、それでも、嫌われたと思っていたベレディーネが歩み寄ってくれた事はうれしかった。リィナの気持ちをもう一度思い直してくれた事がうれしかった。
友達とは、本来こうして、ケンカをして、嫌いになって、でも好きな気持ちがあって、許したり、許されたりしながら関係を築き上げていくものなのだろう。互いの違いを受け入れることを覚えていく、自分とは違う存在を認めていくものだ。
けれど、お互いの間にそんな時間は残されていない。ベレディーネがわずかながらも歩み寄ってくれた事に対するうれしさの反面、リィナの中には今更だという思いの方が強い。だから今リィナは歩み寄れない以上、もう友情を取り戻すその時は来ない。
ただ、それでもベレディーネがこうして歩み寄ってくれた事は嬉しいことだ、と思いなおす。
そして出来る事なら、姫巫女としてではなくリィナとして見てくれたら、と願う。
残りわずかな時間であったが、リィナはベレディーネにそれを求めることにした。想いを伝えたかった。後悔しているというのなら、分かって欲しかった。
「……光栄になんか思われても嬉しくないの。私は姫巫女にはなれない。だって私には何も見えないもの。私は巫女に対する敬愛の念は持っているけれど、私自身が巫女という存在になることに、私は価値を見いだせないの。だって何の力も感じないから。あなたが出会えて光栄に思う姫巫女なんて、ここにはいないもの。でも、ベレディーネ。それでも、うれしかった。もしあなたが少しでも私の事を、姫巫女じゃなくって、私の事を好きでいてくれたのなら、私もあなたに……あなたたちに出会えた事を、幸せな事だと思うわ。答えは聞かない。聞かないから、そう思わせて。……来てくれて、ありがとう」
一気に伝えると、深く息を吐く。きっと今は通じ合えないと思えた、だからせめて伝えられたら、いつか分かってくれる日が来るかもしれないと思った。でも、分かってもらえないかもしれない。それでも自分の中で希望を持っていたかった。
だから、答えは聞かない。
「……姫巫女様……」
言葉を失ったベレディーネに、リィナは首を横に振る。
「姫巫女なんて呼ばないで。私はリィナ。リィナなの。姫巫女なんかには、なれないの」
ベレディーネがいたわしそうにリィナを見つめた。けれど彼女は何も言わずに、頭を垂れた。
「……私は、近日中に、グレンタール神殿をおいとまいたします。どうぞ、お元気で」
リィナが望んだ通りに、ベレディーネは何も答えなかった。届いたか、届かなかったか分からぬ思いを押し込め、唇を噛み締める。
「……ベレディーネも、ね」
ようやくつぶやき返したリィナに、ベレディーネは、もう一度頭を下げた。
「ありがとうございます」
リィナを見つめる瞳はとても悲しげで、けれど以前のように優しく揺らぐ。
それが答えなのだと思いたかった。きっと、通じたのだと。通じなくても受け止めてくれたのだと。
リィナはだまったまま立ち去って行くその背中を見送った。
あっけなく壊れてしまった友情だけど、それでも共にいればもう一度結び直す事が出来る。
けれど、リィナは間もなく神殿を出る。だからその日は来ない。
それは悲しいことだけれど、リィナの決意は揺らぐことなく前を見つめる。
それでも、ただ壊れただけではなかったのだと、確かに思う気持ちは彼女たちの中にあったのだと、そう思えたことは、嬉しいことかもしれないと思えた。
***********************
ベレディーネはリィナが初めて神殿に来た日のことを思い出していた。朗らかで気持ちの良い彼女のことは、すぐに好きになった。なのに、最終的に自分がした仕打ちを思い出し、後悔に胸が詰まる。
一人で苦しむリィナを思いやれなかったこと、突き放したこと、あまつさえ、悪く言ってしまったこと。
悔やんで、悔やんで、耐えきれず懺悔するような気持ちでリィナの元を訪れた。
たった一人で耐えてきたリィナを思うと、辛くてたまらなかった。だが今更、どの面下げてリィナをいたわる言葉などを言えるのか。
そう思うと、いたわる言葉も、リィナを思う気持ちも、言葉にできなかった。
出てくるのは、情けないことに言い訳ばかりだ。
身勝手な懺悔に訪れたベレディーネに、「ありがとう」と、彼女はそう言ってくれた。
うれしかった。けれどどれだけリィナの気持ちがうれしくても、リィナを苦しめた罪深い自分を許せなかった。結局何も言うことが出来ないまま、リィナの元を去るしかできなかった。
ベレディーネは、その時のことを晩年になっても、ふと思い出すのだ。
恥を厭わず、「友達だと思っている」の一言が言えなかったことを、彼女は生涯悔やんだ。
けれど、その失敗はベレディーネにとっての生涯の宝となった。繰り返し繰り返し、どうすれば良かったのかと悔いた。何ができたかと考えた。リィナを想う分だけ、悔いた分だけ、ベレディーネはその失敗から学んだ。
コルネアの田舎の神殿に、たくさんの人から慕われる巫女がいた。誰もが彼女をすばらしいとたたえ、慈悲深い情の厚い巫女だと噂した。
そう言われる度に、彼女は少しだけ切なげに何かを思い出すようにほほえむのだ。
リィナにとってそれは気持ちの良い別れではなかった。
けれど、ベレディーネからの別れは、三人のことを思い出したとき、嫌な思い出としてだけではなく、最後に報われた気持ちもまた心の中にに残してくれた。
そして、時折思い出すのだ。悪いだけではなかったのだと、思う気持ちは、確かに存在していたのだと。
互いの思いが再び重なることはなかったが、おのおのが、胸に何かを刻んで、それを乗り越えてゆくのだ。
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