49 ほんと馬鹿


「……っ!」


 凛は咄嗟に辺りを見渡すが期待に反してそこには誰もいない。

 正真正銘、凛と男の二人きりだ。

 これでは以前のように人混みに紛れてやり過ごすことも出来ない。


「えへへぇ、やっと二人きりになれたねぇ~」


「っ……」


 耳を撫でるような嫌な声に凛の身体が震える。

 そしてその間にも男はじりじりと凛との距離を詰めてきて、まだ幾分か離れているにせよこれではそう遠くない時間で手が届いてしまいそうだ。


 そこでようやく自分の置かれた状況がどれだけ危険なことか理解した凛は一刻も早くこの場から離れようとして、それが出来なかった。

 凛の足はまるで地面に根が生えてしまったかのように重たく、逃げるための一歩すら踏み出せなかったのである。


 凛はストーカーに遭っているかもしれないと分かってからしばしば後ろを振り返るようになっていた。

 もしかしたらそこにストーカーがいるかもしれないという可能性があるなら、凛じゃなかったとしても、普通の女子高生ならそうするだろう。


 しかし普通の女子高生と凛が違うことと言ったら、凛はもしストーカーに遭ってしまったとしても直ぐにその場を離れて人通りの多い道へ行けば良いと思っていたことだ。

 とてもストーカーされているかもしれない女子高生の考えじゃない。

 あまりにも楽観視すぎる。


 だがもともと強気な性格だった凛に加えてここ数日の亮との関係が悪化していたことも考えれば、普段なら絶対にとらないような行動をとってしまったことも仕方ないのかもしれない。


 けれどいざストーカーを目の前にして、凛の心は完全な恐怖に呑み込まれてしまっていた。

 足は竦み、身体は震える。

 頭では逃げなきゃいけないと分かっているのに、身体が言うことを聞いてくれないのだ。


「……っ」


 その間にも凛と男の距離は着実に縮まってきている。

 動けない凛に男は満足そうな笑みを浮かべ、凛の身体へと手を伸ばす。

 その手を阻むものはもはや何もない。

 凛を助けてくれる誰かは、どこにもいない。


「……ほんと馬鹿、わたし」


 これから自分は一体何をされてしまうのだろうか。

 もはや逃げることを諦めてしまった凛は頭の中でそんな考えたくもないことを考えていた。

 そしてそういう時に限って妙に時間がスローモーションのように感じてしまう。


 これが、走馬燈ってやつなのかな。


 決してこれから死ぬわけじゃない。

 けれど凛は死を覚悟するかのように、自虐的にそう思う。


 こんなことになるなら、ちゃんとあのお人好しに送ってもらえばよかった。

 こんなことになるなら、もっとあのお人好しに迷惑をかければよかった。

 こんなことになるなら、もっと自分の気持ちに正直でいればよかった。


 自分がたかがあれだけのことで怒らなければ、ちゃんと家まで送ってもらっていれば、少なくともこんなことにはならなかっただろうに。

 凛は自分の愚かさを呪い、後悔に涙を流す。


 そして遂に男の手が凛の身体に触れそうになった時、凛はこれ以上自分の弱さを見せてなるものかと必死に目を瞑る。

 そんな凛が真っ暗なまぶたの裏に見たものは後悔や悲しさじゃなければ恐怖でもない。

 そこには一人のお人好しなクラスメイトが苦笑いを浮かべていた。




「…………?」


 それからどれくらい経っただろう。

 いくら待っても凛の身体には不快な感触がやってこない。

 しかし凛が瞼を閉じる前、最後に見たのは自分の身体に届きそうな男の手だったはずだ。

 それが未だに身体に触れてこないなんて、それこそ時でも止まってしまったのではないだろうか。


 けれどそれはあり得ない。

 何故なら凛のすぐ近くから微かに、乱れた息遣いが聞こえてくるのだ。

 でもそれはさっきまで嫌悪感で仕方なかったストーカーのそれじゃない。

 じゃあ今のこれは一体何だというのか。


 自分の周りが今どうなっているのかを知るため、凛は閉じていた瞼を恐る恐る開けていく。




「…………え」




 凛の目には、光が射し込んでいた。

 しかしそれはおかしい。

 何故なら今は既に陽は沈んでいて、街灯があるにせよその明かりはたかが知れている。

 じゃあこの光は一体……。


 凛は目を擦りながら数度瞬きを繰り返す。

 するとその光はどうやらただの凛の気のせいだったように消え失せてしまう。

 でもその代わり、凛の目の前には大きな背中があった。


 背中が、あったのだ。

 自分のよりも少しだけ大きなその背中は、凛がどれほど望んだものだっただろうか。

 そこには――――りょうの背中があった。

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