ワンライ

桜田一門

第1話 11/1お題『夜空』

  1ヶ月温めたメッセージの画面を開いたまま、僕はベランダに出た。しんとした冬の夜風が薄いスウェットの中を泳ぎ、思わず半纏の襟元を引き寄せる。吐く息は白く、吸う息は身体の中を透明にしていくような冷たさだ。裸足に冷えたサンダルを引っ掛け、ベランダの手摺りに寄りかかって、濃紺の夜空を見上げる。日付も越えない都会の空は、地上に並び立つビルの明かりに照らされてまだ夜に染まりきっていない。星の白い瞬きよりも、航空誘導灯の赤い瞬きが空の主役だった。

 僕は右手に古い型の携帯電話を握りしめ、目を細めて小さな星を探した。数秒夜空に泳いだ彷徨った目が、やがて空の隅に仄光るそれを見つけた。

 ピロリンパッポ星。そういう名前らしい。

 行ったことはない。教科書で見かけたこともない。友人は誰も知らない。分厚い天文学の専門書にも載っていない。でも確かに空に光っている。

 僕はピロリンパッポ星人とメールのやり取りをしていた。

 始まりは24年程前。僕が高校生の時だ。携帯に一通のメールが届いた。当時既に廃れ始めていながらも、辛抱強く使い続けていた旧式の二つ折り携帯電話だ。周囲はスマートフォンへと鞍替えを始め、巷にはメッセージアプリが流行し、メールなんて言葉も聞かなくなった頃だった。長々と書き連ねられた、短編小説一編分はあろうかというメールの文章を、何故か僕は読んだ。普段なら三行以上の文章は読まないのに。きっと翌日の数学のテストのために遅くまで起きていたせいだろう。空腹に当てられると人間嫌いな食べ物でも美味しそうに食べる。無機質な数式に悲鳴を上げていた僕の脳味噌は、久しぶりに目にした文章をまるでご馳走であるかのように誤解した。

 メールには到底現実とは思いがたい不可思議な事実が綴られていた。

 送り主の名前はオリンポープペルンピラルパということ。地球から三光年離れた惑星に住んでいること。惑星の名前はピロリンパッポということ。ピロリンパッポの暮らしがつまらないのでイリョンパップ惑星外通信サービスを利用してメールをしていること。リャオリャリャリャプルの翻訳サービスが優秀なのでどんな言語でもやり取りが出来ること。109歳の女の子であること。趣味はパラリラロで、特技はローポポポピアとリャンリョーリィリュンであること。近所のリョーレリョルリィルがリュレリョルルルルリッポでプリリパルポレルピなこと。最近はペロリンポラッププイリリリーにはまっていて特にそのローポポポピアが素晴らしいこと。

 そんな内容だった。

 正直僕には何が何だか分からなかった。だけど読んだ。そして自分でも未だに信じられないのだが、返事を書いた。自分の名前、地球のこと、日本のこと、趣味、特技。ついでにローポポピアとリャンリョーリィリュンとパラリラロとペロリンポラッププイリリリーについても聞いた。面白半分だった。僕の書いた返事はすぐに戻ってはこなかった。

 返事が届いたのは6年後のことだった。僕は大学4年生になっていた。

 あの時メールの届いた携帯電話は捨てずにとってあった。高校を卒業してから僕も晴れてスマートフォンデビューを果たしたが、その携帯電話は目覚まし時計として重宝していたのだ。

 二日酔いでやかましい脳内に響き渡った、目覚ましとは違う携帯の音。僕は携帯電話を開かずともそれが6年越しのメールだと確信した。誰からもその携帯にメールが届くはずもなかったのだ。最初のメールを受け取ってから返信するまで、きっと1時間もなかった。6年前のたった1時間の出来事を、僕は克明に覚えていた。

 相変わらずの長い文章は、今度は長編小説一本分くらいの文量があった。読んだ。3日かかった。本を読まない僕の習慣は大学に入っても改善されていなかったからだ。

 ローポポピアとリャンリョーリィリュンとパラリラロとペロリンポラッププイリリリーに対する疑問は氷解し、今度は僕が地球のことについて彼女──オリンポープペルンピラルパに教えてやる番だった。

 1週間かけて僕は文章を打って、メールを送り返した。きっとその時が人生で最も長い文章を書いた時だった。

 また6年後メールが届いた。今度もまた長い長い文章。僕は結婚していた。奧さんにもこの奇妙なメールのことを話し、一緒に文章を考えた。二人の写真を送ろうとしたけれど、何故か画像は添付できなかった。

 更に6年後。僕には小学生になろうとしている長男がいて、まもなく次女が生まれるという時だった。忙しくなってきた仕事の合間を縫って何十万字というメールを読んだ。1ヶ月かかった。六年遅れで「結婚おめでとう」と祝われた。僕と奧さんは結婚した当時を思い出して急に照れくさくなった。今度は息子も交えて三人でメールを考えた。

 更に6年後。次女にランドセルが似合うようになってきた頃、またメールが届いた。少し落ちてきた視力に四苦八苦しながら、家族四人でメールを読み、1ヶ月掛けて文面を考えた。そしてそれは今、僕の手の中にある。

 時々思う。いつか彼女に会ってみたいと。

 24年前から続く僕たちのメールのやり取りは、やはり何時考えても奇妙だ。僕は相手の顔も、声も、住んでいる星も、何も知らない。もしかすると足が八本あったり、顔が三つあったり、身長が三メートルあったりするような、僕たちの常識を遥かに逸脱した見た目をしているかも知れない。それでも構わない。僕たちには24年経っても、三光年隔てても途切れなかった絆がある。

 次のメールが届く頃には技術が発達して、宇宙旅行が出来るようになっていればいいと願いながら。いつかオリンポープペルンピラルパと僕たちでローポポポピアをやる日を夢見ながら。僕は夜空に見えるピロリンパッポ星に向けて固い送信ボタンを押す。

 メールは6年の旅に出る。それは遠くも、近くもある。

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