第3話 11/4 お題『バレンタイン』


 214という数字の並びは不吉だ。

 2の1の4。2の14。

 2月の、14番目の、日。またの名をバレンタインデー。お菓子メーカーの汚職と策略に汚れた日。男性社会に冷酷な階級の線引きがなされ、差別が公然となる日。上層民は笑い、下層民が泣く日。薄っぺらな愛が蔓延る日。

 僕の人生においてバレンタインデーが華やかだったことは一度たりともない。小学生の時も中学生の時も、僕の2月14日はチョコレートではなく鼻水と涙でコーティングされてきた。小学生のある時には本命チョコ友チョコどころか、気前の良い女子がクラスにばらまく義理チョコすらもらえなかった。中学時代には好きな子が本命を渡す場面に遭遇した。その日の帰路で泣きながら食べた板チョコの味は今でも忘れない。高校一年生の時は見栄を張って登校中に買ったチョコを友だちに見せびらかした。でも食べ終わった後の虚無感が苦しくてもうやらないと誓った。これまでの人生、甘さよりも塩辛さの方が強いバレンタインデーばかりを経験してきたのだ。

 それなのに。

 今朝、冷たい手を擦りながら開けた下駄箱に可愛らしい包装の小箱が一つ。

 心臓が止まるかと思った。訪れた全身の震えはきっと寒さのせいではない。

 恐る恐る手にした小箱は、いかにもバレンタインバレンタインした真っ赤なラッピングで、真ん中に金のリボンが蝶を描いていた。リボンの間に挟まれていた小さな紙には。

『代々木くんへ』

と、可愛らしい丸文字で記されていた。

 心臓の鼓動は加速度的に増していく。指先が箱に触れた瞬間、僕は直感した。これはチョコレートだ。それも市販品ではない。小分けにされた一口大の手作りチョコが恐らく六つ。それぞれ味や色合いが違う。開けてもいないのに、食べてもいないのに、僕の脳は瞬時に小箱の中身をほとんど確信を持って想像した。

 それからはっと我に返り、チョコをリュックサックの中にしまう。他の連中に見つかれば、からかわれるのは間違いなしだ。チャックが閉じているのを確認してから、僕は背負い直し、何の気なしに近くを歩いている男子生徒に挨拶をした。

「おはよう!」

「あ、おはようございます」

 三年生と思しき真面目そうなその生徒は、僕を奇妙な目で一瞥し、学校指定のバッグにストラップを揺らしながら去っていった。

 頬を叩き、昇降口を見渡して自分の通う高校であることを確認し、夢でないことを叫び出したい自分の感情を必死に抑えつけた。

 その日、214が僕にとって初めて幸福な数字となった。

 登校早々にそんな出来事があったせいで、僕は午前中上の空だった。

 まず1限目の教室を間違えた。

 クラス分けがされている数学の授業で、僕のクラスはいつも特別教室を使う。今日はその特別教室が諸事情によって使えないため、別の教室に変更していたのだ。それをすっかり忘れていた。かつてないほどのやる気を抱いて皆を待っていると、いつの間にか始業時間を10分も過ぎていた。大慌てで正しい教室に入り込めば、盛り上がっていた皆の会話がピタリと止んで全ての視線が僕に注がれた。しかし遅刻をした気まずさや、やる気が空回りした悲しさなど気にならなかった。

 今日は僕にとって最良の日だからだ。

 4限目には黒板に書いた問題の答えが全部間違っていた。しかも桁違いのかなり派手な間違いだったから、クラス中から笑われるという失態。いつもならは恥ずかしさで死にたくなるだろう。でも気にしなかった。

 今日は僕の歴史に革命が起きた日だからだ。

 しかし上の空だったのは、チョコをもらったからだけではない。

 送り主がわからなかったからだ。

 一体どこの誰が僕にチョコをくれたのだろう。初めは人間違いかとも思ったが、紙には僕の名前がはっきりと書かれていた。つまりあのチョコレートは間違いなく僕に送られたもの。だが肝心の送り主の名前がない。

 午前の授業中、僕はぼーっと教室を見渡しながらこの中に送り主がいるだろうかと考えたりもした。指先は教科書を捲りつつも、頭は僕にチョコレートをくれそうな女子の一覧表を作るのに余念がなかった。

 半興奮上の空状態で午前を乗り切って、昼休み。

 僕はリュックから弁当と、そしてチョコレートを取りだして机の上に並べた。人生初のバレンタインチョコレート。デザートがある昼食などいつぶりだろうか。真っ先にチョコの箱を開けてみたい衝動に駆られつつも弁当の風呂敷を解いていると、

「代々木っち、もしかしてこれチョコ?」

「あっ、おい」

 横から小箱を掻っ攫われた。仲の良い3人の男子が物珍しそうに僕とそして手元の小箱とを見比べながら顔を見合わせて笑い合っている。

「こら返せ」

「誰から? 誰からもらったの?」

「うるさい。大体何でお前らがここにいるんだ」

「教えろよ〜」

「いいから」

「教えたら返してあげる〜」

 チョコは僕を翻弄するように男子の手から手へとパスされる。今すぐ張り倒したい気持ちを我慢しながら僕は努めて冷静に言った。

「からかうのもいい加減にしてくれ」

 しかし3人は余計に面白がって止めない。怒鳴ってやろうかと思った矢先。

「コラ!」

 鋭く、凛とした声が一喝。振り返った3人の男子は慌ててチョコを僕の机に戻し、声の主に苦笑いを返した。

「先生をからかわない! 先生には敬語! わかったか!」

 教科書とプリント束が入ったクリアファイルを抱えた渋谷先生が、厳しい目で3人を睨んでいた。

「は、はい。すいません」

「よろしい。教室に戻りなさい」

 最後は優しく言い、顎で職員室の入り口を差す。数秒前まで威勢のよかった男子生徒たちはすっかり肩を縮めながら僕の机を去っていった。

「ありがとうございます、助かりました」

「いえ、気にしないでください。代々木先生」

 そう言って渋谷先生は微笑んだ。僕と2歳しか年の違わない若くて美人な先生だというのに、纏っているオーラは生徒に畏怖の念を抱かせるほどの貫録に満ちている。

 他愛のない会話を二言三言交わし、渋谷先生の去り際に僕は見た。

 彼女が手にしたクリアファイルに挟まっていたメモ用紙は、あのチョコレートの小箱に添えられていた一枚と同じものだった。

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