39 司波さんの狙い


 歌う?

 僕が?


「無理無理無理無理」


 僕は突然告げられたその言葉に慌てて何度も首を振る。

 僕が人前で歌を歌うなんて絶対にあり得ない。

 恥ずかしいとかそういう次元を通り越して、もはやその状況を想像することすら出来ない。


 どうして司波さんは僕にそんなことをさせようとしているんだ。

 きっと僕が放課後のあの時間を間接的にでも無くそうなんて言ったから、僕の嫌がることをしてきているのだろう。

 さっきの歌に関してだってきっとそのせいだ。


「…………」


 しかし僕が非難の目で司波さんを見た時、思わず息を吞んだ。

 そこにはからかったり馬鹿にしたり、ましてや嫌がらせなどそういったものは全くなく、ただただ何かに切実な視線があった。


 何かを伝えようとしているのかしていないのかは分からない。

 それでも司波さんは真剣に必死に僕にマイクを差し出してきていて、僕はさっきまで嫌がらせなどと思っていた自分を呪った。


「……っ」


 僕には司波さんの意図は分からない、けど。

 それでも今ここでこのマイクを握らなければ、きっと何も始まらない。

 目の前の司波さんの手を取らなければ僕はずっとこの手を取ることが出来ないんだろう。

 そんなの、絶対もって御免だ。


 僕は一度だけ司波さんの手を過ぎ去って曲を入れるための機械を手に取り、自分がこれから歌う曲を探していく。

 そして見つけた曲は恐らくこの場にいる皆が知っているだろう国民的ソングだ。


「……ありがと」


 曲が流れ始めてようやく受け取ったマイクはまだ少しだけ司波さんの手の温もりが残っていて、まるで司波さんに手を握られているようにも感じる。

 まあ実際はそんなことは絶対ないのだろうが、それでも今の僕には十分以上だった。


 これまで僕は人前で歌うという経験がほとんどなかった。

 いや、むしろ皆無なのではないだろうか。

 ライブ配信では歌枠で歌うことがあっても、それは目の前に人がいるわけじゃない。

 上手く、歌えるだろうか。


「……ふぅ」


 前奏が終わりに近づくにつれて自分の胸の鼓動が早くなるのが分かる。

 それだけじゃない。

 額には嫌な汗も流れているし、唇だって震えている。

 それでも司波さんにマイクを渡されたから、僕は歌う。


 司波さんが何か僕に期待しているのかはやっぱり分からない。

 それでももし本当に司波さんが何かを僕に期待しているのだとするならば、僕が歌うことで今の状況を少しでも良い方向に変えること、きっとそれが司波さんの期待に応えるっていうことだから。


 ◇   ◇


「はぁー、まさかあんなに上手くいくとはね」


「本当。司波さんは最初からあれを狙ってたんだ」


「まぁ出来ればそうなってほしいなくらいだったから、そうなったのもあんたの歌があったからってことに違いはないわよ」


「ううん、司波さんがいてくれたからだよ、ほんと」


 カラオケも終わり、僕たちは今帰り道を二人で歩いている。

 本当は僕の帰り道はこっちではないのだけど少しだけ暗くなり始めたこの夜道を司波さん一人に帰らせるわけにはいかないだろうと東雲さんに送るように言われたのだ。


 司波さんも東雲さんに言われては送られるのを断ることは出来なかったのか特に何も言わずに送られてくれている。

 もちろん僕だって自分から送ろうとはしていたが最後の一歩が踏み出せずに踏みとどまっていたところだったのだ。

 そういうところがやっぱり僕は僕なんだなと思えてしまうからまだまだダメダメなのかもしれない。


 結果から言うと今回のあのカラオケは成功だったのだろう。

 どうやら司波さんは初めから僕に歌わせることだけが狙いだったようで、そしてその歌を聞いた坂本くんや東雲さんに自分が僕と一緒にいることについての納得をしてほしかったらしい。


 僕の歌を聞くだけでどうしてそんな納得なんて出来ることがあるだろうかとも思うが、実際僕が歌い終えた後、二人は驚いた顔をして僕を見ていたし「凄く上手かった!」と絶賛してくれた、お世辞かもしれないけど。


 司波さんは僕の歌を偶然に聞いてそれからよく絡むようになったんだと二人に説明していた。

 実際のところはそんなことはないのだけど二人はそれで十分に納得してくれていたみたいだし良しとしよう。


 それにクラス内カーストでも上位に位置する二人が僕と司波さんの妙な関係を別に気にしていないということは恐らくクラスの雰囲気にも浸透するはずだ。

 もしそれが司波さんの最初からの狙いだったとするならさすが司波さんとしか言いようがない。


 ただ一つ危ないところがあったとするなら坂本くんが『涼-Suzu-』のことを知っていたということだろうか。

 僕が歌を歌い終えた後、頭を捻らせていたのはもしかしたら歌枠で『涼-Suzu-』としての僕の歌を聞いていたからかもしれない。

 結局分からずじまいだったみたいだけど坂本くんの前で歌うのは出来れば今後遠慮したいところだ。


「…………あれ?」


 僕は隣を歩いていた陰の功労者である司波さんをちらりと見ようとして、そこに司波さんがいないことに初めて気づいた。

 どこに行ったのかと振り返ってみると、すぐ近くの後ろに司波さんがぽつんと立ち尽くしている。

 その顔は下げられていて、司波さんがどんな表情を浮かべているのかは分からない。

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