第10話 日常3

 三百年祭まであと一月足らずになった頃、合わせで行う練習も、ほぼ問題なく舞えるようになっていた。

「予定通り進んで良かったわ。リィナも、がんばったものね」

 神殿に入る前の最後の練習を終え、ラーニャが話しかけてきた。

「はい、ラーニャさんのおかげです」

「明日からは、ついに神殿での修行ね」

 微笑んだラーニャに、リィナはうなずく。

「はい、緊張します」

 明日から半月、とうとう神殿での修行が始まるのだ。

 舞の姫巫女役に選ばれた少女は、舞を覚えた後神殿に仮の姫巫女として修行に入る。

 神殿での半月にわたるお勤めは、選ばれた者への決まり事だった。たとえ祭りの間の仮の姫巫女であろうとも、時渡りの姫巫女を名乗る以上、修行をする事が神殿側から求められるのだ。

 リィナの両親は神殿の守人をしているが、だからといって、リィナが神殿に立ち入ったことはない。子供の遊んで良い場所じゃないと、守人であるが故か、一般の人間以上に、厳しく神殿へ近づくことを禁止されていた。

 そういう刷り込みもあって、リィナの緊張は、姫巫女の修行以上の物があった。

「あの、神殿でどんな修行をするんですか?」

 うまくできなかったり失敗したりと迷惑をかけそうな気がして、出来るだけのことは知っておきたいとリィナが訴えた。あまりにも真剣に、ずいぶんと切羽詰まってラーニャにかじりつくリィナに、ラーニャが「肩の力を抜いて」と笑った。

「たいしたことはしないわよ。そうね、たぶん、あれは形式的なことだけだったんじゃないかしら。瞑想をしたりとか、自分の過去を思い出しながら時を遡る感覚で……とか言われたんだけれど、正直、巫女でない人間には感覚がついて行けなかったわ。でも、それは神殿側も分かっているわけだし、分からなくても気にする必要はないわね。本当に言われたこと以上の事は、神殿側も望んではいないのよ。とりあえず、姫巫女がどんな風に時を渡ったのかっていう概要だけ知っていれば良いんじゃないかしら」

 肩をぽんぽんと叩いて、リィナの緊張をほぐすラーニャに、リィナは力の抜けた笑顔を浮かべた。

「ちょっとほっとしました。難しい事言われたら、困るなぁって」

「あら、リィナなら難しくても大丈夫よ。だって舞を覚えるのもすごく飲み込みが早かったわ」

 ラーニャの率直な褒め言葉に、リィナの笑顔も自然と柔らかくなる。

「……私、ラーニャさんと出会えて良かったです」

「ちびすけ、言う相手を間違えてないか?」

 横から割り込んできた声に、リィナとラーニャは、声を合わせて笑う。

「はい、ヴォルフ様と出会えたことも、すごくうれしいです」

 リィナは、ヴォルフを見上げると、同じぐらい気持ちを込めて、力強くうなずいた。意地悪なのは、ちょっと限度があるけど、うれしい気持ちは変わらない。

 ヴォルフがわずかに眼を見開いて、少し複雑そうな顔をした。

 それをリィナが不思議そうに受け止めると、ラーニャはその様子を見て、クスリと笑う。

「あらあら」

「そう面と向かって返されると、さすがにちょっと、照れくさいんだが……」

 俺は照れるちびちゃんが見たかったんだけどな……などというヴォルフのつぶやきはリィナには届かなかった。

「え、ダメでしたか? でも私、本当にラーニャさんとヴォルフ様にこうして出会えたことがうれしくて……」

 ちょっと変な空気になってしまい、必死で言い訳をするリィナを、こらえきれなくなったように、ラーニャが抱きしめた。

「私もよ。あなたに会えて、本当にうれしいのよ」

 くすくすと笑いながら抱きしめるラーニャの腕の中で、リィナはうれしくてとてもくすぐったくて幸せだった。

 それは、修行が終わった後も続くと、何の疑問も持たず信じていた。


「それでね、ヴォルフ様もラーニャさんももう大丈夫って太鼓判押してくれたの。明日から神殿での修行だけど、神殿の方にももう伝わってるんだよね?」

 リィナは初めて神殿の中に入るとあって、父と母を前に興奮気味に話をする。

「ああ、あっちの準備もちゃんと出来ているよ。今年の姫巫女が私の娘という事で、おかげでずいぶんと祝いの言葉をいただいたよ」

 リィナの父、コンラートは静かにうなずいた。

「心配だわ。何もないと良いんだけれど」

 少し困ったように笑う母、ラウラに、リィナは頬をふくらませた。

「何もないわよ! そんなに失敗ばかりしてないんだから!」

 すねるリィナに、ラウラは「そうね」と、どこか心配そうに表情を翳らしたままうなずいた。

 そこまで心配しなくても良いじゃない、と、リィナは母を見る。

 いつも優しい母だけれど、どうも心配性でいけない、とリィナは思う。

「お父さんにも、お母さんにも恥なんてかかせないわよ」

 ラウラを安心させようと、リィナは胸を張った。

「そんな心配はしてないわ」

 ようやくラウラが笑って、リィナを抱き寄せた。

「大丈夫よ……」

 そう呟くラウラが、どこかいつもと違うように思えて、リィナは抱きしめられたままコンラートを見る。父は苦笑するとうなずいた。

「ラウラ。リィナが驚いている。君は心配しすぎだ」

 コンラートの言葉に、ラウラがはっとしたようにリィナの顔を見た。

「そうね、あなたより私の方が緊張しているだなんて、変よね」

「お母さんったら」

 リィナとラウラは、顔を見合わせて笑った。

 リィナの姫巫女役については、一応は納得してくれているようだが、それでもラウラの不安は抜けきらない。むしろ祭りが近づくごとに、はじめの頃のような心配をするようになってきている。

 加えて三百年祭という記念の祭りである。王族も来るとあって、普段は大きく祭りに関わらない神殿も、今年は神事も大々的に行い、大きく祭りに関わってくる事になっている。

 神殿で守人をするリィナの両親からすれば、舞の役目の重さを大きく感じるのは仕方がないのかもしれない。

 そんな両親の気持ちも分からないではないのだが、リィナからすると楽しみな気持ちの方が大きい。だってあこがれの姫巫女だ。しかもあこがれのヴォルフがリィナの剣士になるのだ。



 ラウラとコンラートは浮かれた足取りで寝室に入っていったリィナの背を見送った。

 二人の間に沈黙が訪れる。

 先に口を開いたのはコンラートだった。

「大丈夫だ。あの子には巫女の力はほとんどない。これまで、ずっとないことを確認してきた」

 言い聞かせるようにつぶやかれた言葉は自分自身に対してか、それとも妻に対してなのか。コンラートの視線は、飾るようにして置いてある水晶に向けられる。守石と呼ばれる、ある力にだけ反応する、神殿を象徴する石。

 ラウラもまたそれに目を配り、そしてそれを否定するように首を横に振った。

「あの子が姫巫女に選ばれたときのことを覚えているでしょう? あの子が触れた守石は、わずかだけど、確かに反応したのよ。この前だって。舞のことを話していたら、離して置いてあったのに反応して……」

 ラウラは声を震わせながら苦しそうに胸元を押さえる。コンラートもまた重い表情でうなずいた。

「分かっている。だがあの程度ならば問題はない。反応としてはごく小さなな物だ。あの程度ならいくらでもいる」

「でも、あの子は……」

 言いかけたラウラは口をつぐむ。コンラートの瞳が、それ以上言うなと告げていた。

「もし……」

 ラウラはつぶやきかけて、けれど何も言わないまま苦しげにまた口をつぐんだ。コンラートがラウラをそっと抱きしめた。

「大丈夫だ。私と……君の娘だ。万が一つ望まない事態になっても、乗り越えていける。君がそういう子に育てた。君の娘だ」

 ラウラは物言いたげな瞳をコンラートに投げかけるが、結局何も言わずにうなずくのみにとどめた。  

 二人は口をつぐんだままリィナの寝室に目を向ける。重い空気が二人の間に落ちていた。





 リィナは緊張しながら歩いていた。向かう先は神殿。舞の初めての練習ほどの期待感を持っていないためか、ひどく緊張していた。

 今日から半月、リィナは神殿にこもり姫巫女の修行をする事になる。巫女としての礼儀作法や簡単な修行のみとは聞いているが、神官と巫女、そして守人しか足を踏み入れる事の許されない神殿の中を想像して、初めて足を踏み入れる緊張は大きかった。

「今から行くのか?」

 突然かけられた声に、リィナは笑顔で振り返った。

「ヴォルフ様」

 道具屋から出てきたヴォルフに駆け寄れば、彼はいつもとは違う静かな声でつぶやいた。

「これから半月もちびちゃんに会えないのは、寂しいな」

「……え? え?」

 いつもからかってばかりのヴォルフから向けられた思いがけない言葉に、リィナは顔が真っ赤になる。

 ヴォルフがそれを見ていつもの様子でにやりと笑いながらリィナの髪に触れた。

「君は、寂しくないか? 俺の姫巫女?」

 ヴォルフに見つめられて、リィナはボンっと真っ赤になって、言葉もなく立ち尽くす。

 ヴォルフが吹き出した。

「またからかってる!」

「からかってなんかないさ。俺の姫巫女がいないと寂しいのは当然だろう?」

 リィナの顔を真っ赤にしながらの抗議に、ヴォルフは楽しげに笑った。

「舞の練習を欠かすなよ。帰ってきて、舞が下手になってたら、しごくからな」

 からかう声が優しく響き、リィナは笑顔でうなずく。

「はい!」

 そして、リィナはヴォルフが立ち去る間際に少し頬を染めて、少し離れたヴォルフに向けて笑顔で言った。

「私も、ヴォルフ様に会えないのはさみしいです!」

 ヴォルフは一瞬面を食らったようにリィナを見つめ返し、そして笑ってそれに答えた。

「帰ってきてからの舞の練習を楽しみにしているからな」

 がんばってこい。

 そう言って送り出してくれたヴォルフに、リィナは笑顔で手を振った。

 リィナは、偶然ヴォルフに出会えたことは、幸先が良いと、上機嫌で神殿へと向かった。

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