65 絶対だめ
「い、いやいや。さすがにそれは駄目だよ」
僕は司波さんの言葉に首を振る。
司波さんは恐らくつまり僕が歌枠をしている時に、配信部屋で生の歌声を聞きたいと言っているのだろう。
さすがにそれは駄目だ、絶対駄目だ。
「なんでよ。別にいいじゃない。減るもんじゃないんだし」
「減るわけじゃないけど……。で、でも駄目」
僕は駄目だと伝えるが、司波さんも自分の憧れる配信者の歌が生で聞けるかもしれないという状況に折れてくれる気配が全くない。
でもだからといって僕もここで折れるわけにはいかないのだ。
「司波さんだって自分が配信してるところを、直接見られるのとか嫌でしょ? しかも歌枠とか」
「そ、それはそうかもしれないけどさぁ」
「ならやっぱり生で聞くってのはやっぱり駄目だよ。そもそも同じ屋根の下にいる人に、自分の配信を聞かれてるっていうだけでも恥ずかしいのに、その上生歌を聞かれるとか堪えられないよ……!?」
「う、うぅ」
司波さんも僕の言葉に反論できないのか、言葉に詰まった様子で唸っている。
それでもやはり納得したくないというのがありありと分かる司波さんの表情。
僕自身、司波さんの気持ちが分からないわけじゃない。
大好きな――それも自分が配信を始めるきっかけにまでなった配信者の生歌を聞けるかもしれないなんて、想像するだけでも胸が高鳴る。
それでも司波さんには申し訳ないが、今回は諦めてほしい。
「ねえ、本当にだめなの……?」
「……っ」
司波さんはベッドから立ち上がると、丸椅子に座っていた僕へじりじりと滲み寄って来る。
座っている僕に視線の高さを合わせるために身を屈めるので、ただでさえはだけていた司波さんの胸元へどうしても視線が吸い寄せられてしまう。
そんな僕に気付いているのかいないのか、司波さんはどんどん僕との距離を詰めてくる。
幾らか目を潤ませながら小首を傾げる司波さんは、一体どれだけの破壊力があるのか分かったもんじゃない。
ただこれまで見てきた司波さんの中でも一番無防備な司波さんに、僕は思わず喉を鳴らす。
「や、やっぱり駄目!」
それでも僕はもう一度、駄目だという旨を伝えた。
そして椅子から立ち上がり、司波さんからも距離を取る。
これで安心だ。
多分だけど、普段の僕だったら今ので司波さんのお願いを聞いてしまっていたことだろう。
でもデパートで司波さんと過ごした今日の僕なら、何とか耐えられる。
「じ、じゃあ僕は今から配信行ってくるから」
ふと、司波さんを見てみた。
行き場のなくなった司波さんは呆然と立ち尽くしている。
僕は恐る恐る、部屋の扉へと向かう。
立ち尽くす司波さんに罪悪感を感じずにはいられないが、今回だけは諦めてほしい。
やっぱり今の僕には、クラスメイトに歌枠の生歌を聞かせられるほどの精神力はないのだ。
◇ ◇
「皆さんこんばんは! いつも涼しいけど冷たくはない『涼-Suzu-』でーす!」
自分で言ってどんな紹介だよと思わなくもないが、こんなのはその場のノリで適当に決めるのがいい。
もちろん自分の紹介文を決まり文句として定着させる配信者も多いけど、僕はまだそういうのは特に作ってはない。
さすがにそろそろ考えるべきだろうか。
「今日は通知にも出した通り、久しぶりに歌を歌おうと思います!」
しかし配信の途中で無言にするわけにはいかないので、どんどん話を進めていく。
通知というのは、自分のリスナーたちに「配信を始めましたよ!」と伝える機能だと思ってくれれば良いだろう。
今回はその通知で「久しぶりの歌枠!」と書いて、皆に送ったので、恐らく皆も今日の配信の内容を既に理解しているはずだ。
「まあせっかくの歌枠で前置きが長いのもあれだし、どんどん歌っていこうかな。……といっても何から歌おう」
そこで僕は一度コメント欄を見てみる。
既にどれだけの人がコメントしているのか分からない程のスピードで、コメントがどんどん流れていく。
そこには「こんばんは!」などの挨拶のコメントもあれば、「○○を歌ってほしいです!」などの曲のリクエストも見受けられる。
「うーん……これだけリクエストが多いと絞るのも大変だなぁ……」
それでもしばらくコメントを見ていると、大体、三択くらいには絞ることが出来た。
その三択の内、どの曲を最初の曲として歌えばいいか、再びリスナーの皆に問いかけてみる。
するとすぐに皆がそれぞれ歌ってほしい曲がコメントとして書き込めれてくる。
そして流れていくそれらを見て、決めた。
「よし! じゃあ最初はこれで!」
僕は曲を決めると、早速、音楽を流し始める。
自分のリクエストした曲だった人は歓喜のコメント、そうじゃなかった人は残念だと言いつつもどこか興奮したようなコメントがどんどん流れていく。
そんなコメントを見ていく内に、初めの曲の前奏が徐々に終わりに近づき始める。
そして遂に前奏が終わり、歌い始めようとした時――
「え……っ」
————司波さんが拗ねたような表情で、配信部屋に入ってきた。
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