第8話朱家角の女

12月の黄海は今年も穏やかだった。

特選二枚を引っさげて本庄は上海に上陸する。

今年は真っ先に朱家角へ向かった。


今年も去年と同じ曇天だ。バスを降りる。

去年と同じ背中にリュック、両手にスケッチ

ブックと額に入れた特選二枚を引っさげて、


バス停から路地裏へ。何も変わっちゃいない。

去年と同じ理髪の文字と看板だ。扉を開ける。

やはり誰もいない。人の気配は感じる。


壁には一昨年前のラフスケッチがそのまま貼ってある。

『あれっ?去年の入選作は?』


と本庄は思いつつ、何か、椅子の上にほこりが

たまっているのを気にしながら、

「有人阿?」(誰かいますか?)


本庄の声は少し震えていた。奥から返事が聞こえた。

メイリンとは違う、若い女の人の声だ。


「本庄さん?日本人の?」

「ええ、そうですが」

「母は、8月の末に病院で亡くなりました」

「肺病で?」


「ええそうです。この3年ほどの間は入退院を繰り

返していたのですが、去年の秋に少し元気になって

この家に帰っていました。年の暮れに又体調を崩し

緊急入院して手術をしましたが、8月の末に・・・・」


8月の末と言えば、本庄が寝苦しくて激しく咳き込んだ

頃だ。あのメイリンの熱に潤んだ引き込まれるような

眼差しが一瞬間近に迫ってきた。


「8月の末?」

「ええ、8月31日の夕刻です。この人が必ず

訪ねてくるからその頃家にいてあげてと言い残して、

安らかに息を引き取りました。これ、お預かりしていた

お金の残りです。本当にありがとうございました」


娘は本庄に紙包みを手渡そうとした。

「いや、これはお母さんにあげた物ですから

受け取るわけにはいきません」


「そうですか。母が年末倒れた時には、北大街

のおばさんに大変お世話になりました。

それではおばさんに渡しておきます」


「ぜひ、そうしてください」

娘は紙包みを抱いたまま、言った。

「分かりました。どうぞ上がってください」


懐かしいメイリンの部屋には去年の入選作が

飾ってあった。本庄は特選の2枚を開けると

横にならべて立てかけた。娘が叫ぶ。


「まあ、特選、2枚とも。綺麗なお母さん。

幸せそうに輝いている」

「お父さんも絵を描いておられたとか?」


「4年前、亡くなる直前に母を描きました。

それまでは文人画などの伝統的な絵ばかりで、

母は何度もせがんだらしいのですが・・・。

店に貼ってあるのがそれです」


「そうでしたか・・・・」

本庄はメイリンの3枚の絵に手を合わせ、

しばし黙祷した。


狂おしかった1年前の数日間。燃え尽きた

メイリンの魂がこの絵に如実に息づいている。

その眼差しを本庄はもう凝視できないでいた。


「すみません。私は仕事で義烏に行かねば

なりませんので。本当にありがとうございました。

お母様の冥福を心からお祈りします・・・・」


「いえいえこちらこそ。母に最後の命を吹き込んで

いただきまして、お礼を言うのは母のほうです。

ほんとにありがとうございました」


「では、失礼いたします」

と本庄が店の扉を開けようとした時、

人の気配がして扉が開いた。


ワンタン屋のおばさんと背の高い若者が立っている。

「おばさんと、医師の私の許婚者いいなづけです」


その若者が答えた、

「はじめまして。おかあさんは、最後はほんとに

幸せだったと思います」


本庄は何も言えずに黙したまま唇をかんでうなづく。

じっと涙に耐える。おばさんがそっと傍らでつぶやいた、


「姪っ子のメイリンはハンサムリーベンレンといる時が

1番輝いてて皆びっくりしてたのよ。ほんとにありがとう」


ほんとの深い悲しみの闇は、

これから日を追って限りなく

深まっていくことだろう。


もう本庄はそれを感じ始めていた。

皆の感謝の声を背に受けながら、

呆然としたままゆっくりと歩み始めた。


どこをどう歩いてバスに乗り、

どこで乗り換え義烏に着いたか

全く憶えていない。


検品をした覚えがないのにちゃんと

4千本の鎖を買い付けて、

リュックはずしりと重かった。


リュックの底にはメイリンの裸婦画が

10枚隠してある。スケッチブックを抱え

本庄は上海に向かった。


この日は真冬とはとても思えないほど温かい一日だった。

本庄はうつろな眼のまま夢遊病者のように重い足取りで、

国際フェリーの出国カウンターにリュックを置いた。


「中身は何ですか?」

本庄は無表情でリュックを開ける。

二人の女性係員が呼びつけられた。


緊張が走る。二人は重い鎖の包みを持ち上げようとした。

ビニールから見えたアクセサリー用の鎖を確認して、

女係員は本庄に微笑んだ。


反射的に本庄も微笑み返した。責任者が大きくうなづいて

荷物はカウンターを抜けた。本庄は又も無表情になって

足取り重くリュックを背負い乗船した。



帰りの黄海はとても穏やかだった。スケッチ

ブックに10枚の裸婦を挟んで後部デッキに出る。

陽射しは淡く夕日が静かに沈んでいく。


日が暮れた後も本庄はじっとデッキの

ベンチに座り続けていた。


真っ暗闇の海。本庄は立ち上がって手すりに

向かい、スケッチブックを海にかざした。


そっと手を離す。

暗闇に静かに消えていくスケッチブック。

それは朱家角の女のお葬式のようだった。


             −完−

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朱家角(上海水郷物語1) きりもんじ @kirimonji

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