第2話 11/2 お題『深海』

 海の底というのは余りに陰気くさくて耐えられない。

 人魚姫は常日頃からそう思っていた。

 光は届かないし、視界は悪いし、岩だらけだし、魚は不細工だし。これが浅瀬の底みたいな都会ならまだマシだ。珊瑚の谷や海藻の森はとても美しく、水面から差し込んでくる太陽の光でいつも明るい。魚たちどころか貝たちですら身なりが整ってて皆華やかだ。弱肉強食は少し過酷だそうだけれど、何てことはない。食べられなければいいだけの話。それに人魚姫は海の食物連鎖で頂点に立っているのだ。まず食べられることはない。恐れるべきはサメくらいで、あとは優雅な生活が保障されている。そんな都会での生活を夢に描いたことは二度や三度じゃ数え足りない。その度に周囲を見渡しては、かけ離れた景色に落胆してきた。ここが自分の場所。無理矢理言い聞かせて夢を夢と割り切りながら、諦めと一緒に生きてきた。

 そんなある日のことだった。

 地元の成魚たちが『深海のグレートバリアリーフ』と主張する辛気くさい通りを泳いでいると、人魚姫は突然見たこともないような眩しい光が視界の隅を横切ったのに気がついた。反射的に岩陰に身を隠す。気色の悪いぬめりがある岩肌を掴んで、光の方へ少しだけ顔を出してみて、心臓がひっくり返るくらい驚愕した。

 潜水艇だ。

 水を飲んで、手で口元を覆った。

 初めて見た。驚きすぎて言葉がすぐには生まれてこなかった。ぬめりも気にせず岩にしがみつき、人魚姫ゆっくりと目の前を横切っていく潜水艇に目を輝かせた。

 とうとう私の住む場所にも潜水艇が来る日が来たのだ。人魚姫の歓喜の泡は、どれだけ口元を押さえても途絶えることを知らなかった。隣町の子が何ヶ月か前に自慢げに言っていた。

 「私の町に潜水艇が来たの! もうこれで田舎じゃないわ!」

 あの時は随分と悔しい思いをした。深海というど田舎で互いに田舎具合を比べるのもバカバカしいが、どうしたって生き物は上下関係を作りたがる。私の町はあのこの町より田舎。遠回しにそう言われたのだ。

 しかし、もうその悔しさは海底の藻屑と消えた。この町にも潜水艇が来た。つまり田舎具合はちょっと減った。何せ海の外から人間がやってきたのだ。浅瀬の底ですら田舎に見えるような華々しい地上の人間が。

 人魚姫は目を見開いて、のんびりと海底を進む潜水艇の姿を、頭に刻み込んで消さないつもりで凝視した。

 丸みを帯びた白いボディは魚型で、前頭部に透明な物質──ガラスと言うらしい──で囲われた操縦席が付いていて、すぼまった尻の部分で小さなスクリューが音もなく海底の田舎くさい泥砂を巻き上げている。腹の辺りからは二本の腕が伸び、まるで本物の人間の腕のように滑らかに辺りを探っていた。

 次第に離れていく潜水艇を、しかし人魚姫はそのまま見送ってしまいたくなかった。岩の影に隠れながら、必死にその魅力的な白いボディを追った。どれくらい追っただろうか。随分と長い時間が経っていた。徐々に潜水艇に馴れ始めた人魚姫には、一つの興味が湧いた。それは実に勇気のいるものだった。

 潜水艇に乗っている人間を見てみたいと思ったのだ。

 人魚姫は泡を抑えて潜水艇の腹の下に潜り込むと、そのボディを慎重に触りながらガラスの操縦席を覗き込んだ。

 男が2人乗っていた。その片方に、人魚姫は恋をした。精悍な顔つきと、高い鼻と、真っ直ぐな瞳を目にし、人魚姫は自分の鱗に電流が走るのを感じた。

 しばらくして地上へと帰っていく潜水艇を見送った人魚姫は、ほんのわずかの間に一大決心を固めていた。

 あの男にもう一度会う。

 だが次にいつ潜水艇がこんなど田舎の海底に来るか分からない。それに仮に明日潜水艇がやってきたとしても、そこにあの男が乗っているとは限らない。

 翌日。人魚姫は尾びれを乱しながら海底を全速力で泳ぎ、深海人魚魔女の家を訊ねた。

「魔女さん! 魔女さん!」

 岩の扉を必死で叩くと、草臥れた顔で初老の人魚が出てきた。

「なんだいね人魚姫。ああ、そうかい。人間に恋をしてしまったのかい」

 深海人魚魔女は深海人魚魔女を名乗るだけあって、用件を言う前に人魚姫の願いを察し、家の中へと招き入れた。

「本当に人間に会いたいのかいね?」

「そうよ! どうしても!」

「あんな男、どこがいいのかいね。わしにはてんでわからんよ。あの程度、深海にもうじゃうじゃいるだろうにさ」

「いないわ! 深海の男はみんな根暗で辛気くさくて、隅っこと底がお似合いの陰キャばっかよ」

「そうかいそうかい。そこまで言うかいな。まあわしも昔は乙女だった。お前の気持ちもわかるよさ。いいだろう。人間に会えるよう、取りはからってやろうさ」

 そう言うと、魔女は人魚姫を自宅の裏庭に案内した。毒々しく歪な形をした海藻だらけの荒れ果てた庭だ。深海ここに極まれりといった光景に思わず人魚姫は顔をしかめる。

「これさ」

 庭の真ん中に置かれた奇妙な木樽を撫で、魔女は言った。

「これに乗れば二秒で海面に出ることが出来る」

「ホントに!? 乗るわ!」

「まあ待ていて。その姿で地上に行くつもりかいね?」

 人魚姫の美しい魚の下半身に視線を落とし、魔女は首を振る。

「そのままでは無理さ。きもがられる」

「きもがられる……どうすれば?」

「ワシが昔使っていた魔法の薬を飲むといい。"アシハエール"という三日間だけ人間になれる薬だ」

「ホントに!? 飲むわ!」

 魔女から差し出された小瓶を、人魚姫は躊躇いもせず飲んだ。恐ろしくまずかった。実に形容しがたいまずさだ。喉が痺れ、歯茎が鈍痛を感じ、鼻の奥に響くような、耐え難いまずさだ。しかし耐えた。あの人間の男に会うためなら何にだって耐えられる気がした。

「足は?」

「大丈夫さね。すぐに生えてくる。さあ、樽にお乗り」

 木の腐った樽の中に身を沈め、ぬめぬめする内壁に出来る限り触らないようにしながら人魚姫は魔女の合図を待った。

「いくよ。五秒前。四、三、二、一」

 鱗が振動で震えた。人魚姫の心も震えていた。巻き上がる砂と泡の嵐に身をさらしながら、頭は希望に満ちた地上の光景を思い描いて止まない。美しい太陽の輝きの下で、白い砂浜に肩を並べた自分とあの男の姿。遠い水平線の果てを見て、海の底にほんのわずかな懐かしさを抱きながら潮騒に耳を傾ける。隣町のあの子も、浅瀬の魚たちも、まだ誰も見たことのない、経験したことのない夢の世界。

 身体がふわりと海中に浮き、次の瞬間樽の内底が人魚姫を弾き出す。分厚い一万メートルの恋の壁を、人魚姫は想いと勢いで打ち破っていく。魔女の言葉通りきっかり二秒後、人魚姫の頭は海面を飛び出た。そのまま宙へと放り出される。下半身はしなやかで細い人間の足へと変わっていた。憧れていた白い砂浜と傾きかけた太陽が、海底からやってきた無垢な少女を歓迎していた。あとはあの男を探すだけ。人魚姫は最大限の喜びを叫んだ。

「やったわ! 私はこれか──」

 人魚姫は破裂した。

 深海一万メートルから二秒で地上に飛び出して、身体が耐えきれるはずもなかったのだ。人魚姫の美しい陶器のような身体は水圧の変化に膨らみ、皮と肉になって海面に飛び散った。そして都会の魚の餌になった。






「──花火?」

 防波堤に腰掛けた男は、水平線の彼方に沈んでいく夕日をノスタルジックな思いで見ていた。

「どうしたの?」

 同じように隣に腰掛けていた女が恋人の突然の言葉に、横顔を覗き込む。

「いや、何か今、花火みたいなものが見えた気がして」

「そう? 私には何も見えなかったけど」

「気のせいかな?」

「気のせいよ。ここ最近ずーっと潜水艇に乗ってたんでしょ? 疲れてるのよ」

「そうだな」

 男はそう言って笑うと、ゆっくり倒れてきた恋人の肩を優しく抱いた。

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