第18話 奸智術策

 ――朝。雨の予報はなかったが、空はどんよりと曇っていて、どこか陰鬱な気持ちのしてくる日だった。


 十香は自室で学校へ行く準備を整えてから、ベッド横のサイドボードに置いてあったロザリオを手に取り、首元へつける。そういえば、と、昨日美夜子が言っていたことを思い出す。ロザリオに、自分のことをいつでも思い出すようにおまじないをかけたと言っていたが……なるほど。あんなことを言われては、たしかに思い出してしまう。不思議と、美夜子がすぐ隣りにいるような感覚があった。


 今日あいつと会ったら、昨日のこと、もう一度謝っておこうか……。


「あ、いや……」


 そうか。よく考えてみたら、今日は多分、会うことないな……。


 あいつは一年で教室も離れているし、昼食だって同級生の友達と一緒だろう。放課後は用事がある、ということになっているから……わざわざ二年生のところには来ないだろう。昨日の別れ際、少し冷たい態度をとってしまったから、向こうも遠慮するかもしれない。


 ……馬鹿らしい。どうしてあたしは、少し残念に感じているんだ。まるで、美夜子と会えるのを楽しみにしていたみたいじゃないか。美夜子を遠ざけようとしたのも、自分なのに。


 いっそ、良い機会かもしれない。このまま、美夜子と会うのをやめればいいじゃないか。そうすれば、もう余計なことで悩む必要もない。元通りになるだけだ。あたしは元々一人で、それでいいって、ずっとそう思っていたはずじゃないか。


「……やべっ、遅れちまう」


 部屋の掛け時計を見て、時間に余裕がないことを確認する。遅刻ギリギリに滑り込むのはいつものことだが、これ以上もたつくとそのギリギリのラインをオーバーしかねない。余計なことをぐだぐだと考えるのはやめて、さっさと学校に行こう。いまいち気分は乗らないが、学校に顔を出すだけはしておかないと、後々面倒くさい。


 十香は、サイドボード上のメビウスの紙箱へ手を伸ばしかけて、やめた。


 ……今日は、やめとくか。


 昨日の伸司の言葉を真に受けたわけじゃない。たまには禁煙日を設けてもいいだろうと思っただけだ――と、十香は自分を納得させる。


 十香は特に問題もなく学校まで到着し、教室に入る。ホームルームの始まる前なので、大抵の生徒は既に教室に入っているはずだが、岸上薔薇乃と佐村霧華の姿が見えないことに気がついた。


 二人は欠席していた。

------------------------------






「亀井、ちょっといいか?」

「げっ……」

 

 ……なんであたしが?


 十香は心の中で呟いた。三限目の休み時間、十香はトイレから教室へ戻ってきたところを呼びかけられた。手招きしているのは、担任教師の瀬崎晋太郎(せざきしんたろう)。今年二十八歳の英語教師で、細身に短髪、物腰は柔らかいが、いまいち教師としての熱意には欠ける男という印象だった。十香は瀬崎に対して特別悪い印象を持ってはいないが、かといって好意的に見ているわけでもない。


 瀬崎の顔は深刻そうだった。まさか、校内で喫煙していたことがバレたのだろうか。それで、この呼び出しか?


 そんなことを思いながら、十香は瀬崎が手招きするほうへ向かう。周りに人のいない廊下窓際へ歩いてから、瀬崎が話し出した。


「亀井。お前なぁ……最近、授業サボりすぎだぞ」

「あっ……ああ、そっちか……」


 ぼそっと漏らした一言を、瀬崎は耳ざとく聞きつける。


「そっちってなんだ? お前他にも何かまずいことしてるのか?」

「し、してない! してないっす!」


 十香は笑って誤魔化す。


「他の教科の先生からの話も、ちゃんと俺まで届いてるんだからな。あんまりひどいようだと、親御さんに連絡しなきゃならん。俺としても、そういうのは面倒なんだ。わかるだろ?」

「わかってるって……これから気をつけるから……」

「言ったな? じゃ、次の体育もちゃんと出ろよ」


 うっ、しまった。


 瀬崎は十香の肩をぽんと叩いてからまたどこかへ去って行く。教科書と出席簿を持っていたから、授業があるのだろう。


 それにしても、また絶妙なタイミングで釘を刺されたな……面倒くさいからフケちまおうと思ってたところだったのに。


 体育は隣のクラスと合同で行う。十香はB組だから、A組との合同となる。二つのクラスの男子生徒はA組、女子生徒はB組に移動して着替えを行うのだが、サボるつもりでいた十香は、教室が騒がしくなるのを嫌って休み時間の間、トイレで時間を潰していたのだ。


 B組の教室には既に誰も残っていなかった。皆もう体育館へ向かったのだろう。自分も急がなければ。


 制服から着替えようとして、首にかけていたロザリオを外す。


「ん……?」


 一瞬、どこかで嗅いだような花の香りがした。そういえば、朝部屋で支度をしているときにも同じ匂いを嗅いだ気がする。


「なんだっけ、これ……」


 ……まぁ、いいか。とりあえず、急ごう。


 体育用のジャージに着替えを済ませたら、体育館用のシューズを持って教室を出る。体育館は一階の東側渡り廊下の先だ。教室からは、東側の階段を降りるのが最短ルートとなる。


 東階段を降りてすぐのところにある渡り廊下を移動し、心持ち早歩きで体育館へ向かっていると、廊下にわずかに土に汚れたような足跡がついているのを見つける。その足跡の続く先を見ると、前方十メートルほど先に自分と同じくジャージを着て、ポケットに片手をつっこんで歩く女子生徒の姿があった。長身のその姿で、顔が見えずとも誰かはわかる。彼女は十香の気配に気がついたのか、後ろを振り返る。


「よぉ、亀井。急がないと遅れるぞー?」

「あ、ああ」


 十香は小走りになって、魅冬と並ぶ。自分でそんなことを言っておきながら、魅冬はたいして急ぐようでもない。まぁ、ここまでくればチャイムが鳴り出してから走っても間に合うだろう。魅冬の上履きのかかとにはうっすら土汚れがついている。中庭あたりを歩いて汚れたのかもしれない。


 並んで歩きながら十香は魅冬に話しかけてみることにする。少し気になっていたことがあった。


「……今日は、岸上、休みだな」 

「んー? ああ、そうだな」

「お前、仲良いんだろ。何か聞いてないのか?」

「いや、なにも。風邪かなにかじゃない?」


 魅冬は歩きながら十香の方へ顔を向けて、


「……なに? 薔薇乃のことが気になるの? ……なんで?」

「……ッ!」


 声に、冷たい刃物を肌に押し当てられたかのようなゾクッとするものを感じて、十香は魅冬の顔を見上げる。しかし、魅冬はいつも通り澄ました表情をしていた。


「あ、いや……昨日は助けてもらったのに、礼を言い忘れたからさ。それで少し気になっただけ……なんだけど」

「そーいうことか。べつに気にしなくていいと思うけどなぁ。結果的にはそうなったけど、薔薇乃だって、亀井を助けようとしたわけじゃないと思うよ」

「そうなのか?」

「薔薇乃もあのとき言ってたろ、味方をするわけじゃないって。首を突っ込んでみたのは、ただの気まぐれさ。まぁ、昔っからああいうことがあると、外野からでも興味津々になるタイプだったけど」


 魅冬はそこで肩をすくめて小さく笑って、


「ま、明日は来るだろ……多分、ね」


 そうこう言っている間に、体育館に到着する。


 それにしても、さっきの妙な感覚はなんだったのだろう……。蛇に睨まれた蛙ではないが、あの時の一瞬、思わず身体がすくんでしまった。気のせい、だったのだろうか? どちらにしても、魅冬に直接問いただす気にはなれなかった。

------------------------------






 体育が終わると、昼休みである。


 A組とB組の全員で体育館の後片付けをするように言われていたのだが、面倒なのでさっさと抜け出した。誰もいない教室で着替えを済ませると、十香はいつものように売店へ向かった。


 大きいカレーパンと、セールで安かったメロンパン、飲み物にオレンジジュースを買って、昨日と同じように屋上へ行く。昨日偶然から手に入れた鍵は、まだ返していなかった。あんな良い場所を占有できるアイテムである、そう簡単に手放すつもりはない。


 三階から屋上へ上がる階段の前にさしかかったところで、十香は立ち止まる。


 ……もしかしたら、とは思っていたけど、本当に来てるなんて。


「あっ……十香ちゃん! やっほ!」


 美夜子は十香の姿を認めるなり、屈託のない笑顔で手を振る。


「……お前、なんでここにいんの?」

「なんで……って」美夜子は不安げな面持ちになって、「十香ちゃんと一緒にお昼食べたかったの。昨日は屋上にいたから、ここで待ってたら来るかなって思って……ダメ、だった?」

「…………」


 十香は一瞬、口ごもってしまう。


 ……なに、黙ってんだ。ダメだと言え。拒絶してしまえ。また自分で弱さを作って、傷つきたいのか? そいつだって、本当のお前を知ったら、いつ裏切るかわかったもんじゃないぞ。あの辛さを忘れたのか? あの寂しさに耐えられるのか? これ以上そいつに心を乱されたくなかったら、冷たく突き放してやれ。


 昨日少し一緒にいただけで友達ヅラしてんじゃねぇ。誰が一緒に昼飯なんか食うか。あたしは一人がいいんだ、だからほっといてくれ。


「べつに……ダメじゃねぇけど」


 ――そんなひどいこと、言えるか馬鹿。


「あ……よかった!」


 やっぱり無理だ。昨日の別れ際、咄嗟についてしまった嘘。あの時のこいつの顔を思い出したら、そんなこと言えるはずがない。だいたい、自分が落ち着いて過ごすためだけに相手を傷つけるなんて、最低じゃないか。


 というか、こいつ……一年の教室からは遠いだろうに、わざわざここまで来たのか……。あたしなんかより、クラスの友達とでも一緒に食べた方がよっぽど楽しいと思うんだけど……相変わらずこいつの考えはよくわからない。


 扉を鍵で開けて、美夜子と一緒に屋上へ出る。空は曇ってはいるが、気温も問題なさそうなので屋上塔の壁を背にして座った。


「そーだ! ね、ね、十香ちゃん。連絡先交換しとこうよ?」


 十香が売店で買ってきたカレーパンを頬張っていると、美夜子が突然言い出した。


「……いいけど」


 十香は携帯電話を取り出す。メモリに名前を追加するのもずいぶん久しぶりだった。


「昨日のうちにしておけば良かったんだけど、別れた後で気がついたんだよねー。……よし、できた! んふふー、毎晩メールするからね!」

「いいよそんな頻繁にしなくて……って、あれ?」十香は美夜子の方をみて気がつく。「お前、昼飯そんだけなの? 少なくねぇ?」


 美夜子は先ほどから、手に持っているゼリー飲料を一個飲んだだけだった。

 

「あたし燃費いいから、これだけでだいじょーぶだよー」 

「大丈夫って……そんなんじゃ腹膨れないだろ。しょうがねーな……ほらっ」


 さっき買ったメロンパンの袋を投げて渡す。


「それ、やるよ」

「え……いいよいいよ、あたしほんとに大丈夫だから! 食が細いの! それに、十香ちゃんの分が少なくなっちゃうよ?」

「いいから、食っとけ。たまたま安くなってて買っただけだから、遠慮すんな。買ってから思い出したけど、あたしメロンパンあんま好きじゃなかったし」

「……じゃあ、もらっとくね。ありがとう十香ちゃん、大切にする!」

「いや大切にしなくていいから、腐るから! ほら、さっさと食えよ……」


 先に昼食を終えてしまった十香は、一服しようとポケットに手を伸ばす。が、しかし。


「持ってきてないんだった……煙草」


 がっくりと頭が下がる。後悔した。軽率に判断しすぎた。


「十香ちゃん十香ちゃん」

「え?」


 呼びかけられて顔を上げる。美夜子は袋からメロンパンを半分ほど出して十香へ向けていた。

 

「はい、あーん」

「なっ……いらねーってば! お前が一人で食え!」

「えー? でも、一人で全部食べちゃうのはなんか悪いよー。一口だけでいいから、十香ちゃんも食べて! ほらほら!」

「ああもう、わかったよ……」


 降参して、一口だけパンをかじる。


「おいしい?」

「ん……」頷く。


 ったく……たまんねぇよ。なんだ、このほんわかとした雰囲気。女子みたいだ……………………女子だったな、あたしは。とにかく、あたしには似合わない、こういうのは。


「あ、そーだ。十香ちゃん。昨日言ってた、用事ってなんなの?」


 残りのメロンパンを食べながら美夜子が尋ねる。


「む……あ、ああ、あれな」


 困った。本当は用事なんてないんだが……なんて言ったらいいんだ。


「あれは……その……あれだ」

「……?」


 美夜子は不思議そうに小首をかしげる。


 考えがよくまとまらないまま、十香は返答した。思いついた中で、それが最も穏便な答えだった。


「……なくなった」

「へ?」

「だから、なくなったんだ……用事」

「……じ、じゃあやっぱり、放課後センセーのところに行けるの!?」

「まぁ……行けなくも、ないけど」

「やったぁ!」

「うわっ!?」


 美夜子に抱きつかれて十香はよろめく。


「こらっ、暑苦しいだろうが! いちいちリアクションが大げさなんだよ、お前は!」

「えへへー、だって十香ちゃんと一緒にいられるの嬉しいんだもん! 十香ちゃんは、嬉しくなぁい?」


 美夜子と鼻先がくっついてしまいそうなくらいに顔が近い。美夜子の大きな瞳がまっすぐこちらを見つめてきて、脈拍が早くなるのを感じる。


「し、知らん……!」


 恥ずかしさを誤魔化すように十香はそっぽを向く。すると、美夜子が何かに気がついたような声を出して、


「あ、これ、ロザリオ! つけてきたんだ。やっぱり似合ってるよーうんうん」


 美夜子は十香にくっついたまま、十香の首元にさがったロザリオを手にとった。


「んふふ、この幸運もロザリオの神様が気を利かしてくれたおかげかな? なーんて……あれ?」


 美夜子はロザリオを自分の顔前にかざすようにして、首をかしげる。


「んー? なんでだろ、おかしいな……」

「なにが?」

「うーん……まぁいっか」

「なんなんだよ……というか、いつまでくっついてんだ。はーなーれーろ!」


 なんとか美夜子を引きはがす。


 それにしても……あたしはほんとに、何をしているんだ。用事があるって言ったり、ないって言ったり……情緒不安定じゃないか、これでは。


 ……でも、まぁ。


「センセーがあのわんこのお世話、ちゃんとできてるか確認しないとね」

「ああ……」


 そう、美夜子の言うとおり。あのおっさんに預けた犬のことも気になるから、やはり様子は見ておきたい。


 それに、美夜子を騙す心痛に耐えるよりは、これでよかったと思う。いや、それでも、嘘をついていて後ろめたいことには変わりないか……。


「十香ちゃん? どうかしたの、どっか具合悪い?」


 暗い顔になっていたようで、美夜子が心配そうに言う。


「べつに……ちょっと考え事してただけだよ」

「そう? ならいいんだけど……あ、そーいえばね」


 美夜子は話題を切り替える。


「今朝、岸上先輩に会ったよ」

「は? 岸上に会った? 学校でか?」

「うん」


 美夜子は頷く。


「おかしいな、そんなはずは……だって、あいつ今日休んでるんだぞ?」

「あれっ……そうなの?」

「お前、岸上と何か話したのか?」

「少しだけどね」


 美夜子は薔薇乃と会った顛末について話し始めた。

------------------------------






 あたし、今日はたまたま早めに学校に来てたの。早く来ないといけない用事があったわけじゃなくて、単純に早く目が覚めちゃったから。で、学校まで来たのはいいんだけど、教室でじっとしてるのもなんだか落ち着かなくて、学校の中を適当にうろついてたんだ。


 そうしたら、中庭の四阿(あずまや)に人がいるのを見つけてね。それが岸上先輩だったの。後ろから声をかけようとしたんだけど、岸上先輩は携帯でどこかに電話をしてる途中だった。少し聞こえたけど、なんだか変な電話だったな。


 会話の内容? えっとね、聞こえてきたのは、こんな感じ。


「――亡霊の動きには何か裏があるはずです。ええ、やはりCの所在がバレていたとしか思えませんね。偶然見つけたというよりは、始めから盗むことが目的だったと考えた方が自然でしょう。そう、ですね……あなたはそのまま、鍵の捜索を続けてください。わたくしは情報流出の件で心当たりを探ってみます。では、また何かあれば連絡を……」


 どう思う? ……だよねぇ、意味わかんないよね。岸上先輩のところから何かが盗まれた、というのはなんとなくわかったけど……。『C』ってのは、何のことだろう。何かの略語か、隠語かな? 『亡霊』もたぶん、そのままの意味じゃないよね。『鍵』も気になるけど……ま、それはとりあえず置いておいて、続けるね。


 電話を切ったところで、あたしは岸上先輩に声をかけたよ。先輩は薄々後ろにいたあたしのことに気がついていたみたいで、特に驚いたようでもなかったな。


「志野さんでしたか。おはようございます。いつもこんなに早いのですか?」

「いえいえー、今日はたまたまです!」

「そうですか……ところで、今の電話の内容、聞いていました?」

「ごめんなさい、少しだけ。でも、よく分かんなかった! えへへ」

「ふふ、そうでしょうね。どうかそのまま、詳しく訊こうとはしないでいただけると助かります」

「と、いうと……あたし、知らないほうがいい話ですか?」

「率直に申し上げると、そうなります。すみませんね」


 岸上先輩がそう言うもんだからさ、あたしもそれ以上詳しくは訊けなかったんだ。口調は柔らかかったけど、訊いても絶対教えてくれなさそうだったもん。


「……志野さん。お暇でしたら、少し話をしましょうか」


 先輩はそう言って、あたしに隣へ座るように手を動かした。あたしはそれに従って、東屋内の椅子に腰掛けながら、


「いいですよー、どんなお話ですか?」

「……わたくし、近頃悩みがあるのです。聞いていただけますか?」


 先輩は悩ましげに額を手で触った。


「相談しようというのではありません。ただ、聞いてくれるだけでよいのです」

「いいですけど、どんな悩みなんですか?」

「そうですね……簡潔に言うなら、人間関係の悩みでしょうか」

「へー……先輩にもそういうの、あるんですね」

「もちろん、ありますとも。わたくしも所詮、一介の女子高校生に過ぎませんから。つまりは、ごく普通の、JKに過ぎないという意味です」

「いや二回言わなくても……っていうかJKて……」

「志野さん」

「はい?」


 先輩は少し困ったような笑みを浮かべて、


「人とは、思わぬところですれ違いを起こす生き物ですね。自分と相手、互いによくわかり合えていると思っていたのに、実はそうではなかった……そうしたすれ違いが起こってしまった場合、いったいどうするのが正解なのでしょう?」


 あたしが答えに迷っていると、先輩はそのまま続けた。


「……いいえ、そもそも正解などというものは存在しないのかもしれない。何がわたくしにとって最良の方法か……悩んだところで、答えが出るものでもありません。結局のところ、自分がどうしたいか、それが重要だと思うのです。ですから……わたくしは自分のしたいようにしようと決めました」


 言ってることはよくわからなかったけど、先輩は何かを決心したみたいだった。


「わたくし、こう見えて強欲なのです。望んだものは全て手に入れたい。そのために必要とあらば、手を尽くします。たとえ、それで危険な橋を渡ることになろうとも」

「えっと、それはどういう――」


 あたしが言いかけたそのとき、先輩が手に持ったままだった携帯が震え出したの。電話じゃなくて、メールか何かだったみたい。先輩は携帯の画面を見て、一瞬、目を細めたように見えた。あまり良くない連絡だったのかな。先輩は小さくため息をついて、椅子から立ち上がった。


「急用ができてしまいました。わたくしから誘っておいて勝手なことですが、今日はこれにて失礼させていただきます。いずれまた、ゆっくりとお話しましょう。……それでは」


 そう言って、さっさと校舎の中に戻って行っちゃった。

------------------------------






「――ってことはその後、岸上は学校から出ていっちまったわけだ。たぶん、そのメールが原因で」


 十香は自分の考えを話す。美夜子も同じように思っていたようで頷いた。


「うん。突然のトラブルで学校で授業受けてる場合じゃなくなった……ってとこかな」

「その前の暗号めいた電話のことも気になるけど……ええっと、意味が分からないのは『亡霊』、『C』……あと、『鍵』だっけ? お前、ちゃんと聞いてたんだろうな? 何かの聞き間違いってことはないか?」

「早朝で中庭も静かだったし、聞き間違いはしてないと思うよ?」

「じゃあ、記憶違いの可能性は?」

「ないない! 昨日喫茶店で言ったでしょ? あたし、一度覚えたことは忘れないの」


 断言できるほど自信があるのだろう。今の話に見られた異様なディテールの細かさからいっても、美夜子の記憶力はおそらく本物だ。世の中には見た光景を逐一写真のように記憶しておける人間がいるらしいが、美夜子もそれなのかもしれない。ともかく、記憶違いという選択肢は排除してよさそうだ。


「うーん……」


 十香は頭の中で、電話の内容について整理してみる。


「文脈からして、Cを盗んだのが亡霊、ってことになるよな。とすると、Cは物の名前で、亡霊は人、それか集団の名前……ってとこか? 岸上はCの存在を隠していたんだけど、身内から情報の流出があって、亡霊にそのことがバレた。で、盗まれた……と。こんな感じ?」


 美夜子が目を輝かせてこちらを見ていた。


「すごい十香ちゃん! メイタンテーみたい!」

「いやいや、ちょっと考えたら誰でもわかることだから! しかしまぁ、あれだな……意味のわかる部分だけとっても、とても普通の女子高生がする電話の内容じゃねぇよ。まるでスパイ映画かなにかだ」

「やっぱり、昨日センセーの言ってたとおり、犯罪組織のナントカに関係してることなのかな?」


 薔薇乃がとある全国的犯罪組織のトップ、その娘である……という話のことだ。そして、彼女自身も組織の仕事を任されているらしいことを考えると、美夜子が聞いた電話も、それに関係しているのかもしれない。現実離れした話だが、そう考えたほうが、しっくりとはくる。他人に聞かれてはまずい電話だったからこそ、わざわざ中庭に出ていたのだろう。その配慮も空しく、偶然から美夜子が立ち聞きしてしまったのだが。


「……そうかもしれないな。まぁ、気にはなるけど、あたしらが軽率に踏み込んで良い話でもなさそうだ。詮索するのはこのへんにしておこうぜ」

「そうだねぇ。それで危ない目に遭っても嫌だし」

「危ない目って?」

「ほら、映画とかドラマでよくあるじゃん? 『お前は知りすぎた……』的な? それで、『ばきゅーん!』……的な?」


 美夜子は手でピストルの形を作って撃つ真似をする。


「まっさかぁ、そんなことあるわけないじゃーん!…………とは言い切れないよな、マジで。やめやめ! 忘れようぜ、この話は」

「うん……でも、ちょっと気になったんだよね」

「なにが?」


 美夜子は眉間を指で触りながら答えた。


「メールが来る前、岸上先輩、なんだかイミシンなこと言ってたでしょ」

「ああ、悩みがどうのとかいうやつ?」

「あのときの先輩、なんだか変な感じだった」

「変?」

「うん。なんていうか、うまく言えないんだけど……死んじゃいそうな気がしたんだ」

「は……? 岸上が、か?」

「いや、ほんと、なんとなくそんな気がしたってだけだよ? そんなわけないってことも、わかってるけど……」

「ふーん……」


 薔薇乃なりに、悩みで思い詰めていたのかもしれない。とはいえ、まさか本当に死ぬとも思えないが。


「ところでさ、お前……あたしには敬語使おうと思わねぇの? 一応、岸上と同じで先輩なんだけど……」

「えー? なんかむずむずするから、あまり得意じゃないんだよね。使ったほうがいい?」

「……ちょっとやってみて」


 美夜子は軽く咳払いをしてから、


「……亀井先輩! お昼一緒にできて、あたしとっても楽しいです! メロンパンも、ありがとうございます! 亀井先輩のお気遣い、身にしみいります!」

「うーん…………」

「……どう?」

「なんだ、その…………やっぱいいわ、そのままで」

------------------------------






 屋上から一年生である美夜子の教室は遠い。授業に遅刻させるわけにもいかないので、少し早めに解散する。屋上からの帰り、教室へ入ろうとしたところで十香は立ち止まった。気になる話し声が聞こえてきたからだ。


「――おい、岸上がウリやってるって話、本当かな」


 廊下で開いた窓に寄りかかりながら、二人の男子生徒が話している。一人は坊主頭で、もう一人は眼鏡をかけている。たしか同じクラスだったように思うが、名前が出てこない。二人とも窓の外を見ているせいで、十香に下世話な話を聞かれていることに気がついていない。


「ただの噂だろ? だいたい、あのお高くとまったお嬢様がそんな真似するかぁ?」


 眼鏡が言うと、坊主頭が反論する。


「いやいや、お嬢様だからこそ、ってこともあるかもしれないだろ!? ほら、お金が目的じゃなくってさ、スリルを楽しむためとか。もしかしてもっと単純に、そういうコトが好きなだけなのかもしれないぜ?」

「なるほど……なるほど! なくはないな! それに、ロマンのある話だ……」

「だろ? ロマンだろ? あの岸上が……って想像するだけで、こう、滾るものがあるよな!」


 ……ひ、ひどい! 信じられんレベルでアホな会話だ……! こいつらほんとに同い年なのか……?


 十香が呆れていると、誰かが横を通り過ぎた。すぐにそれが誰なのかはわかったが、声をかける間もなく、その人物は窓辺で話している二人へ真っ直ぐ向かっていく。


「それでさ、その話が本当なら、お前いくらまでなら出せる? 俺、岸上とヤれるなら三万は余裕で出せるな――」

「おい」

「ああ?」


 背後から声をかけられ、二人が振り返る――と、同時に、二人とも「あっ」と短く悲鳴を上げた。線は細いものの、男子と並んでも同じくらい身長のある御堂魅冬は、相手を黙って睨むだけで威圧するような迫力がある。軽蔑の念を込めた冷たい視線を二人へ向けながら、魅冬は言う。


「あのさ。あんたたちの話すっげー不快なんだけど、やめてもらえる?」

「あ……ははは」坊主頭が誤魔化すように笑って、「わ、悪い悪い。でもほら、本人に言ったりはしてないし――ひぎゅっ!?」


 魅冬が、坊主頭の両頬を片手で挟み込むように掴んで無理やり黙らせる。


「言ってる意味わからなかったか? 私が不快だからやめろって言ってんだよドアホ」


 ドスを利かせた声で魅冬が言う。


「いいか? 今度また私の前で同じような話してみろ。次は殺すぞ」


 ――ヤバい。完全にブチ切れてる。顔はほぼ無表情に近いが、それが却って恐ろしい。


「薔薇乃のことでふざけた噂広めても殺す。全身ミキサーにかけて、畑のクソだめにぶち込んでやる。テメーみてぇなくだらねぇクソ野郎にはお似合いだな? ほら、私の言ってること、わかったかよ?」

「ひ、ひぎっ……」


 返答しようにも、手で口を挟まれているから声が出ないのだろう。


「わかったか、って聞いてんだよ」

「わ、わひゃりまひや……」


 ……長い沈黙。


「…………………………わかればいいんだ」


 魅冬はやっと手を離すと、唖然としていたもう一人の眼鏡を見て言う。


「そっちのお前も、同じだぞ」

「は、はい!」


 眼鏡はびくっと震え、上ずった声で返事をする。


 おいおいおい……不良扱いされてるあたしより、よっぽどワルの風格あるじゃねぇかこいつ。


 気の毒な男子二人は勿論そうだろうが、傍から一部始終を見ていた十香も、魅冬の二面性に驚いていた。飄々として、どこか捉えどころのない性格の魅冬だが、根本的には穏やかな気性だと思っていたのに……それが、怒るとあんな風になるとは。宣言通り、本当に相手を殺しかねない凄味だった。


「ん……?」


 しまった、と十香はさっさと教室の中に逃げ込まなかったことを後悔する。魅冬と目が合ってしまった。


「よぉ、なにしてんのそんなとこで?」


 先ほどまでとは打って変わって、いつも通りの口調で話しかけられる。


「なにしてんの……って、お前こそなにしてんだよ……」


 魅冬に背中をそっと押されて、教室の後ろ側から中へ入る。魅冬は教室後ろのロッカー棚にもたれかけながら、


「なにって、ムカつくやつらがいたから、ちょっと脅かしてやったんだけど」

「ちょっと! ちょっとか、あれは? やりすぎじゃねぇの!?」


 魅冬は何を馬鹿なことを、といった感じで笑う。


「全然! 無傷で済ませてやっただけ穏便だよ。本当ならすぐぶっ殺してやりたいとこだけど、さすがに自重した。ははっ、ウケるだろ?」

「お前笑いのセンスずれてるよ……」


 今の話のどこにおもしろポイントがあったんだ。


「そう? まぁとにかくさ、私の言いたいことは……」


 魅冬は笑いを引っ込めて、続ける。


「あいつらごときが薔薇乃の品位を貶めるなんて、絶対あっちゃならない……ってこと」


 薔薇乃のことだったからこそ、魅冬はあれほど怒りを露わにしたのだ。自分のことより、親友を馬鹿にされるほうが不愉快に感じるのかもしれない。


 そういえば、と十香は思い出す。昨日、薔薇乃が売春をやっているという噂を初めて聞いたとき、その真偽について魅冬に訊いてみてはどうかという提案を十香はした。それに対して「やめたほうがいい」と言われたのは、こういうわけだったのだ。おそらく自分が知らないだけで、さっきと同じようなことが過去にもあったのだろう。


 魅冬の薔薇乃への拘りは、普通の友達関係とは一線を画するものがあるように見える。親友というだけでは説明がつかないような、そんな感じがするのだ。


 そして、もう一つ気になっていることがある。もしも薔薇乃が、伸司から聞いた話の通り犯罪組織のトップの娘だとするなら……魅冬はそのことを知っているのだろうか? いや、もしかしたら。魅冬自身がその組織と関わりを持っていることだってあるかもしれない。


「……岸上とは、いつからの付き合いなんだ?」


 深入りすべきでないような気もするが、少しばかり好奇心が芽生えてしまった。支障のない程度に、探りを入れてみることにする。


「小学校に入る前からだよ。あいつの父親と、私の父親が仲良くてね。私と薔薇乃は互いの親に飲みの席なんかによく連れ出されててさ。でも、そんな場所に集まってんのは大人ばっかりで、子どもはつまんないだろ? 自然、子ども同士だった私と薔薇乃は仲良くなったというわけ」

「ああ、それわかるな。あたしも昔はよく親父の飲み会にあちこち連れて行かれたっけ」


 十香の場合、同年代の子どもは他にいなかったが、大人たちが遊び相手になってくれたのでそれほど退屈した記憶はなかった。今にして思えば、父は親戚や友人たちに娘を自慢して見せたかったのかもしれない。薔薇乃や魅冬の父親がどうなのかは知るところではないが。


「なるほど、父親同士で繋がりがあったんだな……ん、父親……?」


 十香はそのことに気がついて、危うく声を上げそうになる。魅冬は十香の動揺を見逃さず、


「なに? 父親がどうかしたの?」

「い、いや、なんでもない」


 薔薇乃の父親が、犯罪組織のトップであるとするならば……そんな人物と懇意にしている、魅冬の父親は何者だ? 同じ組織の仲間であると考えるのが自然ではないか? いや、それとも……あくまで私人としての付き合いで、薔薇乃の父親は、自分が裏稼業者だということは隠していたのだろうか? それなら、魅冬とその父親は組織とはまったく関わりのない人物だということもあり得る。どちらが正しいのだろう? いやいや、早合点はまずい。それより以前の問題として、薔薇乃の父親云々というのがそもそも、伸司の話を元にしているだけで、確証はないではないか。


 十香の頭の中で色々な考えがぐるぐると巡る。いっそ単刀直入に、魅冬に訊いてみるか? しかし、そう簡単に教えてくれるだろうか? 本当のことを十香に教える義理なんて、魅冬にはないのだ。のらりくらりとかわされるかもしれない。それに、魅冬が組織の人間だった場合、下手に嗅ぎ回ると自分の身に危険が及ぶ可能性だってある。……だが、もう少しくらいなら踏み込んでみてもいいか? 日常会話の範囲を逸脱しないように努めれば、怪しまれることもないだろう。ああ、でも、やはり危険なのではないか――


「……なぁ。亀井はさ」


 魅冬の声で、思考が中断された。魅冬は薄笑いを浮かべると、十香の耳元へ顔を寄せて、そっと耳打ちする。


「もしかして……薔薇乃の父親のこと、知ってる?」

「へぇっ!? あ、あー……えっと、それは……」

「やっぱり、知ってるね。あーダメダメ、隠そうとしても無駄だって」


 魅冬はくくっ、と笑って、


「いやぁ、亀井は隠し事が下手くそだなぁ! 気になったから、ちょっと揺さぶってみただけなのに。こーんなにわかりやすく反応してくれるとはね。役者には向いてないな」


 隠し事が下手! 全くもってその通りです、としか言いようがない。完全に看破されている。あと役者はべつに目指してない。


 なんと返すべきか迷って口ごもっていると、魅冬は十香の右肩へ手を回して壁側を向き、周囲には聞こえないように小声で話す。


「それで……? 亀井はどこでその話を知ったわけ?」


 不気味なほどに優しい声音。下手な誤魔化しが通用する相手ではない、答えは慎重に選ぶべきだろう……。


「……そういうのに詳しい知り合いがいんだよ。お前には関係ないだろ」

「ふーん……まぁいいか。その筋の人間なら、知っていてもおかしくはないね。それで亀井は、薔薇乃のことを知って、一番親しそうな私から何か聞き出せないかと思ったってわけ? そいつにそうしろって、指示されたの?」

「それは違う! 指示なんてされてない。そいつからも、岸上には必要以上に関わるなって言われてたし……」

「じゃあ、どうして?」


 緊張で、口の中が乾いてくる。尋問されているような気分だ。


「……お前が頭ん中で何考えてるかは知らねぇけど、大した理由はねぇよ。そいつから聞いた話だけじゃ、岸上がそんなヤバそうな連中の一員だなんて、完全には信じられなかった。だから、自分で確かめようっていうか……それだって、そんな積極的な気持ちだったわけでもねぇけど……強いて言うなら、そんなとこだ」

「……なるほど、わかった。亀井の言うことなら信じるよ。嘘をついてるようでもないしね。疑うようなこと言って悪かったな」


 魅冬は軽い口調で言う。


 ……考えが読めない。魅冬は、薔薇乃の秘密を知る自分をどうするつもりなのだろうか?


 そんなことを考えていた最中だったから、魅冬に突然右肩を手でぐいっと揉まれて、十香は小さく飛び跳ねてしまった。


「うわっ!? な、なんだよ!」

「まぁまぁ、そんなに固くならないでよ。もしかして、私が亀井のこと、後でどうかしようとしてるんじゃないかとか、そんなこと考えてた?」


 ……こいつは人の心が読めるのか? それとも、あたしはそんなに考えてることが表に出やすいのか? たしかに、トランプのババ抜きなんかじゃ勝てたためしがないけれど。


「あははっ! 心配しなくていーよ。私は薔薇乃の組織とは無関係だから。普通の一般人、カタギよ? 長い付き合いだから色々と知ってるってだけで、薔薇乃のお仕事には完全ノータッチ。だからそんな緊張しないでいいって!」

「……そ、そうなのか? いや、でも……本当に?」


 口だけならどうとでも言える。


「あらら、そこ疑っちゃうー? なんなら、今度薔薇乃に確認してみればいいよ。私はあくまで女子高生・岸上薔薇乃の友人なの。それに、そんな中途半端な嘘ついても、私なんのメリットもないでしょ? どうせ嘘つくなら、始めから薔薇乃の組織のことも、何にも知らないふりするって。なっ? そう思わない?」

「……たしかに」


 そう言われてみれば、そんな気もする。


「っていうかさぁ、よく考えてみてよ。もしも私が組織の一員だったとしても、薔薇乃の裏の顔を知ってるって、ただそれだけのことでカタギの亀井に手を出すわけないじゃん。……まぁ、それをむやみやたらに吹聴して回るような真似をされたら、そのときは、私がどうするかはわかんないけど?」

「……しねーよ。そんなこと」

「ははっ、だよな。私さ、亀井は以外と頭のいいやつだと思ってるんだ。がっかりさせないでくれよ?」


 「以外と」、が気になったがつっこむ気にもなれなかった。今のは遠回しの警告に違いない。下手に誤魔化すより、認めた上で釘を刺しておいた方がいいと判断したのか。薔薇乃に仇なす輩は、絶対に許さないというのが魅冬のスタンスなのだろう。


 魅冬は十香の肩に回した手をほどくと、また思い出したように言う。


「あ、そうだ! 亀井、携帯の番号教えてくれない?」

「は? なんでだよ……」

「なんでって、このクラスの女子でまだ番号知らないの亀井だけなんだよ。せっかくだからコンプリートさせてよ、ね?」


 あたしはゲームのレアキャラかなにかか。連絡しあうのなんてほんの一部だろうに、コミュニケーション強者の考えることはよくわからない。


 とはいえ断るのもどうなのだという話なので、素直に連絡先を交換し合う。それを終えると、ちょうど次の授業の予鈴が鳴った。


「うしし、さんきゅー! 次の授業は……地学だっけか。どうする、一緒に講義室まで行くか?」

「いい、一人で行く。お前と一緒だと疲れる……というか、疲れた」

「あはっ、わかったわかった。じゃあ先に行くわ。遅れんなよ」


 魅冬が離れていって、ようやくほっとする。緊張して変な汗をかいてしまった。


 地学は昨日サボったばかりだから、今日は出ておいたほうがいいだろう。授業の準備をして、一階の地学講義室に向かおうと教室を出ると、そこで声をかけられる。


「亀井、ちょっと待て」


 廊下に瀬崎が立っていた。さっきと違って手には何も持っていない。次は授業のない空き時間なのだろうか。


「な……なんすか? 早く行かないと遅れるんだけど……」

「すぐ済む。ちょっとこっち来い」


 瀬崎の様子がどこか変な気がしたが、言われたとおりそばに寄る。


「それは校則違反だ。校内でのアクセサリー類の着用は認められていない」


 瀬崎は、十香の胸元にあるロザリオを指さして言う。


「没収するから、渡せ」

「なっ……はぁ!? ちょ、ちょっと待ってくれよ! そんな、おかしいだろ!?」

「ああ? 何がおかしい?」

「だから、あたしの他にもペンダントやらイヤリングやらつけてるやつは沢山いるだろ? なんであたしだけ没収なんだよ!」

「校則は校則だ。これ以上がたがた言うなら、お前がしょっちゅう授業サボってるって親御さんに伝えるからな」


 納得がいかないし、意味もわからない。他の人間は黙認しておきながら、なぜ自分だけ? 不公平だ、こんなの。


「ちっ……わかったよ」


 渋々、十香はロザリオを外して瀬崎に渡す。


「後で返してくれるんすよね?」

「ん? ああ、学期末には返してやるよ。ほら、授業遅れるぞ。急げ急げ」


 せっかく気に入っていたのに、たった一日で没収だなんて……あんまりだ。瀬崎のやつ、今までこんな横暴する奴じゃなかったのに、どうしていきなり……? そもそも、校則違反だと言うのなら、さっき、体育の前に話したときに没収すればよかったじゃないか。それも含めて、今になって急にあんなことを言い出すのは、やはり不自然だ。


 ……なにか、おかしい。


 ――が、今はゆっくり考えている場合ではない。授業に遅れないように、十香は急いで地学講義室へ向かった。

------------------------------






 それと同じ頃、鳥居伸司は夕桜市北区の住宅街を訪れていた。中流から上流階級、それなりの富裕層が住まう地域。一戸建てが建ち並ぶ一角で、伸司はブロック塀にもたれかかりながら煙草を吸っていた。やがて、伸司から見て斜め前方の家から誰かが出てくる。伸司は煙草を地面へ落として踏みつぶすと、その人物へ向かって歩き出す。


「よぉ」


 門を出て、閉めたところで声をかける。相手はぎょっとしたようだが、すぐに逃げだそうとはしなかった。今度は逃げられないと観念したらしい。


「外で昼飯か? よければ一緒にどうだい?」

「家まで来るなんて、どうかしてるわ」


 佐村霧華は精一杯の悪態をついてみたようだった。伸司は肩をすくませる。


「出会った次の日にいきなり家まで押しかけるのは、たしかにマナー違反だな。でもな、多少どうかしてないとやってけないんだよこの仕事。大目に見てくれ、な?」


 名前と通っている学校の名前がわかっていれば、住所を特定することなど造作もない。昨夜あんなことがあったからもしやと思っていたが、やはり学校を休んでいたようだ。家の方を張っていて正解だった。


「鍵閉めてたみたいだけど、親は家にいないのか?」

「……父も母も、仕事よ」

「そうか……。話、聞かせてくれるよな? 場所を変えよう。お前の好きな場所でいい、言ってくれ。腹減ってるなら、昼食代くらい出すぞ」

「…………」


 霧華はうつむいて黙ってしまう。まだ決心がつかないようだ。少々強引だとは思いつつも、伸司は後押しをする。


「お前さんが手を出してるのはな、お前さんの考えている以上にヤバい案件だ。すぐに手を引かないと、死ぬことになるぞ」

「死……?」

「ただの脅しだと思うなら、それでもいい。俺も手を引こう。だが、お前に少しでも生きたいという気持ちがあるなら、素直に話してほしい。今ならまだ間に合う。……どうだ?」


 霧華は重いため息を一つついて、ようやく言った。


「…………わかった。近くに公園があるから、そこで話すわ」

------------------------------






 ホームルームが終わって昇降口へ向かうと、美夜子が既に待っていた。美夜子は十香を見つけるとすぐに駆け寄ってくる。


「十香ちゃん! よかった、遅いから先に帰っちゃったのかと」

「ああ、悪ぃな。なんか担任がいつまで待っても来なくてさ。代わりのセンコーが来るまでホームルーム長引いちまった」

「担任の先生、誰?」

「英語の瀬崎」

「あ、さっき校内放送で呼び出されてた!」

「そうなんだよ。よくわかんねぇけど、放送かけても出てこなかったとこ見ると、どうも学校内にいないっぽいな。連絡もつかないらしい」


 話しながら、下駄箱から出した靴を履いて昇降口を出る。少し遅くはなったものの、校門までの道のりには下校していく生徒たちの姿がまだ見える。部活動に入っている連中についてはこれからが本番だろう。


 歩きながら、美夜子が言う。


「へー……どうしたんだろ? 帰っちゃったのかな?」

「いくらなんでも勝手に帰るってのはないんじゃねぇかな? そんなことしたら職務放棄だのなんだので大変なことになるだろ。まともな思考ができる人間なら、まずあり得ない。でも、そうじゃなかったらなんだ、って話だよな……わかんねぇ」

「んー……お腹壊してずっとトイレに籠もってるとか? それで、放送で呼び出されても出るに出られなかった!」


 十香は顔を上げて笑った。


「ははっ! そりゃキツいな。いい気味だ」

「へ? いい気味って?」

「そうだ、聞いてくれよ。瀬崎のやつ、めちゃくちゃなんだ」


 十香は、昼休みの後、瀬崎にロザリオを没収されたことの経緯を話した。


「えーっ!? それひどいよ! ほんとにめちゃくちゃ!」


 美夜子は十香の話を聞いて憤慨する。


「だろ? 意味わかんないよな。あの程度のアクセサリー、あたし以外にもつけてるやつはいっぱいいるのに」

「他の人からは没収してなかったのかな?」

「それなら教室で話題になってたと思うから、多分ないな」

「変だね、それ……なんで十香ちゃんにだけ……」


 美夜子は顎を手で触りながら考え込む。やがて顔を上げ、


「瀬崎先生は、ロザリオがほしかった……とか?」

「はぁ? あんなもん、欲しがるか普通?」

「うーん……どうだろ……」


 美夜子は腕を組んで首をかしげた。言ってみたはいいものの、自分でも懐疑的らしい。十香としても、いい歳した大人が職権を乱用してまであんなものを欲しがるとは思えない。


 そこで一時話が中断する。そのまま校門を出た先の歩道を歩いていると、十香たちより三メートルほど前の方を歩いていた三人の女子生徒たちから気になる声が聞こえ始めた。


「うわっ……ねぇねぇねぇ」真ん中の女子がなにやら驚いた様子で、携帯の画面を両隣に見せながら言う。「死体、見つかったんだって! しかも場所近いよ、こわ……」

「うえっ……ほんとだー……最近こんなの多いよね」

「物騒だよねぇ。私もこないだ門限早まっちゃったもん」


 三人が口々に話す。


「なんの話だろ?」美夜子が言う。「死体がどうとか、言ってなかった?」

「あたしもそう聞こえたけど……」

「ちょっと、聞いてくる!」

「あっ、おい」


 美夜子が小走りに駆け寄って、三人へ声をかけた。リボンタイの色は三人とも緑、三年生だ。

 

「あのー、すみません。今なんのお話してたんですか?」

「ああ、今携帯見てたらちょうどニュース速報が入ったんだけどね」真ん中の女子生徒は特に鬱陶しがる様子もなく答えてくれた。「この近くで人の死体が見つかったんだって! 怖いよねー……」

「人の死体……?」

「ほら、これ」


 美夜子へ向けて携帯の画面を見せてくれる。十香もそれを横から覗き込んだ。


「えっと……」美夜子がニュースの文面を読み上げる。「『夕桜市北区の祇柳川(しりゅうがわ)河川敷に男性の変死体』……『通行人が発見して通報』……『男性は腹部に刺されたような傷があった。警察は現在男性の身元を確認中』……見つかった時間は、ついさっきだね」

「祇柳川っていったら、ここから何キロも離れてねぇな……」


 車を使えば十分かそこらというところだろう。そんな場所で死体が見つかったとは、たしかに物騒な話だ。近くを殺人犯がうろついているかもしれない。


「あなた達も今日は早く帰ったほうがいいよ。じゃ!」

「どーもー」


 三人組と別れてから、美夜子が言う。


「どうする十香ちゃん? このままセンセーのとこ行っても大丈夫?」

「んー……そうだな。預けてるあいつの様子だけ見たら、今日は早めに帰るわ。親父がニュース見たら、心配して電話かけてきそうだし」

「だったら、センセーに家まで送ってもらうといいよ。車持ってるし。あたしもそうしてもらおっかな」

「うぇー? あいつにこれ以上世話になんの、なんか嫌なんだよな」

「どーして?」

「どうしてかな……よくわかんね」


 鳥居伸司の探偵事務所へ向かってしばらく歩く。学校からの進路では途中、人通りの少ないやや寂しい区画を通る必要がある。殺人のニュースがあったばかりということを考えると、些か不用心な気もするが、ここを避けるとかなり遠回りになってしまうので、さっさと通り抜けてしまうことにする。シャッターの閉めきった店が並ぶ通りを二人きりで歩いていると、美夜子が口を開いた。


「あのね、さっきの続きなんだけど……」

「続きって?」

「ほら、ロザリオのこと」

「瀬崎のやつがロザリオを欲しがったんじゃねーか、って話か? ないない。それはないって。だいたい――」

「ううん。そうじゃなくてね。瀬崎先生が没収したことと関係があるかはわからないんだけど、あのロザリオ、ちょっと気になってて……」

「気になって……? なにが?」


 十香が尋ねると、美夜子は急に身体を寄せてくる。


「わっ、ちょ、なんだよ?」


 美夜子は顎を上げると、ブラウスの胸元を手でつまんで言った。


「十香ちゃん。あたし昨日と同じ香水つけてきてるんだけど、わかる?」

「へ……? あ、ああ。わかるけど」


 たしかに美夜子からは昨日嗅いだのと同じ、フローラル系の香りがする。


「っていうか、なんだよ急に香水の話なんてして。ロザリオと関係ないだろ」

「じ、つ、はー……関係なくないんだよね」美夜子は含みのある笑みを口元に浮かべて、「今日さぁーあ? この匂い、別の場所でも嗅いでない?」

「……え? そんなわけ――あれ?」


 ――どうしてだろう? 言われてみると、この匂いを嗅いだのは今日これが初めてではないような気がする。昼休みにも美夜子に抱きつかれたから、その時かとも思ったが……違う。それよりも前のことだ、この匂いを嗅いだのは。しかし、そんなはずは……。


「……あっ、そういうことか!」


 やっとわかった。今になって気がつくだなんて、自分の鈍感さに呆れる。


「んふふ、気づいた?」


 美夜子はいたずらを仕掛けた子どものような顔で笑う。

 

「やっとな。あれはそういう意味――」


 言いかけた、その時だった。前方右手側の路地から、誰かが飛び出してくる。


「あっ……!」


 飛び出してきた男は、十香と美夜子を見て驚く。それは、十香たちも同様だった。その男は、昨日松里山公園で会った、ホームレスでありスリ師の――やっさんだった。


「昨日のおっさん!」十香は声をかける。「何してんだよこんなとこで? あ、それより! おっさんに聞いときたいことがあんだけど――」


 昨日貰ったロザリオについて問いただし、あれが本当に盗品であるなら説教の一つでもしてやろうかと思っていた。――しかし。


「逃げろ二人とも!」


 走ってきていたらしく、やっさんは息を切らせながら言った。その顔には焦燥の色がある。


「は……? ちょっと待ってよ、逃げろっていったい……」


 十香が言う。しかし、やっさんは聞こえていないようだった。


「すまない。俺のせいだ。俺があいつらに話してしまったからこんな……すまない……!」


 やっさんは半ばパニックを起こしたかのように、手で顔を覆いながら謝罪の言葉を繰り返す。


「あの。状況がよくわからないんですけど……」


 美夜子が言う。十香も頷いて、


「そうだよ、いったい何があったんだ? 落ち着いて説明してくれよ、おっさん」


 よくはわからないが、なにやら緊急の事態になっているらしいことを十香は察知する。


「す、すまん」


 やっさんはやっと息を整えて、少し落ち着いたようだった。


「詳しい話は後だ。危険な奴らが君を捜している。すぐに家へ……いや、この場合警察へ行ったほうがいいのか? とにかく、こんなところを歩いてちゃいけない。……しかしよかった。学校へ行く途中で会えて……すれ違っていたらどうしようかと思った」


 言っていることの意味は相変わらずよくわからないが、やっさんは自分たちを探していたらしい。


「まずは人のいる場所に向かおう。それならやつらも…………ぐっ」


 やっさんは突然声を詰まらせると、目を大きく見開いた。


「えっ?」


 十香は目の前の光景に咄嗟に反応することが出来なかった。やっさんは操り人形の糸が切れたように、がくりと膝をついて倒れ込む。その背中には、刃物――ナイフが刺さっていた。


 倒れたやっさんの後ろには、見慣れない大男が立っている。その隣りに、もう一人。


 ――誰?


 二人とも派手なシャツにだぼついたズボンというチンピラのような服装だが、いかにも喧嘩慣れしていて屈強そうだった。やっさんを刺した大男が、獲物を追い詰めた獣のような歪な笑いを浮かべる。


「美夜子っ」

「あっ……」


 十香は立ち尽くしていた美夜子の手を掴むと、すぐに後ろへ向かって走り出した。すぐに男二人が追いかけてくるのがわかった。


 ヤバい――やばいやばいやばいやばいやばいやばいっ!!


 なんだあいつら……あんな、あんな簡単に人を刺すなんて! おかしい、何が起こってる!? おっさんは逃げろって言ってた。あたしらを狙ってるのか? ……なんで!? わからない、わけがわからない!


 もしかして、あいつらか? 河川敷で見つかった死体は、あいつらの仕業なのか? 確かめるすべはない。とにかく逃げなければ! 捕まったら、何をされるかわからない!


「いたぞ!」


 前方から、また別のチンピラ風の二人組がこちらへ走ってくるのが見えた。後ろから来ている二人の仲間だろう。このままでは挟み撃ちにされてしまう。


「くそっ……!」


 十香は美夜子の手を引きながら、咄嗟に左手側にあった路地へ入った。


「はぁ、はぁ……っ。ご、ごめん、十香ちゃん」美夜子が息を切らせながら言う。「あたし、もう走れない……」

「はぁ!? まだせいぜい百メートルくらいしか走ってない……って、おい、大丈夫か!?」


 ちらりと後ろを見ると、美夜子の顔が青い。本当に辛いのだろう。走る足取りもふらついていて危なっかしい。急に全力疾走したのがまずかったか。


「くそっ、体力なさすぎだろ……もう少しだけ、頑張れ! そしたら人通りの多いとこに出るから! だから、それまでなんとか走れ! いいな!?」

「う、うんっ」


 美夜子は喘ぐように返事をする。このあたりの地理には詳しくないし、この路地が人通りの多い場所へ繋がっているかどうかも本当はわからない。最悪、行き止まりになっているかもしれない。しかし、とにかく今は美夜子を励まして無理やりにでも走らせ続けなければ。そうしないと、奴らから逃げ切ることは不可能だ。


 路地の切れ目が見えてきた。広い通りに出られさえすれば、誰かに助けを求められるかもしれない――!


 ――が、しかし。その希望はあっさりと潰えてしまう。


「はい、残念でしたー」


 路地の出口を塞ぐように、男が立ちはだかった。


「うっ……」


 十香は立ち止まざるを得なかった。男は手にナイフを持っている。見れば、先ほどやっさんを刺した男の隣りにいた男だ。暗く濁ったような目と、口元に浮かんだ品のない薄ら笑いが近寄りがたさを醸し出している。


 しくじった……十香は内心舌打ちする。てっきり全員後ろから追いかけてきているものと思い込んでいたが、途中で分かれて回り込まれた。逃げ道を塞いできていたのだ。


 後ろからも三人が来ている。……逃げられない。


 じりじりと距離を詰められて、十香と美夜子は路地の中ほどに追い込まれる。


「十香ちゃん……」


 美夜子が十香の袖を掴む。


「……大丈夫だ。心配すんな……大丈夫だから」


 十香は美夜子にだけ聞こえる声でそう言うと、路地の壁を背に、美夜子を庇うように一歩前へ出た。正直に言って、怖くてたまらない。手足も震えている。だが、その怯えを美夜子に見せるわけにはいかない。自分は先輩なのだ、頼れる存在でなければならない――その思いだけが、辛うじて十香を両足で立たせていた。


「……なんなんだよ、あんたら。何が目的なんだ」


 十香は震えそうになる声を喉からなんとか絞り出して、左右の男たちへ向かって言う。左側に立つ――出口を塞いでいた男が答えた。


「なるほど、なるほどなるほど……金髪と、赤い髪の女子高生二人――あのオヤジの言ってたとおりだな。素直に話してくれたまではいい。でもその後で本人らにチクっちゃうのはいただけない。だからあんな目に遭っちゃう。ま、俺らの計画めちゃくちゃにしてくれたお礼に、元々ぶっ殺す予定ではあったんだけどさ」


 計画? なんのことだ?


「……言ってる意味がわかんねぇ」

「ははっ、わかんなくていいよ、べつに。で、金髪ちゃん。お前が鍵を持ってるんだよな?」

「……鍵? 鍵って、なんの鍵だ?」

「あぁん、しらばっくれちゃう? それとも、ほんとにあれが何なのか知らないのかな? まぁいいやどっちでも。っていうか、もう喋んなくていいよめんどくせぇ。お前が持ってるのはわかってるんだからさ」

「話を勝手に進めんじゃねぇ! 鍵ってなんの――」


 最後まで言い終えることはできなかった。男に左頬を思い切り殴りつけられたからだ。視界が大きく揺れて、十香は吹っ飛ばされるようにアスファルトの地面へ倒れる。


「ひっ……!」


 目の前で突如起こった異常な出来事に、美夜子は驚いて短い叫び声をあげた。すぐに倒れた十香に駆け寄って、


「と、十香ちゃん? 十香ちゃん!? 大丈夫!?」

「いっ……てぇ……」


 十香は殴られた左頬を手で押さえる。熱があり、じんじんと痛んだ。口の中を切ったようで、血の味が口内に広がる。押さえる手のひらも痛い……倒れ際に咄嗟に地面に手をついたせいで、擦りむいてしまったらしい。


「もう喋んなくていいって言ったの、聞こえなかった?」男が言う。「俺さぁ、人の話を聞かないやつは嫌いなんだ」


 理由になっていない。そんなことでいきなり躊躇いなく殴るなんて、異常だ。


「ふざけんな……説明しろよ……」十香はなんとか立ち上がろうとしながら、男を睨みつける。「わけもわからず、こんな……」

「うるせぇんだよ! 黙れって言ってんだろがこらぁ!」


 男は苛立ちを込めるように、十香の腹を勢いよく蹴った。


「ぐっ……!?」


 内臓が飛び出たかと錯覚するような衝撃――あまりの激痛に、十香は地面にうずくまってしまう。


「かはっ……は……あ、がぁ…………」


 息が出来ない。声が漏れ、涙が零れる。頭の中がぐるぐるして、意識が吹っ飛びそうになる。


 怖い――痛みだけでなく、恐怖で身体が震える。理不尽な暴力の前に、自分の無力さを痛感した。これ以上逆らったら、殺される。


 殺される……死ぬ? こんな、わけのわからないことに巻き込まれて? 嫌だ。そんなの嫌だ。


「もうやめてっ! 十香ちゃんにひどいことしないで!」


 美夜子が十香の肩を抱きながら言う。


「うっ……や……め……」


 痛みのせいで、声が出なかった。


 やめろ。あたしを庇うなんてやめてくれ。余計なこと言ったらお前も殴られるぞ。下手すれば、殺されるかもしれない。こいつらは常識が通用するような相手じゃないんだ。


「そーだよ、そのへんでやめとけユージ」


 男を止めたのは、男の仲間だった。


「どうせ二人ともまた朱ヶ崎のマフィアどもに売り飛ばすんだろ? だから俺ら、一緒に話して決めたじゃねーか。その前に俺たちで楽しもうってよ」

「そうそう」また別の男が言う。「おめーは殺した後でも楽しめる変態だからいいかもしんねーけどよぉ。俺たちゃノーマルだから、あんまし傷だらけにされちまうと困るぜ。売るときの値段だって下がるだろ?」

「……ちっ、わかったよ。で? お前らどっちがいいんだ?」


 下卑た笑いを浮かべて、ユージと呼ばれた男は言う。男の仲間たちは口々に、


「はいはい! 俺、断然赤い子のほうがいい!」

「じゃー、俺は気の強そうな金髪ちゃん!」

「両方はダメなの?」

「そりゃお前、二本あるわけじゃないんだから最初はどっちかだろうが」

「じゃあとりあえず赤髪の子から。ユージは金髪だろ? 半分ずつでちょうどいいな」

「勝手に決めんな馬鹿。まぁいいや。こいつはもうちょっとかわいがってやりたいと思ってた」

 

 ユージは倒れたままの十香の髪を乱暴に掴んで持ち上げる。


「痛っ……!」


 ぶちぶちと音を立てて髪が抜ける。


「やめ――」


 美夜子が止めようとするが、別の男たち二人に腕を掴まれてあっという間に身動きできなくされる。


「おっと、君はこっちで俺たちの相手をするんだよー?」

「髪綺麗だねぇ、地毛? ハーフかな?」

「い、いやっ! 触んないで!」


 髪を男に触れられて、美夜子は嫌々と首を振った。


「あーあぁ、かわいそうに。お前と一緒にいたせいであの子も巻き添えだ」


 ユージは十香の髪を掴んだまま美夜子を見て言う。


「巻き……添え……?」

「俺らの狙いというか、目的のメインは、お前の持ってる鍵だ。だからあの子は本当なら無関係なの。それがたまたまお前と一緒にいたせいで、俺らのオモチャよ」

「あ……ああ……?」


 あたしと一緒にいたせいで、美夜子が……あたしのせいで……?


「まぁ俺らとしちゃラッキーだからいいんだけどよ。ほら、お前の大事なオトモダチが慰み者にされるところ、見ておいてやれよ」


 男が髪を掴んだ手を引き上げて、十香は美夜子の姿を見させられる。


「へへ、金髪ちゃんが見ててくれるってよ」美夜子を押さえつける男の片割れが言う。「おっと、抵抗するなよ? そのぶん金髪ちゃんが辛い目に遭うんだぞ? そうだ、わかりゃいいんだ。存分に見せつけてやろうぜ?」

「ひっ……!」


 男が美夜子のセーラー服の上から胸を触る。美夜子は怯えきった様子だったが、十香に危害を加えると脅されているためか、抵抗する気配はない。もう一人の男がスカートへ手を伸ばす。


「あっ、だめ……」


 美夜子が今にも泣き出しそうな声を上げた。


「なにがだめだって?」


 男は下品に笑いながら、美夜子の太ももに手を這わせる。


「そんな緊張しないでいいよー。すぐ気持ち良くさせてあげるからさぁ」


 男の指が内太ももをなぞると、美夜子は小さな悲鳴をあげて震える。


「や……やめろっ!」十香は叫ぶ。「もうやめてくれ……お願いだから……!」


 もう限界だった。美夜子が傷つけられる様を目の前で見せられるなんて、耐えられるはずがない。だから、なりふり構わず懇願する。


「そいつは関係ないんだろ……? だったら……だったら、そいつは見逃がしてやってくれよ、なぁ!? あたしが、そいつの分も引き受けるから……!」

「なっ……」


 美夜子はショックを受けたような表情で言う。


「なに言ってるの、十香ちゃん……? そんなのだめ――」

「いいから黙ってろ!」十香は美夜子の言葉を遮る。「いいんだよあたしは……あたしは、もういいから」


 元々あたしに失うものなんてない。何が大事かだなんて、そんなこと、とっくにわかっている。


 こんなクソみたいなやつらが美夜子に触れてはならないんだ……。あたしで代わりになるのなら、いくらでもなってやる。


「ハッ……」ユージが嘲笑する。「オトモダチを助けるために自分が犠牲になるってか? 泣かせんなぁ、オイ!?」


 十香は髪を掴まれたまま、頭ごと地面に叩きつけられる。


「あぐっ……」


 顔面右側が固いアスファルトに押しつけられる。細かな砂利が右頬を刺して痛む。


 叩きつけられる直前、咄嗟に地面に両手をついていなければ、勢いそのままに頭を割られていたかもしれない。相手を痛めつけるとなったら、もしかしたら死んでしまうかもしれないとか、そういう配慮は一切ないのだろう。


 ユージは立ち上がって、十香の頭を上から靴で踏みつける。


「そーいう、なに? 自己犠牲? みたいな? ムカつくんだよ、なぁ!」


 地団駄でも踏むかのように、ガン、と頭をストンプされる。脳が揺れて、また意識が飛びそうになる。美夜子の声が聞こえた気がするが、何を言っているのかわからない。


「その女見逃してほしいんだったら、もっと俺らに媚びるようにお願いしてみろや。そうしたら考えてやってもいいぜ」


 十香の頭をゴミのように踏みつけながら、男が言う。


 逆らってはだめだ。今は美夜子を助けないと。それだけを考えないと。それだけを……。


「お……おねが……」


 声が思うように出せなかった。目から涙がぼろぼろと零れる。為す術なく暴力に屈するしかない悔しさと惨めさが、苦しくて、辛くてたまらなかった。殴られた痛み、自分の無力さへの失望、この先待ち受けることへの恐怖、全てがぐちゃぐちゃになって十香の心の器を決壊させる。


「うっ……ひぐっ……お願い、します……あたしが代わりになるので……そいつは、見逃してやって……ください……」


 嗚咽を混じらせながら、十香は訴える。


「やめて……十香ちゃん、やめて……!」


 ……美夜子。お前だけは。お前だけは、なんとしてでも助けてやるからな……!


「……ちっ。ま、そこまで頼まれちゃあしゃーねーな。そっちの赤毛は見逃がしてやる」


 ユージが言うと、十香の頭に乗せられていた靴がどかされた。十香は倒れたまま男を見上げて、


「ほ、本当に――?」

「――なーんて、言うと思ったかよ? バーカ!」


 鈍い痛みが腹部に走った。男のつま先が十香の腹にめり込んでいた。


「ああっ……ぐ……!」

「見逃すわけねぇーだろうが、あぁ!? テメーら二人とも、この先一生、死ぬまで男の奴隷なんだよ! わかったかよ、この豚がっ!」


 醜い罵りを受けながら、身体中――頭も腕も胸も腰も足も、手当たり次第に足蹴にされる。


「ユージのやつ完全にイっちまってるじゃねぇか。あーあ、あれじゃ死んじまうよ。もったいねぇな、クソ」


 男の仲間が諦めたように言う。


 このまま、嬲り殺しにされるのだろうか――こんな状況の中、十香の思考は変に冷静になり始めていた。視界が霞んできて、意識が途絶えかかっているのだということもわかった。


「十香ちゃん! いやっ……こんなのいやぁ! やめて……やめてください! お願いだからぁ!」


 美夜子の泣きながら叫ぶ声が、遠くに聞こえる。


 ごめん。ごめんな、美夜子……お前のこと、助けてやれそうにない。 


 十香が意識の手綱を手放してしまいそうになった、その時だった。


「――何してんだ、あんたら」


 聞き覚えのない女の声。路地の向こう側からだ。ユージが舌打ちをして、女へ向かって言う。


「あ? 誰だぁ、お前? 俺ら遊んでるだけだからよ! とっとと失せろや」

「……遊んでるだけ、ね。どうもそうは見えないけどー?」

「た……助けて!」


 美夜子が叫ぶ。


「警察、呼んでください! この人たち――」

「黙ってろっ!」


 ユージは美夜子を脅しつける。女へ振り返って、


「おい、余計なことすんなよ。お前も殺すぞ」


 十香はひっそりと顔を上げて、そこで初めて女の姿を見る。


 眠たげな眼をした女だった。髪は明るい栗色で右サイドを束ねたポニー、白いワンピースの上に丈長の灰色のジャケットを羽織っており、下はジーパンという服装。煙草を口にくわえて、ジャケットのポケットに左手をつっこんでいる。大学生くらいの風貌にも見えるが、この事態を前にして、顔色一つ変えずに整然と立っていられる落ち着きぶりは、どこか異常にも思えた。


「ふーん。あんたらは、遊びで人を殺すのか?」


 サイドポニーの女は煙草を右手で口から離すと、挑発するように言った。


「……あ? だったらなんなんだ?」

「いやー、べつに。これからの仕事、気が楽になると思っただけだ。遠慮なくやれるからな」

「……なんの話だ?」

「お前ら、ブルーガイストの下っ端だろ?」


 ブルーガイスト? どこかで聞いたような……。女の言葉で、男たちが一様に動揺し出すのがわかった。


「……何もんだ、てめぇ!?」

「知る必要はない。全員殺すからな」


 女は平然と言い切る。……殺すだって? 正気なのか?


 相手は四人で、いずれも喧嘩慣れしていそうな屈強な男たちだ。女はせいぜい中肉中背――というよりは、少し小柄なくらいだろう。とても四人を相手にして勝てるとは思えない。しかし、冗談を言っているようにも見えなかった。


 女は更に続ける。


「まぁ、私も鬼じゃない。一応チャンスはくれてやる。全員、武器を捨てて降伏しろ。そうすれば……うぅん、そうだな……うん。三時間くらいは、命が延びるかもな」

「ふざけたこと言ってんじゃねぇぞ……」

「あらあら。やる気満々って感じだなー。ほんとにいいのか? 選択のチャンスはこれっきりだぞ?」

「ハッ……チャンスを潰したのはどっちのほうか、教えてやろうか?」


 ユージは次に仲間たちへ向かって声をかける。


「おい、お前らわかってんな? この馬鹿女に身の程思い知らせてやれや!」


 美夜子を捕まえていた男たちも手を離し、謎の女のほうへ向き直る。


「オーケー。じゃあー、やろうか」


 女はジャケットのポケットに入れていた左手を出して、準備運動でもするかのようにぶらぶらと動かした。何も持っていない。右手には吸いかけの煙草を持ったままだ。まさか、何の武器も持たずにやるつもりなのか? 無謀すぎる!


「へへっ、素手でやろうってのか? すげーな、マジで頭沸いてんじゃねーの?」


 男の一人がへらへらと笑って言う。すると、女は涼しい顔をしたまま答えた。


「アリを踏みつぶすのにナイフや銃を使う馬鹿がいるか。余裕こいてる暇あったら、さっさとかかって来いよ糞虫ども」

「……ああ?」

「来ないならこっちからいくぞ」


 女が男たちへ向かって駆け出す。それを迎え撃つように、男たちの中から一人が先頭へ出てきた。


「馬鹿が! ぶっ殺してや――えっ?」


 その場にいた、誰もが目を疑うような光景がそこにあった。


 女は、飛んでいた。高さ二メートル近い大跳躍。その踏切りの勢いそのままに繰り出された、全体重を乗せた弾丸のようなキックが、先頭の男の顔面に突き刺さる。男は潰されたカエルのようなおかしな声を出して、後方へ弾かれたように吹き飛んだ。


 あれが人間の動きなのか。まるで特撮アクションの世界だ。


 誰もが、吹き飛ばされた男の方へと意識が向かっていた。驚愕、呆然――当の本人以外、目の前の光景をすんなりと受け入れられた者はいなかっただろう。それが対処の遅れを生んだ。その間に女は着地し、立ち上がり際にバネのような勢いで飛び出すと、そばにいた二人目の男の顎へ向かって、左手での掌底打ちを喰らわせる。男の首が、オモチャのように容易く、人体の構造上あり得ない方向へと曲がる。


「このっ――!」


 ユージは狼狽しながらも懐から何かを取り出す。銃だ。そんなものまで持っていたのか。十香はいつか観た任侠映画でその銃を知っていた。あれはたしか、コルトガバメントとかいう自動拳銃だ。


 ユージの反対側には、大振りのサバイバルナイフを構えた男が立っている。女を挟み撃ちにする位置だ。


 女はサイドポニーの髪を振りながら瞬時にユージの方へ身体を向けると、右手に持っていたまだ火のついた煙草をユージの顔めがけて投げつける。


「ちっ……!」


 ユージは身体ごと顔を逸らして、すんでのところで煙草を躱す。すぐさま右手に持った銃を女へ向けようとするが――女はそれと同時に、左手でその銃身を掴んでいた。銃口の上の部分を押さえ込むように、しっかりと握りこんでいる。


「馬鹿が! 死ねっ!」

 

 男は構わず引き金を引く――いや、引こうとした。


「っ……!?」


 男は困惑したようだった。何度指を動かしても引き金が動かない。当然、弾丸も射出されない。


 よく見ると、女が手で掴んだ部位――スライドと呼ばれる部分――は相手の方へと押し込むようにしてずらされている。もしかして、ああすると引き金が引けなくなるのだろうか。ユージもそれに気づいたようで右手を後ろへ引こうとしたが、遅かった。


「がっ!?」


 女の右拳が、容赦なくユージの鼻をへし折る。女は相手が倒れるのに合わせて、銃をもぎ取る。その後ろから、サバイバルナイフを持った男が突進してきていた。危ない!


「後ろ!」


 十香が叫ぶ。女はにやりと笑って、


「わかってるって!」


 男に対して後ろ向きのまま、上半身を腰から前に曲げて背中へ突き出されたナイフを躱す――続いて流れるような動作で、右足から繰り出される超速のカウンター回し蹴りが男の側頭部を捉えた。打撃の瞬間、何かが破壊される鈍い大きな音がして、男はきりもみ回転しながら地面に墜落する。


 上空に、男が手放したサバイバルナイフが放られる。


「おっと」


 くるくると上下に刃先を回転させていたそれを、女はこともなげに右手でキャッチした。


「ふぅ! 一丁上がり、ってね!」


 呆然とする十香たちへ向けて、女が笑いかける。


「あ……あんた、いったい……」

「あ、ちょい待ち。すぐ済むから」


 女は奪い取った銃にセーフティをかけ懐へしまってから、倒れていたユージのもとへ歩み寄る。


「ひっ……!? や、やめてくれ! 殺さないで……!」


 鼻血をだらだらと流した男は、ついさきほどまでとはまるで別人だった。狂犬といえども、虎や豹の類には敵わないということか。


「今さら命乞いか? 勝手なもんだな。お前はさっき、自分で生き残るチャンスを捨てたんじゃないか。私はたしかに言ったぞ。ちゃんと人の話を聞かないやつが悪い」


 女はユージのそばに屈み込むと、持っていたナイフを相手の首元に突きつける。十香たちへ笑いかけた時とはまったく別の、冷たい目を男へ向ける。


「ひぃ……!」

「……生きたければ質問に答えろ。お前らに『鍵』を捜すよう指示したのはブルーガイストのリーダー、青桐和也(あおぎりかずや)だな?」

「なぜ……『鍵』のことを知っている……?」

「うるさい」


 女がナイフの刃先を数ミリほど相手の喉に食い込ませる。


「ぐぁ、やめ、やめて……!」

「質問にだけ答えろ。私は気が短いぞ」

「そ、そうだ。青桐に指示された! 刺さないでくれ!」

「青桐は今、どこにいる?」

「知らない、わからない……」

「わからないだと? そんなはずがあるか!」

「ほ、ほんとうなんだ! 事務所襲撃の後、青桐はリスク分散のためだとかなんとか言って、チームを幾つかの班に分けた。違う班のやつらが今どこにいるかは知らないんだ!」

「青桐から指示を受けてはいたんだろう? だったら青桐のやつへ電話して、居場所を聞き出せ」

「それは、無理だ! 今のあいつは、警戒心の塊みたいになってる。優秀だからみんなついていってるだけで、あいつ自身は仲間のこともろくに信用してないような人間だ。俺なんかに居場所を教えるわけがねぇよ……!」

「ちっ、面倒な……わかった。じゃあ携帯だけ出せ」


 ユージは慌てながらズボンのポケットから携帯電話を取り出す。女はそれを取り上げて懐へしまうと、


「じゃあもう一つ質問だ。昨日お前らが起こした襲撃について、計画を持ちかけたやつがいたんじゃないか? お前ら、どこで『アレ』のことを知った? 裏で糸を引いてるのは誰だ?」

「し、知らない……青桐のやつが、言い出したことなんだ。たしかに、向こうの内通者と連絡を取り合っているようではあったが……俺らはそいつの名前や顔は、知らない。知ってるのは、青桐だけのはずだ。本当だ! 信じてくれ!」

「……なるほど」


 女はナイフを引っ込めた。


「ちゃんと質問には答えたぞ! 助けてくれるんだろうな!?」


 ユージの言葉に、女は肩をすくめる。


「助ける? お前をか? 誰がそんなことを言った?」

「なっ……はぁっ!? だ、だって」

「『生きたければ質問に答えろ』、とは言ったが、お前を助けるなどと言った覚えはない」

「馬鹿な! そんな、そんな馬鹿なことがあるか……っ!」

「外道の論理に馬鹿も賢いもあるか。悪く思うなよ、先にしかけてきたのはお前らなんだから」


 ユージはハッとして、おののくように目を見開く。


「じ、じゃあやっぱり、お前は……!」


 そこで、女の声が俄に殺気立つ。


「我々『ナイツ』に刃向かった代償、きっちり支払ってもらうぞ」


 女はナイフの柄頭を水平に振り抜いて、ユージのこめかみに打撃――男はその一撃で昏倒した。


「……殺したのか?」 


 十香が尋ねる。女は手をひらひらと振って、


「いやー、気絶させただけだよ。一、二時間は起きない。後のことは他の連中に任せる。まぁ、ここで死んでたほうがいくらかマシだったろうさ」


 女は立ち上がって携帯電話を取り出すと、どこかへ電話する。


「……ヴェガだ。回収を頼みたい。二、三人死んでるが、全部で四人。全員ブルーガイストのメンバーだ。生きてるやつは絞ればまだ何か出てくるかもしれない。場所はこちらのGPSを確認してくれ。頼んだぞ」


 ヴェガ? それが彼女の名前なのだろうか? 日本人のように見えるが……。


 女は携帯をしまうと、十香へ向かって言う。


「さて、待たせたね、お嬢ちゃん。相当殴られたみたいだけど、だいじょーぶー? 病院行かなくていいかい?」

「あ、ああ……大丈夫」


 まだ身体のあちこちが痛むが、病院に行くより先に確かめておきたいことが山ほどある。


「そう? じゃあ、そっちの君はー?」


 女は美夜子のほうを見て尋ねる。


 ……そうだ! 美夜子だ!


 美夜子は壁際に腰が抜けたようにして座り込んでいた。十香は四つん這いのまま近寄って、


「美夜子……だ、大丈夫だったか?」

「大丈夫じゃ……ないよ」

「えっ……どこか、怪我したのか!? どこ!? 見せてみろ!」

「そうじゃないの……」


 美夜子は首を横に振る。泣いていた。


「あたし、十香ちゃんがひどい目に遭わされてるのに、何にもできなかった……あたしを庇ってくれたのに……何にも……できなかった。悔しくて、悲しくて……どうにかなりそうだった。ごめんね……十香ちゃん、ごめんね……」


 美夜子が十香の腫れた左頬を手でそっと触る。少し痛んだが、その手は冷たくて心地がよかった。


「……痛かったよね。何にもできなくて、ごめん……」

「お前……」


 怖い思いをしたのは自分だって同じはずなのに。あたしなんかのために泣いているのか、こいつは。


 肩を震わせて涙を流す少女を、十香は抱きしめる。そうせずにはいられなかった。


「ありがとな……あたしはこのくらい、平気だからさ」


 美夜子の背中をあやすようにさすってやりながら、十香は言う。


「こんな怪我、屁でもねぇよ。それより……」

「……なに?」

「……いや、なんでもない」


 守れたのは、自分の力のおかげではない。それでも、この少女が無事でいてくれたことに十香は改めて安堵する。


 お前が無事でいてくれて、よかった。


「……それに、謝んなきゃいけないのはあたしのほうだ。あいつらの話じゃ、あたしと一緒にいなけりゃ、お前が巻き込まれることもなかったらしいから……怖い思いさせて、悪かった」

「ううん。十香ちゃんが謝ることない。……もう大丈夫だよ、ありがと」


 美夜子は泣き止んだようなので、そっと離れる。

 

「それにしても、なんだったんだろうな……あいつらの言ってた鍵って、何のことだ? あたし、家の鍵くらいしか持ってないぞ。あとは、学校の屋上の鍵とか……そんなもん探してるとは思えないし……」

「それなんだけど……あたし、一つ思いついたことがあって」

「なに?」

「あの人たち、やっさんからあたしたちのことを聞き出したんだよね」

「たぶん、そうだろうな」

「どうして、やっさんからだったんだろうって思って……それにあの時、やっさんが言ってたこと覚えてる? 『詳しい話は後だ。危険な奴らが君を捜している』……『君たち』をじゃなくて、『君を』だった。やっさんは、狙われているのが十香ちゃんのほうだってこともわかってたんじゃないかな。つまり、やっさんと十香ちゃんの繋がりが重要なんだよ。それを示すものっていったら、一つしかないよね?」


 そこまで説明されれば、十香にも察しがつく。


「あのロザリオが……鍵、なのか? いや、でもそれってどういう……あ、それより!」


 やっさんの話で思い出した。


「あのおっさん、まだあそこに倒れたまんまじゃねーのか!? 大変だ、早く救急車――」

「その点は心配いらないよ。さっき私が見つけて仲間に回収を頼んだから」


 サイドポニーの女が言う。


「治療を受けられるよう手筈してある。まだ息はあったようだから、運が良ければ助かるかもしれない」

「そ、そうなのか?」

「まぁそれでも傷は深かったから、微妙なとこだけどね。――さて、そろそろ話を進めたいんだが、よろしいかな?」


 そうだった。この女には訊きたいことが沢山ある。女は意地の悪い笑みを口元に浮かべて、


「もう語らいの時間はオーケー? なーんか二人の世界って感じだったから、切り出すタイミング難しかったんだけどー?」

「あ……いや……」


 十香は美夜子と顔を見合わせて、なんだか気恥ずかしくなる。


「あはは……」


 美夜子も同じらしく、頭の後ろを触りつつ笑う。


 女は路地の向こうを親指で指して、


「近くに車を停めてある。中で話をしよっか」

------------------------------






 通りに停めてあったワンボックスカー。その後部座席に、十香と美夜子は乗り込む。運転席に座った女は、まずどこかへ電話をかけていたが、相手は出なかったようだ。電話をしまって、切り出す。


「さてー……自己紹介がまだだったね。私は静谷織江(しずやおりえ)。仕事上、ヴェガなんて名前で呼ばれることもある。まぁ、好きなように呼んでよ。そっちは亀井十香ちゃんと、志野美夜子ちゃんで合ってるよね?」

「そうだけど、どうしてあたしらの名前を?」


 十香が言う。


「ボスから聞いている」

「ボス?」


 もう、なにがなにやら。


「許可はもらってるから、全部説明してあげる。君たちには聞く権利があるから。一度では理解しきれないかもしれないけど、本当のことしか話さないからよく聞いて」


 織江は十香の心中を察したように言う。


「始めに言っておくと、私のボスは岸上薔薇乃という女だ」

「岸上……岸上薔薇乃だって!?」

「そう。君たちの知り合いの、あの岸上薔薇乃。彼女の親は、全国中に支部を抱える『ナイツ』という犯罪組織のトップ。そして彼女自身も、この夕桜にある二つの支部のうちの一つを任されている。そして私は彼女の下で働いている兵隊の一人」

「……本当だったのか」


 ここまで来たら、疑う余地はない。伸司の言っていたことは、真実だった。


「んー? どうかした?」


 織江が尋ねる。


「いや、前にそういう話を聞いたことがあったから。半信半疑だったけど」

「へぇ、そうか。まぁ、それならいくらか飲み込みやすいかな? ――さてと、君たちが襲われた理由だけど、それを説明するにはまず、昨日から起こっている騒動について話す必要がある」

「騒動って?」

「昨日の夕方前、うちの支部傘下の二つの事務所がブルーガイストという集団に襲撃された」

「ブルーガイストって、さっきのやつら?」

「そう、聞いたことない? 近頃よくはしゃいでる半グレのチームなんだけど」


 やっと思い出した。ブルーガイスト。昨夜、コンビニ前で魅冬と出くわした際に聞かされた名前だ。


「ブルーガイストは、青桐和也という男をリーダーとしている。性格は狡猾で残忍、そして厄介なことに、頭がキレる。かなりの危険人物だ。今回の一件も、青桐が主導しているのはまず間違いない」


 織江が先ほど、ユージに居場所を問いただしていた男の名前だ。ユージの話では、チームを分散させて逃げているため、違う班である自分は青桐の居場所を知らない――ということだった。青桐という男は相当警戒心が強いらしい。


「奴らは二つの事務所を襲撃し、それぞれがその場にいた全員――合わせて八人を殺害した」

「八人も……」

「そして、それぞれの事務所で保管していたあるものを奪っていった。値打ち九億円相当のダイヤが入った金庫と、その鍵だ」

「きゅ、九億……」


 額がでかすぎて、ピンとこない。


「元々そのダイヤは、とある別組織との重要な取引に使われる予定だった。それが奪われたのだから、もう大変よ。私たちはなんとしても、早急に、ダイヤと鍵を取り返さないといけなかった。今はとある事情があってあまり多く人員を割けないから、私なんかは大忙しさ。私は岸上薔薇乃直属の兵隊だから――まぁ私一人しかいないんだけど――、色々とこき使われているというわけ」


 直属ということは、それだけ優秀で信頼もされている……ということなのだろうか。言動が軽々しすぎていまいちそんな気がしないが、彼女の言う「兵隊」としての実力という意味では、先ほどその片鱗を目の当たりにしている。助けてくれたことにはもちろん感謝しているが、ああしていとも簡単に人の命を奪ってしまえる織江は、やはり同じ世界に生きる人間ではないのだという気もした。


「――おっといけない、話を戻そう」


 織江が言う。


「まぁ、ダイヤの入った金庫のほうはすぐ取り戻せたんだ。襲撃メンバーは私たちの目を欺くつもりでそれぞれバラバラに逃げるようにしたらしいけど、そのうちなんとか捕まえることができた中に運良く金庫を持って逃げていたやつがヒットした。で、一方で厄介なことになっていたのが鍵だ」

「厄介……って、どんな?」

「今言ったように、既に何人かは襲撃メンバーをこちらで捕らえている。その中に鍵を持って逃げていたやつもいたんだ。しかし、私たちが捕まえたときには、既にそいつは鍵を持っていなかった。問い詰めたら、『盗まれた』とぬかしやがる」

「盗まれた……」


 なんだか嫌な予感がしてくる。


「朱ヶ崎の地下鉄駅構内で居眠りしていたら、鍵を入れた鞄ごと置き引きにあったらしい。事務所襲撃なんて大層なことやらかしておきながら呑気に居眠りできる神経も呆れるが、もう追手は撒いたと安心しきっていたようだね。んで、それを知った私たちは昨夜からずっと鍵を探し続けていた。私はボスと連絡を取りつつ、あの辺りによくいるスリ師について探ってみた。すると、やっさんと呼ばれている男に行き当たったのさ」

「やっぱり……」


 そんな気がしたんだ。


「根無し草であるやっさんの居場所をつきとめるのには少しばかり手こずった。スリ師という生き物の習性からいって、連日同じ場所でスリを行うとも思えないから、駅に再び現れるのを待つのは望みが薄い。あらゆるツテを頼り、今は松里山公園を拠点にしているらしいという噂を聞いて、やっと会えたのが今から一時間ほど前のことだ。ことの経緯を丁寧に伝えてやったら、素直に話してくれたよ。鍵を盗んだのがやっさんであるという私の読みは当たっていた。――が、やっさんは既にその鍵を他人に渡しちまったらしい。昨日の夕方頃公園を訪れた金髪と赤毛の女子高生二人組、そのうちの金髪にあげてしまったんだと。心当たりは、あるね?」

「……ある。あのロザリオのことだろ」

「その通り。ま、やっさんも君たちも今まで気づかなかったのは無理ないよ。見た目にはそれが金庫の鍵だなんてわかるはずがないんだから。本来はそれもセキュリティの一環なんだけど、今回は裏目に出てしまったようだね」


 まぁ、どこからどう見てもただの安っぽい首飾りだったしな……とは言わないでおく。


「あれでなかなかよく出来てるんだよー? 十字架の下部分がマグネットキーってやつになっててね。そこを鍵穴に差し込んで、内部に埋め込まれた小さな磁石の配列で鍵を開けたり閉じたりする仕組みなんだ」


 外見からは想像もつかなかったが、思いのほか高度な技術が使われていたらしい。


「ブルーガイストのやつらがあたしたちを捜していたのは、どうしてなんだ?」

「鍵が途中で盗まれてしまったことを知って、奴らも私と同じことを考えたのさ。そしてやっさんに辿り着いた。多分、私がやっさんを訪ねた少し後に奴らが来たんだろうな。そうそう、さっき倒れていたやっさんから、少しだけ話を聞いた。すぐに意識を失ってしまったから、ほんとに少しだけね」

「なんて言ってたんだ?」

「やっさんは奴らに暴力をちらつかせられて、君たちのことを教えてしまったらしい。でも、奴らの危険な臭いは察知したんだろうな。良心が咎めてすぐに君たちを捜しに出たとのことだ」

「そこで、あたしたちと出くわしたってことか……」


 やっさんは当然、あのロザリオがそんな危険な代物だとは知らないで盗んでしまったに違いない。だからこそ、会ったばかりの女子高生などに渡してしまったのだ。それが巡りめぐって自分が刺されてしまうという結果を招いた。盗みの罰が当たったなどとは思わないが、不運ではあったのだろう。彼はスリ師で、善人だったとも言い難い。結果だけ見れば、やっさんからロザリオを渡されたせいで十香たちは騒動に巻き込まれたということになる。しかし、それは本人に十香たちへの害意があったわけではない。少なくとも十香たちにとっては親切なおやじだった。なんとか助かってほしい、と十香は思う。


「行き違いになってしまったよ」織江が続ける。「私とブルーガイストもそうだが、私と君たちのほうもね。やっさんから話を聞いた私は、別件で動いていたボスに連絡を取った。ボスは私の報告を聞いて、すぐ君たちのことが思い当たったらしい。まさか学校の知り合いが関わっていたとはね。さすがにあの人も驚いていた」


 こちらだって、あのロザリオが薔薇乃に関係しているものだとは思いもしなかった。


「私はボスから、君たちにこの事実を伝え、そして保護することを命じられた。それで学校のほうで君たちが出てくるのを待っていたんだけど、既に下校していたようだね。近くをあてもなく捜し回っていたんだが、やっさんが倒れているのを見つけたときには正直肝を冷やした。まさか、ブルーガイストの動きがああまで速いとは予想外だったんだ。でも間に合って良かった。もう少し見つけるのが遅れてたら、ヤバかったね」

「……さっきは助かったよ」


 十香は素直に感謝の意を伝える。織江は困ったように笑って、


「ああいや、そういうつもりで言ったんじゃないってー。私たちのごたごたに一般人の君たちを巻き込んでしまったんだから、当然のことをしたまでだよ。むしろ、あんなギリギリの状態になるまで放ったらかしにしてしまって、こっちが謝らなきゃいけないとこだ。申し訳ない」


 後部座席のほうを向いて、織江は頭を下げる。犯罪組織というわりにはなんだか妙なところできちっとしている――いや、秩序立った組織だからこそ、なのだろうか。ブルーガイストのような単なる無法者集団とは性質からして違うのだろう。もっとも、謝られたところで「はいそうですか」、と納得できる問題でもないが、織江にそれを言っても仕方がない。


「あっ、そうか。シーって……」


 先ほどから黙りこくっていた美夜子が急に口を開く。


「あ? なんだって?」


 十香が尋ねる。


「ほら、昼休みに話した岸上先輩の電話! あれで言ってた『C』って、ダイヤのことだったんだよ」

「電話?」


 織江は当然、なんのことだかわかっていない。十香たちは織江に、美夜子が早朝に学校の中庭で薔薇乃の電話を立ち聞きしていたことを説明する。美夜子は薔薇乃が話していた内容について、昼休みに十香へ伝えたときと同様、まるでその場でレコーダーにでも録っていたかのように細かく再現する。美夜子の再現によると、こうだ。


『――亡霊の動きには何か裏があるはずです。ええ、やはりCの所在がバレていたとしか思えませんね。偶然見つけたというよりは、始めから盗むことが目的だったと考えた方が自然でしょう。そう、ですね……あなたはそのまま、鍵の捜索を続けてください。わたくしは情報流出の件で心当たりを探ってみます』


 一通り説明を聞いて、織江が言う。


「ああ、それなら電話の相手は私だよ。鍵を捜しながら、ボスとは連絡を取り合っていたから。誰かに聞かれても意味がわからないように隠語を使っていたんだけど……たしかに『C』はダイヤのことだ。よくわかったねー」

「それはいいけど、なんでCがダイヤになるんだ?」


 十香が尋ねると、美夜子が代わりに答えた。


「Cは化学式で炭素のことを示すでしょ。ダイヤモンドは炭素の同素体の一つだからその連想で――ってことだと思ったんだけど……」


 ……そうだったっけ? 学校の授業で習ったような気がするような、しないような。


「やるねぇ、正解だ」


 織江が正解認定を出すと、美夜子は「やった」と小さく言う。織江は続けて説明する。


「『亡霊』はブルーガイストを示していた。これはドイツ語でいうガイストの意味から。『鍵』はそのまま、金庫の鍵。ロザリオのことだな」


 たしかに事情を知っていなければ、それだけ聞いてもなんのことだかさっぱりだ。その分、会話の怪しさ不審さも上がっているような気がするが……。


「さて……」織江が言う。「説明したとおり、君の持っているロザリオは金庫を開ける鍵だ。それを持っている限り、また襲われることがあるかもしれない。わかるね? だから、私に渡してほしい」

「あー……ええっと」


 十香は返答に戸惑う。


「もちろん、ほとぼりが冷めるまで君たち二人のことは守ると約束しよう」

「そりゃあ、ありがたいんだけどさ……」

「む……他に何か問題がある?」

「いや、そうじゃなくて……持ってないんだよ。今」

「ああ、そういうこと! じゃあ、家に置いてあるのかな?」

「そうでもなくて……学校の先生に没収されちゃってんだけど……」

「学校の……先生?」


 織江はすぐにはピンとこなかったらしい。


「ん、待て待て……ええっと? というと……今、そのロザリオは?」

「……学校にある」


 織江は大きくため息をついてから、


「それを早く言えバカっ!」

「うわっ、ご、ごめん!」


 十香は思わず隣の美夜子の腕に抱きついてしまう。


「ああ、ごめん……ついカッとなってしまった」織江は自分を落ち着かせようと咳払いをする。「うぅん。そーなると、ちょっと面倒だな……どうやって取り返すか……君から話しても、返してはくれなさそうか? もちろん、金庫の鍵だとかそういうことは隠したままで、だけど」

「うーん、多分無理……一度没収されたら、学期末までは返ってこないよ」

「……仕方ないな」


 織江は車にエンジンをかけ、発進させる。


「どうするつもりなんだ?」

「んー……わかんないなー」

「わかんないって……」


 やけになってないか?


「とりあえず学校へ向かう。ロザリオを没収したやつの名前は?」

「瀬崎ってやつ」

「瀬崎だな。ことを面倒にしてくれるよー、まったく……。ともかく、なんとかして回収する必要がある。場合によっては、少々手荒い真似も考えなきゃならない」

「わかってると思うけど、あまり騒ぎになるようなことはやめてくれよ?」

「もちろん。目立たないように、が最優先さ」

「それならいいんだけど……」

「すまないが、もう少しだけ付き合ってもらうよ。私と一緒にいたほうが君たちも安全なはずだからねー」


 もう少し、がいったいどれくらいの長さを指すのかがわからないが、ひとまずは安全を得たようだ。織江がこちらを騙しているとは思えないし、今は先のことを考えるのはやめて、少し休ませてもらおう。


「うっ……」


 突然、視界がぐらりと歪むような気がして、十香は額を押さえる。


「十香ちゃん? 大丈夫、十香ちゃん?」


 うつむいていると、隣で美夜子が心配そうに覗き込んでくる。


「ああ、平気だって。ちょっとふらっときただけ」

「やっぱり、先に病院行ったほうが……だって十香ちゃん、ひどい怪我だもん。無理しちゃダメ。頭も殴られてたし……どうかなってたら大変だよ」

「こんなもん、ただの打ち身と、かすり傷だよ。病院行くほどじゃないって」

「いや、いいよ。行こう」


 運転しながら織江が言う。


「でも……」

「君たちのことが最優先に決まってるだろー? 鍵の回収はそう急ぐ必要もない。学校にあるのなら、ブルーガイストの連中もさすがに気がつかないだろうしね。病院に寄る時間くらいはあるよ」

「……そっか。じゃあ、やっぱり頼むよ」


 正直に言うと、先ほどから全身が猛烈にだるい。殴られた箇所の痛みも先ほどから、収まるどころか却って増しているような気がする。さっきは興奮状態にあったから、痛みも感じにくかったのかもしれない。一度車を降りたら、立って歩くのもしんどそうだ。


「十香ちゃん……」


 美夜子はまた泣き出しそうな目で十香を見ている。十香は、美夜子の胸へ手の甲を軽くぶつけるようにして笑う。


「だーいじょうぶだっつーの。そんな心配しなくても、死にやしねーよ」

「うん……」


 茶化すつもりで言ったのだが、美夜子の曇った顔は一向に晴れない。まだ、さっきのことを気にしているのだろうか。まったく、しょうがないやつだ。


「……美夜子、ちょいちょい」

「……なに?」


 美夜子と隣同士で顔を寄せ合うと、運転席の織江には聞こえないくらいの声量で十香は言う。


「なんつーか、今からちょっと変なこと言うけど……馬鹿にすんなよ?」

「……? う、うん」

「あたしはさ……お前に笑っててほしい……んだと思う」

「へっ……?」

「お前が笑ってると、あたしは楽しいよ。だからさ、そんな暗い顔しないでくれよ。そんな顔、お前には似合わないって。……つっても、無理して笑えって言ってるんじゃないぞ? そうじゃなくて、つまり……あたしは、お前の笑ってる顔のほうが好きだな……って話だ。ええっと……まぁ、そんだけ」

「…………」


 美夜子はなにも言わずに、きょとんとした顔になっていた。十香は笑って、


「へへ、あたしなに言ってんだろ。めちゃくちゃだな。これ、やっぱ頭ぼーっとしてるわ。……今のナシナシ、忘れてくれ」


 手をひらひら振って誤魔化す。しこたま殴られたせいか、どうやら理性のブレーキが少しおかしくなっているらしい。頭の中に浮かんだとりとめもない言葉を、そのまま口に出してしまった。らしくもないことだ。


 急に妙なことを言い出して、おかしくなったと思われたのではないか……と心配していると、美夜子が小さく呟くように言った。


「……忘れないよ」

「え?」


 十香が聞き返すと、美夜子ははにかむように微笑んで言う。


「えへへ……死んでも、忘れないもん」

「あー……ははっ……」


 なんだか照れ臭くなって、十香は目線を外す。


「……それなら、それでもいいけどな」


 たまには思ったことを素直に吐きだしてみるのも、悪くはないのかもしれない。


 そこで、織江の携帯に着信があった。


「悪い。ちょっと失礼」


 車を路肩に停めて、織江は携帯の画面を見る。


「ボスから――じゃあないか。だが面白い相手からかかってきたな」


 織江は電話に出る。


「ヴェガだ。成果はあったか、探偵?」

『あったにはあったが、ちょいと厄介な事態になってるぜ』


 電話から漏れ聞こえる声は、どこかで聞き覚えのあるものだった。


「センセー……?」


 美夜子も思い当たったようだ。織江は電話相手のことを探偵と呼んだ。やはり、鳥居伸司なのだろうか。


「こちとら既に二つも三つも厄介を抱えていて泣き出したいくらいなんだがな。まぁいい、何があった?」

『あんた、今テレビ見られるか?』

「ああ」

『ちょうどニュースでやってるから見るといい。放送局は――』


 織江は車載モニターを操作してテレビをつける。伸司の指定したチャンネルをつけると、祇柳川河川敷で変死体が見つかったというニュースが報じられていた。先ほど十香たちも見た第一報では、遺体の身元を確認中とのことだったが、どうやらそれが判明したらしい。被害者の生前の写真と、名前が画面に映し出され、アナウンサーが読み上げる。


「…………嘘だろ」


 十香はそれを見て絶句する。


「お、おい。これってまさか……」


 織江は確認するように十香を見て言う。そうだ。そのまさかなのだ。信じられないことに。だがどうして、彼はこのニュースを見ろと言ったのだろうか?


 織江の通話相手は、淡々と話を進めた。


『俺はパイプ役になっていた紹介屋を見つけ出し、そいつから翠鷲のヤク密売人の正体を聞き出した。だが、どこかの誰かさんに先手を打たれたらしい。そいつは消されちまったよ。今、そこに殺人事件の被害者として映っている男……瀬崎晋太郎が、翠鷲の売人だ』

------------------------------






 モニターに河川敷で死体で見つかった被害者として映し出されていたのは、十香のクラスの担任教師、瀬崎晋太郎だった。


「なんで瀬崎が……」


 つい数時間前に話したばかりなのに。まさか、下校前のホームルームに姿を見せなかったのはそのせいだったのか? あの時には、もう既に……死んでいた? そうだ。河川敷で死体が見つかったニュースが流れ始めた時間からして、そうとしか考えられない。


「探偵。まずは、経緯を詳しく説明してくれるか?」


 織江は事態に困惑しつつも、あくまで冷静に努めようとしているようだった。電話向こうの探偵は話し始める。


『俺の見つけた紹介屋は、まだ学生だった。瀬崎の通う学校の女子生徒だ。二週間ほど前、ジャンキーがたむろするバーにいたところを瀬崎に見つかって、仕事を手伝うように脅されていたらしい。本人の弁によれば、店には悪友に誘われて仕方なしに入っただけで、クスリに手を出すつもりはなかったとのことだ。紹介屋の仕事も、もうこれっきり足を洗うと言っていた。俺はなるべくそいつを信じてやりたいと思う。若いやつにはよくあることさ。それをたまたま、瀬崎みたいなやつに見つかってしまったのが不幸だったんだ。瀬崎の目的は翠鷲からの命令で、とにかくクスリをばらまいて夕桜のシマを荒らすことだ。クスリをさばくにあたって、相手から警戒心を持たれづらいパイプ役を用意した……ということらしい。まぁ、隠れ蓑という側面もあるんだろうが』

「なるほど……そこまではいい。だが、なぜ瀬崎が殺された?」

『俺が知るかよ。だがあんたらのとこ以外にも、翠鷲の動きを鬱陶しいと思っている連中はいたはずだろう? そいつらがやったのかもしれないぞ』

「……夕桜には多数の組織がある。あり得ない話ではないか……。そちらに勘づかれたことを知った翠鷲側が、切り捨てたという可能性はどうだろうか?」

『俺はその紹介屋としかコンタクトを取っていないし、その子も瀬崎と連絡を取り合っていただけで、翠鷲の本体とは繋がっていないようだった。気取られる要素はなかったと思う。まぁ、絶対にないとまでは言い切れねぇけどな?』

「……妙だな」


 織江は横髪を手で弄りながら、


「何か見落としていることがあるようで、それがなんなのかがわからない……そんな不快感がある。……クソッ、どうなってやがんだ?」

『へぇ、あんたでもそういう口を利くことがあるんだな。それともそっちが素なのか? それはそれで魅力的だと俺は思――』

「死体が発見された場所は祇柳川の河川敷だそうだが、橋の下にでも隠してあったのか?」

『つれないねぇ……。いや、そうじゃないらしい。さっき現場に行って見たり聞いたりしてみたが、死体は高くなった土手とその下の草っ原の間に、ただ転がしてあるだけだったみたいだ。多分、土手から死体を放り投げたんだろうな。土手の上を歩いてる人がちょいと下を向けば、簡単に見つかるような場所だったらしいぞ。実際、死体を見つけた通報者も、土手の上を散歩してる途中だったそうだ』

「死体を隠す意思はなかったということだな。……示威が目的か」

『翠鷲に対しての見せしめ、ってことか?』

「かもしれない。とすると、殺し屋が動いている可能性もある」


 ……殺し屋? 今、殺し屋って言った? そんなイカれた職業がこの世に実在するとでもいうのか? ……いや、今となっては驚くほどのことじゃないのかもしれない。ああ、そうだな。日本を陰で支配する犯罪組織があるのなら、殺し屋だっているだろうよ。


「しかし、どうしたものかな……瀬崎には聞いておかないといけないことがいくつもあったんだが」


 織江は困ったようにため息をついた。そこで突然、美夜子が運転席のほうへ乗り出して大声で言う。


「ねぇ! やっぱりその声、センセーでしょ!?」

「あっ、こら……君は黙ってろ、ややこしくなるから」


 織江が後部座席へ押し戻そうとする。電話の向こうで、男が驚いたような声で言う。


『えっ? ……は? まさか、美夜子なのか!? ちょ、ちょっと待て! なんでそこに美夜子がいるんだ!?』

「なんだ、知り合いだったのか?」


 やはり電話相手は鳥居伸司で間違いなかったようだ。電話向こうの伸司は戸惑いながら、織江に問い詰めようとする。


『どういうつもりだ、あんた! 美夜子に何を――』

「落ち着け。志野美夜子はこちらで保護しているだけだ。お友達も一緒にな」

『お友達って……』


 そこで織江が電話を向けてきたので、十香は伸司へ向かって言う。


「あ、あの……あたしだけど……亀井十香」

『あ、ああ、昨日の! ええっ? まじでどうなってんだ?』


 織江はやや面倒くさそうにしながらも、十香たちへ話したのと同じような説明を、いくらか簡略化しながら伸司にも聞かせる。途中、やり取りがこちらにも聞こえやすいようにスピーカーホンに切り替えてくれた。


『はぁ、まさかそんなことになっていたとはね。あのロザリオがそんな代物だったとは、さすがの俺にも想像がつかなかった。だがまぁ……二人が無事なようでよかった。俺からも感謝する』


 織江は少し黙ってから、


「……べつに、そちらに感謝されるいわれはないさ。仕事だからやっただけだ」

『はは、そうか。――そういや昨日言ってた、ブルーガイストに情報を漏らしているやつがいるかもしれないって話はどうだったんだ?』

「まず間違いなく、内通者がいる」


 淡々と、しかし静かな怒りを滲ませつつ織江が言う。


「ダイヤの保管場所については、組織内でもうちの支部の人間しか知らされていない。しかし、ブルーガイストがその事務所だけをピンポイントで襲ってきたということは、何らかの形でその情報が流出していた可能性が疑われていた。そして、さっきブルーガイストの雑魚から引き出した証言で、疑いは確信となった」


 ユージという男が織江に打ちのめされる直前に言っていた、『内通者』のことだろう。


「ブルーガイストのリーダー、青桐和也だけがその内通者と連絡を取り合っていたようだ。それでダイヤのことを知ったんだろう」

『そしてダイヤの奪取計画を企てたというわけか』

「ダイヤの入った金庫を開けるには、鍵と暗証番号の二つが必要だ。暗証番号を知っているのはうちの支部の人間に限られるが、そちらも既に向こうへ伝わっていると考えるべきだろう」

『しかし、少し気になることがあるんだが……ブルーガイスト側のほうでも、お前らナイツがダイヤの入った金庫を奪い返したということはわかっているはずだよな?』

「そのはずだが」

『それなのに、まだ金庫の鍵を狙っている理由はなんだ? 鍵だけあってどうなるもんでもないだろう。一度そんなことがあった後じゃ、再び金庫を奪取するのも難しい。いや、実質不可能だ。俺としては作戦は失敗と判断して、報復されないうちにさっさとどこか遠くへ姿をくらますのが上策と思うんだが』


 織江は少し考えてから答える。


「……たしかに、もっともな意見ではある。だが、やつらはそうは考えなかったんだろう。鍵だけでも取得しておけば今後私たちと交渉する手札くらいにはなると思ったのかもしれない」

「ああ、なるほどな。たしかに鍵がなければ金庫が開けられないわけだから、それなりの交渉材料にはなりそうだ」

「もっとも、仮に奴らに鍵を先取りされるような事態になったとしても、ボスはそんな交渉に応じはしないだろうがな。捕まえて鍵のありかを吐かせたほうがずっと効率的だ」

『拷問すればいいってわけか?』

「やり方は色々あるさ」

『ふぅん……。ま、それはいい。その内通者とやらに、あんたは心当たりはないのか?』


 織江はそこで少しばつが悪そうにする。


「……すまない。実のところ、私は支部の人員構成について詳しく知らないんだ。ボス直属の秘密戦力として、今までボスの護衛をするか、あるいは単独で動く場面が殆どだったから、ボス以外の支部の人間と接する機会がなかった。した……事後処理を任せる際に、担当の者と電話で話す程度だ」


 ……今、死体って言いかけなかったか?


「――そういうわけで、そもそもどういう人間がいるのかを知らないのだから、疑わしい人物を挙げるということも私にはできない」


 織江の立場は組織内でも特殊なもののようだ。スパイ映画などで言う諜報員みたいなものだろうか。ボディガードも兼ねているようだが。


『要するに、岸上薔薇乃という人物を上司としているだけで、支部そのものからは独立した立場であるのが、あんた。つまりは、岸上個人の私兵みたいなもんだ。そんな感じで合ってるか?』

「そういう解釈で問題ない」

『だったら、あんたから岸上に確認してみてくれないか? 笠松(かさまつ)という人物を知らないか、ってな』

「笠松? そいつがどうかしたのか?」

『例の紹介屋の子が言っていたことなんだが……瀬崎が頻繁に連絡を取り合っていた相手がいるらしい。瀬崎は相手のことを笠松と呼んでいたそうだ。あんたたしか、ブルーガイストだけじゃなくて、翠鷲とも通じた裏切り者がいるかもしれないってなことを言ってたよな?』

「その笠松というやつがそうかもしれない、ということか。わかった。ボスに確認をとってみよう。では、またなにかわかったら連絡を」


 電話を切りかけたところを、伸司が呼び止める。


『ああ、ちょっと待った』

「なんだ?」

『あんたと一緒にいる二人のこと、頼んだぞ。もうブルーガイストのやつらが襲ってくるようなことはないと思いたいが、もしもまた何かあったら守ってやってくれ』


 織江は後部座席の二人を一瞥して、


「……心配いらない。私がついている以上、傷一つつけさせはしないさ」


 そう言って電話を切る。


「……さてと。次は連絡がつくと良いけど」


 織江はまた別の相手へ電話をかける。薔薇乃へ笠松という人物について尋ねるのだろう。


「……が……だから……つまり……」


 気がつくと、美夜子は眉間を指でこすりながら、何かをぶつぶつと呟いている。


「おい、どうかしたか?」


 十香が声をかけると、美夜子は両腕を組み首をかしげて、


「うーーん……やっぱり何度考えても、そうなっちゃうなぁ……」

「そうなっちゃうって、なにが?」


 美夜子が答える前に、運転席から織江のため息が零れた。


「……ダメだな」


 そう言って携帯をしまう。十香が尋ねる。


「岸上と連絡つかないの?」

「ああ、さっきもかけたんだけど繋がらなかった。携帯の電源を切ってるみたいだね。……いつもはすぐかけ直してくるのに、変だな。今ちょうど忙しいだけなのかもしれないけど……」


 織江はどこか釈然としないものを感じているようだった。


「あの、ちょっといいかな?」


 美夜子が小さく手を上げて言う。


「いくつか確認しておきたいんだけど……翠鷲ってのはこの街に乗り込もうとしていた海外のマフィアのことで、事前に危ないクスリを街に蔓延させて、街の敵対組織を弱らせようとしていたんだよね?」


 昨日、伸司の説明であったことだ。織江は頷く。


「ああ、そうだけど」

「岸上先輩の組織……ナイツも、その翠鷲への対応に追われていた?」

「火急の案件だった。一刻も早く翠鷲の売人を見つけ出さなければ、夕桜の街が汚染されてしまう。しかし、内部に裏切り者がいるらしく、私たちの動きは相手に察知されているようでなかなか尻尾が掴めなかった。だから支部の人間にも極秘で、あの鳥居伸司という探偵を雇ったんだ」


 美夜子はまた少し考えてから、


「……ところで、鍵の見た目がロザリオだってことは、支部の人たちはみんな知ってたのかな?」


 織江は小さく頷いた。


「東支部に所属するメンバーは全員、鍵の形状については知らされているはずだよ。昨日の夜、ボスから写真添付されたメールが送られている。鍵の形を周知しておかないと、探させることもできないからだろう。私も金庫と鍵が二つの事務所に分けて保管されていたことは前から知っていたけど、実物はそれで初めて見た。どこかで鍵を発見した場合は、すぐにボスへ連絡を入れることになってる。もっとも、鍵捜索に積極的に動ける人員は私を含めて数えられる程度しかいないようだったけどねー」

「そうなんだ。……じゃあ、この事件が起こる前に鍵の形を知っていた人は限られるってこと?」

「ボスと、他には鍵を保管していた事務所の人間くらいだろうね。後者は既に死んでるけどさ。でも、絶対にそうだったとは言い切れない。そこまで厳密に管理されていた情報というわけではないから。……それがどうかしたの?」


 美夜子は考え込むように少し下を向きながら話す。


「考えてみたんだけど……瀬崎先生が翠鷲の売人だったなら、十香ちゃんからロザリオを没収したのにも何か理由があったんじゃないかなって」

「それは、つまり……瀬崎が、ロザリオの価値を知っていたということ?」

「うん。そう考えれば、先生が急に校則なんて持ち出して強引にロザリオを奪ったのもわかる。さっきもセンセーとの電話中にそんな話が出てたけど、ロザリオはナイツとの取引の材料になり得るんだよね。鍵がないと、ダイヤの入った金庫を開けられないから。――で、問題は、瀬崎先生がロザリオのことをどうやって、そして、いつ、知ったかということ」

「ナイツにいる裏切り者……翠鷲のスパイから聞かされたから、か?」


 「そう」と美夜子は頷く。


「でもさ」十香は割り込んで発言する。「それなら、瀬崎自身がナイツの裏切り者って線もあるんじゃねぇの?」


 織江はナイツのメンバー構成について詳しくないと言っていた。であれば、瀬崎がメンバーだったとしても気がつかなかった可能性がある。


「いいや。それはないよ。あくまで瀬崎先生とナイツに潜伏している翠鷲のスパイは別人」

「またあっさり否定してくれたな……なんでだよ?」

「瀬崎先生がナイツのメンバーなら、岸上先輩からのメールが来た昨日の夜の時点でロザリオのことを知っていたことになるよね。でも、瀬崎先生はそうじゃなかった。なぜなら、昼休みの終わり際になってからロザリオを取り上げたから。知っていたなら、もっと早いタイミング――十香ちゃんに体育へ出るように言いつけたときにでも没収することはできたはずでしょ? 様子を見たという可能性もなくはないけど……そのときの瀬崎先生に、ロザリオを気にしてたそぶりがあった?」

「いや……なかったと思う」

「じゃあやっぱり、その時点で瀬崎先生はロザリオのことを知らなかったんだよ。スパイと連絡を取り合ったのが多分、昼休みの間で、そこで初めてロザリオの情報を得た。そして十香ちゃんが身につけていたものがそのロザリオにそっくりだったことを思い出して、教師という権限を使って奪い取ったってわけ。似ているだけなんじゃないかとか、本物だとしても、どうして亀井十香がそれを持っているのか、とか……色々な疑問が湧いたとは思うけど、べつに間違ってたからって何かを失うわけじゃないからね」


 ある意味、あれで十香からの教師としての信頼は失ったと言えなくもないが。それしきは些末な問題ということか。


「ははぁ……なるほどな。瀬崎の野郎がなんであんな風にロザリオを取り上げたのか、ずっとわからなかったけど……そういうことだったのか」

「あ、でも、確かな証拠があるってわけじゃないよ?」

「そうだとしても、かなりあり得そうな話だと思うぞ」


 十香の意見に織江も頷いて同意を示す。十香は続けて、


「瀬崎が通じていたスパイがどんなやつなのかは知らないけど、その可能性の一つが、さっき探偵のおっさんが言ってた、瀬崎とよく連絡を取り合ってたっていう笠松ってやつなんだな」

「ああ」織江が言う。「ボスに確認が取れれば話は早いんだけどな……私の権限ではメンバーの照会には時間がかかるから」


 残念ながら、薔薇乃は今電話に出られない状況にあるようだ。


「……ところで、今あのロザリオ、どうなってんのかな?」

「それなんだよー」織江が困ったように言う。「まだ学校にあればそれでいいが、瀬崎が持っていた場合がまずい。瀬崎を殺害した犯人が持ち去った可能性があるからね。そうなると見つけ出すのは難しい――」

「いや……その心配はいらないと思うな」


 織江の言葉を遮るように、美夜子が言った。織江はきょとんとして目をぱちくりさせる。


「……どうして?」

「実は、あのロザリオで気になってたことがもう一つあって――」


 美夜子が話そうとしたそのとき、織江の携帯が振動を始める。着信だ。


「岸上から?」


 十香が尋ねる。


「いや……」織江は携帯の画面を見ながら怪訝そうに眉をひそめる。「非通知だ」


 そう言ってから、織江は応答する。


「……誰だ?」

『よぉ。あんた、ナイツのヴェガだよな?』


 不躾な口調。まだ若そうな男の声だった。織江は警戒を更に強めるように、声を低くして言う。


「誰だ、と聞いている。答えろ!」

『おーこえーこえー。そうカッカすんなって。言われずとも名前くらい教えてやる。ブルーガイストの青桐……って言えばわかるか?』


 織江の目が驚くように見開かれる。


「なに……? 青桐和也か!?」

『そう。よろしく頼むぜ』


 ブルーガイストのリーダーが、いったいどうして織江の携帯に電話をかけてこられるのだろうか? 織江も同様の疑問を抱いたようだった。


「なぜ、この番号を……」

『まぁ待てよ。俺はごちゃごちゃと長い説明をするのが嫌いでな。悪いが、話す順番はこちらで決めさせてもらうぜ。さて、まず最初に言っておく』


 続く青桐の言葉に、十香は驚愕して声を上げそうになった。


『岸上薔薇乃を誘拐した。無事に返して欲しければ身代金三十億を用意しろ』

「なっ……!?」


 織江も目の色を変える。


「誘拐、だと……? どういうことだ!?」

『ハハハッ! どーいうことも何も、そのまんまの意味だっつの。でも、あんたの気持ちはわかる。急にこんなこと言われても困っちまうわなぁ? 心配すんな、俺はそのくらいの気配りはできるんだぜ? そうだな、ここは話をスムーズに進めるためにも、ゲスト自ら喋ってもらうとしようか』


 電話の向こうで、青桐の声が少し遠のく。


『余計なことは一切口にするんじゃねぇぞ。お前を殺さないように苦しめる方法なんざいくらでもあるってことを忘れるな』


 青桐はそばにいたらしい誰かに対して脅すように言ってから、電話を替わる。


『……ヴェガさんですか? 岸上です』

「そんな……まさか本当に……!」


 織江が狼狽する。岸上薔薇乃の声に違いなかった。


『申し訳ありません。これは、全てわたくしの失態です。どうかわたくしのことは見捨てて、あなたの任務を果たしてください。きっと、父も同じ判断を下すでしょう』

「し、しかし……」

『いいですね? わたくしのために何かしようなどとは考えないでください。頼みましたよ』


 薔薇乃の声は至って冷静で、怯えているようでもない……が、無理に気を張っているだけなのかもしれない。

 

 再び電話相手が青桐に替わる。


『これで大体事情は飲み込めただろ? 薔薇乃お嬢様はこう言っておられるが、あんたらとしちゃそういうわけにもいかねぇよな? 身代金三十億、きっちり用意しとけよ。大組織ナイツのトップの娘だ、無理とは言わさねぇぞ。むしろ、これでも安いくらいだ。まぁ安心しろ。そっちがこちらの機嫌を損ねるような真似をしなけりゃ、お嬢様には手を出さねぇよ』

「貴様……ッ!」

『一応教えておいてやるが、岸上薔薇乃の携帯GPSを追ってこようなんて考えてるなら、浅慮ってもんだぜ。こいつの携帯はとっくの昔に壊しちまったからな。こうしてあんたに電話をかけてるのは、壊す前に最近の通話履歴を見ておいたからだ。岸上薔薇乃を誘拐したってことをナイツの人間に知らせとかなきゃいけねぇからな。ま、そーいうわけだ。金の引き渡し方法なんかはまた後で知らせるから、今は必死こいて金集めとけ。じゃ、よろしく!』

「ま、待て!」


 織江の制止もむなしく、一方的に電話は切られた。織江は苛立ちをぶつけるかのように車のハンドルへ拳を打ちつける。


「クソッ……まんまとしてやられた! 奴らめ、最初からこれが目的だったのか……!」


 今の織江に声をかけるのは躊躇われたが、十香は思い切って尋ねる。


「えっと……つまり、岸上をさらうことがブルーガイストの目的だったってこと?」

「……ああ。奴らがしでかした二つの事務所の襲撃において、ダイヤの奪取はあくまでおまけだったんだろう。本当の目的は、支部の人員をブルーガイストへの対応に割かせることだったんだ。ただでさえ翠鷲への対処に追われていたところにブルーガイストの襲撃が加わって、一時的とはいえボスの警護が手薄になっていたことは事実。奴らはその混乱に乗じて、ボスを誘拐したんだ。畜生……私がついてさえいれば……!」


 織江は歯噛みする。薔薇乃を誘拐するという暴挙をしでかしたブルーガイストへの怒りと、計画を見抜けなかったことへの後悔が波のように押し寄せているのかもしれない。


「……どうするんだ? 岸上は、自分のことは見捨てろって言ってたけど……そんなことしないよな?」


 十香の問いに、織江は力強く頷く。


「……当然、助ける! こんなところであの人を失うわけにはいかない」


 織江が冷酷な選択をするつもりではないことを知って、十香は少し安心する。しかし織江にも具体的な方策があるわけではないようだった。


「だが、どうすればいい……? 青桐の居場所がわからない以上、こちらからは手が出せない。支部のコンピューターを使えば、支給されている携帯のGPSから仲間の居場所を探知することができるようになっている、これはボスも同じだ。しかし、さきほど青桐の言っていたとおり、携帯そのものが壊されているならそれも不可能。三十億の身代金を用意するにも、東支部だけではそれほどの額は無理だ。本社のほうへ話を通す必要があるが……」

「何か問題があるのか?」


 十香の問いに、織江は苦々しい表情で頷く。


「ナイツ本社――すなわち総本部のトップは、ボスの実父だという話はしたよな。電話でボス自身が言っていたことだけど、彼なら娘を見捨てる選択をしかねないと思ってね」

「なっ……嘘だろ!? 実の娘だぞ!?」

「いや、勿論、そんなことはあり得ないと私も思いたい。私も、実際に会ったことはないからどんな人物なのかよくは知らないんだ。でも、冷酷な人間だという話はよく聞く。それに……ボスが前に、ふと聞かせてくれた話が妙に印象に残っていてね……それが頭を離れない」

「……なんて言ってたんだ?」

「『彼は、人の親である前に組織の長でした』。だからこそ、岸上薔薇乃は闇の世界に生きることにしたのだ、と――そんなことを言っていたよ。それ以上のことは、私も聞いていない」

「…………」

 

 おそらくそれは、親子間の不仲だとか、そんなありきたりな言葉では表現できない種のものなのだろう。巨大犯罪組織の長と、その娘――その間にどのような過去があったのか、十香には想像することすらできない。


「悪い。話が逸れたね」


 織江は話を切り替えた。


「まぁどちらにせよ、本社のほうへ話を伝える必要はあるだろう。まずは――」

「待って」


 美夜子が言う。


「なんかさ……さっきの電話、変な感じがしたんだよね」

「変な……というと?」

「あたしは、岸上先輩とまだちょこっとしか話したことがないから、いまいち自信ないんだけど……岸上先輩って、あんな簡単に助かることを諦める人かな? あたしにはどうもそうは思えないっていうか……」

「それは……まぁ、たしかに」

「それにね、他にも気になってることはあるの。本社へ連絡するのは、それを確かめてからでも遅くはないでしょ?」


 織江は返答に迷ったようだった。


「……今さらこんなことを言うのもなんだけど、君たちはこの事件に巻き込まれただけの人間なんだよ? 本来なら無関係なんだ。どうしてそこまで熱心になれる?」

「おいおい……ほんとに今さらだな。そんなもん、決まってんじゃん」


 十香は言う。


「岸上はあんたを寄越して、あたしたちのことを守ろうとしてくれたんだろ? だったら、あたしたちだって岸上のことを見捨てられるわけない。そもそも、この事件解決しないとあたしたちも安心できないって。だから、無関係なんかじゃない――だよな?」


 最後は隣を向いて言うと、美夜子も「うん」と答える。十香は苦笑して、


「――なんて偉そうなこと言ったけど、あたしは多分役に立てないけどな。正直言って、話についていくのが精一杯。役に立つとしたら、こいつのほうだ」


 美夜子を親指で指さす。


「今までの話聞いてわかったと思うけど、こいつ、結構頭が回るんだよ、こんなんで」

「こんなんで?」美夜子は不満そうに口を尖らせる。「むー、十香ちゃん。そこはもっと素直に褒めてくれてもよくない?」

「いや、だってさ――あ、いてて……」


 十香は急に頭痛に襲われて、座席に座った姿勢のままうずくまってしまう。事態の進展に夢中で忘れかけていたが、また痛みがぶり返してきたようだ。身体のだるさもさっきよりひどくなってきている。


「と、十香ちゃん……大丈夫?」


 美夜子が心配して十香の背中へ手を回そうとしてきたが、十香はそれを手で払う。


「へへ、大丈夫だって……だいじょーぶ」


 ここまできてダウンなんてしてられるか。


 十香はなんとか起き上がって、織江へ向かって言う。


「そういうわけだから、こいつの話ちょっと聞いてやってくれよ。損はしないと思う……たぶん」


 織江は少し考えてから、やがて頷く。


「……わかったよ。君の気になっていることとは、なんだ?」


 美夜子は、手始めに質問をする。


「岸上先輩が誘拐される直前、どこにいたかって、わかるかな?」

「いや……別件の仕事があるとは聞いていたが、場所までは私は知らされていない。支部のほうにいると思っていたんだが、外出していたのかもしれないね。最後に電話で話したのが、やっさんから君たちのことを聞いて、その報告をしたときだ。ボスは君たちがブルーガイストに狙われるかもしれないと考えて、私に護衛を任せた」


 ということは、十香たちの護衛を優先させたせいで、薔薇乃自身の警護が疎かになってしまったという側面もあるのかもしれない。少なくとも織江がそばについてさえいれば、薔薇乃が誘拐されることはなかっただろう、と十香は思う。


「……じゃあ、ブルーガイストの人たちは、岸上先輩の居場所をどうやって知ったんだろう?」


 織江はそれを聞いてハッとする。


「そうか……! それも、例の内通者が手引きしたに違いない。東支部の人間なら、ボスを目的の場所へ誘導することもできただろう」

「ええっと、ちょっと待ってくれ」


 なんだかややこしくなってきた。十香は一度頭の中を整理しようとする。


「内通者ってのはつまり、襲撃された二つの事務所にダイヤの金庫と鍵が保管されていたって情報をブルーガイスト側に流した奴のことだよな? これは翠鷲のスパイとは別人なのか?」

「たぶん、別人」美夜子が答える。「さっき話したとおり、翠鷲側のスパイが瀬崎先生にロザリオの情報を伝えたのだとすると、翠鷲側のスパイとブルーガイスト側のスパイが同一人物だという線はかなり薄くなると思う。だって、ブルーガイストへダイヤの金庫と鍵の情報を渡して事務所を襲撃させた後で、今日の昼にもなってやっぱり翠鷲に鍵を手に入れさせようとするなんて、矛盾してるでしょ? だから、そこには二人分の思惑があったと考えるほうが自然」

「ナイツには、裏切り者が二人いる……ってことか」

「なるほど、たしかにそうなる」


 織江が頷く。


「翠鷲のスパイを侮るわけじゃないが、ブルーガイストのスパイはとんだ曲者だ。この誘拐計画は、翠鷲の動きに便乗することで私たちの隙をつくものだった。他にも事務所の襲撃、実際の誘拐への手引き、あらゆる部分で組織の内情に詳しい人物の存在が目に付く。そのスパイが一連の計画の根幹にいることは間違いない。おそらくはそいつが首謀者……・青桐すら、上手く使われているだけの手駒に過ぎないのかもしれないな」


 美夜子は少し考えてから、


「……じゃあ、その首謀者の人と話をしてみるのはどうかな? 岸上先輩の居場所とか、訊き出せるかも」


 織江はやれやれ、という具合に苦笑する。


「それができるなら苦労しないよ。相手はかなり狡猾で、用心深いようだ。そう簡単に見つけ出すことはできないと思う……」

「あたしは一応、見当ついてるよ」

「なっ……!?」織江は驚いて、「……なぜだ? なんで君にそんなことがわかる?」

「その人がブルーガイストのスパイなのかどうかは、まだはっきりとしないんだけどね。でも、岸上先輩のことを裏切っている人なら、わかるよ」

「ボスのことを……裏切っている?」

「それって、かなり怪しいよね? 言ってみれば、重要参考人……ってとこかな? 色々考えてみたんだけど……やっぱり、その人以外には考えられないんだよね。そうなっちゃうの」


 さっき言っていた「そうなっちゃう」はそういう意味だったのか。十香は美夜子へ尋ねる。


「で……美夜子。誰なんだ? その首謀者かもしれない人物って」

「御堂先輩」

「へぇ、御堂か……って、御堂!? 御堂魅冬のことだよな? ……本当なのか?」

「うん」

「で、でも……あたし、御堂と話したけど、あいつは岸上の組織とは関係ないって言ってたぞ」


 十香は昼休みの終わり際、魅冬と話した内容をかいつまんで美夜子に伝える。美夜子は一通り聞いてから、平然として答えた。


「でもそれって、本人がそう言ってただけでしょ? 本当のことを言ってる保証はないよね。十香ちゃんが岸上先輩のことでどこまで知っているかわからないから、念のため簡単に素性を明かすのはやめておいたのかもしれないよ」

「……言われてみりゃ、たしかにな。でも、あたしが岸上に確認をとったらどうするつもりだったんだ、あいつ? いや、岸上は岸上で、正直にあたしに教えるわけもないのか……?」

「そもそも、十香ちゃんが岸上先輩と連絡を取れないことを知っていたんだと思うよ。岸上先輩は学校にいなかったわけだから、すぐ話をすることもできないしね」

「なるほど……でも本当に御堂がそんなことを……? どうして……?」


 魅冬の薔薇乃への親愛が偽物だったとは思えない。魅冬と薔薇乃は、間違いなく親友同士だったはずだ。そうでないと、薔薇乃の下世話な噂を話していた程度で、魅冬があんなに怒るはずがないじゃないか。


「いや、それよりもだ。まずは御堂が首謀者だと考えたわけを教えてくれよ」

「もちろん、説明するよ」


 美夜子は推理の過程を話し出す。


「まずは、ロザリオのことから」

「ロザリオ?」

「十香ちゃんは、あたしが昨日あのロザリオにかけたおまじないのこと、気づいてくれたんだよね?」

「ああ、さっきだけどな。そういやその話がまだ途中だったっけか」


 たしか、ロザリオについて美夜子が気になることがあるという話だった。あの後、やっさんが現れて、そしてブルーガイストのチンピラに追いかけられて……話の続きをするタイミングがなかった。


「『香水がかけてあった』んだろ? ロザリオを身につけていれば、その匂いを嗅ぐことになる。それで、まるでお前がすぐ近くにいるみたいに感じると。あたしが一人のときでもお前のことを思い出しちまうおまじないってのは、つまりはそういうことだ」

「えへへ、そゆこと」


 まったく、小っ恥ずかしい真似をしやがって。ああまで露骨なヒントを出されるまで気がつかなかったあたしも、いい加減すぎるとは思うが……。


「あたしが違和感を覚えたのは、昼休みに十香ちゃんに抱きついたときだった。十香ちゃんがつけていたロザリオ、なんだかおかしいと思ったんだ」

「おかしいって、どういう意味だ?」

「『あのロザリオ、香水の匂いがしなかった』の」

「えっ……?」

「十香ちゃん、あれ、拭いたり洗ったりしてないよね?」

「い、いや。してないぞ。変だな……朝はたしかにあの香水……花の香りみたいな匂いがしてたと思うんだけど」


 少なくとも朝の支度の時と、体育前に着替えたときには香水の香りを嗅いだ覚えがある。しかしその時にはロザリオに香水がかけてあるだなんて知らなかったわけで、当然、いつの間にか匂いがなくなっていたことにも気がつかなかった。そのことに美夜子が気づいたのが昼休み……ということは、あのとき美夜子がロザリオを顔の前に掲げていたように見えたのは、匂いを嗅いでいたわけだ。

 

「だったらやっぱり、間違いない」


 美夜子は指をパチンと鳴らす。


「『昼休みの時点で、ロザリオはすり替えられていた』んだよ。あの時十香ちゃんがつけてたのは、見た目がそっくりに作ってあった偽物」

「はぁ……? 偽物とすり替えられていたって……いつ!? そんなの無理だ。あたしは今日ずっと、あのロザリオを首に下げてたんだぞ? 瀬崎に取り上げられるまで、ずっとだ!」

「ほんとにずっとだった? 体育のときは? 着替えた後もずっとつけたままだった?」

「た……たしかに体育の間は、さすがに外してたけど。いや、でも……それでも無理だ」

「どーして?」


 十香はその時のことをよく思い出しながら説明する。


「あたしは元々、体育はサボるつもりでいたんだ、面倒くさかったから。でも、直前になって瀬崎のやつに出ろって言われたもんだから、結構時間ギリギリになってから着替えて体育館へ行ったんだ。更衣室代わりの教室には、もう誰もいなかった。御堂とは体育館への渡り廊下で会ったけど、あたしより先を歩いてたから、あたしが教室を出た後でロザリオをすり替えることはできない。教室からその渡り廊下まで最短の経路で行ったから、途中で追い抜かれたってこともないはずだ。……あとすり替えができそうなタイミングといえば、体育が終わった後だけど、こっちも無理だ。あたしは片付けをサボって一人だけ先に教室に戻ってきたから……つまりだ。あたしは授業の始まる前は一番最後に教室を出て、授業の終わった後は一番最初に教室へ入ったことになる。つーわけで、御堂がロザリオを盗むタイミングなんてなかったんだよ」

「ふぅむ……にゃるほど」


 美夜子は少し考えて、


「……うん。やっぱり、御堂先輩にはロザリオを盗むチャンスがあったと思う」


 十香は半ば呆れて返す。


「……あのな、今の話、ちゃんと聞いてたか?」

「聞いてたよ。御堂先輩がロザリオを盗んだのは、体育の授業が始まる前。十香ちゃんが着替えて教室を出て行った後、近くで隠れて待っていた御堂先輩が教室へ入り、ロザリオを盗んだ。それしか考えられないと思うな」

「いや、だから。それはできないんだって。御堂はあたしよりも先を歩いてて、追い越すこともできなかったんだから」


 十香の反論に、美夜子は首を横に振る。


「追い越すことができなかった……本当にそうなのかな? 十香ちゃんは教室から体育館に通じる渡り廊下まで、最短の経路で移動したって言ったけど――実はそれが、最短じゃなかったらどうする? もっと短い経路があれば、十香ちゃんを追い抜くことも出来たってことになるよね?」

「まさか。だって教室を出て、東側の階段を降りたらすぐそこが渡り廊下になってるんだぞ? あれより短い経路なんて……」

「――もしかして、窓か?」


 織江が思いついたように言う。美夜子は人差し指を織江へ向けて頷く。


「そう、窓! 御堂先輩は、十香ちゃんが教室を出て行ったのを見届けてから、すぐに教室へ入ってロザリオを偽物とすり替えた。そして、『教室の窓から外へ降りた』! 十香ちゃんたちの教室は二階だよね、そのくらいの高さなら降りても問題ないはず。まぁ、降りるところを外や下の部屋の窓から見られないように注意する必要はあるけどね。その後は、平気な顔して体育館へ向かって歩いてればいい。そこに後ろから十香ちゃんが来た……っと、こんな感じかな?」


 なんて大胆な。十香は、美夜子が昨日言っていたことを思い出す。窓から飛び降りたら、学校が終わってすぐに帰れる――それと同じようなことを、魅冬はやったというのか。それこそが真の最短経路……たしかに、窓から直接下へ降りれば階段を使うよりも早く体育館への渡り廊下へ行き着くだろう。


「あっ……そういえば」


 十香は思い出した。


「あのとき、御堂の上履き……汚れてたんだ。土汚れ、みたいな……そのときは、中庭を歩いたりしたのかなって思ったんだけど、もしかしたら……」


 美夜子が言葉を引き継ぐ。


「窓から外に出たときに、汚れたのかもね」

「でもさ、なんで御堂はそんなことをしたんだ? わざわざそんな、アリバイトリックみたいなことをしなくてもよさそうなもんだけどな」


 美夜子はまた少し考えてから、


「……たぶん、元々はもっとシンプルな作戦だったと思うの」

「こんな方法を取るつもりじゃなかったって?」

「まだ教室に人が沢山いる状況だったら、ロザリオをすり替えるのはもっと簡単だったよね。十香ちゃんが教室を出て行った後で何気なくすり替えを行って、自分も教室を出る。他に人が沢山いるんだから、御堂先輩だけが注目されることはまずない。でも、十香ちゃんが着替え始めたのは、教室に誰もいなくなってからだったんでしょ? その状況で十香ちゃんより遅れて教室を出るのは、さすがに怪しまれると思ったんじゃないかな。何かしていると疑われたら、それをきっかけにすり替えに気づかれるかもしれないと思った。偽物の精巧さからして、まずその可能性はないだろうけど、かといってゼロというわけでもないからね」


 念には念を入れた、ということか。美夜子の香水にあの段階で気がついていれば、すり替えにもすぐ気づけたかもしれないが。


「わざわざ窓から降りるなんてアクロバティックなことをしたのも、そのためだと思う。まぁ、十香ちゃんを追い抜くまでする必要があったのかは、微妙なとこだけどね。たしかに上手くいけば怪しまれることはないだろうけど、大変さに対して得られる効果が小さすぎるもん。十香ちゃんを追い抜かなくても、トイレに行ってたふりでもしておけばそれで充分だったとは思う」


 美夜子はそこで小さく笑い、


「でもね、こんな方法を思いついちゃったら、ちょっと試してみたくなる気持ちもあたしはわかるんだ。多少、非合理的でもやってみたくなった。だからやった。一番大きな理由はそれなんじゃないかな。十香ちゃんに疑念を抱かせないため、というのももちろんあるんだろうけど」


 犯人が御堂だとすると、実に彼女らしいことのように思える。元々、ロザリオのすり替えを行った時点で殆ど成功していた作戦だ。多少のギャンブルはあり得たかもしれない。


「あと、これは想像なんだけど……」


 美夜子は補足をする。


「御堂先輩は瀬崎先生に告げ口をしていたんじゃないかな。十香ちゃんが体育をサボろうとしているから注意してくれ、みたいなことをね」

「はぁ!? なんでだよ! ひどいなそれ!?」

「そうして瀬崎先生から釘を刺させておくことで、十香ちゃんがちゃんと体育に出るように仕向けた。もしも十香ちゃんが体育をサボっちゃったりしたら、ロザリオを盗み出す機会がないから」


 そう言われてみれば、あり得ない話じゃなさそうだ。


「……なるほど、御堂にロザリオを盗む機会があったということはそれで納得してもいい」


 十香は美夜子へ更なる質問をぶつける。


「でもさ、それってべつに、御堂じゃなくてもいいんじゃないか? 同じクラスのやつが犯人とは限らないだろ? 例えば、センコーの連中なら自分の受け持つ授業がない時間であれば自由に動けて、教室にも入れただろうし。何かしらのトリックを使う必要もない。可能性は充分ありそうだけどな」

「いや、ないよ」

「ないか……」


 即答で否定されてしまった。少しへこむ。


「そこは御堂先輩じゃないとダメなんだよ。だって、ロザリオの偽物を用意できる人は御堂先輩以外にいないはずだもん」

「ん……どういうことだ?」

「十香ちゃんは、ロザリオが偽物にすり替わっているだなんて、まったく疑いもしなかったんでしょ?」

「そりゃあ、今だって半信半疑だよ。香水の匂いがどうのってのを聞かされたから、一応納得してるけど」

「あたしも匂いで気がついただけ、見た目はそっくりで違いがわからなかったよ。それだけよく出来た偽物を用意できる人なんて、ごくごく限られると思わない?」

「まぁ、そうだな」


 美夜子は次に織江へ尋ねる。


「一つ質問なんだけど。一晩あればあのロザリオのそっくりな複製を作ることって、できる?」


 織江は腕を組んで考えながら、


「どうだろう……普通なら難しいだろうけど、朱ヶ崎の贋作師あたりを頼ればあるいは」

「がんさくし?」

「そういう偽物作りを商売にしている職人がいるんだよ。偽造免許や偽造パスポート、アクセサリーのレプリカ製造とかだね。当然、表立って看板を出したりはしていないけど、伝手と信用さえあれば金次第で何でも作る。ロザリオは小さいし、デザインも中央に付いた薔薇のモチーフがちょっと複雑なくらいだから、急がせれば一晩でも可能だったと思う」

「ふーん……オッケー、とりあえずは充分かな」


 そう言うと美夜子はまた十香へ向かって説明を再開する。


「いい、十香ちゃん? ロザリオをすり替えた犯人であるための条件は、こう。一つ、教室へ入ってロザリオをすり替える機会があった人物である。これは学校に入って自由に歩き回ることができる人が当てはまるね。二つ、ロザリオの複製を予め用意できた人物である。これは金庫の鍵の形を知っていた……平たく言えば、ナイツに、それも岸上先輩の支部に在籍している人のこと。裏社会に通じてるなら、今の話に出た贋作師みたいな人との繋がりもあるかもしれないしね」


 美夜子は順に一本ずつ指を立てていく。そして、三本目。


「――で、これが一番大事。三つ、十香ちゃんが学校へロザリオを持ってくることを知っていた人物である」

「あ……そうか!」


 十香はやっと得心がいって、両手を打ち鳴らした。


「そもそも『すり替えのために偽物を用意してきたってことは、あたしがロザリオを持っているのをそいつは知ってた』ってことだ!」

「イエスッ! そうなんだよ十香ちゃん!」


 美夜子が嬉しそうに親指を立てる。


「へへ、あたしにもわかってきたぜ。――んで、今日あたしが学校に登校してからそれを知ったんじゃ、とても偽物を用意する時間なんてないわな。犯人がそれを知ったのは昨日だったんだ。昨日の段階で、あたしがロザリオの持ち主であることを知ってた人物は数えられるほどしかいない。ロザリオをくれたやっさん、一緒にいた美夜子と探偵のおっさん、そして……事務所からの帰り道に会った、御堂だ」

「そーゆーこと。ロザリオの偽物自体は、正確にはいつ頃作られたものなのかはわからないよ。もしかしたらどこかで鍵の形を知って、それだけはもっと以前に作ってあったのかも。こういう事態を想定してのものだったかどうかはともかくね。でも、今日体育のあったタイミングですり替えができたということは、十香ちゃんがロザリオを持っていたことを昨日の時点で知っていて準備してきたとしか思えない。そうやって考えると、最終的に犯人の候補として残るのは、どうしても御堂先輩ぐらいしかいないの」


 美夜子は髪を手で掻き上げ、更に続ける。


「ロザリオをすり替えた犯人が御堂先輩だとすると、岸上先輩を学校から遠ざけたのも計画の一つだったのかもしれないね。だって、十香ちゃんが岸上先輩と会ってしまったら、ロザリオを持っているのが十香ちゃんだってことはすぐに知られてしまうから。これも完全に想像だけど……例えば仕事のことで何かトラブルが起きるように仕込みを入れておけば、岸上先輩がそのトラブルへの対処のために学校を離れることは予想できたはず。あたしが朝、学校の中庭で岸上先輩と会ったときに先輩の携帯に届いていた連絡がそのことだったとすると……」

「……あり得るな」


 織江は深刻そうな顔をしながら、同意する。


「早朝、ボスが学校を離れていた件だけどね。あれは『エンジェルフェイス』っていう夕桜東支部の傘下にある売春組織で、とある問題が起きたからだった」

「売春組織って……んなもんまであんのかよこの街には」


 十香は呆れつつ言う。織江は頷いて、


「エンジェルフェイスはボスが面倒見ている組織でね。現役の女子高校生が主力商品で、うちの支部内ではかなり大きなシノギになってる。それが昨日の深夜、客との間で起こったトラブルが原因で、危うく警察が動き出す事態になりかけた。そのナシをつけるために、ボスは早朝から動いていたわけだ。まぁ、どうにか事態は丸く収まったんだけど、不審な点がいくつかある。トラブル自体はよくある些細なものだったが、どうもそれに油を注ぐような真似をして、騒ぎを拡大化させようとしたやつがいるようだった。それがもしかしたら……君の言う、御堂というやつだったのかもしれない」


 それにしても、薔薇乃が売春組織のトップでもあったとは。もしかしたら、彼女が売春しているという噂はそのあたりを出所としているのかもしれない。例えば、組織が根城としているクラブのような場所があって、そこへ薔薇乃が定期的に足を踏み入れていれば、そのような噂が立つのも致し方なしという気はする。実際どうであるのかは知らないけれども。


 美夜子は推理を更に進めていく。


「ロザリオのすり替えがたしかに行われていたとすると、ロザリオの偽物を用意できたという時点で、御堂先輩がナイツのメンバーであることは間違いない。ところが先輩は、十香ちゃんにも岸上先輩にもバレることなくロザリオを奪い取ることが目的だったように見える。じゃあ、その理由はなんなんだろう? 御堂先輩が岸上先輩の味方なら、金庫の鍵であるロザリオの所在を知ったらすぐに岸上先輩に連絡を入れたはず。でもそうしていないということは、やっぱり御堂先輩は岸上先輩のことを裏切っている。だとすれば、状況証拠でしかないけど、ブルーガイストとの内通者の正体が御堂先輩だというのは、充分考えられることじゃないかな? ……どう?」


 反応を窺うように、美夜子は十香と織江を交互に見る。


「……確かめてみる価値はありそうだね」


 織江が言う。美夜子の推理には検討の価値があると判断したようだ。


 美夜子の指摘がなかったら、ロザリオがすり替えられていたということにさえ十香は気づけなかっただろう。本来ならばそれは、発覚することさえなかった完全犯罪。それを美夜子は、些細なきっかけから糸口を見出して、ついには御堂魅冬を犯人として告発してしまった。魅冬が犯人だなんて、最初はとても信じられなかった。妄言としか思えなかった。それが、今はどうだ。幾つもの反問は美夜子が打ち出す論理の前に尽くねじ伏せられて、その推理が正しいとしか思えなくなりつつある。


 まったく、こんなぽややん少女のどこにそんな脳みそが入っているのやら……。


 そんなことを思いつつ美夜子の顔を見ていたら、相手もこちらに気がついた。


「……な、なに? どこかおかしなところあったかな?」

「いや……やっぱお前、すげーなって……思ってた」

「あ……そう? えへへ、そう言われるとなんだか照れるね」


 美夜子は照れを誤魔化すように横髪を弄りつつ笑う。なにやら頭でも撫でてやりたくなるが、今はそんなことをしている場合ではない。今までなんとか持ちこたえさせていたが、そろそろ限界のようだった。


「……えっと……つまり、瀬崎のやつが取り上げたのは……偽物のロザリオだったわけ……だよな」


 頭がぼーっとする。


「今、本物のロザリオを持ってるのは御堂か……あ、そうだ。あたし……御堂の連絡先、知ってるよ。必要だろ?」


 昼休みに交換した電話番号が、まさかこんなところで役に立つとは。携帯を取り出そうとスカートのポケットに手を入れる。


「……お、おい君。目が据わってるが大丈夫か?」


 織江の問いかけに十香は苦笑する。


「へへ……正直、キツいかな」


 震える手で織江に携帯を渡して、十香は座席に埋もれるように身を預ける。


「あ、あれ? 十香ちゃん?」


 美夜子が心配して覗き込んでくる。その顔が、二重にぼやけて見える。冷たい手が額に触れた感触があった。ひんやりとして気持ちいい。


「あっ……熱、あるみたい……顔も赤いし……」

 

 美夜子が言う。さっきからそんな感じがしていたが、やっぱりか。


「あのなー……さっきからずっと我慢してたのか? そんなにしんどかったなら、早く言えばよかったのに」


 織江が咎めるように言う。


 だって仕方がないじゃないか。自分が休んでいる間に置いてけぼりをくうのは嫌だったんだ。でも、やっぱり最後までは持たなかったか。


「悪いけど、ちょっと休ませてもらうわ……眠くてたまんないんだ」

「十香ちゃん……」


 十香は今にも泣き出しそうな美夜子の顔を見て、小さく笑う。


「そうやってすぐ泣きそうな顔すんなって、バカ。ちっと寝るだけだよ」

「う、うん……」美夜子はいくらかしっかりした顔になって言う。「……おやすみ、十香ちゃん」

「おやすみってな……ま、いいか。――じゃ、おやすみ……」


 目を閉じると、あとは一気に深い水の底へと沈んでいくようだった。もうしばらくは、指先一本たりとも動かせそうにない。

 

「悪かったな……すぐ病院へ連れて行ってやるから」


 織江の声を聞いたのを最後に、十香は暗闇のなかで意識を手放した。

------------------------------






 夕桜の市街地中心部よりやや東側に、コーブ東夕桜という駐車場がある。地上三階、地下一階建てで、合計収容台数は三百台ほど。その地下一階を、男は歩いていた。


 男の歳は三十前後、スーツ姿でビジネスバッグを片手に、駐車場の奥へと進む。その表情は、何事か不安を抱えているようでもあった。


 薄暗く、静まりかえった駐車場の奥の奥。外と比べて気温が低いわけでもなかろうに、歩を進めるごとに空気が冷たくなっていく気がした。古びた電灯の灯りがなんとか届く駐車場の隅に辿り着くと、男は周囲を見回す。車が何台か停まっているだけで、人の気配はない。


「笠松悠生(かさまつゆうせい)だな?」


 突然、男は背後から声をかけられ、驚いて振り返る。


 異様な風貌をした男だった。二メートル近い身長に、軍人のように筋骨隆々とした屈強な体つきで、灰色のミリタリージャケットを羽織っている。頭はスキンヘッドで、その下、左目の周囲に刻まれた蛇のような刺青が存在感を放っていた。


 何より驚いたのは、こんな大男が後ろに立っていたのに声をかけられるまで、まるでその存在に気がつかなかったということだ。車の陰に隠れていたのだろうか? こうして目の前にすると、凄まじい威圧感がある。


「そ、そうだ。俺が笠松だ」笠松は声が震えそうになるのを堪えて言う。「……あんたがさっきの電話の?」


 今から三十分前、笠松悠生の携帯に非通知で電話がかかってきた。ボイスチェンジャーか何かで声を変えていて、性別も年齢もわからない相手は、こう告げた。


『よぉ、ネズミ野郎。瀬崎晋太郎が殺されたニュースは見たな? 溜め込んだ金の半分寄越せ。そうすりゃお前を救ってやる。今からちょうど一時間後にコーブ東夕桜の地下一階奥まで来い。金を忘れるなよ』


 笠松に選択権はなかった。翠鷲と繋がった密売人である瀬崎が殺されたということは、自分の身も危ないということだ。笠松の役目はナイツの夕桜東支部に潜伏し、内部で得た情報を流すこと。翠鷲が夕桜に侵攻するにあたって、最大の障害がナイツだった。瀬崎が夕桜のシマにクスリを蔓延させるまでの間、ナイツの目くらましをしておく必要があったのだ。


 その瀬崎が殺された。誰に殺されたかはわからないが、遺体の状況からしてあれは、明らかに翠鷲への示威行動だ。瀬崎が死ぬ直前に自分のことを漏らしていない保証はない。いや、既にバレていると考えたほうがいいだろう。翠鷲の拠点とも、先ほどから連絡が取れなくなっていた。夕桜侵攻作戦の足がかりとするため、翠鷲の幹部が築いたアジトがあるのだ。瀬崎が流していたヤクも、そこから供給されたものである。……既にそちらが制圧されたということであれば、自分はなんの後ろ盾もなくなる。このままでは、瀬崎を殺した何者かに自分も殺されるのは時間の問題だった。


「助けてくれ! ここに五千万ある! これだけあれば充分だろう!?」


 笠松は刺青の大男に向かって鞄を広げて中身を見せる。


「……お前と話がしたいという人間がいる」


 刺青の男は静かに言うと、携帯電話を笠松に渡す。既に通話状態になっている。


「……もしもし? だ、誰だ?」

『ハロー、ネズミ野郎。誰だと思う?』


 女の声。聞き覚えがある。


『お前をそこに呼んだのは私だよ、笠松。まったく呆れる。ほんとーに、馬鹿なことをしたもんだ』

「なっ……まさか、御堂……さん!? な……んで……!?」


 御堂魅冬。岸上薔薇乃と同じく、数多くのシノギを成功させ年若くして東支部幹部の一角にまで上り詰めた女。今までに挙げてきた功績の大きさを考えれば、薔薇乃に次ぐ実質的なナンバーツーと言ってよいかもしれない。


『お前、本当に助けてもらえると思って来たのか? ハッ、そんなわけねぇだろ、バーーーーーーカ!』

「は……はぁ!?」

 

 声が裏返った。


『とっくにネタは割れてんだよ。瀬崎を殺させたのも私だ』

「ぐっ……ど、どうして……?」

『私がどうして瀬崎のことに気がついたか教えてやろうか? お前、瀬崎にロザリオ型の金庫の鍵について喋っただろ。ご丁寧に写真までメールで送って。あれがまずかった』


 瀬崎とは毎日昼に定時連絡を交わすことになっていた。昨日のブルーガイストによる事務所襲撃によって、ダイヤの入った金庫の鍵が行方不明になったことを話したのは、たしかに今日の昼。翠鷲とは直接無関係でも、得た情報はなるべく報告することになっていたのだ。


『お前は知っていたのか? あの鍵を持った人間がうちの学校にいたことを』

「なん、だって……?」


 電話の向こうで、魅冬が鼻で笑う。


『やっぱりな。あれは瀬崎の独断だったか。鍵の持ち主である生徒は、偶然からあれを手に入れていた。もちろん、その本当の価値など知る由もない。知っていたら、無防備に首飾りとして学校につけてきたりはしないだろう。瀬崎も同じ判断をしたんだろうが、あいつの馬鹿なところは、よりによって私の目の届くところで、その生徒から鍵を没収したことだ。それもあまりにも理不尽で、違和感のあるやり方でね。私はすぐに理解した。瀬崎はロザリオの価値を知っている。そうでなければ、生徒の持ち込んだ装飾品ごときを、わざわざあんな強引な方法で没収するはずがない。私は瀬崎を言い含めて校舎の外へ連れ出し、そこにいるミズチに拉致させた』


 笠松は目の前の大男に目をやる。この男が、ミズチなのだろう。ようやく理解した。この男は殺し屋だ。それも、かなり手練れの。瀬崎を直接殺したのもこの男に違いない。


『後はお前の考えている通り。瀬崎は死ぬ前に洗いざらいゲロったぞ。翠鷲の夕桜侵攻にあたっての橋頭堡があること、クスリの仕入れ先もそこであること、その詳しい場所、そしてもちろん、ナイツに潜む翠鷲のネズミのこともな』


 笠松は瀬崎に対する怒りで爆発しそうだった。


 クソッ!! なに……なにやってくれてんだ瀬崎のやつ!! 勝手な真似をしやがって!! 死ぬなら一人で黙って死にやがれ、俺を巻き込むんじゃねえよ、クソが!! 全部あいつのミスだ。妙に鍵のことで関心を示すから変に思っていたが、心当たりがあったならそう言えばいいものを。さてはあいつ、鍵を手に入れた功績を独り占めにする気だったのか、ふざけやがって。……それにしても、迂闊すぎるだろうが! 学校内ではナイツの人間である岸上薔薇乃と御堂魅冬については、最大限警戒しておくように言ってあったはずなのに!!


『瀬崎は、私が鍵のことに気がついてないと思ったんだろう』


 魅冬は更に続ける。


『昼過ぎになっても、鍵は生徒の手元にあった。それを奴は、都合良く解釈したわけだ。御堂魅冬は鍵にまだ気がついていない、奪い取るなら、今のうちだ――とね。もう既に、私の手によって鍵が偽物とすり替えられた後だったことも知らずにな。わざわざ偽物を用意したのはその生徒に盗みがバレないようにするためであって、べつに罠にかけようなんてつもりもなかったんだが、勝手に自爆してくれた。ほんと、傑作レベルのアホだあいつは!』

「くっ……ぐっ……」


 返す言葉もない。どうして、どうしてこんなことに。


『それにしても、私と薔薇乃の担任の教師が翠鷲の密売人だったとはな。灯台下暗しってわけか? ナメた真似してくれやがって』

「せ、瀬崎に命令されてたんだ!」

『……あぁ?』


 笠松はなりふり構わず、残る可能性に賭けることにする。


「本当はナイツを裏切りたくなんてなかった! でも、瀬崎に脅されていて……やつに人質を取られていたんだ」

『……はぁ?』

「仕方がなかったんだ! あいつの言うとおりにしないと恋人が殺される! だから……」


 死人に口なし。でまかせでもなんでも言って、今この場を切り抜けるしかない。


『クッ……クク、あっはっは! そうか、人質か!』


 魅冬が愉快そうに笑う。


「そ、そう……だから……」

『寝言もほどほどにしろよ?』魅冬の声が、いきなり寒気が感じられるほど冷たくなる。『逆に感心する。よくもそんなくだらねぇ戯言を並べる気になれたもんだ……この、私相手に』

「あ、いや……その……」


 頭が真っ白になる。なにか、なにか言わないと。しかし、口に出すべき言葉は見つからない。


『バイキン撒き散らすだけのネズミを生かしておく必要がどこにある? テメーをぶっ殺してフカの餌にくれてやるのは既に確定なんだよ、ボケがッ!』

「ひぃっ……!」


 一回りほども年下の小娘相手に恫喝されただけで、どうしてこんなにも足がすくんでしまうのか。


『だがな、テメーのおかげでムカつく翠鷲のゴミどもをミンチにしてやることができそうだ。わざわざ電話したのは、そのマヌケさに礼を言うためだ。ありがとよ』


 目の前の大男が、懐から大振りのアーミーナイフを取り出す。


「や、やめろ! 嫌だ……殺さないでくれ!!」


 笠松は携帯を落として逃げようとするが、恐怖で足が思うように動かない。すぐに足がもつれて転んでしまう。落とした携帯から声が聞こえる。


『テメーみてぇなカス虫野郎の分際で、薔薇乃に刃向かったこと……せいぜい後悔して、死ね』

「嫌だぁ!!」


 笠松の胸元へ、無慈悲にナイフが突き立てられる。何気ないようで、肋骨の隙間を通して心臓を刺し貫く熟練の業とも言える一撃。笠松の絶命を確認すると、大男――ミズチはナイフを引き抜いて、血振りを行う。


『終わったか、ミズチ』


 ミズチは携帯を拾い上げて、


「問題ない。死体はどうすればいい?」

『構わん、放っておけ。こちらで処理させる。そいつの持ってきた金はお前の好きにしろ。私には必要ない』

「了解した」

『それより、早めにこちらに戻ってこい。先ほど電話があってな。人と会うことになった。おそらく、私の目的にある程度感づいている。必要によっては仕事をしてもらうことになるぞ』

「また殺しか?」

『心配するな、金の用意ならある』

「それならいい。次はもう少し歯ごたえのある相手がいればいいんだが」

『はっ、ターゲットが雑魚ばかりでは退屈か?』

「少し、な」


 そう言って、通話を終えた。ミズチという名の殺し屋は、携帯とナイフをしまうと、笠松が持ってきた金の詰まった鞄を拾い上げる。そして、まるで何事もなかったかのような足取りでその場をあとにした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る