第4話ラフスケッチ
声をかけると奥から女の人の返事があった。
出てきたのは40歳くらいのおかみさん。
本庄は手で髪を切るしぐさをして笑みながら、
「ハオア?」(いいですか?)
「ニン、リーベン、ナ?」(日本の方?)
「トイ、そうです」
本庄はカメラとスケッチブックをソファーに置くと
ゆっくりと椅子に座った。おかみさんはじっと
スケッチブックを見つめている。
「あなたは画家か?」
「いえいえ趣味で描いているだけです」
手早く白布がかぶせられ霧吹きで髪に水がかけられ
バリカンが鳴った。はさみに入っておかみさんは急に、
「私の主人は画家だった。これは主人が描いた私の絵」
そう言ってはさみの手を止めて壁に貼ってある
数枚の絵を指差した。
なるほど壁には髪型のサンプルよろしく
おかみさんの絵が貼ってある。
本庄は1枚1枚表情と髪型をじっと眺めて。
「うまい、実にお上手です」
おかみさんは微笑みながらマスクをつけて
髭剃りに入った。首すそ、耳元、眉間、
まぶたとかみそりが這う。
鼻の下から頬、あご、のどとかみそりがすばやく這う。
何度も指の面で滑らかさが確認される。
本庄は口元で微笑んで眼を開けた。
「さあ、洗髪」
おかみさんは洗顔台に本庄の頭を押し込み
ごしごしと洗い始めた。
あーすっきりした。綺麗に洗ってもらって全部で10元
(150円)最高だ。おかみさんは10元受け取ると
スケッチブックをちょっと見ていいかとたずねてきた。
本庄はソファーに座っておかみさんに
スケッチブックを開いて見せた。
おかみさんは本庄の横に座って
1枚1枚うなずきながらめくっている。
「何故人物がないの?」
「人物は苦手です」
「私を描いて?」
「いやいや、とてもとても」
最初は冗談かと本庄は笑って断っていたが
おかみさんは真剣な眼差しになって
両手を合わせた。
「お願いします。今に私を
1枚だけ描いてください。
・・・・お願いします」
本庄はじっとその瞳の奥に引き寄せられた。
執念が見える。この人は真剣だ。
よし描いてみよう。本庄はそう決心した。
スケッチブックをめくり4Bの鉛筆を
取り出す。すばやいタッチでデッサンが
始まった。瞬く間に出来上がる。
太いダイナミックな曲線だ。
1枚仕上がったところでおかみさんが姿勢を崩しかけた。
「そのままで、じっとして」
本庄の一言におかみさんの体はこわばった。
「硬くならないで、微笑んで」
少しやわらかくはなったが本庄は真剣な眼差しで
もう1枚をすばやく描く。激しいタッチで
それもすぐに仕上がった。
「できた!」
本庄とおかみさんはここで始めて微笑んだ。
同じ日付を両方に裏書する。
『2006.12.24。朱家角』
「OK。どちらがいいですか?」
おかみさんは見比べてはじめの1枚を選んだ。
「はい、じゃあこちらを記念に持って帰ります」
「ほんとにありがとうございました」
おかみさんの瞳は潤んでいた。
「来年来れたら又来ます。それじゃあ」
と言って出ようとした時1枚の写真が目に入った。
「これは?」
「私の一人娘。今上海の看護学校にいます」
「よく似てますね。かわいい」
「ありがとう。また来年」
「ええ、来年また」
と言って二人は微笑んで別れた。
ホテルはすぐそこだ。昼前にチェックアウトして
朱家角に別れを告げた。
帰りの黄海も穏やかだった。船の中でスケッチブック
を開いてみる。最初のタッチと同じ場所でも相当違いがある。
早朝の放生橋からの景観は格別の出来だった。
あとあの理髪店のおかみさんの肖像画。
激しいタッチで息づいている。あの時の瞳の奥の突き上げる
ような情念に本庄は初めて人物を描いてみようと思った。
できればもっともっとこの瞳の奥を描いてみたい
という欲求がふつふつと湧き上がってきていた。
『よし、来年も必ず行こう。
人物も真剣に挑戦してみよう』
船の中で本庄は決意を新たにした。
冬の京都は観光客は少ない。嵐山で小さな民芸品店を
営んでいる本庄は妻を亡くして5年、両親も子どもも無く
天涯孤独の身である。
唯一の友人が画廊を経営していて、その奥さんからの紹介で
水彩の会に入った。面倒見のいい奥さんでうらやましい限りだ。
本庄は年が明けて梅の頃に画廊を訪ねた。友人は渡仏中で
奥さんが1人画廊の奥に座っていた。
「まあ、おひさしぶり」
「あの、ちょっと相談したいことが・・・」
「ええ、なんでしょうか?」
「こんど、人物画をやりたいんですが」
「まあ、本庄さん。裸婦?」
「いえいえ、肖像画。それも全身ではなくて顔のみの人物画を」
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