遥かなる深淵 ③

サトコは、アリアと遭遇してから体調が悪かった。

昨日突然現れた、黒須という死神に記憶を取り戻してもらい、共に戦った頃の記憶が鮮明に蘇ってきた。


そうした理由は、分かっていた。

彼女は、アリアの脅威から私を守る為に、あえて記憶を抜いたのだと…



今日もサトコは工場に出勤すると、ガラス張りの検査室に行き、いつもどおり部品の検品作業をしていた。一つ一つの部品に汚れや傷がないか欠けてる物がないか、顕微鏡で隈なくチェックしていく。チェックし仕分けるチェックし仕分けるの繰り返し…。自分は一人でやる仕事が向いていると自覚しているが、ガラス張りの向こうから職場の人が皆共同で複雑な作業をしていた。


サトコは仕事の物覚えや理解力に時間がかかり、手先も不器用だ。また、コミニケーションや新ししい作業が大の苦手だった。他の同僚や後から入社した者達は、サトコよりずっと先を進んでおり、先輩や周りとも打ち解けていた。そういう自分より2歩3歩前進した者達の光景を仕事の時や休憩の時に見ると、胸に釘が突き刺さる様な感覚を覚えてしまうのだ。サトコは冴えない鈍臭い空気のような存在になってしまっていた。


しばらくすると、鉛のような焦げ臭い匂いが辺りを充満していた。


サトコの顔はは徐々に浅黒くなり、身体に鉛のようなものが無数に突然巻き付いてきた。その無数の手のような物は、煙の中から出現している。サトコは悲鳴を上げた。

すると、煙の中から人影が出現した。

「お前…霊障にかかっている。」

目の前には黒須が制服着て腕を組んで立っていた。

「え…?」

黒須の突然のその言葉にサトコは頭を混乱していた。

「…黒須、その制服は…?」

「上から情報を操作してもらったんだよ。私はここの社員と言う事になっている。それより、あんた、いつからこの症状が出たんだ…?」

「確か…アリアと遭遇した時…」

「分かった。お前、これは念の為に持っとけ…」

黒須はそう言うと、サトコに銃を手渡した。

「く、黒須…そ、それ、本物だよね…」

それはどこからどう見てもなんの変哲のない銃であった。ドラマや映画でしか見た事のない代物である。初めて生で見て手に取る銃はずっしり重みがあり、しっかり研磨されていた。こんな物が職場内に持ち込まれるのなんて、周りに知られたら…そう思い、サトコは恐怖で油汗をかいた。

「大丈夫だよ。周りにその銃は見えない。機械も反応しないから。」

「…え、でも、ちゃんとこうして触れてるし、重みだってあるし…」

サトコは、わなわな震えている。

「だって、ほら。貸してみ?」

黒須はサトコの手から銃を取ると、中を検査室の中から外に向かって、大袈裟に掲げて見せた。

「黒須、駄目だよ!」

サトコは慌てて黒須を制するが、社員の者は訝しがり黒須を凝視するが、首を傾げるだけで元の作業に戻った。

「あれ?」

「これで分かったろ?向こうは私が銃を引くパントマイムか怪しい動きをしている様にしか見えないのさ。コレは、組織が造った特注品で『サジタリウス』って言うのさ。あ、予備に2丁持っとけ。」

黒須は、得意げに話すと、ズボンのポケットから銃を取り出し、サトコに2丁手渡した。何処からどう見ても、ごく普通の銃だがー。

すると、黒須のポケットの通信機が鳴った。

「悪い。仕事の話しだ。」

黒須は、検査室のドアを閉めるとその場を去った。



休憩の時間になり、サトコはいつものベンチで一息入れていた。ここは裏庭で、穴場スポットとなっており、ほとんどいつも誰も来ない。木の葉が風に揺られながらザワザワ葉音を立てていた。雀がピーピー唄っていた。自分も、このまま自然の一部として溶けてしまいたいくらいだ。


「サトコ…」

ふと、後方から甘い聞き覚えのある声を耳にし、サトコは振り返る。

セーラー服を着たサエコが木陰に隠れていた。

亜麻色のロングヘアーに懐かしい制服…白い肌に笑うと出来るエクボ…目の前の少女は、間違いなくサエコのようだった。

「こんにちは」

「さ、サエコ…?」

サエコは確か死んだ筈だが、でも今はそれがどうでも良い様に感じた。寧ろ、嬉しかった。

「…ううん。ちょっと違うかな…私はアリア。」

アリアは髪をクルクル回して、キョトンとしている。その済ました感じがサエコと瓜二つで、見ていて胸の中がざわざわ掻き乱された。

「アリア…?何で、死んだ筈じゃ…」

「私はね…特殊な造りになっててね、魂が沢山あるの…だから何度私の首を斬っても無駄。でも、あの時は流石にダメージ大きかったな…魂一気に3つも失うなんて…」

アリアはクスリと笑った。

「…で、私に何の用なの…?」

アリアはポケットに忍ばせたサジタリウスを構えると、ゆっくり引き金を引く。

「無駄無駄…こんな子供の玩具で私は」

アリアが嘲笑った。

サトコはその言葉を無視し、引き金を引き抜く。球はアリアの額に命中した。すると、アリアの額から煙が湧き出て、硫黄のような焦げ臭い匂いが辺りに充満した。このパンが焦げ臭くなった様な不快な匂いに、サトコは目眩を覚えた。すると、アリアの身体から霧が発生し、サトコはその場から逃げようとした。軽く後ろを振り向くと、アリアの両腕が木の幹の様にぐにゃぐにゃ硬く伸びた。それがサトコの身体にまとわり付こうとする。

サトコは悲鳴を上げてサジタリウスを放つが、何度連射しても、アリアの身体に飲み込まれてしまう…

「な、な、何で…?」

サトコは瞳孔を不安定に揺らしながらアリアを見ていた。アリアは、無言で不気味にほほ笑んだ。


サトコは膝をガクガク揺らしながら、2丁のサジタリウスを構えた。それは負け戦だと分かっていても、武器を下ろすことは出来なかった。

「仔犬は何でよく吼えるか分かる?怯えているからよ。小さくて無垢でか弱い存在…自分の弱さをひたすら押さえ込んで強い相手を威嚇するの…力では到底敵わないのに…」

アリアは、優しげに微笑んだ。

「貴方は昔からホントに弱かった。だから私が守るしかなかったのよ。」

アリアの肌は徐々に樹木のような褐色色になり、目が紅く光った。そして、アリアは、サトコ目掛けて突進してくる。

「ーやめ…!」

サトコはサジタリウスを放つ。サジタリウスから放たれた球は、ロケット花火の様水色の眩い光を放ちながら、アリアの額に命中した。ーと、アリアの動きはピタリと止まり、再び硫黄の匂いが充満した。サトコはそのすきにその場から逃げると、仕事場へとダッシュした。



サトコは仕事中ずっと身体がダルかった。さっきのアリアに遭遇したからだろう。


業務終了のチャイムが鳴ると、打刻し更衣室に向かう。更衣室では、社員達が世間話で盛り上がっていた。他人の話の何処がそんなに楽しいのだろうか…?サトコは目的のない雑談が苦手だった。こんなに脈絡のない下らない話をして、自分に何かメリットがあるとも思えないと、感じていたのだ。サトコは、自分の人生をメリットデメリットで考える事が多かった。その合理的な思考は、幼少期の悲惨な家庭環境にあるからだろう。親に愛を求めて生きてきたが、それは見事に裏切られ、次第に合理的で冷徹な思考をするようになってしまった。また、他人と自分との間にいつも分厚いフィルムで隔たりがあるようでもあった。今はまで色んな人から裏切られ、周りを不幸にもしていった。だったら、自分は一人で平和に生きていきたい。


仕事が終わり、サトコは駐輪場に停めてある自転車の前に行くと、黒須の姿を確認した。黒須から渡された通信機を取り出し、電話してみる事にした。しかし、何度も電話しても繋がらないー。サトコは諦めて自転車を漕ぎだした。


サトコの心は空っぽだ。キラキラした風景はサトコの空になった心には、既に響かず薄汚れた劣等感ですら感じなくなってしまったのだ。サトコは冷徹に世界を傍観していた。無色透明の無味無臭な世界ー。サトコは無感情に自転車を漕ぎ続け、そして施設についた。施設の門の前には漆黒のベンツが停まっており、中から黒須が姿を現した。

 「サトコ、悪い…用事が手こずり過ぎてて…」

黒須は、私服に着替えており、後部座席には例の案山子が小さく収まっていた。

「何処で何してたの?」

サトコは、漠然と他人事の様に尋ねた。

「仕事が入った。これから大急ぎで現地へ向かう。」

黒須の息は荒かった。よっぽど重大な事なのだろうかー?

「…私も行ったほうがいい?」

サトコは、渋々尋ねた。次いでに、今日起きた事を話そうと思ったのだ。

「…ああ。私があんたの記憶を戻したのは、あんたの霊障に関わる事だからだ。このままじゃあんたの魂はすり減り、やがて枯れ果てるか化け物のようになってしまう…。あんたが救われる方法は、ただ一つー。戦い力をつけ、アリアに対抗出来る様になる事だ。」

黒須の目は鋭く尖っていた。

「どうやって、戦うの…?私、まともに銃を扱った事ないのに…」

サトコは不安げに尋ねた。今まで、格闘技どころかまともにスポーツをできた試しがない。唯一の取り柄がバランス感覚だった。

「しばらくあんたは私の指示だけで動いていればいい。あと、あんたに札を貼っとくから。ごめん。時間だ。」

黒須は矢継ぎ早に話す。サトコは自転車を停めに行き、そのまま助手席について乗り込んだ。

「行くぞ。」

黒須はそう言い、アクセルをめいいっぱい踏み込んだ。

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