第18話 三百年祭1

 リィナは、絶望の朝を迎えた。

 三百年祭が始まる。

 祭りなんか、来なければ良いと何度願っただろう。けれど、無情にも刻々と祭りの始まりの時が近づく。

 奉納の舞が終われば、リィナは神殿へと召される。次期姫巫女として公に知らされるのだ。そうなると、もう逃げ場などない。

 今日まで何度泣いただろう。けれど、昨夜は泣かなかった。泣くのはその前の日で終わりにした。あんまり泣いてしまうと目が腫れてしまうからだ。

 前の夜に泣いてしまえばきっとこらえが効かなくなるだろうと思えて、心を閉じて泣かないようにした。

 今日は最後にグレンタールの人たちと会える日なのだから。

 そしてずっとあこがれていた姫巫女の舞をする日なのだ。ずっと憧れていたヴォルフと共に。

 だから最高の笑顔で舞いたい。赤い目や腫れた目をしていたくなかった。

 リィナは起き上がると、ベッドの上で大きく息を吸った。そして頬を押さえ、呪文を唱えるように「大丈夫」と繰り返す。

 笑顔でみんなと別れよう。姫巫女になるだなんて名誉なこと、きっと誰もが祝福してくれるから。

 泣かない。誰も困らせたりしない。行きたくないなんて言わない。

 大丈夫。出来る。笑える。

 何度も心の中で唱えて、そして顔を上げる。

 リィナは誰もいない家の中で、まるで本当に幸せであるかのように、にっこりと笑った。



「ヴォルフさまー! おはようございます!」

 元気な声でリィナがやってきた。

「ようちびちゃん。朝っぱらから元気だな」

 ヴォルフが駆け寄ってきたリィナの頭をがしがしっと撫でる。

「ぐしゃぐしゃになります!」

 笑いながらリィナがその手を押さえる。

 リィナの頭の上で二人の手が重なった。

「ヴォルフ様、がんばりましょうね」

 ヴォルフの手に触れたまま、リィナがにっこりと笑った。

「……ああ」

 ヴォルフは目を細めてまぶしげにリィナを見た。

 リィナの舞いは順調に上達し、ひと月前までは間違わずに舞えるという状態だった物が、今ではラーニャのお墨付きがもらえるほどになっている。


「おちびちゃんと舞うのも今日が最後か。……寂しいもんだな」

 ヴォルフのつぶやきにリィナが顔を上げると、ヴォルフはいつものからかうような表情とは違う少し困った顔で笑っていた。

「リィナ」

 名前を呼ばれて、リィナは顔を上げた。ヴォルフに名前で呼ばれたことに驚いたのだ。

「俺は、祭りが終わって三日後にはグレンタールを出る。それからは、またしばらく戻って来ることはないだろう。でもなぁ、今のちびちゃんから離れるのは、心配だ」

 ヴォルフが小さく溜息をつき、まっすぐにリィナを見つめた。

「俺がちびちゃんと出会って、ほんの二ヶ月だ。それに俺は舞いの練習を介してしか、君のことを知らない。でもな、たったそれだけの出会いかもしれないけどな、俺はちびちゃんが落ち込んでたら心配もするし、力にもなりたいと思っている。……リィナ、今、何か困った状態になっていないか? なっているのなら、いつでも力になる。俺に頼れ」

 ヴォルフが真剣な顔でまっすぐにリィナの瞳をとらえていた。いつもとは違う男の視線を受けて、先に目を反らしたのはリィナだった。わずかに震えながら「大丈夫です」と、少し苦しげな笑顔を浮かべている。

 ヴォルフから溜息が漏れたのに気付いたリィナが、とっさに顔を上げて不安げに彼の顔を窺った。それを見て、ヴォルフが苦笑する。

「大丈夫だ、怒ってない。俺は無理して笑っているちびちゃんが心配なだけだからな。今言えないのなら、今すぐでなくても良い。俺がここにいられる時間はあまりないが、それでも俺のかわいい姫巫女のためなら、いくらでも力を貸すからな。それを覚えておくんだぞ」

 いつものからかうばかりではないヴォルフの言葉に、リィナはあふれそうになる涙を必死で押さえていた。

 うつむいて、必死で涙をこらえる。

 ヴォルフ様は気付いてくれていた。ずっと神殿から帰ってきた日から、ずっと気付いてくれていた。今も、こんなにも心配してくれている。

 それが、どれだけうれしいことか、きっとリィナの気持ちは、ヴォルフには分からないだろう。

 リィナを支えてきたのは、ずっとヴォルフの優しさだった。

 ごまかし続けていても、分かってくれる、ずっと気にかけてくれるヴォルフがいたから、がんばって何でもないフリが出来ていた。

 けれど、決してそれは、ヴォルフに言ってはいけない事だった。

 それでも。

「……私、行きたくない……」

 ぽつりと、知らず、言葉が漏れた。

 けれど、それは息が漏れるほどの音にしかならず、遠く響く祭り会場の喧噪にかき消された。

「ん? 何か言ったか?」

 ヴォルフがのぞき込むようにリィナを窺った。いつも以上に優しいヴォルフに、リィナは奥歯を噛み締めて、ゴクリと息をのんだ。そして顔を上げてにこりと笑う。

「いえ、ありがとうございます」

 言える筈などなかった。神殿に行きたくないなどということは、神殿にたてつくことだ。そんな危険をヴォルフに頼めるはずがないのだ。巻き込んでいいはずがなかった。

 頼ったところで、グレンタール領主の息子であるヴォルフが手を貸すわけにはいかない事ぐらい、リィナにも分かる。けれど力を貸すと言った手前、おそらく無下にも出来ないだろう。それは心配をしてくれたヴォルフを困らせるだけになる。

 なにより、もし仮にもヴォルフが神殿から逃れたいリィナの力に本当になってくれるのだとしたら、それこそ、なんとしてでも阻止しなければいけない事だった。何が何でもヴォルフにそんな事をさせるわけには行かない。グレンタールの誰もが認める未来の領主である。そんな罪を負わせられるはずがなかった。

 決して頼っていい人ではなかった。この苦しみを吐き出すことさえ、してはいけない人だった。

 だから泣いてしまいそうなほどのうれしさをこらえて、リィナは何でもないフリをして笑う。もう、無理して笑っているのは気付かれているようだが、それでも出来るだけ心配をかけたくなくて、笑った。

 ここまで気にかけてくれていたことに動揺して、けれどそれ以上にうれしくて、だからこそ迷惑をかけるわけにはいかないのだと誓う。

 無理をして笑っているリィナに、ヴォルフが仕方なさそうな笑顔を向けてきた。

「姫巫女を守るのが、剣士の役目だ。分かってるな、ちびすけ。君が俺の姫巫女だ」

 いつものようにからかう笑顔を向けられ、そしてリィナの髪をくしゃっと撫でるいつものヴォルフの仕草に、リィナはほっとして髪を押さえる。いつも通りを演出してくれるその優しさが心をほぐしてくれた。

「ぐしゃぐしゃになってしまいます!」

 抗議して、リィナとヴォルフは顔を見合わせて笑った。

 それが、あまりにもいつも通りのように思えて、とても幸せで、切なかった。

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