突然の危機


 並木道を一人で歩いていると、懐かしい場所が目に入った。


 そこは、自宅から近いところにある、小さな公園。


 貴弘と、まだ仲の良い幼馴染だった小学生の頃、二人でよく一緒に遊んだ場所だった。


 私は、少しそこに立ち寄ってみることにした。


          *


 園内に入って、一つだけある、常夜灯の頼りない明かりに照らされたブランコに、私は腰を下ろした。



 このブランコに乗って、二人でよく押し合いっこをして遊んでたっけ……


 

 ブランコを少しだけ揺らして、その、ギーコ、ギーコという音に懐かしさを感じながら、私は、過去に思いを巡らせた。



 戻れない過去を思い返すには、色褪せた思い出に頼るしかないけれど、それらは、ともすると、どこかへ消えていってしまいそうなくらいに、儚い。


 これ以上増えることのない、貴弘との思い出。


 貴弘が、また前みたいにピアノを弾けるようになれば、その関係も、前みたいに戻るのかもしれない。


 だけど、私の胸に生まれた、そんな淡い期待は、貴弘自身の口から突き付けられた冷たい言葉によって、消し飛ばされてしまった。



 私には、貴弘と、前みたいに楽しく会話することは、二度とできない。



 戻れない過去と同じように、その関係が戻ることもない。



 だけど、それは私自身が招いたことなんだ。



 私には、もうその資格がない。



 罪を背負った私にできるのは、貴弘の右手が、もう一度、ピアノを弾けるようになるくらいまで快復することを願うだけ。



 そうすることで、決して消えることのない罪を、少しずつでも償っていくことだけなんだ。




「瑞貴ちゃ~ん」



 私が、ブランコを小さく揺らしながら顔を俯かせていると、誰かに声をかけられた。


 顔を上げると、公園の入口に、一人の男の人が立っていた。


 その姿に、見覚えがあった。


 逆立たせた短髪で、左腕にタトゥーを入れていて、ごついシルバーのアクセサリーを、指や手首に幾つも嵌めている。


 今日、カフェでウェイトレスのバイトをしていた時、私が、うっかり足を躓かせて、珈琲を服に零してしまった男の人だった。


 私が、頭を下げながら謝った時は、優しそうな笑顔を浮かべていたけど、今、その男の人が浮かべているのは、へらへらとした、感じの悪い笑みだった。




「瑞貴ちゃ~ん、今日のお昼は、どうもお世話になりました~」


 感じの良かったしゃべり方も、甘ったるくて馴れ馴れしい口調に変わっている。


「いえ……、こちらこそ……」


 怯えを感じたけれど、それを、なるべく表情に表さない様にしながら答えた。


「俺、瑞貴ちゃんに珈琲零されちゃったでしょ? あの時着てた服って、俺の一番のお気に入りだったんだよね」


「え……でも、あの時は……」


「かわいい瑞貴ちゃんに免じて、許してあげよっかなー、ってあの時は思ったんだけどさ。俺、気が変わりやすい性質たちなんだよね。できれば、弁償してもらいたいんだよな~」


「弁償……ですか……」


「だけど、あの服ってビンテージものだったからさ。高校生の女の子が、簡単に弁償できる額とは思えないんだよね~。それに、同じものが見つかるかどうかも分からないしな~」


 言いながら、タトゥーの男の人は、私の傍に、じりじりと詰め寄って来た。


「どうしよっかな~。瑞貴ちゃんに、そのおいしそうな身体を使って返してもらおうかな~」


 と怯える私の全身を、舐めまわすように見る。



 私は、怖くてしょうがなくて、ただ、身を縮こまらせて震えるしかできないでいた。




「おい、やめろ」



 恐怖で頭が真っ白になりそうだった時、公園の入口の方から、誰かがそう言うのが聞こえた。




 涙を溜めた私の目に映った男の子。




 それは――貴弘だった。




「あん?」


 タトゥーの男の人が、顔を後ろに向ける。


「……お前、牧坂貴弘だな。幼馴染の瑞貴ちゃんを助けに来たってわけか。かっこいいねぇ」


 タトゥーの男の人は、不敵な笑みを貴弘に向けて、からかうように言った。貴弘のことを知っているみたいだ。でも、友達って感じじゃない。


「瑞貴から離れろよ、このトサカ頭」


「なっ……トサカ頭だって……?」


 そのトサカ頭は、貴弘の言葉に、不敵な笑みを崩して、表情を険しく歪めると、ズボンのポケットから、折り畳み式のナイフを取り出した。



 私は、悲鳴を上げて、助けを呼ぼうとした。


 だけど、恐怖で、声を出すことさえできない。



「今さら謝っても遅いぜ、貴弘君」


 トサカ頭は、言いざまに、ナイフの刃を出して、貴弘へと襲いかかった。


 振り下ろされるナイフの刃を、貴弘は、寸前で間一髪身を捩らせてかわした。


 けれど、すぐさまトサカ頭は、その振り下ろしたナイフの刃を右へと振るった。


「つっ!!」


 貴弘が、短く呻いた。


 その刃は、貴弘の、白い毛糸の手袋を嵌めた右手を、その上から切り裂いていた。


 傷を負った右手を、左手で押さえながら、貴弘が蹲る。


 傷口から流れ出る血が、白い毛糸の手袋を、徐々に赤く染め上げていく。



「どうだ? 地面に顔こすりつけながら、土下座でもするか?」


 余裕の笑みを浮かべながら、勝ち誇ったように貴弘を見下ろすトサカ頭。


「……誰がお前なんかに……」


 貴弘が、痛みを堪えながらも、トサカ頭を気丈に睨みつける。


「謝りたくないってんなら、それでもいいぜ。さて、どうやって料理して――いてっ!!」


 トサカ頭が、言葉を途切れさせて、短く叫んだ。



 貴弘は、何も抵抗していない。


 悲鳴を出せない私が、苦肉の策として、地面に転がっていた石ころを、トサカ頭めがけて投げつけたのだ。


 やけっぱちで出た行動だったけれど、私の投げた石ころは、見事に、トサカ頭の後頭部を直撃していた。


 運動音痴を自他ともに認める私にとって、それは、奇跡だった。



 その隙を見て、それまで蹲っていた貴弘が、すっ、と立ち上がると、新しい傷を負ったばかりのその右手で、頭を抱えて痛みに呻くトサカ頭の頬を、力一杯殴った。


「ぐあっ!!!」


 不意打ちを喰らって、短く叫びながら、地面に倒されるトサカ頭。


 貴弘は、その手から零れ落ちたナイフを、すばやく左手で拾い上げると、


「まだやるか?」


 その刃先を、トサカ頭の眼前に突き付けながら、凄んだ。



「ちくしょう……くそガキが、調子に乗りやがって……覚えてやがれ!」


 捨て台詞を残して、トサカ頭は、痛む頬をさすりながら、公園を出ていった。



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