本当の気持ち
「……大丈夫か?」
地面にへたり込んでいる私の傍に、貴弘が近寄って声をかけた。
「……怖かったけど、私は大丈夫」
答えてから、血で赤く染まった、白い毛糸の手袋を嵌めた右手を見ながら、
「貴弘の方こそ、右手が……」
「ただのかすり傷だよ。たいしたことない。結構痛むけどな」
貴弘は答えて、ブランコに腰を下ろした。
「貴弘、右手見せて。応急処置してあげるから」
私は、バッグの中から、ハンカチと生理用品を取り出して、貴弘が差し出した右手の、血で染まった手袋を外してから、それらを、その傷口に巻いて止血した。
これは、あの五年前の事故の後に覚えた、応急処置だ。
あの事故が遭った時、私が、適切な応急処置を知っていたら、違う結果になったかもしれない、と悔やんで、それで取り返しがつくわけじゃないけど、二度とあんな過ちが起きないようにって、ウェブサイトで色々と調べて覚えたやり方。
「……ありがとな」
応急処置を終えた私に、貴弘がお礼を言う。
「応急処置はしておいたけど、すぐに病院に行って、医者に診てもらった方がいいよ。血もだいぶ流れてるみたいだし……」
「大丈夫だって。かすり傷みたいなもんだったろ? このままにしておけば、すぐに塞がるって」
「ほんとに大丈夫なの? せっかく治りかけてる右手が、また動かなくなるようなことになるんじゃない?」
「なんだ、お前そのこと知ってたのか」
「小野田先生が、そのことを教えてくれたんだ。貴弘が、また前みたいに、ピアノを弾けるようになるかもしれないって」
「そっか、聞いてたのか」
「うん」
貴弘は、その右手を見つめながら、
「感覚は、もうほとんど戻ってるよ。まだリハビリは続けないといけないけど、『あと半年もすれば完治するだろう』って医者も言ってる」
「そうなんだ。よかった……でも、無理はしない方がいいよ。私を助けてくれるためにそうしてくれたのは分かるけれど、その右手で力一杯殴ってたし……」
「俺は右利きだからな。あの事故に遭ってから、左手も器用に使えるようにはなったけど、とっさの時には、どうしても右手が先に出ちまうんだよ」
貴弘は答えてから、決まりが悪そうに目を逸らしながら、
「……こないだは悪かったな。お前に酷いこと言って……」
「ううん」
私は、ぶんぶんと首を左右に振った。
「貴弘がピアノを弾けなくなったのは、私のせいなんだから。ああ言われても仕方がないよ」
「そのことで、俺、今からお前の家に行って、話をしようとしてたんだよ。俺の親たちが、俺がまだ小学生にもなっていないガキだった頃、離婚したことは知ってるだろ?」
「うん、知ってる……色々と大変だったんだよね」
そう答えながら、貴弘の隣のブランコに、腰を下ろした。
「その後俺は、母さんに引き取られた。母さんは、俺のことを、女手一人で苦労して育ててくれてさ。いつか俺が、プロのピアノ奏者になって、華やかな舞台に立つことだけを生きがいに、仕事と家事の両立を頑張ってくれてたんだ。それが、あんなことになって、俺が、ピアノ弾けなくなっただろ? それで、やり場のない悔しさを、お前一人にぶつけちまったんだろうな。実は、あの時、見舞いに来てくれたお前に母さんが言ったことは、嘘だったんだ」
「そう……だったんだ………」
私は今でも、貴弘のお母さんから、あの言葉を言われた時のことを、しっかりと覚えている。
貴弘が、もう二度と私と会いたくないと言っている、と伝えられた言葉。
忘れようとしても、忘れられない辛い記憶の一つ。
確かに、あの時の貴弘のお母さんは、表情は優しく微笑んでいるみたいだったけど、私に向ける眼には、憎しみのようなものがこもっているような気がしたのも、事実だった。
「俺はお前とは、できれば、あんな事故のことなんか気にしないで、前と同じような付き合いを続けたかったんだ。だけど、母さんを苦しめるようなこともしたくなかった。それで、この五年間、お前のことを無視するような、冷たい態度ばかり取っちまった。ごめんな、今頃になってほんとのことしゃべって」
「ううん。悪いのは私だったんだから、貴弘が謝ることじゃないよ。お母さんの気持ちも分かるし。この前、私にあんなこと言ったのは、そのお母さんのことを思ってだったんだ」
「……いや、あれはそうじゃないんだ」
貴弘が、ふと表情を翳らせた。
「違うの? じゃあ、なんで……」
「あんなこと言ったのはな……一年くらい前――去年の六月頃に、俺宛てに届いた脅迫状が原因だったんだ」
「脅迫状!?」
思いがけない事実に、思わず声を上擦らせてしまった。
「『お前だけを幸せにはさせない。鈴川瑞貴とよりを戻して、昔みたいに、楽しく付き合おうだなんて考えるなよ。お前は、俺と同じ様に、孤独でいるべきなんだ。もし、この忠告を無視するようだったら、お前の全てを奪ってやるからな』――送られてきた脅迫状には、そう書かれていたんだ」
「そんなことが……」
どう言葉を返していいか分からない。まさか、そんなことになっていたなんて……
「俺はその頃、いいかげんお前を無視するのが辛くなって来てて、母さんを裏切るような真似になるかもしれないけど、お前と仲直りしようって考えるようになってたんだけど、その脅迫状を読んで、怖くなっちまってな。結局そうすることができずにずるずる先延ばししちまって、この前なんかは、お前と仲直りするどころか、あんな酷いことまで言っちまった」
「気にしないでよ。それは、私を危険から遠ざけようとしてくれたからなんでしょ? だけど、そんな脅迫状なんて、誰が出したの? 何か心当たりはない?」
「分からない……ただ、俺が、学校とか家にいる時を写した写真なんかも同封されててさ。ただのいたずらとは思えなかったんだ」
「それって、完全なストーカー行為じゃない……警察にはもう届けたの?」
「『警察に届けたりしたら、お前の母親を殺す』――なんてことまで書かれててさ。それで、どうすることもできずに、これまで誰にも話せずにいたんだよ」
「殺すだなんて……ひどい……」
普段大人しい私だけれど、その誰か分からない卑怯な相手に、怒りを感じずにはいられなかった。
「だけど、もうそんな脅しにびくびくしながら生活するのは、嫌なんだ。さっき警察に届けも出して来た。そしたら、しばらく俺の家の近くで張り込みをして、怪しいやつがいないか見張っておいてあげるから、君は安心して生活しなさい、ってことだった。マジな脅しだったとしても、警察がそうしてくれるんなら安心だよ。俺もバカだな。うじうじ一人で悩んでないで、早くこうすれば良かったよ」
「そうだったんだ。それなら、お母さんのことも安心だね」
そう聞いて、不安な気持ちが安らいだ。警察が動いてくれるんだったら、安全なはずだ。
「ああ。今まで悪かったな。母さんのためって言っても、お前を無視して酷いこと言ったりして。勝手なこと言うみたいだけど、また、前みたいに、仲の良い幼馴染に戻らせてくれないか?」
「それは、こっちからお願いしたいくらいだよ」
答えてから、零れそうになる涙をぐっと堪えた。
それは、あの時とは違う。
悲しみの涙じゃない、嬉しさから溢れようとする涙――
「ほんとか?」
「うん」
私は、涙が溢れようとするのを誤魔化すように、目一杯の笑顔を浮かべながら、大きく頷いた。
「ありがとな。それじゃあ、瑞貴」
「なに?」
「お礼に、俺が押してやるから、しっかりつかまってろよ」
「そう、ありがと……って、えっ!?」
突然の申し出に、思わず動揺する。
「昔よく、二人でそうして遊んだろ?」
「いいよ……私達、もう高校生なんだよ?」
照れながら答えたけれど、
「恥ずかしがるなよ」
そう言うと、貴弘は、私の背後に回り、私の背中を押した。
ブランコが、ゆっくりと前後する。
揺られながら、恥ずかしいっていう気持ちもあるけれど、それ以上に、嬉しい気持ちで一杯だった。
ようやく、貴弘と仲直りすることができた。
こうやって、ブランコにゆっくりと揺られていると、戻せないと思っていた時間が、あの頃に戻ったみたいに思えてくる。
貴弘は、私の背中を押して、ブランコをゆっくりと揺らしながら、
「そう言えば、正樹のやつが立てた、夏休みの旅行のことだけどさ。お前、用事があるから行けないんだってな」
「え……? えっと……あれはね、実はそうじゃないんだ」
そう言えば、そういうことになっているんだった。
「あれは、私と貴弘が仲直りするために、麻衣が立ててくれた計画で――」
私はその事情を、貴弘に打ち明けた。
「――そういうことだったのか。麻衣のやつ、相変わらず、悪知恵だけは働きやがるな。でも、だったら、一緒に旅行できるってことだよな」
「うん」
「それじゃあ、話すこともできなかった、この五年間の分を取り戻せるくらい、楽しい思いで作ろうな」
「うん。今から楽しみだね」
「そうだな」
貴弘は返してから、私の背中を押さえて、ブランコが揺れるのを止めると、
「それじゃあ、そろそろ帰るか。もう満足しただろ?」
からかうように言われて、私は頬を膨らませながら、
「……私別に、ブランコ押してくれだなんて、一言も頼んでませんからっ!」
その後私達は、五年前、まだ小学生だった頃――仲の良い幼馴染だった頃みたいに、肩を並べて楽しく会話しながら帰路に就いた。
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