第19話 天使のように細心に、悪魔のように大胆に

 松里山公園の東側はちょっとした広場になっている。遊具などが置かれているわけでもない、寂しい区画。御堂魅冬はそこにあるベンチの一つに腰掛けて、どこかへ電話をかけている。


『――よぉ、あんたか。首尾は上々だぜ』

「……青桐。薔薇乃は上手くさらえたんだろうな?」


 電話の相手は、ブルーガイストの青桐和也。魅冬の共犯者である。


『ああ。なんてことない、簡単な仕事だった。まぁ、そこはあんたの計画のおかげか? 俺らはあんたが岸上を誘導する地点に車停めて待ってただけなんだからよ。あんたの狙い通り、護衛もついてなかったしな』

「……薔薇乃は今どうしている?」

『べつに何も。ロープで縛って別室に転がしてるが、静かなもんだ。抵抗したとこで無駄だとわかってるんだろうぜ。こうも大人しいと、少しつまらねぇけどな。ガキらしく泣いたり怯えたりするところを見せて欲しかったんだけどよ』


 電話を握る魅冬の表情が険しくなる。


「私がそっちに行くまでに、薔薇乃に少しでも手荒な真似してみろ。生まれてきたことを後悔させてやる」

『はっ、わかってるよ。打ち合わせの段階で散々言われたことだしな。安心しろ、怪我一つ負わせちゃいない。それにしても、難儀なもんだな? ここまでのことしておいて、今さら岸上の身の安全を心配するなんてよ。どうせ、身代金を奪ったら殺すんだろ? そういう計画だったもんなぁ?』

「黙れ。それ以上余計な口を利いたら殺すぞ」

『くくっ、わかったわかった。殺さないでくれ』


 まったく忌々しいやつだ、必要だから生かしてあるが、そうでなかったら既に十回は殺している。だが、それももうしばらくの辛抱だ。


「ところで……先ほど、ヴェガと名乗る女から電話があった。知っているな?」

『ああ、岸上薔薇乃を誘拐したってことを知らせた女だ。身代金の提示をしておく必要があったからな。だが、そいつがどうしてお前のとこに電話を?』

「どこから嗅ぎつけたかは知らないが、私のことを疑っているようで、これから会うことになった……だが、この際それはどうでもいい。証拠は何もない、薔薇乃の私兵一人に勘づかれた程度では、大した障害にもならん。問題は、その電話が亀井十香の携帯を使ってかけられてきたことだ」

『はぁ? 誰だそりゃ?』

「とぼけんなよ。テメー、金庫の鍵を狙ってカタギの人間を襲わせたらしいな? 亀井はそいつのことだ。薔薇乃が護衛のためにさっきの女……ヴェガを差し向けていたせいで、返り討ちにあったそうだが」

『ああ、そのことかよ。金髪と赤毛の女子高生二人組が鍵を持ってるって報告が上がってきたからよ、探して奪ってこいって命令した。その後どうなったかと思ってたが、なんだ失敗してたのかよ、使えねー奴らだ。……で、それがどうかしたか?』

「どうかしたか、じゃないッ!」


 魅冬は怒りを露わにする。


「勝手な真似をするなッ!! ナイツの混乱を誘えればそれでよかった。わざわざ行方知れずになった金庫の鍵を探す必要はないと、言ってあったはずだぞ!」

『ふーん、そうだったか? よく覚えてねぇなぁ』

「ふざけてんじゃねぇぞ……どういうつもりだ?」

『まぁまぁ、大目に見てくれよ。俺だっていざという時の備えが欲しかっただけなんだ』

「備え……だと?」

『岸上薔薇乃を誘拐して、ナイツから身代金をふんだくる。その後岸上を殺してお前はその後釜に座る。俺らは金を持って国外に逃亡、お前はそれをナイツに隠れて手伝う……それが今回の計画だったな。だが、こいつはお前に都合が良すぎる。岸上を殺した時点でお前が俺らを裏切って、ナイツの手勢を使えば俺らは簡単に皆殺しにされちまう。そうすりゃお前は身代金も取り返せて、岸上薔薇乃誅殺計画の秘密を知る者はこの世に誰もいなくなる。つまり、お前の完全な一人勝ちだな。俺はその可能性に気づいていたから、保険として鍵を持っておきたかった。金庫のダイヤは重要な取引に必要なんだろ? だったら俺がその鍵を見つけて、俺しか手の届かない場所に隠しちまえばひとまずの担保にはなる』


 こいつ……! 


「ふん……想像たくましいな。呆れて怒る気力も出ない」

『はっ、悪く思うなよ。これは自衛のためだ。俺はこの用心深さで今まで生き残ってきたからな。こうやってあんたに手の内を明かしたのも策のうちだ。この会話、始めのほうから録音させてもらっている。お前が俺らのことを裏切るそぶりを見せたら、これをナイツの本部に送りつけるぜ。そうすりゃお前も破滅だ』


 録音だと? 小賢しいハイエナが……! 手駒は手駒らしく、黙って従っていればいいものを……。


「……勝手にしろ。そんなことにはならない。約束くらい守ってやる」

『そうであってくれることを祈るぜ。あんたが余計なことしなけりゃ、こっちだって何もしないさ。――で、用件はそれだけか?』

「ああ」

『はっ、岸上と話をしなくてもいいのかよ? 大切なお友達なんだろ、ああ?』

「……いい。どうせすぐにそちらへ向かう。用事を済ませてからな」


 通話を終えると、魅冬はセーラー服のポケットから小さな棒付きのキャンディを取り出した。包装を剥がして口に入れると、すぐに噛み砕く。


 魅冬は苛立っていた。


 青桐が指摘したことは概ね合っている。魅冬は始めから、ブルーガイストを利用し尽くした後で切り捨てるつもりだった。薔薇乃を殺害した咎を全て背負わせて、消し去る……それがこの計画の核たる部分。事務所襲撃も、ナイツを一時的に混乱させるための布石に過ぎない。ブルーガイストの襲撃部隊が金庫と鍵の奪取を成功させれば最良、失敗したとしても、それはそれで充分ナイツの注意を引きつけられる。金庫の鍵が盗まれたのは予期せぬアクシデントだったが、いち早く所有者を見つけ出せたのは幸運だった。ブルーガイストに余計な手札を与えず、且つ、薔薇乃には鍵探しに注力し続けていてもらうためにも、亀井十香からの鍵奪取は内密に、一人で行う必要があった。そのためには、鍵の複製、薔薇乃を亀井に近づけさせないための策など――色々と準備が必要だったが、成功したと考えて良いだろう。意図していたわけではないが、それによって翠鷲の売人――瀬崎晋太郎という思わぬ獲物を釣り出すこともできた。


 しかし、青桐が言いつけを破って亀井十香に手を出したのは想定外だったと言わざるを得ない。計画の実行には、手駒が必要だった。それは、殺しもいとわない過激な集団であるほうが都合が良い。そこで夕桜に点在する組織の中からブルーガイストを選んだのだが、青桐の計算高さはもっと考慮に入れておくべきだったか……。


 だが、それもさしたる問題ではない。邪魔なのは青桐だけ……奴さえ消せばそれでいい。今後、そのチャンスはいくらでもある。


 心がざわついているのは、その時が近づいているからに他ならない。


 ――薔薇乃を殺す。他の誰でもない。自分自身の、この手で殺す。


 迷いはもうない。引き返すことはできない、しようとも思わない。


「薔薇乃……」


 小さく呟く。当然、それに応える者はいない。


 ここ数日、いったい何度、薔薇乃との記憶を振り返っただろう……。また私は、同じことをしている。


 まだ幼い頃、本社のほうで行われる組織の幹部会へ父に連れて行かれたことがある。薔薇乃と私は、そこで出会った。子どもが会議の場に交ざれるわけでもないから、仕方なく会場の外をうろうろしていたら、向こうのほうから声をかけてきてくれたのだ。私はその頃――今とは違って――どちらかというと内気なほうで、同年代の友達なんて一人もいなかったのだが、不思議と薔薇乃とはあっという間に仲良くなれたのだった。薔薇乃とはその日に初めて会ったというのに、別れるときには私は大泣きしていたくらいだ。


 今にして思えば、父は私を薔薇乃と引き合わせることで、彼女の父親とのパイプを作ろうとしていたのかもしれない。もっと素直に、「一人娘に友達を作る機会を与えてやりたかったのだろう」という考えもできなくはないが、私の親だから多分それはないだろう。それから二年だか三年後、父は休暇中に行った海で心臓発作を起こして溺れ死んでしまったが、薔薇乃との接点を作ってくれたことには今でも感謝している。組織の幹部だった父が死んでからも、私と薔薇乃との付き合いは続いた。


 あれは、中学一年の六月二十六日のことだ。今でも、あの日のことははっきり覚えている。


 薔薇乃は昔からああいう性格だったからか――本人に悪気はないんだろうが――、尊大だとか、他人を見下しているとか、そういう誤解を周囲から受けることがあった。薔薇乃は頭が良すぎたから、その妬みなどもあったんだろう。


 あの日もそうだった。学校で同級生の男子生徒がその友人に話していたのを、私と薔薇乃は偶然立ち聞きしていた。心ない誹謗中傷。薔薇乃は強い。いつもの薔薇乃ならそんなこと気にも留めなかっただろう。でも、その時だけは違った。というより、ある一言だけに反応したといったほうが正しいか。


 ――ほんと、まともじゃねぇよ。親にどう育てられたらああなるんだ?


 それを聞いて、ほんの一瞬だけ、薔薇乃がひどく悲しげな顔をしたのを私は見た。見て、それから……私は、気がついた時にはその男子の顔面に思いっきりパンチをくれてやっていた。男子はそのまま教室と廊下の間のガラスに頭からつっこんで……大事になってしまったっけ。その男子は頭を数針縫う怪我を負い、私も一ヶ月の出校停止処分となった。


 その後、私のことを心配して、わざわざ家まで薔薇乃が来てくれた。嬉しかったけど、薔薇乃に心配なんてかけたくないから、私は笑いながらこんなことを言った覚えがある。


 ――またなんかあったら、私に言えよ! お前にケンカ売ってくるやつは、全員ぶっ殺してやるから!


 薔薇乃はゆっくり首を横に振って言った。


 ――困りますよ、魅冬さん。わたくしのために怒っていただいたことは嬉しく思いますけど、やり過ぎです。そんなことでは、いつか身を滅ぼします。


 ――えー……なんだよなんだよ、もっと喜んでくれたっていいじゃん。私はお前のために……。


 ――それで魅冬さんの立場が危うくなるようなことがあっては、何の意味もありません。わたくしがナイツの長の座を父から奪い取るまで……いいえ、それから先もずっと。あなたにはわたくしを支え続けてもらわなくてはならないのですよ。あなた自身も、わたくしと同じくらい大切に扱ってくださらないと。


 薔薇乃が言ってくれたその言葉がなんだか無性に嬉しくて、私はにやけそうになるのを我慢しながら答えた。


 ――……わかった! たしかに薔薇乃の言うとおりだ。次から気をつけるよ。


 ――どうか、忘れないでください。あなたは、わたくしの半身。


 ――半身……。


 ――そう……いつ如何なる時も、二人は一緒でなければ。


 ――ははっ。二人が一緒なら、怖いものなど何もない……ってか?


 ――ふふ、そうでしょう?


 ――ああ、きっとそうさ。


 あの時に、私は改めて思った。ずっと、薔薇乃のそばにいよう。薔薇乃の邪魔をする奴がいたら、私は薔薇乃の剣でも銃にでも、ときには盾にだってなってやろう。私にとってこの世で最も大切な存在――それが薔薇乃だった。


 中学二年のときには、こんな話があった。雨宿りに薔薇乃と私の二人で映画館へ入ったのだ。古い映画のリバイバル上映。すっかり楽しんで、浮かれまくって……終わった後は映画の真似をして、降りしきる雨の中、二人で歌い踊りながら帰った。その翌日、二人とも風邪を引いた。今にして思えば、よくもまぁ、二人して馬鹿なことをやったものだ。


 中三のときには、二人で初めて大きな仕事を成功させた。レッドルームクラブという、莫大な利益を生み出す賭博場をぶんどったのだ。薔薇乃はヴァーミリオンセブンという支配者たちとの勝負に全勝してその新たな支配者の座についた。たしかに薔薇乃には優れた博才がある、だが、それだけで勝ちを拾い続けたわけではない。裏では私が入念な調査と根回しを行っていたわけだ。まず、勝負の度に毎回ランダムで決定されていたように見えた対戦方法だが、あれは実はヴァーミリオンセブン側の仕込みであり、相手の得意なゲームが選ばれることになっていた。だが、それさえ知ってしまえば、こちらはいくらでも準備ができる。対戦相手それぞれへの対策を立てる、観客の中に壁役を紛れ込ませる、ディーラーを買収する、その他盤外戦術の数々……相手はゲーム選びの時点で自分が優位な状況にあると思っているから、その隙をつくことは容易かったのだ。最後の勝負に勝ったその夜は、二人ともなにやら昂ぶってしまって、朝まで一緒に過ごした。


 薔薇乃との記憶、その全てが、私にとって何にも代えがたい。


 そして……半年前。薔薇乃は功績を認められて夕桜東支部の支部長に就き、私も幹部の一人となった。私はそれまでなんの疑いもなく薔薇乃についてきていた。それだけで満足していたし、楽しくもあった……と思う。だが、その頃から私は、なんだか胸にぽっかりと穴が空いたような、そんな「足りない感覚」に度々襲われるようになった。喉の乾きにも似た感覚だ。はじめは自分でもよくわからなかった、いったい、何が足りないのか。どうやったら、この乾きを潤すことができるのか。薔薇乃の補佐として仕事をしていても、なんだかつまらなく感じるようになって……そして、それまで考えたこともなかったようなことを考え始めるようになった。


 もしも薔薇乃がいなかったら、私はどこまでやれるだろう?


 薔薇乃と同じことが私にもできるだろうか?


 私と薔薇乃、どちらがより優れているんだろう?


 そうした疑問の数々は、やがて混ざり合い、一つの形を作るようになった。


 ――私はこの先ずっと、薔薇乃の影で終わるのか?


 私が薔薇乃に劣っているとは思わない。能力的には、私だって充分トップになれるはずだ。でも、薔薇乃がいる限り私にそのチャンスは巡ってこない。思えば、子どもの頃からずっとそんなことばかりだった気がする。先を行くのは、いつも薔薇乃のほうだった。私にとっても、それは当然のことで、疑問に思ったことなどなかった……その時までは。今まで気にしたこともなかったような一つ一つが、その日以来目につくようになって、それと同時に、私の中で生まれた黒い欲望は瞬く間に肥大化していった。


 ……嫌だ。なんで私じゃダメなの? 薔薇乃ばっかり、そんなのずるいよね?


 薔薇乃にできるなら、私にだってできるはずなんだ。私だって、王になれる。


 私は欲しい。薔薇乃の持っている全てが欲しい。


 ……私には、こんなんじゃ足りないんだよ、楽しくないんだよ、薔薇乃。足りないなら、奪うしかないでしょ?


 薔薇乃のことは今でも大好きだけど、仕方ないんだよ。そうしないと、私のこの乾きを潤すことができないから。


 ……だから、わかってくれるよね、薔薇乃?


 私のために、死んでくれ。

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 青桐との電話から四十分が経った。もう日は落ちかけて、夕闇が公園を飲み込もうとしている。そばに設置された街灯が明るくなったのとほぼ同時に、魅冬の携帯が鳴った。周囲を見張らせていたミズチからの連絡だ。


「来たか?」

『ああ、東側入り口から二人。両方とも女だ。一人は……手練れだな。気配でわかる』


 二人……すると、片方はヴェガだとして、もう一人は亀井か? 一人にして置いておくよりは、一緒に行動したほうが安全だと考えたわけか。それならそれで、都合が良い。


「殺せ。二人ともだ」

『いいのか、二人とも俺がやってしまって?』

「“クモ”はあくまで備えだ。お前だけで充分だろ?」

『無論だ』


 様子を見ることも考えたが、やめた。イレギュラーの要因になりかねない者を生かしておく理由もない。邪魔をするなら、殺すまでだ。


 やがて、入り口側から二人の女が歩いてくるのが見えた。セーラー服姿の赤毛の女が前を歩き、その少し後ろを灰色のジャケットを着たサイドポニーの女がついて行く。赤毛のほうには覚えがある。名前は志野美夜子。すると、後ろがヴェガという女か。


 ……なるほど。どうやって私の計画に感づいたのか、気になっていたが……そういうことか。


 魅冬はベンチに座りながら右手を上げて相手へ笑いかける、


「よぉ」


 それが合図だった。


 美夜子から見て左側後方、茂みの奥からナイフが三本、彼女へ向けて音もなく放たれる。


 ミズチのナイフには即効性の極めて強力な毒が塗られている。かすった時点で終わりだ。ただの女子高生である志野美夜子に、殺し屋の投げたナイフが避けられるはずもない。


「――ちッ!」


 ヴェガが弾けるように前へ飛び出して、ナイフの射線から美夜子を庇う。さすがに速い、美夜子はまだナイフの存在に気づいてさえいないだろう。――が、狙い通り。最初に撃ち落とすのはヴェガのほうだ。最初から美夜子を狙ってナイフを投げれば、ヴェガには躱すことができない。


 ――しかし。


 ヴェガの右手には、小型の武器が握られていた。鉤爪のように屈曲した刃は、カランビットと呼ばれるナイフのそれだ。ヴェガはそれを一振りにして、三本の投げナイフを一度に弾き落とす。不意打ちからの一瞬でこの反応――並大抵の技量ではない。


 だが、そこまでは計算内。


 ワンテンポ遅れてミズチの手から射出されていた、四本目のナイフがヴェガを襲う。隠し飛剣――複数のナイフに相手が気を取られたところへ追い撃つ必殺の一撃。ナイフはまっすぐヴェガの胸元へ飛ぶ。今度はナイフを弾く音は聞こえなかった。ヴェガの動きが止まる。


「やれやれ……手荒い歓迎だな?」


 ヴェガは左手に持った投げナイフをくるりと回す。キャッチしたのだ、飛んでくるナイフを、素手で。それも毒が塗られた刃先には触れぬよう、持ち手のほうだけを掴んで。圧倒的な反射神経と動体視力がなせる業だった。


 茂みから影が飛び出す。ミズチがヴェガへ近接戦を仕掛けにいったのだ。ヴェガは左手のナイフを相手へ投げ返す。ミズチはそれを右手に持った大振りのアーミーナイフで捌き、あっという間にヴェガとの間合いを詰める。


「……全然、ダメだ」


 ヴェガは呟くように言うと、ミズチの長い腕をもって突き出されたアーミーナイフを、その下へとくぐるように躱し――身体をねじって回転させつつ、瞬時に逆手に握り直した右手のカランビットナイフで、ミズチの左膝を――抉る。


「――それじゃあ、遅すぎる」


 カランビットの刃は、遠心力を利用して対象に鉤爪のように深く抉りこんでから引き裂く。左膝の血管と神経を切断されたミズチはうめき声を上げながら体勢を崩し――そこへヴェガがナイフでミズチの左肩を斬り上げ、最後に首筋へと刃を突き立てる。ミズチが地面に膝をついたときには、もう勝負は決していた。


「……怪我、してないか?」


 ヴェガはナイフを引き抜きながら美夜子へ声をかける。


「あ……うん。だい、じょうぶ……だけど」


 呆然としながらその光景を眺めていた美夜子は、少なからずショックを受けたようだった。あれほど凄絶な殺し合いを目の前で見たのだから、それも当然だろう。


「お見事。大したものだ」


 魅冬はポケットから新しい棒つきキャンディを取り出しつつ言う。


「Bクラスのヒットマンで、そこそこ値が張ったんだが……それを瞬殺してくれるとはね。それと……」


 キャンディをくわえて、今度は美夜子のほうへ向かって言う。


「志野……お前か? 私の計画を見抜いたのは?」


 美夜子はまっすぐ魅冬を見据える。緊張してはいるようだが、目に怯えの色は見えない。思ったより根性はあるようだ。


「そういうことだ」


 ヴェガが代わりに答える。美夜子へ後ろへ下がっておくよう目で指示すると、魅冬へ向かって一歩前へ出る。


「今の仕打ちで確信した。御堂魅冬。お前がブルーガイストと内通し、二つの事務所を襲わせ、さらには岸上薔薇乃を誘拐させた犯人……だな? 観念しろ。もうお前を守ってくれる奴はいないぞ」


 魅冬は不快そうに眉をひそめる。


「……殺し屋風情が。偉そうな口を叩くなよ」

「殺し屋はもう廃業した」

「はっ! ぬかせ。今のが殺し屋の業でないのならなんだと言うんだ」


 Bクラスのミズチをああも簡単に返り討ちにするとは、Sとまではいかなくとも、Aクラス……それもかなり上位のヒットマンに違いない。そのレベルの殺し屋なら、あらかた記憶しているはずだが。ヴェガ……たしかそんな名前のやつが……。


「――ああ、そうか! 思い出した。知っているぞ。『桜花(おうか)』の女ナイフ使い……《血塗れ織姫(ブラッディ・ヴェガ)》、お前のことだったか」


 薔薇乃のやつめ……私に内緒で、とんだ隠し球を用意していたものだ。


 一年前までこの夕桜に存在した、香港マフィアの流れを汲む『華炎同盟(かえんどうめい)』という組織。その組織が擁する、特殊戦闘集団――いわゆる暗殺部隊というやつが『桜花』だった。華炎同盟は組織としては極めて過激な性格で、組織拡大のためテロまがいの行為を繰り返していた。それを危険視したナイツと伏王会の共同作戦によって一年前に壊滅させられたのだ。桜花に属しておりそのうち生き残った何人かは、ナイツと伏王会にヒットマンとして雇われたと聞いている。その一人が、こんなところにいたとは。


「殺し屋じゃないなら、今はなんだ? 薔薇乃の私兵か? 肩書きを変えただけで、それも似たようなものだろう」


 ヴェガは鋭い眼光で魅冬を睨みつける。


「……今、そんなことはどうでもいい」


 魅冬は薄く笑って、ヴェガへ言う。


「そうだ。お前、私の元で働け。お前の上司である薔薇乃は死ぬぞ」

「……なに?」

「私が殺す。その後は私が引き継ぐ。組織も、人も、金も、全てだ。あいつの力を全て奪って、私が王になる。今のうちに鞍替えしておくのはどうだ?」

「ふざけるなッ!!」


 ヴェガは激昂する。ナイフを魅冬へ向け、


「妄言も大概にしておくんだな、酔っ払いが! それ以上私と私のボスを侮辱するなら……ぶち殺すぞッ!!」


 間断なく突き刺してくるような殺気――修羅場には慣れているつもりだったが、Aクラスの殺し屋が相手となると、さすがに冷や汗が滲む。


「……大した自信だな、お前にできるのか?」


 魅冬は更に挑発するように言う。ヴェガは好戦的な笑みを浮かべて、


「試してみるか? 貴様がまばたきする間にその首をはね飛ばすことくらい、容易いぞッ!」

「くくっ、あはは!」魅冬は高笑いをして、「いーや。やめておく。超一流レベルの殺し屋に、その領分で勝てるはずもない。私は、私の武器を使わせてもらう」

「武器だと……?」

「バーーカ。私がどうしてわざわざこの場所を選んでお前らを呼んだか、少しは考えなかったのか?」

「――ッ!?」


 ヴェガは何かに気づいて、慌てたように周囲を見回す。


「わかったようだな。このあたりには高いビルが多い。そして公園のこのエリアは比較的開けていて、木々が邪魔になることもない」

「狙撃手か……!」

「ご名答。私が危害を加えられそうになるか、あるいは私が合図をすれば、私の雇ったもう一人の殺し屋がお前らを殺す」


 最初は保険のつもりだったが、思いがけない形で役に立つものだ。ミズチと同じく、Bクラスのヒットマンを既にビル屋上に配置済みである。通称『雲(クモ)』、高所からの狙撃を得意とするからクモ。狙撃の合図は、左手を肩より高く上げること。


「ははっ、どーする? お前はその気になれば避けられるかもしれんが、志野はそうもいかないだろ? ライフルの弾丸も弾き落とすか? 無理だよなぁ?」


 近くに遮蔽物のない場所だ、美夜子を庇いつつ逃げるのは不可能だろう。ヴェガは舌打ちをする。


「チッ……ならなぜ、さっさと撃たせない?」

「ただの脅しだと疑っているのか? やめておけ、怪我じゃ済まんぞ。まぁせっかくだから、お前らを殺すのは少し話をしてからでも遅くはないと思ってね」


 魅冬はベンチを立ち上がって、美夜子のほうへ歩み寄る。魅冬は美夜子を上から見下ろすようにして言う。


「教えてもらおう。私は私なりに上手く立ち回っていたつもりなんだが……どこで気がついた?」


 美夜子は物怖じすることなく、答える。


「……十香ちゃんのロザリオは、誰かにすり替えられていました。そして、そのすり替えが出来たのは御堂先輩だけだったと気がつきました。十香ちゃんがあのロザリオを今日学校に持ってくることを知っていて、偽物を用意できたのはあなただけだったから。ロザリオのことを知っているということは、御堂先輩はナイツの関係者です。でも、あなたは岸上先輩にロザリオのことを報告していない」


 美夜子は魅冬の目を見て、言い切る。


「つまり、あなたが裏切り者だってことです」

「へぇ……やるじゃん。昨日から、見かけより頭のキレそうな奴だとは思っていたが……正直言って、想像以上だぞ」


 思わぬ障害があったものだ。こうして相対していても、昨日と同じ人間とは思えない。こいつに何があった?


「あたしからも、一つ質問したいことがあります。その答えを、あなたの口から聞きたくて、あたしはここに来ました」

「……なんだ?」

「ブルーガイストが十香ちゃんを襲ったのは、あなたの意思によるものですか?」

「…………」

「あなたはその時既にロザリオを――鍵を持っていたはずです。だったら、どうしてブルーガイストの人たちは鍵を探して、その結果、一般人を……十香ちゃんを襲ったんですか? ……全てを知っていたあなたなら、それを止められたんじゃないんですか? それとも……知っていてなお、無視したんですか? 一般人がどうなろうが、知ったこっちゃないってことなんですか?」

「…………」

 

 魅冬は口に入れたキャンディを噛み砕いた。


「……だとしたら、どうなんだ?」


 魅冬が言うと、美夜子はそこで初めて、怒りの表情を見せる。毅然として、魅冬へ向かう。


「……許せません。絶対に」


 なるほど……それでか。私の今回唯一のミスが原因で、眠れる獅子の尾を踏んでしまったと。いや、獅子というよりは……今はまだせいぜい野良猫、というところだが……鋭い爪は持っていると見える。


「……亀井は友達思いの友人を持てたようだ」


 魅冬は肩をすくめて笑うと、踵を返して美夜子から離れる。距離をとってからもう一度振り返って、


「最後に聞いておこう。志野……お前、私の元で働く気はないか? お前の頭脳はそこらに置いておくには勿体ない。私ならお前の能力を有効に活用してやれる」

「えっ……?」


 美夜子は驚いたようだった。


「私の部下になるなら、世界の半分をやろう……というのは冗談だが、なるべくお前の望むものを与えられるよう努力しよう。……どうだ?」


 魅冬の提案に、美夜子はゆっくり首を横に振ってから、答える。


「ふざけたこと言ってんじゃねーよ……って、感じです」

「はははっ! まぁ、そうだろうと思っていた。しかしそうなると、残念だが……」


 やはり、死んでもらうしかない。


 ヴェガに志野美夜子、二人ともここで失うには惜しいが……私の障害になるなら排除するまでだ。


 魅冬は左手を高く上げる。それを見たヴェガが反応して、


「くそっ、伏せろ――!」


 美夜子へ向かって言う。狙撃手への合図だということに気がついたようだが、もう遅い。


 合図を受けた殺し屋が、スナイパーライフルによる狙撃を実行する――はずだった。


「…………?」


 三秒経過しても、狙撃は行われない。


 なぜだ? どうして撃たない!?


 魅冬は思わず、殺し屋を配置していたビルの方向を見てしまう。しかし、ここからでは屋上の様子は見えない。


 まさか、こいつらが何かしたのか……?


 魅冬はヴェガと美夜子を交互に見る。しかし、二人とも魅冬と同じく狙撃が行われないことに戸惑っているようだ。


 違う。こいつらではない。だったら――


「……よくわからないが、なにかトラブルのようだな」


 ヴェガが言う。魅冬は狼狽しはじめていた。何が、何が起こっている? どうして撃たない?


「馬鹿な……ッ! あいつ、なにをして――」

「無駄ですよ」


 視界の端向こうで、声がする。魅冬は、目の前が真っ暗になったような錯覚に陥った。


「狙撃手はわたくしの部下が排除しました。間に合ってよかった」


 その声を、魅冬が聞き間違えるはずがない。最も愛し、憧れ、憎んだ相手の声だから。


「なん……で……」


 魅冬の口からキャンディの棒が地面へ落ちる。理解が追いつかなすぎて、笑いさえ出てくる。それでも魅冬は、「彼女」を睨みつけて叫んだ。


「なんでッ……お前がそこにいるんだよッ…………薔薇乃ォォォッ!!」


 街灯の陰から姿を現した黒いブラウスとスカートに身を包んだ女は、間違いなく、岸上薔薇乃だった。


 どうして薔薇乃がここにいる? ブルーガイストのアジトで監禁されているはずではなかったのか?


「ボス……どうして?」ヴェガも困惑している。「誘拐されていたんじゃ……」

「心配をおかけしました、織江さん。わたくしはこのとおり、怪我一つしておりませんので、ご安心を。それに、志野さんも。色々とご迷惑をかけて、申し訳ありません」


 薔薇乃は気取った所作で美夜子へ礼をする。美夜子はぽかんとしたままそれを見ていた。


「魅冬さん」


 薔薇乃が魅冬へ振り返る。その表情は、至って平常通りのように見える。


「わたくしがなぜここにいるのか、その疑問に答えましょう。実に、単純なことなのです。わたくしは、あなたの計画に気づいていた。ただ、それだけ」

「な……馬鹿なッ! そんなこと……そんなこと、あり得ない!」

「気づいていた、というよりは……そんな予感がしたというのが正しいでしょうか。近頃、あなたの様子がどこかおかしいことには気づいていました。そこへ起きた、ブルーガイストの騒動……まさかとは思いつつも、あなたには意識を向けていたのです。そして、あなたが何をしようとしているかということに気がついた。気がついた上で、わたくしはあえてブルーガイストの手の者に誘拐されました。彼らのアジトを見つけ出すために。わたくしはさらわれても居場所がわかるように、指輪やイヤリングなど、一見してそうとはわからないような発信機をいくつか身につけていたのです。わたくしを誘拐した彼らは、携帯を壊しただけで安心したようでしたけれど。後は、頃合いを見て、予め待機させていた部下の方々にわたくしを救助していただいた……と、そういう具合でした」

「じゃあ……ブルーガイストは……」

「今から三十分ほど前に壊滅しています。本隊と別行動していた残党は未だ健在ですが、リーダー青桐のワンマン組織だったようですから、復活することもないでしょう」


 三十分前……青桐へ電話をしたすぐ後だ。


「捕らえた青桐和也から、あなたが織江さんと会うことになったと電話で話していたことを聞きました。わたくしとしては、放っておくことはできません。あなたの居場所は携帯のGPSですぐにわかりました。そして、ここを待ち合わせの場所に指定したということは……あなたならば、きっと狙撃手を用意している。そう信じていました。……わたくしの誘拐計画にしてもそうですが、どちらも決定的と言えるほどの根拠があったわけではありません。しかしそれでもわたくしが正解に辿り着けたのは、きっと……相手があなただったから、なのでしょうね」


 全て……見抜かれていた。結局、上手く立ち回れたと思っていたのは私だけ。こんな、こんな滑稽なことがあるか……!


「なんだよ、それ……私の考えることは……全部、お見通しってことかよ……」

「一手でも打ち間違えていたら、負けていたのはわたくしのほうだったと思います。それだけあなたの策は巧妙でした」

「……はっ! 慰めのつもりか? ムカつくんだよ、そういうの!」


 魅冬は、薔薇乃へあらん限りの憎悪を込めて言う。


「敗北者を哀れんで悦に浸るのは楽しいか? ……わかってんだよ。お前はいつもそうやって、私のことを見下してたんだろ?」


 薔薇乃は悲しげに一度両目を閉じ、それからゆっくりと開けて魅冬を見る。


「……本当に、わたくしがあなたのことをそう思っていると、お考えなのですか?」

「…………」


 ――やめろ。そんな目で私を見るな。


「……それだけじゃない。私の望みのためには、お前は邪魔なんだよ、薔薇乃。お前がいなければ、私はもっと高く飛べる。お前の持つ財も力も、何もかも奪い取って……そうすることで、私は初めて本当の私になれる……なれるはずだったんだ……!」


 薔薇乃は冷静な眼差しを魅冬へ向けて、


「わたくしの代わりに、頂点に立つつもりだったと?」

「……私ならできる」

「……いいえ、それは無理です。あなたでは、絶対に」

「なんだと……ッ!?」


 魅冬は拳を握りしめて、薔薇乃をいっそう鋭く睨みつける。対して薔薇乃は怯む様子も見せず、淡々と続けた。


「現に失敗しているではありませんか。わたくし一人さえ殺せないで、どうやって頂点などとるつもりなのです? 岸上の現当主は、わたくしの百倍は手強いですよ」

「……それ、は…………」


 魅冬は視線を僅かに逸らす。言い返すことができなかった。


「…………はは、たしかに……そうだな」


 魅冬はややうつむいて苦笑する。


「……わかってたよ。私じゃ、お前には勝てないって。正攻法じゃ無理だ。だからこんな卑怯な真似までして、お前を殺そうとした。でもそれも失敗した。はっ……いいざまだな」


 それも、愚かな卑怯者には相応しい末路か。


「……なぁ、薔薇乃。もしも、お前が私だったら……もっと、上手くやれたか?」


 薔薇乃は小さく首を横に振る。


「……意味のない仮定です。わたくしは、わたくし以外の何者でもありません」

「あっそ……つまんない答え」魅冬は肩をすくませる。「……けど、お前らしい」


 ……やっと、わかった気がする。トップの座なんて、ほんとはどうでもよくて。私はきっと……どんな方法でもいいから、ただ一度、お前に勝ってみたかったんだ。


 魅冬は空を仰ぎ見て言う。


「あぁーーーあ……馬鹿だな、私……」


 日はもうすっかり沈んでしまって、星も見えない真っ暗な夜空が広がっていた。


 魅冬はしばらくそのまま空を見ていたが、やがて顔を下ろすと、薔薇乃へ向かって言う。


「――もういいよ。私の完敗」


 薔薇乃は魅冬の顔を見つめ、少し間を置いてから答える。


「……今回のことの責任は、取っていただきますよ。魅冬さん」

「ああ、好きなようにして。こうして喧嘩ふっかけたからには、失敗したらどうなるかくらいは覚悟してたつもりだからさ。……まぁ、でも……」


 魅冬は制服のポケットから折りたたみナイフを取りだすと、刃先を立てて、柄を薔薇乃のほうへ向けて差し出す。


「できれば、薔薇乃に殺してもらえると嬉しいな」

「…………」


 薔薇乃はナイフと魅冬の顔を交互に見比べるようにした後、ゆっくりと魅冬のほうへと歩み寄る。


 そう、それでいい。反逆者であり、敗北者である私には、もう万に一つも助かる道はないだろう。でも、お前に殺されるなら私は一向に構わない。その気持ちに嘘はないよ。――でもね。


 薔薇乃が充分に近寄ってきたところで、魅冬はいきなり薔薇乃の襟首を空いた手で掴み、身体ごと引き寄せる。ナイフを手元で回転させて、刃を薔薇乃の首元につきつけた。


「――ッ!」


 さすがの薔薇乃も、一瞬驚いたような表情を見せる。


「迂闊だよ薔薇乃」


 魅冬は力ない歪んだ微笑みを頬に浮かべて、


「私がそう簡単に負けを認めるようなタマじゃないって、知ってただろ? ここでお前を殺せば、勝ちじゃないけど、負けでもない。私たちの勝負、引き分けで終わりにしようじゃない? 二人一緒に、地獄に落ちようよ」

「貴様ッ……!」


 ヴェガが殺気を込めて手の中のナイフを握りしめる。しかし、魅冬があと数センチ手を動かせば薔薇乃の首を切り裂くことができるというこの状況では、さすがに動けないようだった。


「織江さん」薔薇乃は冷静な口調で言う。「ご心配なく。手出し無用です」


 魅冬は苛立つように眉をひそめる。


「……怖くないの? 私は今、お前を殺そうとしてるんだよ?」

「…………」


 薔薇乃はやや顔を見上げるようにして魅冬の目を見たまま、答えようとしない。魅冬は薔薇乃の顔をさらに引き寄せて、苛立ちをぶつけるようにして言う。


「このッ……澄ました顔してんじゃねぇよ!! 怖くないはずがないだろ!! 強がりもいい加減にしろよ、薔薇乃!!」


 そこで、薔薇乃はぽつりと言う。


「――他愛のない妄想を、していました」

「……あぁ?」


 魅冬は虚を突かれる思いがした。薔薇乃はこの状況で、笑っていたのだった。それも、とても懐かしい気がする表情。彼女がまだ子どもだった頃に見せたような、無邪気な微笑みだった。


「わたくしとあなた……二人とも死んだ後は、今度は、二人で地獄を支配するのなんて、楽しそうだな……と」

「…………なに、言って――あっ」


 薔薇乃の言葉に戸惑った、その一瞬の隙を突かれてのことだった。薔薇乃は自分に向けられていたナイフの刃先を、右手で握りこんでしまったのだ。


「お前っ……なにを……!?」

 

 ナイフは薔薇乃によって強く握られ、動かすことができなかった。素手でナイフの刃を掴むなど、正気の沙汰ではない。薔薇乃の表情からは、もう笑みは消えていた。炎のように煌めく強い意志を宿した瞳が、魅冬を見据える。


「もとより我が道は修羅道……行き着く先が地獄と言うなら、亡者に鬼も、従えてみせましょう。しかし……今はまだ、その時ではありません。わたくしには、今生でまだやるべきことがあるので」


 ナイフの刃から薔薇乃の血が、ぽたりぽたりと滴り落ちていく。


「――それに、あなたは一つ勘違いをしているようです」

「勘違い……だと?」

「わたくしは、裏切ったあなたを処刑しようなどという考えは一切持っていません。先ほど言った、『責任を取ってもらう』というのは、今回の騒動で発生した損害分、きちんと働いて返してもらうという意味です」


 ……なんだって?


「…………嘘だ」

「嘘ではありません。あなたに嘘などつきません」

「私は……お前を殺そうとしたんだぞ。今だって、お前を騙して……!」

「許します」

「…………なん、で?」

「……わたくしの口から、それを言わせるのですか?」


 薔薇乃はやや呆れたようにため息をつく。


「そんなの、決まっているでしょう。わたくしには、これからもあなたが必要だからです」

「……ッ!」


 魅冬は息をのむ。


 これだけの裏切りを重ねた私を、許すというのか。こんなにも、簡単に。


 薔薇乃は静かに続けた。


「わたくしは、いつの日か必ず王の座につく。そしてそれは、譲られるものではなく、奪い取らなければならないものだとも信じています。それはわたくしの信念の一つであり――そして、呪いでもある。魅冬さんなら、それをよくわかってくれるでしょう?」

「…………」


 子どもの頃から、最も長い時間を共に過ごしてきた間柄だ。薔薇乃の、その言葉の重さを、きっと魅冬は誰よりも理解できた。


 魅冬は、いつの間にかナイフを手放していた。薔薇乃がそのままナイフを地面に落とす。


「わたくしの覇道のため、あなたにはこれからもわたくしを支えていてもらわなくては……困ります」

「…………それは」


 魅冬は声を絞り出すようにして言う。


「それは…………部下としての私の能力が必要だってこと? それとも……薔薇乃の友達としての私が……」


 言い切らないうちに、薔薇乃は肩をすくめて笑う。


「……もちろん、その両方ですとも」

「……そっか。……嬉しい、な」


 魅冬は、溢れ出しそうになる涙を堪えるので精一杯だった。薔薇乃の前でみっともない顔を晒したくなくて、必死の思いで我慢する。


 ――私は今、きっと世界一の幸せ者だ。


 魅冬は、ゆっくり首を横に振った。

 

「…………でも、やっぱりダメだよ。私は絶対に許されないことをしたんだ。裏切り者は、死をもって償うべきだ。だから、もう、薔薇乃と一緒には――」


 薔薇乃が、魅冬の頭の後ろへ手を回し、引き寄せる。


「なっ……んっ――!?」


 強引に唇を塞がれて、魅冬の言葉は途切れた。


 薔薇乃の突然の行動に驚いて、魅冬はまばたきを繰り返すことしか出来なかった。しばらくして薔薇乃が離れると、彼女は微笑んで言う。


「――黙りなさい。わたくしが許すと言ったら、許します」

「あ…………」


 魅冬の目から涙が一筋零れる。薔薇乃は、また魅冬を抱き寄せる。


「だから……戻ってきて、魅冬。わたしの――愛しき半身」


 ほんとに……大馬鹿者だ、私は。


 あの頃から、なにも変わってなんかいなかった。本当に大事なものは、ずっと近くにあった。そんなこと、ずっと前からわかっていたはずなのに……。


 魅冬は薔薇乃の細い身体を抱き返して、むせび泣きながら言った。


「ごめん……ごめん、薔薇乃…………」

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