第29話 神殿4
扉が閉められ、リィナは一人部屋の中で佇んでいた。エンカルトが出ていった直後から、がくがくと体が震えていた。
それが怒りによる物なのか恐怖による物なのか、それすらも分からない。ただ、堪えがたい負の感情が渦巻いていた。
頭の中は何も考えられないほど真っ白で、そして、リィナはどうしようもない息苦しさに、浅い呼吸を繰り返す。
もうダメだと思った。
これ以上ここにいて言いなりになるぐらいなら死んだ方がましだと思うほどに、リィナの心情は追い詰められていた。
何が嫌なのか、なぜ死んだ方がましと思えるほどに苦痛なのか、はっきりした答えはない。けれど漠然と、このまま行くと死ぬしかなくなるほどに追い詰められそうな予感がした。
ここは自分の生きる場所ではない。
まともな思考も働かない状態であったが、それだけははっきりとした確信があった。
ここにいたらだめだ。
そう思ったとたん、怒りと恐怖に震えていたリィナの胸に、一つの思いが芽生えた。
……逃げよう……!!
それが言葉となってリィナの心に生まれた瞬間、突然、目が覚める思いがした。
全てが閉ざされ、絶望以外何も見えなくなっていたリィナの胸に芽生えた思いは、一つの道を示している。
それは神殿に上がる前にヴォルフによって蒔かれた、一粒の種が芽吹いた瞬間。
小さくて、けれど何よりも美しく貴重な一粒が目覚めた。
あの日差し伸べられたヴォルフの手が、まるで目の前に差し出されたかのように、一筋の道として開かれる。
そうだ、と思う。
この苦痛に流されてまでここにいて自分を追い詰める必要などない。
あの日ヴォルフが教えてくれた。耐えるだけが道ではないことを。
思いがけない状況と環境の為、身動きがとれなくなって受け入れるしかなかったリィナに「逃げて良いのだ」と差し伸べられたその手は、今、最悪の状況を前にしてリィナの決意の呼び水となる。
あの日、差し伸べられたその手を拒んでからも、その面影が、それまでに向けられた優しさが、伸ばされたその手が、リィナの心を護り続けてくれていた。
そして今もまたリィナに力を与える。
決意は大きな期待となって、リィナの胸を大きくふくらませる。まるですがりつくかのように、その事しか考えられなくなった。他の事はどうでも良いほどに。暗闇に差し込んだ唯一の光に、すがりつくように。
今ここで神殿を逃げ出したところで、うまくいくかどうかは分からない。もしかしたらささやかな反撃に終わるかもしれない。そしたらもっと自身の立場は悪くなるかもしれない。けれど何もせずに流されてしまえば、きっと一生後悔することになる。
大それた考えだと分かっている。
想像しただけで、ドクドクと心臓は高鳴り、手が震える。けれどその震えは先ほどまでの恐怖とは違っていた。
高揚感を伴った、武者震いに近い。恐怖に対する目をくもらせ、盲目にその道だけを見せてくれるおかしいほどの興奮が、リィナの胸を決意となって突き動かそうとしていた。
震える手を握りしめながら、リィナは興奮を隠しきれずに笑う。
逃げ出してみせる。
リィナはこわばった体を落ち着かせるように、ゆっくりと息を吐く。
自分の進みたい道は決まった。
私は、神殿から逃げ出してみせる。
心の中で何度も決意の言葉を繰り返す。
目の前の道が突然開けて見え、頭の中がすっきりと澄み渡るような爽快さがった。
リィナは震えのおさまった手を、きゅっと握り合わせる。
決意のこもった瞳は窓の外に注がれ、口元はわずかに弧を描く。
私は私の選んだ道を行く。こんな所に閉じ込められたりしない。
追い詰められたリィナの心は、すがるように逃げることのみを求めていた。不安を振り返らない。自分を躊躇わせる他の事は考えない。そんな無意識の逃避が、リィナの思考力をわずかに奪う。でもそんな事はどうでも良いと思えた。逃げた先の未来も、自分が逃げ出す事による周囲の人間への波及も想像する余裕など無かった。
あふれるような興奮は押さえ込み、リィナはただ逃げ出すその一点について、計画を立て始めた。
後はどのように神殿を逃げ出すかを考えなければいけない。
リィナの後宮入りはまだ現段階では公にされておらず、その日以降もリィナは普段通りにやりがいのない修行をつとめていく。
変わりない日常を過ごすふりをしながら、リィナはさりげなく辺りを注意深く観察していた。
決意してからは心が静かに凪いでいた。悲しみと苦痛におぼれそうになっても耐えられた。
まるであの頃差し伸べられたヴォルフの手がそこにあるように、その手をつかむために一歩を踏み出すかのように、どこか高揚して怖さが薄れる。
毎日繰り返される部屋と瞑想室との往復は、重要な情報源だった。食事や用を足すささやかな合間のリィナを取り巻く人の動きや流れ、そして隙。リィナは、普段通りの生活をしながらそれらを確実に頭にたたき込んでゆき、神殿を抜ける道を考える。
出来れば両親とも連絡を付けたかったが、それを今するわけにはいかない。エンカルトがまだグレンタールにいる。ましてや望まぬ王家との話が来ている以上、関わらない方が良いような気がした。
一人で起こさなければ行けない。自力で成さねば。両親を巻き込んではいけない。
ラウラとコンラートを脳裏に思い浮かべると、その気持ちが固まって行く。
きっと彼らは心配してくれているだろう。後宮に入るなどと知ると、無理をしてでも助け出そうとしてくれるかもしれない。でも、それだけは避けなければ。そんな事になれば、神殿に上がったときの二の舞になりかねない。
血の繋がらない私を実の娘として、疑いすら持つ余地も感じぬほど大切に育ててくれたあの人達を、私の為なら命さえも賭けようとした、大切な家族を、巻き込むわけにはいかない。
リィナはそう考えると覚悟を決める。
全てを自分自身でしなければならない。頼れる物は何もない。頼ってはいけない。
そうだ、と、彼女はその利点にも気付く。今、自分の身柄が神殿側にあり、コンラートとラウラとは全く関わらずにいる。そんな今だからこそ、二人に迷惑をかけずにすむのではないか。
そう思うと、尚のこと今しかないように思えた。
逃げ出すことで気がかりだったのは両親の事だけだった。そこに言い訳を見つけてからは、更に熱心にに逃げる算段を立てる。
後はいつ実行に移すか、であった。
すぐにでも……と思うのだが、エンカルトもいる。そして間もなくエドヴァルドの姫巫女――リィナの生みの母がグレンタール神殿にやってくる事が決まっており、警備も厳しくなっていた。
まだ。今は、駄目。
リィナは急く心を押さえつける。焦っては事をし損じる。
確実に、出来るだけ確実に逃げられそうな日を待たないと。
速く逃げ出したいと急く心と、いざとなると行動に移すのが怖くて今一歩の勇気を踏み出せないのではないかという不安とを抱え、じりじりとリィナは時を待っていた。
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