第19話 洋館

 観覧車のゴンドラから降りて、洋館の方向を確認しながら通路に出る。


「ノートに描かれてた洋館、似てたよ」


 麻衣も洋館の方向を見ながら、俺と同じ考えを言った。


「帰りに寄ってもいいかな?」

「うん……でも、何か、怖い」


 そこにジャケットに入れてた携帯電話が、鳴り出した。

 取り出して通信相手を見ると、安曇野玲子と名前が出ていた。

 えっ? 

 誰だっけ? 

 記憶にない人物が登録されていた。


「どうしたの、出ないの?」


 麻衣がいぶかしがる。


「ああっ、出ないとな」


 急いで通信ボタンを押し耳にあてる。


『もしもし、広瀬さんでしょうか?』

「はいそうですが」

『私、安曇野と言います』

「えっ? ええっと」

『サークルのコンパのとき、お会いした安曇野です』

「ああっ! はい。どうもこんちは」

『お話したいことがあって、かけさせてもらいました』

「はい、お話ですか」

『彼女……浅間さんが持っていたバッグのことなんです』

「えっ、それは、ぜひ聞きたいです」


 バッグのことを何か知っている?


『その件で、これから会えないでしょうか?』


 俺が麻衣に目をやると、鋭く見つめ返してきた。


「えーっこれからですか? これからは、ちょっと……明日なら、空いてるんですが」

『そう……じゃあ、明日の夕方会えない? 陽上高校前の喫茶店パスタは知ってるかしら』

「夕方? いいですよ。パスタは知ってます」

『そう、じゃあ夕方四時に待ってます』


 そう言って安曇野は通信を切った。


「誰から?」

「安曇野さんだよ。えっと、コンパの時のサークルの女の人」

「えっ? そうなんだ」


 急に麻衣は両手で、携帯電話を持った俺の手を押さえひねりだす。


「どういうことかしら?」

「いてっ、ててて」

「もう浮気するの?」

「してない、してない。ほんと……ててっ」

「空いてるって、明日会うの?」

「ああっ。それなら、明日一緒に行くか?」

「えっ。そ、そうね。行くわ」

「げっ」

「何が『げっ』よ。私が行かないって言うと思ったのね。やっぱり怪しい」


 そう言って、放してた手を再び俺の手首を持ってひねりだす。


「いててて。ごめん、違うんだ。心配かけないように、麻衣には言わなかったことがあるんだ」

「えっ、言わなかったことって何?」


 麻衣は腕を下ろすと、怒り顔が困惑な表情に変わった。


「その……記憶をなくすことでね。んんっ、それは、明日話すよ」

「今じゃ駄目なの?」

「俺もわからないことがあって、憶測の段階だから正確なことは言えないんだ」

「そう……なの」


 麻衣は少し寂しそうにうつむいた。

 今はまだ、わからないことが多すぎるから。

 やっぱりバッグのことで、安曇野って女性は何か知ってるんだ。

 フラメモのことも答えが出てくるかも……。

 明日は、状況によっては話していいかも知れない。

 そして、そのときに麻衣にもフラメモのことを話そう。


 俺たちは遊園地を出て歩道を進みながら、ノートのスケッチ絵にそっくりな洋館を目指した。

 十分ほど歩いたところでそれは見えた。


「あっ、あれじゃない?」

「そうだ。あった。でも、けっこう大きな屋敷だったんだな」

「ここが門?」


 表札の近くまで歩むと厚い鉄柱門が自動で開き、背後の道路から黒のセダン車がゆっくり侵入してきた。

 そのセダン車は俺たちの前で停止し運転席の窓を下げた。


「あれっ、君たちは」


 窓から顔を出してきたのは、オールバックで長髪を後ろに結んでいる男だった。


「あっ、草上さん?」


 草上? H大“T-トレイン”の会長。

 よりによって本人だよ。

 表札は……やはり草上だった。


「私に用があったのかな?」

「い、いえ。そう言うわけじゃあ……はははっ」

「でも、ちょうどいい。家に招待するよ」

「あはっ。俺たち、その帰り途中なので」

「遠慮しなくていいよ。それとも何かわけがあって家をのぞいてたってことじゃないだろ?」

「うっ」見られていたようで、ばつが悪かった。

「あの、夕方だし少しだけなら……うかがいます」


 麻衣が大人の対応を取ってくれた。


「そうですね、ではどうぞ」


 これは、チャンスと思っていいのかな? 

 何かバッグやメモリースキップに関連するモノを見つけられるかもしれないし。

 駐車場らしい広場に車を置いて草上は、俺と麻衣を洋館の中に招いてくれたが、靴を脱がず外履きのままで入れるのに驚いた。さすが洋館。


「さっ、どうぞ居間へ」

「ひ、広い」


 ロビーは二階まで見通せる空間で、豪華なシャンデリアが吊り下げられていた。

 大型の振り子時計が鎮座して、時の音を刻んでいる。


「綺麗な内装ですね」

「僕には綺麗なだけですよ」

「はあっ」


 移動した居間も広く、だが物は少なくて落ち着かない。

 壁沿いにソファとテーブルの一式があり、そこに手招きされる。


「そちらに座ってください」


 言われるがまま、俺と麻衣はソファにかける。


「二人に飲み物を」


 草上が言うと、うしろに控えていた女性が応答する。


「かしこまりました」


 俺も麻衣も彼女を不思議そうに見ながら座る。

 母親じゃないようだけど、やっぱりメイドさん?


「メイドが珍しいかな」

「ああっ、いいえ。最初ご両親かと思って」

「僕には母はいないんだ。小さいときに出て行ってね。代わりをメイドがやってくれてるんだよ」

「そっ、それは失礼しました」


 ちょっと、焦って話題を変える。


「こ、この家はホントに広くて綺麗ですね」

「この屋敷は父の趣味でね」

「広いと私駄目。夜は一人だと怖くなりそう」


 麻衣が部屋を眺めながら言った。


「幽霊とか出てきそうなんて言うなよ」

「幽霊さんは怖がらせるために出てきてるわけじゃないわ」


 俺と麻衣の会話に、ソファーに腰を下ろしながら失笑する草上。


「幽霊さん? ですか。はははっ……おっ、失礼。浅間さんらしい、可愛いイメージですね。でも、ここでは幽霊は出ませんよ」

「しっ、失礼なことを言っちゃいました。すみません」


 麻衣がそわそわしながら頭を下げる。


「いいえ、幽霊は自己イメージの投影に過ぎませんし、怖がる物でもないですから。おっと、お二人は幽霊肯定派でしたね」


 俺は居心地の悪さを感じ出すと、ドアが開き先ほどのメイドが入ってきた。


「コーヒーをお持ちしました」

「あっ、どうも」

「いいえ、どうぞごゆっくり」


 三人分のコーヒーの入ったカップを置いて戻っていった。

 出されたコーヒーカップを持ち上げ、一口飲むと草上が話し出す。


「僕は心霊ネタのすべては脳の中の現象と思っていますから、中立なんですよ」

「その、肯定派って言うか、見た人が見たなら現実に存在する物だと思うんです」


 麻衣がコンパで、俺が話したことを踏襲して発言した。


「幽霊は自己の投影ではないと?」

「知識がないんで上手く言えないですが、それは違うように思うんです」

「脳の中に幽霊のような記憶があるから、何かの拍子にそれを投影して見る。そんなところでしょう?」


 また、このやり取りだよ。

 麻衣は心霊に食いつき良すぎ。


「電磁波ですか?」


 彼女は思い出したように言った。


「無論、いろんなパターンはあるでしょうが、常識になってませんか?」

「んんっ……」


 麻衣負けてるじゃんか。

 俺も加勢しなきゃいけないのか?


「えっと、脳の中にそもそも記憶はあるんですか?」


 俺の言葉で草上と麻衣が目を向けてくる。

 心の記憶を別の人物が感じたなら、記憶は脳の中に納まってはいない。

 それは移る、見れる、そして感じ取れる……それが俺の答え。

 今のところ、相手の記憶は見えるが、意識は見ることも感じることもない。

 フラメモの限界なのか? 

 だから意識は脳が創り出して、そこに収まっているのかは定かではない。

 今言えることは、脳は記憶を紡ぎ出す装置であって、物質として保管してないってこと。


「ははははっ。……あっ、いやっ、失礼、失礼。霊魂説なんですね」

「俺も感じたことを言っただけです」


 ちょっと不快になり、コーヒーを飲み込む。


「脳の中に記憶はあるんです。だから、個人の意識や感情が生まれる。

 そして、脳の一部が壊れれば記憶もなくなり、記憶喪失とか失語症になったりしますよ」


 記憶が脳の中に物質として蓄積されるなら、読み取れるはずがない。

 フラメモなどできるはずがないんだ。


「もちろん否定はしませんが、記憶が海馬や大脳皮質に貯蔵してるという話などは、大まかな特定でしか語られていないんです」

「く、詳しいのね……難しくてついてけないわ」


 隣の麻衣が目を白黒させている。


「それでは、パソコンのハードディスクドライブと、そこに書き込まれるデータの関係を見るといいかもしれません」


 草上がわかりやすい題材を提示した。


「パソコンですか?」

「そうだ。ハードディスクが脳でデータは記憶って言えば、わかりやすいよ麻衣」


 俺は彼女に向けて肯定する。

 記憶をデータにおきかえれば、フラメモで閲覧できることが納得いく。


「あっ、なるほど。それならわかるわ」

「でも、彼はハードディスクの中にデータはないと主張してることなんですよ」

「そっか、うーん」


 首を傾けてうなって考える麻衣。


「えっと、それは草上さんの言ってることを前提にすれば、データという記憶自体もハードディスクイコール脳になりえるってことを主張しているんです。わかりやすいから、ハードディスクが脳でデータは記憶と言ったんです。記憶がないと言いたいんじゃないですよ」


 俺は反論した。


「コンピューターの0と1の蓄積を物質と判断するかしないかですね。なるほど。解釈の違いですか」

「記憶は物質じゃないの?」

「俺は直接には観測できないものだと思う」


 麻衣に話してから、草上に向いて話す。


「言いたいことは、パソコンのデータがインターネットを介して見れてしまうように、人の記憶も思えば現れて見れてしまうことです」

「えー? またよくわかんなくなったよ」

「ほうっ、で?」


 草上が先を進めるように促す。


「脳の中に記憶があるなら脳イコール記憶ってことになるけど、それは違う。記憶が単体であるかわからないけど脳の中に納まっているものじゃないって主張」

「大した自信だ」

「物質化されずに脳の中にあるということなら賛同しますけど」

「うーん、よくわからないけど……記憶がデータならパソコンにも人間みたいに心ができちゃってるとか? なーんてね」


 舌を出す麻衣。


「おいおい、それは飛脚しすぎ。生命の話に変わってしまうよ」

「そうね、記憶だったわね。じゃあ、その記憶はどこにあるのよ?」

「もちろんどこにあるのか、わからない。記憶は思い起こせば現れる、それしか言いようが無いけど、強いてどこだと上げれば五次元宇宙理論位だし」

「何? 五次元宇宙理論? 物理学?」


 麻衣は頭を抱えて言った。


「うん、目に見えてないけど存在している次元が在るって説」

「ふっ、架空理論ですか? 実証されてなければ意味はないです。脳の中に記憶がファイルされてるから見れる。それが全てですよ」

「いえ、もともと脳は一固体の生命を動かす中枢であって、記憶を物質変換した貯蔵庫ではない気がするんです。記憶を呼び起こす発火装置のような感じ」

「机上の空論ですか?」

「それでは、脳の細胞が記憶を保存しているなら、研究結果はどうです」

「実験データーは大まかなことなら公表されてますよ」


 草上は足を組みながら言った。


「大まかな特定でなく、具体的に細部までわかってよいものでは?」

「それは、まだプロセスの途中だからでしょ。焦っても答えは出ないですよ」


 草上は忠告するように言ってから、コーヒーカップを口につける。


「基本的に記憶が物質になるということに違和感を持っているんです」

「わからないことを変な自信で語るのは意味がないです」

「そうですね。でも……」

「自信を持って話してるけど、何か確信でもあるんですか?」

「えっ」

「うん、私も聞きたいな」


 ここで自分の事情を話すわけにいかない。

 麻衣にもまだ……。


「確信なんかないです。今までの積み重ねです」

「じゃあ仮説ですね。それは際限ないことですよ」


 命に宿る心。

 そして経験した記憶はどこに行くのだろうか。

 やはり魂? 

 でも言葉としてはあまりにも頼りなく感じる。

 フラメモは見せてくれるが、その存在は教えてくれない。


「たしかに科学でわからないグレーゾーンは、自己の信念で補完するしかないですね。が、行き過ぎは禁物です」

「ええっ」


 麻衣が肯定した。


「今の時代、科学を宗教にしている限り、逸脱しない生活が良いってことですね」

「科学は事実であって、宗教ではないですよ」

「えっ、それは違います……ドグマが」


 麻衣が俺の袖を引っ張ってる。

 止めろって合図? 

 だろうな。


「ホント、そうですね」


 彼女が続けた。

 余計なこと言って、熱くなって……なんか疲れた。


「では、お互いの主張を交換して考えを深めたところで……」


 立ち上がった草上は、俺たちにも立つようにうながしてソファから離れる。


「気分転換に、僕のコレクションなど見ていただきますか?」

「ええっと」

「あちらのケース棚にどうぞ」


 そこには細長い店舗販売に使っているようなショーケースがあり、光るものが沢山飾ってあった。


「あっ、先ほどから気になっていたんですよ」

「先にこの防具から」


 草上は、ケース棚の上に置いてあった短い棒を取り上げた。


「警棒ですか?」

「お気に入りの一つがこの伸縮式の特殊警棒です。外国製の特注なので重いですよ」

「へえーっ。本格的ですね。すごい」

「護身用具ですが、この重量ですから顔への打撃は殺傷力あるんですよ」

「怖い防具だわ」


 麻衣が俺の後ろで、恐る恐るのぞき見をしている。


「れっきとした武器ですね。もちろん、護身用で外へ持ち出したりはしてませんよ」


 特殊警棒を手に持たせてもらって、その重みとざらつきの感触が何か不安を感じさせた。


「では、ケース棚の中を説明しますか」


 何十もの様々な種類の刃物が並んでいた。


「ナイフの蒐集ですね」

「趣味でカスタムナイフのコレクターをしているので」


 すごい……アーミーからサバイバル系に、未来風のモノまで大小飾られていた。


「へーっ、これみんな草上さんの蒐集した物ですか?」

「ええっ、見てみますか?」

「はい」


 開けられたケース内を眺めていると、麻衣がおずおずと背中にひっついてきた……苦手?


「模様が凝っている。やっぱり、発注品で?」

「そうです。良品ですよ」


 草上は、何本か取り出してこちらに見せる。


「冷たく、鋭く、危なげな様相が恍惚とさせてくれる。魅力的でしょう?」

「そ、そうですね」

「自慢の棚ですよ」


 メイドといい、住んでる世界が違いすぎるよ。






「ところで、前に話されてた掲示板の話ですが」

「掲示板?」

「その後、妙な書き込みとか見つけましたか?」

「いいえ」


 麻衣が答える。


「そうですか」


 うん? 

 前の掲示板の話? 

 記憶にないぞ。

 俺が忘れている? 


「何の話よ?」


 俺は麻衣の肩をを突っついて聞く。


「えっ、何って? コンパのときのもう忘れたの?」

「んんっ」


 もしかして、メモリースキップで記憶のないときの話じゃないか?


「あの巨大掲示板のサークルスレッドで、酷いことをおこなっているメンバーがいるって書き込みがあったの」

「そのサークルが?」

「根も葉もない書き込みです」


 草上は顔を険しくして、不快そうに言った。


「あっはは、そうですよね」

「では、書き込んだ人に心当たりはありませんか?」

「もちろん、知りません。私も知りたいくらいです」


 草上は持ち出していた小型のスローイングナイフ数本の一本を右手に持って、俺たちの前でひと振りした。

 俺と麻衣の間をすり抜けたナイフは、後壁にかけてあったダーツの的に刺さっていた。


「あっ、危ないじゃないですか」


 俺は驚きの声を上げた。


「大丈夫ですよ、しっかりと垂直に刺さっているでしょ? 腕には自信がありますから」

「そらっ」


 また草上は、軽く右腕を振った。

 そして突き刺さる音。


「草上さん、投げると言ってからにしてください。下がりますから」

「ふふふっ、失礼」


 俺はすぐ麻衣に寄り添い、草上の後ろに下がるように距離を置く。

 麻衣が無言で、俺の腕に手を絡ませて締めつけてきた。

 今ので恐怖を感じたようだ。


「あなた方の知り合いで、同じことをした方がいたと思うのですが?」

「同じことを? 俺の知り合い?」


 ナイフ投げの知り合いなどいないぞ。 


「そうですよ。女性なのにこんな感じに投げられたと」


 草上は振り返って、俺たちに向かってひと振りした。


「キャッ」


 今度はダーツの的のない、俺たちの背面に位置した木製のドアに突き刺さる。


「違いますか?」

「知りません! 別の人と間違えたんじゃないですか?」


 麻衣をかばって俺は答えた。


「本当に知りませんか?」

「ええっ、知りません」

「ふーん……嘘とも思えない。白ですか? やはり女を先に……」


 独り言のようにささやく草上だが、ナイフの刺さったドアから二度叩く音。


「何です?」

「俺、俺」


 ドアが開き男が顔を出した。

 コンパのときにいた、リーゼントの中条である。

 扉を少し開けて草上と話し出した。


「来ましたか」

「興信所のやつ、来るんだろ? 部屋で待たせてもらうぜ」

「松野たちは?」

「すぐ来るだろう」


 松野だって? 

 会いたくねえっ。


「成果はあったんだろうな?」

「そのような話振りだったから、裏は取れたのでしょう」

「住所とかも?」

「プロバイダー通したから、その筈ですよ」

「よーし、じゃあ後で」


 そう言ってドアは閉じられた。

 中条は俺たちに意識が行ってないのか、少しの関心も示さなかった。

 これ以上留まりたくなかったので安堵する。


「あの、俺たちそろそろ失礼させてもらいます」


 ドアが閉まってから思考して黙っていた草上に辞去を願いだす。


「んっ? そうですか……こちらもお客の予定が入りましたので、悪いですね」

「いいえ、ごちそうさまでした。それでは」


 俺も麻衣も、急いで居間を離れロビーから玄関へわき目もふらず外へ出た。

 結局バッグに関しては話せず、何も手がかりになる物は見つけられなかった。

 だが、草上が危ないやつってことは正確に認識した。






 駐車場まで敷地を早足で抜けると、外からグレーのワゴン車が飛び込んできた。

 乱暴な運転だと思っていたら、俺たちに車を接近させて一時停止する。

 運転しているのは松野だった。


「ヤツだよ」


 麻衣も渋い顔を俺に向ける。


「おんやぁ」


 嫌なやつが、運転席の窓から顔と腕を出してきた。


「あっ、松野……先輩」


 ワゴン車をアイドリングからアクセルの空ぶかしを激しくさせて、ドヤ顔をみせる。

 こいつカッコいいとか思っていないよな? 


 ――っていうか免許持ってたのかよ。


「ようっ、誰かと思えば麻衣とこぶつき野郎かよ」

「はあっ」


 ため息の俺に、黙る麻衣。


「何で麻衣が会長の家にいるんだ?」

「ちっ、ちょっと、寄らせてもらってたんです。でも、もう帰ります」

「ちょうどいいや、ヤボ用があるんだが、それ済んだら横浜まで出かけないか? 一緒にドライブしようぜ」

「い、いえ」

「俺は、初心者ドライバーだけど、腕は二年分の走行量あるから安全だぞ」


 おいおい、スゲーつっこみ入れたい発言。


「私、けっこうです。彼と用がありますから」

「用は俺と済ませないか? 車は楽だし飛ばすと気持ちいいぞ」

「すみません。用があるんで、これで」

「待てよ、麻衣! 先輩が声かけてるのに、その態度はなんだ」


 声が大きくなる松野に嫌気がさしてきた。


「べ、別に……私は普通に」

「ふざけるな! 優しくやっていれば付け上がりやがって、このクソ女」


 怒鳴りだして、ワゴンの外ボディーに拳を叩いた。


「おおい、松野。車のボディに当たるなよ、草上さんから借りてるんだからな」


 ようやく隣の席にいた人物が声を出した。


「石田は黙ってろよ」

「こんなので熱くなるなって」


 石田と言われた髪が短く小太りの男が、松野をなだめるが聞いちゃいない。


「行こう麻衣」


 俺は無視して彼女の手を取り、草上家の門を越えて右の歩道を歩き出す。

 松野もワゴンをUターンさせ、車ごと俺たちの進む歩道の横につけてくる。

 おいおい、車が走ってないのをいいことに逆走してきたよ。


「麻衣、いいから乗れよ」

「いいです」

「先輩の顔つぶす気か?」


 松野は麻衣の手をつかもうと窓から腕を出してきた。


「あっ、いやっ」


 驚く麻衣。


「止めてください」


 俺は彼女を抱えて、松野の腕を振り払ってやった。


「このやろう」


 松野は今度俺の腕をつかみ、車を止めてから降りてきたのでつかみ返す。


「うっ 」


 路地を指差して彼女をうながす。


「麻衣、走れ」

「うん」


 麻衣はすぐ反応して駆け出す。

 さすが元陸上部、ダッシュは半端なく反対車線の歩道にすぐ行きついた。


「コォラッ! 麻衣戻れ」

「いい加減にしろよ」


 俺と松野は、お互いの服をつかみ合うように手を出して両腕が絡む。

 アルコールの匂いが鼻につく。酒でも飲んでたのか?


「飲酒運転で彼女をドライブですか? ひどく匂いますよ」

「う、うるせえ! このクソが」

「手伝おうか?」


 ワゴン車の助手席の石田が、松野に声をかけてる。

 二人相手はまずい。

 何とかこの場を……。

 次の瞬間、右目に火花が飛んだ。

 息が詰まる苦い痛み。

 周りが真っ白にかわる。

 しまった。

 松野のパンチをまともに食らっちまった。

 俺も腕を振るが、空を切ったようだ。


「くっそぉ」


 足がふらつき、そのまま尻餅をついてしまう。

 倒れた? 

 やべーっ、やられる。


「このイカサマヤローッ」


 松野の怒声が上から降ってきて、髪をつかまれ持ち上げられる。


「だれかーーーっ」


 麻衣の響き渡る声が、うしろから聞こえてきた。


「んんっ?」


 俺の髪から手を離す松野。


「だれかーっ喧嘩よ、止めてください」


 麻衣の援護だ。

 えらい。

 麻衣と同じ歩道に歩いていた、三人組のサラリーマン風の男たちが気づいた。


「なんだ? 喧嘩か?」

「おい! そこで何やってるんだ」


 そのうちの一人が大声を上げて、こちらの様子をうかがう。


「チッ、あの女」


 松野は俺への攻撃を断念して立ち上がる。


「おおい、ここじゃ非常にまずいぞ」


 石田も車に戻る。


「ああっ、逃げる」


 車に乗り込んだ二人は、急発進して逃げた。

 けど……連中は草上の家に行くんじゃなかったのかよ。






 彼女の近付く足音で気が緩んできた。


「忍。忍。大丈夫?」

「ああっ……大丈夫。マジに手を出してくるとは思わなかったけど」

「良かった」

「ありがとう、ボコボコにされずに済んだよ」

「ごめん」

「何で謝るんだよ」


 俺は立ち上がりながら聞く。


「松野絡みは私のことだし……ごめんね」


 彼女の前でヘタレなところ見せて恥ずかしいのに、自分のせいだと言われると立つ瀬がない。

 三人組のサラリーマンたちが対抗斜線の歩道でこちらを見てたので、麻衣と二人で頭を下げてお礼を言った。


「いっ……つ」


 二人で歩道を歩きだすと、熱かった右目がずきずきと痛んできた。


「ねえっ、顔見せて」


 麻衣が言いながら俺の顔をのぞくので、立ち止まる。

 手を離し目を開けると、右目だけ視野が薄白く見え涙がでていた。


「右目だけ充血してる。冷やしたほうがいいいよ。ついていくから、帰ろう……すぐ帰ろう」


 顔に当ててる麻衣の手を取ると、少し震えている。

 彼女は俺の背に腕を置き、体をゆっくり預けてきた。

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