第7話矢絣
その日の昼救急病院ではそのおばさんが
付き添いで待機していた。
メイリンの娘も上海から駆けつけてきた。
病室に入りかけるとそのおばさんは、
「しーっ、今昏睡中だから」
と言って紙包みを手渡しながら外に出た。
「お金の心配は要らないからお母さんを
しっかりと養生してやってね」
紙包みの中身を見て娘は、
「これは一体なに?」
「ハンサム日本人からの寄付よ。モデル料かな?
気兼ねなく全部使って」
「でも」
「おかあさん手術しても十分残る金額だからね。
最後まで面倒見てあげてね」
「手術?最後?」
「そう、手術しなきゃ手遅れだって。手術しても
この1年はとても、ということらしいよ。
詳しくは担当の医者に確認してね」
「わかりました。大叔母さん、ありがとう」
「じゃあね。気をしっかり」
ワンタン屋のおばさんは温かくも厳しい
眼差しを送って去っていった。
娘は唇を噛み締め、その後姿を見つめながら
覚悟を決めて病室へ入った。
帰りの黄海は少し荒れた。本庄はあまり動かずに
ゆっくりとスケッチを点検した。3冊の
スケッチブック。買い足した1冊は裸婦だ。
『これは止めとこう』
やはり黎明の放生橋上から描いた数枚と、
船着場から描いた数枚が逸品だ。
それは水郷『朱家角の女ひと』そのものだった。
運河の風情は捨てがたい。何とか10枚に絞込み、
あとは友人夫婦に選んでもらおうと決めた。
冬、昼は店番をして夜になると本庄はがむしゃらに
色彩を施した。最後の1枚に臨む頃には
梅から桜の季節に入っていた。
葉桜になる頃に本庄は10枚の絵を携えて友人の
画廊を訪ねた。事前に連絡してあったので
友人夫婦は笑顔で迎えてくれた。
本庄は10枚の水彩画の包みを開いた。
二人は次々とめくって1枚ずつをテーブルに
置いていく。友人の手が1枚に止まった。
「これは?」
奥さんが覗き込む。
「矢がすり」
「なんで?中国人やろ、この女の人」
本庄が近づいて説明する。
「亡くなったお母さんの形見やそうで」
「形見?日本人の血が混じってんのか?」
「さあ、ようわかりませんが」
奥さんが笑顔でうなづきながら、
「着てる着物もいいけど、この微笑み、
モナリザみたい。やはり眼差しは超一流ね」
二人は10枚を丁寧に眺め、見つめ、ため息混じりに
顔を近づけ、ぶつぶつ言いながらうなづいていた。
急に奥さんが顔を上げて、
「ねえ、あなた。この夏の新作展『関西水彩コンテスト』
に出品してみましょうよ。まだ間に合うわ」
「そうやな。1点に絞って出してみよか」
本庄はじっと二人の会話のなりゆきを眺めている。
奥さんが本庄に向き直って、
「ねえ、本庄さん。あとは私達に任せてといて。
どこまでいけるか分からないけど。入選は狙えるわ」
「はあ?」
「最終発表は8月末ごろ。それまでこの10枚預からせてね。
絶対に悪いようにはしないから。題はもちろん、
『朱家角の女ひと』オーケーね?本庄さん!」
本庄は奥さんの迫力に押されて小声でつぶやいた。
「ええ、どうかよろしくお願いします。これから
春の観光シーズンで店の方が忙しくなりますので」
「分かったわ。何かあったら連絡します。
私達に任せといて。ねえ、あなた」
「ああ、ひょっとしたらひょっとするで」
「では、よろしくお願いします」
本庄はそう言って画廊を出た。
春の観光シーズンは6月一杯続く。修学旅行と
一般の観光客とで嵐山はごった返す、
その終わりの頃、2枚が第1次審査を
通過したと知らせが入った。
やはり、矢がすりの『朱家角の女ひと』
と船着場で早朝描いた放生橋の絵だった。
本庄は喜びで体が震えた。
その報告を受けた夜、いつになく寝苦しく、
あのメイリンの熱に潤んだ引き込まれるような
眼差しが間近に迫ってきて息苦しく、
明け方に目が覚めた。すごい汗だ。
『メイリン、あなたの絵が大きなコンテストで
入選しました。必ず最優秀を取って、
この冬お届けします。待っていてください』
本庄は急に息苦しく咳き込んだ。
9月初めに最終審査が発表された。入選50に
本庄はすでに入ってはいたが、その入選作から
最優秀5品に『朱家角の女』が入った。
大忙しの秋のシーズンが始まった。友人の画廊は
『本庄浩一作品展』を開催した。
地方紙やミニコミにも取り上げられ
友人も奥さんも多忙を極めた。
その秋も終わり、打ち上げの席で、
「そら見てごらん、大成功でしょう」
「いやあ、わしらの目に狂いはなかった。
本庄、おめでとう。これからも頑張って
描きまくってや。これ最優秀と入選の2枚、
返しときます。後はご自由にということやった
から残りは全部わしが買い受けます。
これ今までの売れた分。
経費とマージンは差っぴいてあります、
お受け取りください。ここにサインを」
「あ、はあ。こんなに?」
本庄は中身を確かめもせずにサインをした。
「もうすぐ又上海に向かいますので。
ほんとにありがとうございました」
丁寧にお礼を述べて、本庄は画廊を出た。
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