第2話北大街
翌日今にも雨が降りそうな曇天だったが、
一応かさとスケッチブックを持って石畳を川辺に向かう。
このあたりの石畳は比較的新しいらしく
大きな石が半円形に整然と敷かれている。
道幅は5mくらい。それでも清の時代の初期のものだそうだ。
川に近づくにつれて道幅は2m程に狭まり
路地に古風な民家が連なってくる。
路地裏は未舗装で井戸や今にも崩れそうな土壁、
木造平屋が垣間見える。
おばあさんが子守をしてたり、おじいさん達が
古びた人民服を着て将棋をしていたりする。
観光客には誰も見向きもしない。
昔のままの生活の場なのだ。若者達は?
せめて中年のおばさんたちの姿は?
と思ったら、北大街に入るとたくさんいた。
路地の突き当りが幅20m程の川掘りで、
ほとんど流れはない。放生橋という明代に造られた
堂々としたアーチ型の石橋がかかっている。
この石橋の右手に船着場があって、数隻の木船に
客待ち顔のおじさんたちがたむろしている。
12月はシーズンオフなので客はほとんどいない。
石橋の中央に立つとなるほどすばらしい
水郷そのものの面持ちだ。
『これは絵になる』
本庄は一瞬そう思ったが、それはすぐに打ち消された。
次々とビニール袋をぶら下げて金魚売のおばさんたちが
声をかけてくる。亀や果物を持ったおばあさんもいる。
とてもゆっくりとながめてなどいられない。
放生、すなわち生き物を大自然に解き放つ橋らしい。
これは早朝に来るしかないなと思いつつ橋の中央
から戻って下りた。橋の左手から北大街が始まる。
北大街は一線街とも明清街ともいわれ。明清時代の
町並みが2kmほどびっしりと川辺に沿ってつづいている。
道幅は2mほどの石畳で両側に間口3m程の
二階建て木造家屋が店舗として軒を連ねている。
当時の雰囲気のままの絹織物店、ふとん店、米屋、酒屋。
何軒かおきに茶店や食堂があり有名なレイ肉も食べられる。
民芸品店も多い。立ち止まれば一応声をかけはするが
あまりしつこくはない。
鍋のふたに彫り物の実演をしていた。じっと見とれる。
視線を意識してか作者は製作に熱がこもる。
食堂で小休止。ワンタンを注文する。
人のよさそうなおばさんが特大餃子が8個
も入ったそれこそ特大の器を運んできた。
「リーベン?」(日本?)
「トイ」(そうです)
「ハンサムリーベンレン」(男前日本人)
おばさんは屈託のない笑顔でお世辞を言う。
8元(120円)を支払った。
日中戦争の時にはこの地方も大変だったとは思うが、
中国の田舎の庶民は皆穏やかな気がする。
中国風とでも言うか大陸風とでも言うか、
そこが韓国や日本とは一番違う所か?それとも、
それは表面だけのことか?もっと深入りして
中国人民の日本観や歴史観を探索してみたいとは思うのだが。
いずこも同じお人よしの田舎の庶民だった。
本庄はいくつかの橋を渡った。かなりの石橋が架かっており
資料によれば石橋の数は36、明清代の建造物は
1000棟を超えるとある。
北大街を離れると木造民家が連なり日常生活が営まれている。
冬でも江南はそう寒くはない。井戸で洗濯をしたり
川辺で野菜を洗う人がいる。
10数軒おきに川に路地が接していて小さな石橋が架かっている。
向こう岸も石畳で木造民家が密集していて時折店舗があったりする。
城皇廟のあたりから雨が降り出してもとの放生橋へ戻る。
傘を差しこの橋を渡って課植園へと向かう。
1kmほど運河沿いを歩く。
石畳が途中から広くなり運河に面して散策道になっている。
民家はこの堀の道に沿って広めの木造平屋がつづいている。
立ち止まってよく見ると、
『明代建築様式』と書いてあったりして、
中をのぞくとおじいちゃんと孫とが遊んでいたりする。
運河幅は放生橋付近よりはすこぶる狭く10mもない。
木船がようやくすれ違えるほどの幅だ。
時折観光客を乗せたゴンドラ風の木船が通り過ぎる。
魚売りの船におばさんたちが群がっている。
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