回想 後悔と不安と脱走への思い『超重戦車E-100Ⅱの戦い 前編 マムートの初陣 第4話』

■4月27日(金曜日) ブランデンブルク市の大学病院


 僕は、敵にも、味方にも、出会わないように隠れながら夜通し歩いて、途中で紛(まぎ)れ込んだ避難民の列と共に辿(たど)り着いた防衛陣地の検問(けんもん)は、シュパンダウでの戦闘状況の説明や、此処(ここ)まで来る間にソ連車を見ていない事を話すと通過させてくれた。

 どうにか入れたブランデングルク市の市街地区は多数の防衛拠点が構築(こうちく)されていて、取り敢えず、敵の脅威(きょうい)と死の恐怖から逃れたと、安堵(あんど)する事ができた。

 検問所で教えられた市内の場所で、配(くば)られている炊(た)き出しを貰(もら)う列を見て、クルクルと元気に回るくらい喜(よろこ)んだ。

 全身の力が抜けて、其(そ)の場にヘタリ込むくらい安堵する気持に、僕は吐瀉物(としゃぶつ)と胃酸が粘膜を傷付けてヒリヒリと痛み、何度も唾(つば)を吐(は)いて紛らわしていた喉(のど)が、カサカサに渇(かわ)いて水を欲(ほっ)しているのと、とても、お腹(なか)が減(へ)っているのを知った。

 喜び勇(いさ)んで列へ並ぼうとした時、漂(ただよ)う自分の臭さに気付いた僕は、シュパンダウで漏(も)らしていた便と尿の事を思い出した。

 取り敢(あ)えず、炊き出しの配給の受け取りは後回しにして、飲み水を得て身奇麗(みぎれい)にする洗濯(せんたく)ができる水場(みずば)を求(もと)めて、幾つもの通りを探し歩いた。しかし、爆撃を受けた街の通りには蛇口(じゃぐち)が有っても断水で、何処(どこ)も水は出ていなかった。

 爆撃の被害が少ない施設を探し回って、漸(ようや)く見付けた小さな教会の噴水(ふんすい)で、僕は全身と着ていた衣服の全(すべ)てと靴(くつ)を其の冷たい水で洗(あら)い、特にズボンと下着と靴を凍(こご)えながらも念入(ねんい)りに洗った。

 洗って絞(しぼ)っただけの全然乾(かわ)いていない冷たい衣服を我慢(がまん)して無理矢理(むりやり)着てから、振り捲(ま)くって雫(しずく)を切った短い編(あ)み上げブーツを履(は)く。

 洗い立てで着込んだ下着や、シャツや、上下の制服と靴下にブーツが、ぐっしょりと冷たく湿気(しけ)ていて米神がズキズキと痛むくらい気持が悪かったけれど、まだ、残る体力で汗(あせ)ばむまで走り回って火照(ほて)った体温で温(あたた)めた。

 大きな教会の竈場(かまどば)と3台の野戦炊飯(すいはん)車がフル稼働(かどう)して、炊事兵達が忙(いそが)しく働(はたら)く炊き出し場で、食器の無い事を告(つ)げると、色が殆(ほとん)ど剥(は)げて変形した飯盒(はんごう)に大きく凹(へこ)んだ水筒(すいとう)、それと曲がったスプーンとフォークが与えられて配給の列に並ばされた。

 大勢の人達が取り囲んで暖(だん)を取るキャンプファイアーのような焚(た)き火(び)の近くに座(すわ)り、年輩(ねんぱい)の炊事兵が成長期の子供だからと、少し多めに入れてくれた歯ごたえが乏(とぼ)しいデミブラスソース味のスープのようなシチューを噛(か)み締め、水筒に満たした香(かお)りだけはする極薄味(ごくうすあじ)の苦(にが)い代用コーヒーを流し込みながら、これからを考えた。

 1週間以内に、此処も強力なソ連戦車軍団が攻めるだろう。

 それまで、炊き出しで食い繋(つな)いで、降伏する守備隊と共に捕虜になっても構(かま)わないと思っていた。でも、きっとまた、降伏に至(いた)る前に生き残っているヒトラー・ユーゲントで戦車猟兵(りょうへい)班が編成(へんせい)されて、僕は再(ふたた)び、ファストパトローネを握(にぎ)らされるだろう。

 『敵戦車に命中させて2輌を撃破しました。他に、1輌を、石造りのアパートを崩して完全に産めて遣りました』などと、得意顔で報告していたら、僕は班長にされて、それこそ、防衛ラインの死守どころか、ファストパトローネを2本持たされて突撃か、積極的な敵陣への肉迫攻撃で敵の装甲車輌を狩(か)る事になって、もう、絶望的に逃げ口が無くなってしまう。

《そんなのは……、勘弁(かんべん)してくれぇ……》

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 普通は飯盒の半分も入れてくれないシチューが、毎回の配給で8分目まで入れられて喜んでいる僕は、これが餞別(せんべつ)代りだと察(さっ)していた。

 シュパンダウの大通りの戦闘から、僕達ヒトラー・ユーゲントは使い捨ての消耗品だと理解していた。

 本来、徴兵される年齢は成人になる20歳で、戦時でも半減された軍事訓練期間を経て正規の軍人として、各部隊へ配属される。

 戦況が悪化して18歳で徴兵(ちょうへい)されても、ヒトラー・ユーゲントを経(へ)た少年兵として正規兵となる。だけど、学業半ばで成長途中の14歳や15歳で召集(しょうしゅう)された僕達は、予備役兵以下の国民兵として、防衛戦に特化した極短期間の訓練で最前線へ投入されている。

 再(ふたた)び僕はファストパトローネを持たされて、何処(どこ)か近くの街角(まちかど)で敵戦車を待ち構(かま)える事になるだろう。

 其処(そこ)で僕は敵戦車狩りのベテランとして、これから初戦闘の少年達に猛砲撃に耐(た)えて敵戦車を撃破する極意(ごくい)を僅(わず)かな時間で教え込んで遣(や)るのだ。

 今、両手で抱(かか)えて旨(うま)そうな匂(にお)いを嗅(か)いでいる此(こ)のシチューは、それまでの選別代わりの配給だ。

(……しっかりと嚙(か)み締(し)めて、味わって食べてやろう……)

 防衛戦に特化した訓練とは、個人で携行できる範囲で最大限の破壊力が有る兵器を使いこなして、敵兵と交戦する練習で、兵器は大口径の砲弾に等(ひと)しいファストパトローネだが、たった1発しか撃てず、それに、有効射程は100mに満たない僅(わず)か80mの近距離だった。

 スポーツ競技の短距離走で全力疾走すれば、14、5秒で走り抜けれる近さで、ライフル射撃の大会では、どの男子も、狙(ねら)う人型の標的を外(はず)しはしない。

 最前線の塹壕でファストパトローネを構え、迫り来る敵戦車へ80mで発射する。

 撃ち終えても、次に装填する弾頭は無く、自分の武装は丸腰に近いヒトラー・ユーゲントの短剣のみとなってしまい、塹壕から飛び出て突撃しようが、踵(きびす)を返して後へ逃げ出そうが、損害への報復の怒りを露(あら)わにする敵兵に忽(たちま)ち撃ち倒される。そして、恐怖に震えて塹壕の底に蹲っていても、遣って来た敵兵の銃剣で串刺(くしざ)しになるだけだ。

 ただ、極少数の運の良い少年が、慈悲深(じひぶか)い敵兵に掴(つか)み上げられるか、蹴(け)り出されるかで、捕虜になるだけだろう。そして、捕らえられた少年兵がどうなるのか、誰(だれ)も分かっていなかった。

 故に、ベルリン防衛戦に投入された若年のヒトラー・ユーゲント達は、初弾で敵軍に損害を与えるだけの、生還を見込まれていない、1度っ切り、1発っ切りの最前線戦闘で、一人(ひとり)以上の敵兵を殺す為だけの消耗品だった。

 ソ連軍が迫って来ると号令が掛けられ、若(わか)くて俊敏(しゅんびん)な僕は、最前線の最前列へ連れて行かれる。

 其処で、自分が隠れる塹壕を掘り、其の中でファストパトローネを握り締めて、敵が射程距離内へ入るのを待つ。そして、次こそ、僕は突破(とっぱ)しようとする敵戦車と刺し違えてしまう。

 敵が迫って来るのを見ただけで、後方に展開して援護(えんご)してくれるはずの国民突撃隊の年配者達は、ヒトラー・ユーゲントの僕達を見捨てて散り散りに逃げていると思う。

 敵戦車を狩(か)ったりでもしたら、捕虜にはされずに射殺(しゃさつ)される。

 もう誰も、僕を救(すく)ってくれはしないだろう。

 ソ連軍に蹂躙(じゅうりん)されるシュパンダウ地区から逃げ延びれたのは、偶然(ぐうぜん)に幸運が続いただけだ。

 ファストパトローネが命中して大爆発した2輌目の敵戦車からは、脱出する乗員を見ていない。

 確(たし)か、85㎜砲を搭載する大型砲塔のT34戦車の搭乗員は5名だと、月刊(げっかん)の軍事情報誌に載(の)っていた記事で読んだが、炎上させた1輌目も数名が脱出しただけで全員じゃなかった。

 崩落した石造りのアパートに完全に埋まった3輌目の乗員達は、救出されたのだろうか?

 崩れるアパートの瓦礫に潰されたり、狙い澄ましたファストパトローネの炸裂(さくれつ)に噴(ふ)き飛ばされた敵兵は、何人いたのだろう?

 それらは全部、怒りに任(まか)せた僕が、たった一人で行った残酷(ざんこく)な結果だった。そして、それが敵の前進を阻んで停めた。

 僕の仲間を傷付けて殺し、僕も殺したい敵兵は、僕を殺そうとする時まで、僕は出遭った事も無くて知らない。

 個人的な、恨(うら)みも無いし、個人的に怨(うら)まれてもいなかったと思う。

 非情の殺し合いをする敵の括(くく)りでなければ、僕達は異国(いこく)の友人として親交を結(むす)べていたかも知れなかった。でも、『今は敵だ!』。

 怯(おび)える僕は何もしないで、ただ窪(くぼ)みの底で震(ふる)えながら蹲(うずくま)っているだけだったら、圧(の)し掛かる敵戦車の重みと動きで崩(くず)れる塹壕が僕を生き埋めにしていたか、塹壕の上から僕を見下ろす敵兵が持つ、短機関銃の連射を浴(あ)びて死んでいたはずだ。そして今頃は、魂(たましい)の抜けた無反応で冷たい僕の身体が、ベルリン郊外の荒地に掘られた大きな穴の縁(ふち)に堆(うずたか)く詰まれた多くのドイツ人の骸(むくろ)の中で、穴底へ落とされて埋められるのを待っている。

 とても慈悲深い敵兵ならば、怯えて泣き腫(は)らした顔で無抵抗な僕を塹壕の底から引き摺(ず)り出して、幸運にも捕虜にしてくれたかも知れない。だが、そんな事は極(きわ)めて稀(まれ)で、怖さに緊張して暴発(ぼうはつ)行動をしかねない言葉の違う敵兵に期待は出来ない。

 あの時、敵兵達が武器を置いて握手(あくしゅ)を求めて来たら、そして、僕達がファストパトローネ捨てて、笑顔で歩(あゆ)み寄ったら、誰も死なずに盛(も)り上がる宴(うたげ)を催(もよお)せていたのだろうか?

 しかし、其の理想を実際に実行するのは、非常に難(むずか)しい。

 互いの多くが、それを望んでも、生死を分ける天秤(てんびん)が死に傾く緊迫(きんぱく)した状況の狭隘(きょうあい)な思考に、たった一人の思いを異(こと)にする奴が、武器を手放さずに引き金を引く。

 現実に仲間達は殺され、僕は茫然自失(ぼうぜんじしつ)で逃げ惑(まど)い、住んでいた街は荒廃(こうはい)し、僕達の楽しい生活は奪われた。

 だから、ブランデングルク市へ共産主義のソ連兵達が遣って来る前に、僅かでも食い物を蓄(たくわ)えて、一(いち)、二日(ふつか)だけ隠れながら歩けば着くと思う距離のエルベ川まで行き、そして、夜の闇(やみ)に紛れて川を渡り、既に、西岸まで到達しているはずのアメリカ兵に投降したい。と、深刻(しんこく)に考えた。

 炊き出し場と避難民の登録所になっている広い敷地(しきち)の大きな教会は、これまた広い庭に囲まれて多くの病棟が建ち並ぶ、大学の医学部も入っているらしい大きな病院と隣接(りんせつ)している。

 国際的に病院施設として認知(にんち)されているのか、アメリカ空軍の昼間爆撃やイギリス空軍の夜間爆撃に遭っていないようで、敷地内に崩れた建物や爆弾の炸裂痕(さくれつこん)も無かった。

 朝、昼、晩と配給許可の紙片を翳(かざ)して食事に有り付きながら、病院の前庭の隅(すみ)に植(う)わる樫(かし)の大木の下で夕方から降り出した雨を避けて、出来るだけ西方へ傷病兵を満載して行くトラックに乗ろうと、紛れ込むチャンスを伺(うかが)っていた。


つづく

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