第6話メイリン

おかみさんの部屋はこぎれいに整頓されていた。

なくなった老母と亡夫らしき写真が飾ってあった。

老母の写真の背景はこの理髪店だ。


昔のままの母の住居だったのか?

「主人とは文化大革命の頃に知り合ったの」

咳をしながらおかみさんはベッドの枕元でつぶやく。


「絵画の先生。伝統的な南画が専門だったわ」

又咳をする。

「だいじょうぶか?」


本庄が起き上がってやさしくおかみさんの背中をさする。

「ええ、だいじょうぶ。ちょっとむせただけ・・・。

文革で革命絵画を描けと執拗に迫られて、


5年間過酷な労働を強いられたわ。文革の嵐が去って

再びこの村の学校に戻ってきた。・・・そして結婚したの。

娘が生まれてまもなく胸の病が再発して・・・。でも、


最後に私を描いてくれたわ。

なかなか描いてくれなかったのよ。

頼んで頼んでやっと」


「肺病か?今ではすぐ治る」

「ええもちろん。私は大丈夫よ今まで1度も血を吐いたこと

はないしいたって健康。娘はそれで今上海の看護学校に志願

して、寮生活で頑張ってる。父や祖母の姿を見てるから」


「おばあさんも?」


「鍋1杯の血を吐いて死んだ。娘は真横でそれを見ていたのよ、

7歳の頃。近所の人も親戚もそれ以降あまりここには寄り付か

なくなったわ。あの北大街のおばさん以外は・・・・・」


「実は君の絵を描かせて欲しいんだ。にらんだ顔。微笑んだ顔。

とぼけた顔。潤んだ瞳。この5日間、描けるだけ描いて帰りたい」


おかみさんはうれしそうに微笑んだ。

「ありがとう。こちらこそよろしくお願いします」

二人は見詰め合ってそのまま、激しく抱き合った。


店には休業の看板をかけて、それからの三日間は室内で、

残る二日間は早朝から戸外で描きに描きまくった。

スケッチブックを描いたし画質の悪い紙にも描いた。


夕方以降になると微妙に熱を帯びてくるおかみさんの瞳

とその眼差しに、本庄は吸い込まれるように描きまくった。


毎夜の激しい抱擁。本庄は昼ごろに台所の音で目が覚める。

ちゃんと食事の支度をして、はつらつとしたおかみさんが

いる。まばゆいばかりの芳香を放っている。


最後の二日は夜明け前から放生橋に立った。夜が白々と明け

てくる。朝霧の中に着物姿のおかみさんが浮かぶ。母の残

した衣類の中に日本の着物があったのだ。


船着場から放生橋を背景に激しいタッチのスケッチが続く。

「さむくはないか?」

「だいじょうぶよ」


早朝、散歩の老人が一人現れた。顔見知りらしい。

「メイリンか?」

「はあ、老王。元気?」


「お前こそ。病院は?もう大丈夫か?

元気そうで何よりじゃ。若返ったみたいじゃの」

「ありがとう。元気一杯よ」


老人はしばらく本庄のタッチを見つめて、

笑顔でうなづきながら去っていった。


橋を渡って運河へ向かう。柳の木と木船を背景に

おかみさんを描く。朝餉の煙が立ち昇る。

鶏の声、犬の鳴き声。烏や小鳥の声も聞こえる。


人の声も聞こえてきた。顔見知りのおばさんが通る。

「メイリン、元気なの?」

「元気よ。みなさんは?」

「ええ。みなげんき。まあ、綺麗!」


本庄の絵に眼を見張り笑顔で去っていく。

朝食は例のワンタン屋にした。いつもの

おばさんが二人を見つめて驚いた顔をする。


「メイリン、あなたのお友達?」

「そうよ、去年からの日本の友達」

皆、おかみさんの事をメイリンと呼ぶ。


メイリンは「私のおばよ」と本庄に紹介した。

おばさんはキッと本庄をにらみつけて、

「知ってるよ、ハンサムリーベンレンは」


そう言って笑いながらスケッチブックを奪った。

メイリンが笑って制止する。

「あいやー。メイリン。べっぴんさん!」


おばさんは「私は?」といって自分に指差して

本庄に尋ねる。本庄は顔を横に振って断る。

みんなの笑い声が店内に響き渡る。


最終日、ほんとは上海で一泊のはずが、

別れが辛くて翌朝一番のバスで

上海へ向かうことにした。


結局一睡もせずに愛し合って夜明け前、

放生橋の上で抱き合い、北大街の石畳

をゆっくりと歩きターミナルに向かった。


リュックの銀鎖がひときわ重く肩に食い込む。

ベンチに腰掛け寄り添いながら

指を絡ませ体のぬくもりを確かめ続けた。


始発は5時だ。

暗がりから人々が集まり始める。


「じゃあ、又来年必ず来るから」

ほてった瞳でメイリンは本庄をじっと見つめる。

今にも消え入りそうだ。瞳は虚ろに宙を舞う。


バスが来た。本庄は紙包みをリュックから取り出し、

しっかりとメイリンの手に握らせ、


「来年、12月、必ず来るから、これで治療を」

と耳元で叫んだ。

力なくうなずくメイリンの瞳。


バスが出る。何人かの見送りの中にメイリン

はたたずんでいる。まだ夜は明けない。

バスは走り出し暗闇にゆっくりと消えていった。


たたずむ数人の人影。メイリンはその場に

紙包みを抱きしめたまま倒れこんだ。

人影がメイリンを支える。


本庄のバスは暗闇の中を上海へと疾走する。

途中救急車とすれ違った。本庄は時計を見る。

それはちょうど12月24日午前5時30分だった。


メイリンは紙包みを抱きしめたまま倒れこんだ。

「メイリン!」

知り合いの人影が叫ぶ。


次の到着バスの迎えに来たその人は、

あのワンタン屋のおばさんだった。


おばさんは紙包みをちらりと開けてびっくり。

すぐに包み隠し大声で叫んだ。

「この娘は私の親戚だ。誰か救急車を!」

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