第14話 天狗との対決






 それからしばらく後、日の暮れかかってきた頃。冬吾と禊屋は朱ヶ崎を走るバンの中にいた。EMCから夕桜支社への帰途だ。二人は後部座席に座っており、運転しているのは、薔薇乃から送迎係を任ぜられてこちらへ来ていた織江だった。冬吾は運転席の後ろの席に座っていて、禊屋はその左隣で電話をしていた。


「――はーい、りょーかい。じゃーね」


 禊屋が電話を切るのを待って、冬吾は尋ねた。


「なんだって?」

「念のために頼んでおいた鑑定の報告。結果は黒。死体の血液と胃の残留物から睡眠薬の反応が出たってさ」

「じゃあ、あの死体が佐渡のものじゃないってことは確定か」


 禊屋の推理が当たっていたことの裏付けが取れたのだ。


「いやーでも驚いたな」


 運転席の織江がバックミラーを見ながら言う。


「あの天狗野郎の正体が佐渡だったとはね」

「よく思いだしてみれば、昨夜のことからして佐渡さんは疑わしかったんだよ」


 禊屋は携帯をコートのポケットへ仕舞ってから話す。


「黒衣天狗は涼城花凛殺しの事件を調査する者を殺そうとした。そういう前提で考えてみると、昨夜のあれは犯人側のリアクションとしてはやや過剰すぎる気がしたんだよね。だってそうじゃない? あたしたちが実際に犯人の正体に辿り着けるかどうかなんて、あの時点ではわからなかったはず。それなのに、黒衣天狗はあたしたちが調査に乗り出したその日の夜に襲いかかってきた。犯人は用心深い性格だとは思うけど……それにしたって、ちょっとやりすぎだと感じるかな。まるで、あたしが事件をほじくったらたちまち解決してしまうと――まぁ実際そうなんだけどさ?――犯人までそう思い込んでるみたいな性急さだった。でも、犯人が焦ったのは当然だったんだよね。あたしたちが犯人の正体に繋がる手がかりを見つけたということを知ったんだから」


 冬吾は思い当たることがあった。


「厚乃木社長から訊きだした、ホテル街での目撃証言……か?」

「そのとーり。マンションの監視カメラすら警戒して顔を映さないようにしていた犯人が犯していた、数少ないミス。まぁ、その時点ではまだ殺害を計画してはいなかったとしたら、ミスとも呼べないかもしれないけど」


 厚乃木社長からその情報を得た後、禊屋は佐渡にその内容を話していた。逆に言うなら、そのことをあの時点で知っていたのは、俺たちの他には佐渡しかいなかったということになる。


「その目撃証言をもとに調べられたらいずれは、いいや、明日にも犯人が自分であるとバレてしまうと危惧した佐渡さんは、一刻も早くあたしたちを消してしまいたかった。だから、いっそ自分で手を下すことにしたわけ。自分のもう一つの姿――殺し屋、黒衣天狗としてね」

「でも、その目論見は新人クンの健闘によって失敗したわけだ。さぞや悔しかっただろうね」


 織江が愉快そうに笑う。どちらかというと、織江があの時駆けつけてきてくれた功績のほうが大きいと思うが。


「佐渡さんは本格的に追い詰められた。ナイツから一度マークされてしまえば、もう逃げ切ることは不可能。なんとか生き延びる方法はないか――考えて考えて、逆転の発想に至った。それが『捕まる前に自分を殺してしまうこと』だったの。もちろん、本当に死ぬんじゃなくて、そう思わせるだけでいい。ナイツもさすがに死んだ人間を捜そうとはしないからね。そのために佐渡さんは、壮大な自作自演をやったわけ」

「そりゃまた、随分とぶっとんだ発想だなー。普通じゃないね」


 織江は苦笑すると、ハンドルをきって角を右へ曲がりながら禊屋へ尋ねた。


「でもさー。いったいどういうからくりなんだ? 新人クンはたしかに、店長室の中で黒衣天狗に殺されそうになってる佐渡の顔を見たんだろー?」


 織江は既に、EMCで起きた事件のあらましを聞いていた。


「はい。俺もそう思っていました」


 だからこそ、あの首のない死体が佐渡のものだということを何の疑問も持たずに信じていたのだ。それこそが、奴の仕掛けたトリックの目的だった。


「ノラは偽りの光景を見せられていたんだよ、織江ちゃん」


 禊屋は改めて、冬吾に既に聞かせた推理を話す。


「偽りの光景?」

「そう。ノラが扉の覗き穴から見たのは、黒衣天狗が演出した『殺されたのは佐渡拳である』と思わせるための光景。実際に殺されたのは似たような体格の別人だったの。死体を詳しく調べてみればそのへんはっきりすると思うけど、それをさせないためのトリックでもあったんだろうね」


 死体に疑問の余地があって初めて入念に調べることになるわけで、そもそも禊屋が疑わしいところを見出していなければ、死体は早々に処分されておしまいだっただろう。


 そして、黒衣天狗はそのために冬吾を殺すことができなかったのだ。このトリックの成立には、『殺されたのは佐渡拳である』と証言してくれる人間が必要不可欠である。元々は、佐渡はその役目に安土啓恵を選んだのだろう。目撃者は一人で充分、それ以上は計画の支障になりかねない。そのためにわざわざ店を休業にして、啓恵に掃除のアルバイトを任せたわけだ。ところが、佐渡の予想に反して冬吾がその役割を演じてしまう結果となった。だから黒衣天狗は、冬吾を殺せる状況であってもただ逃げることだけを選んだ。万が一にも、自分が死んだことを証言してくれる者を殺してしまうわけにはいかないから。


「あたしがそのことに気がついたきっかけは、死体の手首に巻かれた腕時計だった。革ベルトの穴の中に、一つだけ大きく広がった穴があってさ、それはバックルの留め金の位置より二つも外側の穴だったの。つまり、普段あの時計はその位置でバックルを固定する人物によって使われていたってことになる。殺された人よりも、手首が一回りくらい太い人物にね。体格は同じくらいでも、手首の太さって結構ばらつきがあるからさ」


 事件が起きる直前に会った際、冬吾は佐渡が腕時計をしているのを見ている。つまり、あの後で佐渡は身代わりに時計を身に着けさせたのだ。服装についてはおそらく予め同じようなものを着させていたのだろうが、時計までは用意できなかったから、自分がそれまで手首にしていたものを着けさせたのかもしれない。


「時計が他の人からの貰い物であるとか、他に可能性が考えられないわけじゃなかったけど、あの部屋で調査を進めるうちに確信できた。殺されたのは佐渡拳じゃないってね」

「ふーん……。それで、誰なんだよ? その身代わりに殺された奴ってのは?」


 禊屋は苦笑いを浮かべて頭を掻いた。


「その点、手がかりに乏しいからはっきりとは言えないんだけどねぇ。でも候補として思い浮かぶ人はいるよ。もしかしたらあれは、暮野彰宏だったんじゃないかな」

「暮野? それってさ、長良組から三億を盗み出して失踪してた男だろ?」


 織江の問いかけに禊屋は頷く。


「事件について大きな手がかりを握っているはずの暮野は、長良組の必死の捜索にも関わらず手がかりの一つも見つかってない。だから、もう既に殺されているんじゃないかってあたしは考えてたの。でも、こういう可能性もあるって気がついた。それは、誰かに匿われていたってこと」

「匿ってた……って、誰がさ?」

「もちろん、佐渡さん。もちろん自分が涼城花凛を殺したってことは黙ったままでね。どうやって騙したのかはわからないけど、もしかしたら前から交流があったのかな」

「佐渡が? それは自分の身代わりとして殺すためにってことか?」

「身代わりという意味では同じだけど、元々はもっと別の方法を考えていたとは思うよ。多分、涼城さんを殺した容疑をかぶせた上で始末するつもりだったんじゃないかな。暮野を捜す長良組の目をどう誤魔化すかもたもたと……もとい慎重に考えているうちに状況が変わって、別の利用方法を思いついたって感じ?」


 それが佐渡が用いた自分殺しのトリックだったわけだ。


「その……身代わりに殺されたやつってのはさ、睡眠薬で眠らされていたわけだろー? そんなの、部屋に運び入れようとするところを他の人間に見られたらまずいんじゃないのか?」


 織江はもっともな疑問を呈する。


「うん。というか、実際見られてたんだよ、啓恵ちゃんにね。でも気がつかれなかった。それも当然。身代わりはキャリーバッグの中に詰められていたんだから」

「キャリーバッグの中?」

「黒衣天狗が持ち去ったキャリーバッグ、あれは三億じゃなくて身代わりの人間を持ち込むためのものだったんだよ。あれだけ大きければ人間の身体も入ったはず」


 事件が発生する直前に佐渡と話したあの時、店長室の中から何かが倒れる音がした。あれはもしかしたら、眠らされていた身代わりが何かの拍子に寝返りなどして立てた音だったのかもしれない。そうでなかったとしても、冬吾に部屋の中を覗かれるわけにはいかなかったから、佐渡は音の所在を確認しようともしなかったわけだ。あの時、部屋の中では佐渡がトリックの準備をしていたところだったのだろう。


 身代わりの身体を運ぶのにわざわざあのキャリーバッグを用いたのには、三億が入っているとミスリードする目論見もあったのかもしれない。黒衣天狗が三億を盗み出すために佐渡を裏切ったというストーリーをでっち上げるためだ。そのために、部屋から逃げ出す際にキャリーバッグを持ち帰る必要があった。後で調べられてそのバッグが空っぽであれば、黒衣天狗が三億を盗んだようには見えなくなってしまうから。


「なるほど、身代わりを部屋に運び入れた手順はわかった――で、その後、黒衣天狗は具体的になにをどうしたわけさ?」

「トリックに使ったのは、鏡とモニターなの」


 禊屋は澄ました顔で言った。


「鏡と……モニター?」

「まず、鏡から説明するね。店長室の天井の、扉に近いところにフックが付けられていたの。そこには白い糸がぶら下がってて、途中で切れたみたいだった。あそこには、鏡が糸で吊されていたはず。そんなに大きくなくていい、手鏡くらいのサイズで充分かな」

「鏡なんか吊してどうすんだ?」

「いい? 黒衣天狗は、扉に内側から鍵をかけておけば、自分の叫び声を聞いて駆けつけてきた人が必ず覗き穴から中の様子を確認しようとすると踏んでいたわけ。覗き穴から部屋を覗こうとすると、視点がその一点だけに限定されるでしょ? それをうまく利用した。まず、フックに鏡を吊す際に、覗き穴と鏡面が向かい合う形から四十五度、扉から見て右側に向けて傾けておく。鏡がそうやってセットされた状態で穴を覗けば、見える光景は、扉から見て部屋の『正面奥』ではなく、『右奥』になるの。わかる?」

「えっと、ちょっと待てよ……あ、あー! そういうことか!」


 織江はやや時間を置いてから感心したように頷く。


「ノラが見せられていたのは黒衣天狗が部屋の右奥に作った、いわばセットみたいなものだったんだよ。部屋の右奥には、ちょうど正面奥にあったデスクの代わりにできそうな長机があった。長机は壁に沿うようになっていたけど、あれを九十度回転させて位置を調整、そして上から黒い布をかぶせていたわけ」


 身代わりが拘束されていたデスクは横に広いタイプで、長机の形状に似ていると言えなくもない。その上、黒い布が敷かれていたために二つの大きさの違いには気がつきにくくなっていたのだ。それがあの黒い布のもたらした効果の一つ。


「ところで、現場には身代わり死体が乗せられたデスクに使われていた以外の余分な黒い布は見つかっていない。そうなると、黒衣天狗が持ち去ったと考えられる。そのヒントはなかったか?――あった。黒衣天狗が身代わり死体の生首を包んだ布。あれは大きさも色も、デスクに使われていたものとよく似ていたって話だったね?」

「ああ、そうだ」


 後々説明するトリックの都合上、その黒い布は現場に残っていたものに加えてあと二枚はあったはずなのだ。生首を包むために二枚を重ねていたのかもしれない。


 禊屋はこほんと咳払いし、更に続けた。


「というわけで、黒衣天狗は部屋の右奥に偽装用のセットを作り上げていた。もちろんその時点で、覗き穴から見える本来の範囲である正面奥には、既にダミーの人物が睡眠薬で眠らされ、デスクの上で拘束されていたの。これは鏡がセットされている限り覗き穴からは見えないようになってるよ。――で、ここがトリックにおいて最も重要なポイント。覗き穴を覗いた人物に、『拘束されていたのは佐渡拳である』と認識させるにはどうすればいいか。そのためには、顔を見せておくことが必要不可欠だった。でも自分で長机の上に寝っ転がるわけにもいかない。それなら黒衣天狗役を誰がするのかって話になるからね。そこで使ったのが、あの長机の上にあったモニター!」


 禊屋はそこで右手の人差し指を立てる。


「ズヴァリ、あのモニターに自分の顔を映させたのだ」

「モニターって……つまり録画した映像を流したってことか?」


 織江は信号で車を一時停止させてから尋ねた。


「そう。小型のプレイヤーか何かに入れてね。顔の部分だけをモニターに映し、首から下の身体の部分は多分、床に落ちていた辞書とかパソコンを黒い布で覆うことで見せかけていたんだと思う。ノラが部屋が暗くなってる間に聞いたっていう、『何かが落ちる音』はこれのことだったんだよ」


 それらは部屋の中央あたりに散乱していた。元々はデスクの上に置かれていたものであるから、自然とそこから払いのけられてあそこへ落ちたのだろうと思わせられた。だが、実際は一度偽装用の長机の上に移動、それから床に落とされたのだ。偽装演出の間、長机は中央よりに移動していたはずであるから、ものが落ちるのは同じような位置になる。


「いやー、でもそれはさすがに本物じゃないって気がつくんじゃねーの? 身体のほうはともかく、顔をモニターに映した映像で誤魔化すのは無理だろー?」


 織江は懐疑的だ。それも当然だと思う。自分だって、禊屋から聞かされてすぐには信じられなかった。


「もちろん、いくらハイビジョンって言ったって近くで見ればすぐにわかっただろうけどさ。覗き穴から長机まではやや距離があったし、おまけに部屋はランプの明かりが点いてるだけで、薄暗かった。それに予めモニター側で画面の明るさを抑えておいて、あとはアームで角度を微調整するなり……それでかなりの割合違和感は減らせたと思うよ。そして何より、その光景は覗き穴から片目でしか見ることが出来ない。片目だけでは立体感がわからないから、余計に見間違えやすいというわけ」

「うーん……」


 信号が青になったので、織江は車を発進させる。


「なるほど、映像自体はそれで誤魔化せるかもしんないけどさ。モニターってのは、こう……画面の外枠……フレームだっけか? あれがあるだろ。そのへん上手く隠さないと、すぐにそれがモニターだってバレちまうと思うんだがな」

「ごもっとも。特にモニターの下の辺と首の切れ目にあたる横の辺が問題だった。『あれれ、首だけなんか台から浮いてない?』とか『なんか首、切れてない?』なんて思われたらお話にならないからね。それを誤魔化すために用いた方法が、保護色を使うことだったの」

「保護色……って、カメレオンとかの?」

「そう。台の上に敷かれていたのと、身体の膨らみの正体を隠すため首元までかけられていた二枚の黒い布。あれはモニターの黒いフレームを隠すためのものだった。ううん、隠すと言うよりは、繋ぎ目を同化させる、って感じかな? それに加えて、あの部屋はどの壁も一面黒色だった。その背景の効果も手伝って、あの空間内では黒色のものが極端に目立ちにくくなっていたわけ。モニターのフレームも、黒い布や壁の一部であると、無意識のうちに錯覚させることが目的だったの」


 禊屋が店長室の調査中に話した、ランプのトリックと同じだ。あれも、隠しきれない延長コードを黒い布と黒い壁に紛らわせることで見る者にその存在を認識させないようにしたものだった。


「さっき言ったとおり、部屋は薄暗かったから、いきなりそんな光景を見せられてそれに気がつくことができる人は、そうそういないんじゃないかな? 黒衣天狗が部屋の照明をランプの明かりだけにしていた理由の二つの内一つはそれ」

「もう一つは?」


 織江が尋ねると、禊屋は当然その質問が来ることを予期していたように続けた。


「モニターの映像と部屋の明かりを同じタイミングで消すためだよ」

「同じタイミングで? なんでまた?」

「説明するまでもないけど、目撃者に偽装演出を見せた後で黒衣天狗、つまり佐渡さんは自分の身代わりを殺した。まさにたった今、佐渡拳は殺されたのだと思わせるためにね。でも、見られている途中で偽装用のセットを離れて移動し、身代わりの首を切り落とすなんてできるわけがない。だから覗き穴からの視界を塞いでおく必要があったの。黒衣天狗は扉を見て、蓋のスライドが動くのを確認して誰かが覗き穴から部屋の中を見ていることを知る。もちろん、自分はそれには気がつかないふりをしてね。モニターに映る佐渡拳の顔と、その横に立つ黒衣天狗を充分に見せたら、部屋の明かりを消し、その間に身代わりの殺害とトリックに気づかれないための証拠の回収をやってのけたわけ。そこで重要だったのが、今言ったモニターの映像と部屋の明かりを同時に消してしまうこと。その二つは、どちらが先に消えてもおかしなことになっちゃうからね」


 モニターの映像だけを先に切ってしまえば、佐渡の顔だけが突如消えてしまうことになるし、部屋の明かりを先に消せば、真っ暗な部屋の中でモニターの映像で映された佐渡の顔だけが不自然に浮かぶことになるだろう。それら二つは、必ず同時に消える必要があったのだ。


「ランプとモニターの電源を同時に切るにはどうすればいいか? これは、延長コードが一本あればいい」


 禊屋が織江に説明したものは、おおよそは冬吾が店長室の中で聞かされたランプ消灯のトリックと同じだ。違いは、延長コードのコンセント部にランプのプラグに加えてモニターのプラグも繋いでおくこと。こうしておくことで、延長コードのプラグを引き抜けば部屋の明かりとモニターの電源が同時に落ちることになる。


「それと、佐渡さんは予め暗闇の中でも動けるような準備をしていたはず。暗視ゴーグルとかね。明かりが消えてからは少し忙しいよ。まず延長コードに差さったプラグを抜いて、コードを回収。次に偽装用セットの黒い布を取り払うのと同時に、身体の膨らみとして使っていた辞書、パソコンなどを床に落とす。長机は最初とは逆向きに九十度回転させ、元通りの位置に戻しておく。そして刀で身代わりの首を切り落とし殺害。黒い布で首を包むと、次は扉近くに移動。刀で天井のフックからぶら下がった糸を切り、鏡を回収した。そのとき残った糸に刀の血が付着したわけ。あとは、扉の鍵の位置を確認してから、予め覗き穴からは見えない位置――例えば、扉のすぐ左横とかに置いていた空のキャリーバッグに、延長コードやゴーグルなんかのその場に残すとまずい証拠品を詰め込む。これはべつに生首の包みに一緒に入れておいてもいいけどね。最後に内鍵を開けて、逃走用の閃光手榴弾のピンを抜いてノラが入ってくるのを待った……死体の状態をその目で直接確認させとかなきゃいけないからね」


 禊屋はそこまで言ってから、指をパチンと鳴らす。


「――以上、禊屋さんの名推理でした」


 禊屋の推理は、充分説得力のあるものだった。その推理通りであれば、佐渡は今も逃走を続けていることになるが……。


「禊屋。佐渡は本当に来ると思うか?」


 冬吾は気になって尋ねてみた。


「来るよ。間違いなく」


 禊屋は言い切る。相当自信があるようだ。


 禊屋は佐渡を誘い出すための罠を仕掛けていた。といっても、そう大したものではない。店長室に仕掛けられていた盗聴器。あれは、佐渡の手によるものだったと見てまず間違いないだろう。用心深い佐渡は、自分が生きていることがバレていないかどうかの保証が欲しかったのだ。禊屋はその盗聴器に向かって、『佐渡拳が生きていることをナイツに対して黙っておく代わりに、盗んだ三億円を差し出せ』と告げた。指定した場所は、朱ヶ崎から少しはずれたところにある廃ビルの中だ。もちろん、本心からナイツを裏切るわけではない。そうして廃ビルへおびき寄せたところを、ナイツが用意した複数のヒットマンが待ち伏せして捕らえるという作戦だ。禊屋は現場には向かわないので、危険はない。


「でも、いかにも罠って感じじゃないか。そう簡単に騙されてくれる相手じゃないだろ」

「罠っぽくてもいいんだよ。向こうは少しでもあたしを殺せる可能性があったら飛びついてくるはずだからさ」

「なんでそう言い切れる?」

「いい? 向こうは自分殺しのトリックがあたしによって見破られた時点で、もう詰んでるの。たとえ地獄の果てまで逃げようが、ナイツの追跡から逃れることなんてできない。どのみち捕まるのは時間の問題だけど、こちらとしては、できれば早いに越したことはないじゃん? だから誘い出すの。あたしが本当に取引をするつもりでいたなら、佐渡さんはあたしさえ殺せればそれで万事オーケー、逃げ延びることができるかもしれない。佐渡さんにとっては、もうその可能性に賭けるしかないわけ。たとえそれがどれだけ疑わしいものであっても、ね」

「ひゅう、なかなかエグいこと考えるなぁ」


 織江は大げさに肩をすくめた。


「ふふん。あたしに喧嘩売ったら後がコワいってこと、思い知らせてやんないとね」


 禊屋は鼻高々にふんぞり返る。冬吾は曖昧に笑ってみせたが、どうにも不安が残った。まだ、気を抜くには早いような気がする。


 そのとき、禊屋の携帯が震えた。着信らしい。


「乃神さんからだ」


 そう言ってから禊屋は応答する。


「はーい、どうしたの?」

『佐渡拳についてこちらで調べてみた。その報告をしておく』

「なにかわかった?」


 言いながら、禊屋はスピーカーホンに設定して、織江にも通話を聞こえるようにした。


『今から三年前、ナイツによって吸収された梅田組という極道組織がある。佐渡はそこに用心棒として雇われていたようだ。用心棒とはいっても、実情は組にとって邪魔な人間を消す、殺し屋と大差ないものだがな。有能な男だったが、殺しに関わるような裏稼業からは足を洗いたがっていたので、元梅田組組長からの紹介でEMCの従業員として雇われたというデータがある』

「殺しからは足を洗ったんでしょ? それがどーしてまた伏王会で殺し屋なんてやってたわけ?」

『さぁな。そこまでは知らん。ところで……伏王会は黒衣天狗の正体が佐渡であること、知らなかったと思うか?』

「そんなわけないじゃん。顔も名前も、しっかり押さえてたと思うよ。あえてそれを教えず、あたしが自力でその正体に辿り着けるか優雅に見物してたってわけ。いかにもあの人のやりそーなこと」

『やはりそうか。喰えん女だな、神楽というやつは』


 神楽のやつめ、俺たちに対して気を利かせたとか言って黒衣天狗の情報を渡しておきながら、結局一番肝心の部分を伏せていやがった……! それを追求したとしても、奴はまたとぼけてのらりくらりと躱すことだろう。やはりあの女は最後まで信用してはならないようだ。


『報告はとりあえずは以上だ。続きは支社に戻ってから――待て。……禊屋、まだ切るなよ』


 空気が変わったのが伝わってきた。乃神は電話の向こうで誰かと話しているようだ。


『なんだと……? くそっ! 何やってんだ現場の連中は!』


 乃神はらしくない調子で声を荒げる。


「どーしたの、乃神さん?」

『よく聞け禊屋。一大事だ』


 乃神は早口になり、切迫したように言った。


『黒衣天狗が指定の廃ビルから逃走した』

「はぁ!?」


 禊屋は驚いて大きな声を上げた。


「な、なんで!? というか、まだ指定の時間には早い――」

『こちらが準備していたところを相手に見つかったらしい。四人雇ったB級ヒットマンのうち、一人が殺され二人が重傷を負った。人数が多いからと油断したようだ。残念だが、作戦は……失敗だ』

「えぇー……ちょっともう、何やってんだか……ああん、もう!」


 禊屋は髪を掻き、苛立つように地団駄を踏む。


『逃走したとはいえ、奴にもう後はない。すぐに手配をかけ直して――なんだ、まだ何かあるのか?』


 現場からの報告はまだ終わっていなかったらしい。電話の向こうで話し声が聞こえる。


『――馬鹿がっ! それを先に言え!!』


 乃神の怒声が響いた。禊屋はおそるおそる尋ねる。


「な……なんかあった?」

『禊屋! すぐに電話を捨てろ!』

「はぁ? 電話? なんで?」

『黒衣天狗は逃走のためにナイツの車を奪ったらしい! その車には、何かあったときすぐにお前の警護に向かえるように、携帯のGPSを追うシステムが積んである! 奴がそれに気づいたらどうなるか、わかるな!?』

「――! わ、わかった!」


 禊屋は窓の上端を開け、携帯を道路へ放り捨てた。無念そうに窓から後ろを見て、


「うぅー……写真とか音楽とか色々入れてたのにぃ……――あ」


 禊屋は何かに気がついたようにすぐに振り向くと、織江へ言った。


「織江ちゃん! 左から来てる!」


 車は交差点に差し掛かったところ。交通量は少ない通り。その左方向から、異常なスピードで突っ込んでくる黒いセダンが見えた。


「クソがっ――!」織江は急遽ブレーキを踏みハンドルを切るが――「ダメだ、伏せろっ!!」


 織江が叫んだ直後、車内は凄まじい轟音と衝撃に襲われた。冬吾は右のドアに激しく身体を打ち付けられる。タイヤの滑る音、車が制御を失ってスピンし――やがて、止まった。


 ……生きている。身体は動く、呼吸もできる。冬吾はシートベルトを外して、隣で項垂れる禊屋の肩を揺すった。


「おい……大丈夫か?」

「う……うん。なんとか」


 苦しげな声で応えたが、見て分かる怪我はしてなさそうだ。禊屋は自分のシートベルトを外すと、運転席のほうを見て声を上げた。


「織江ちゃん!?」


 織江は右側のドアの窓に頭を預けたまま、動こうとしなかった。冬吾が前へ乗り出して確認する。助手席のドアが大きく内側にめり込んでいるのを見た。セダンが体当たりを仕掛けてきたのだ。あと少しでも後ろにそれていたら、禊屋の命はなかったかもしれない。織江は右側頭部から出血していたが、呼吸はあった。


「頭を打って気絶してるみたいだ……」


 冬吾の頭の中で警報が鳴り続けている。まだだ、まだ終わっていない。冬吾はフロントガラスの向こうに見える、黒いセダンに目をやった。こちらに前方側、運転席のほうを向けて停車している。


「あっ――」


 戦慄する。セダンには、人が乗っていない。どうして――? 答えは一つしかない。それに気づいた直後、『頭の上で』音がした。


「危ないっ!」


 冬吾は禊屋に覆い被さるように彼女の頭を抱き込んだ。


「いっ……!?」


 左肩に熱せられたような激痛が走る。肩を見る。刀だ。刀が車の天井から突き出て、冬吾の肩を突き刺していた。――危なかった。そこは、禊屋の頭のあった位置だった。刀が引き抜かれて、天井の向こうへ消えていく。間違いない――敵は、屋根の上にいる!


「ちょ……ノラ!? 大丈夫!?」


 傷はそこまで深くはないようだった。しかし禊屋の声には応えず、冬吾は右手で後腰からベレッタを引き抜いて、天井へ向かって乱射した。相手に当たれば言うことなしだが、怯ませるのが限界だろう。五発撃ったところで禊屋の側のドアをスライドさせて開ける。今のうちに――


「逃げろっ! 急げ!」


 禊屋を車の外へ押し出す。禊屋に続いて冬吾も車を降りる。外へ出てすぐ、前の禊屋がこちらを見て言った。


「後ろ!」


 振り返る。車の屋根、そこに奴がいた。燃えるような夕日を背景に、血に汚れた黒衣をはためかせた鼻の折れた天狗は、こちらが気がついた時には刀を構え――冬吾に向かい飛びかかってきていた。


 躱せるか――いや難しい。完全に刀のリーチの範囲だ。撃つのもダメ、間に合わない。当たったとしても相打ちになるのが良いとこだろう。とすれば、残るは――


 冬吾は弾かれたように、黒衣天狗に向かって飛び出した。飛び降りてきた天狗の腰にタックルするような形で組み付き、そのままバンの横面に叩きつけた。天狗が短いうめき声を上げる。刺された左肩に痛みがあったが、相手に与えたダメージのほうが上だろう。あえて相手のリーチの内側に入りこむ咄嗟の思いつきだったが、うまくいったようだ。


 金属が地面に落ちる音。かなり強い衝撃を受けたのだろう、天狗の右手から刀が転がり落ちていた。


 今度は油断しない。冬吾は右手に持ったベレッタを天狗へ向けて構える――が、それより前に天狗の右手から放たれた裏拳が冬吾を襲った。右顎へ苛烈なまでの打撃を受ける。首が折れたのではないかと思うほどの痛み、一瞬、意識が飛ぶ――その一瞬が、命取りとなった。


「動くな」


 天狗の声だった。刀を失い、もう武器は持っていないと思っていた。そのはずなのに、冬吾の眼前には拳銃が突きつけられている。天狗は黒衣の内に隠していたのであろう自動拳銃を、右手に構えていた。


「聞いてないぞ……銃なんて」


 冬吾は天狗の銃を見据えたまま、ゆっくり後ろへ下がる。反撃できるような隙はない。冬吾は慎重に、左手で一度ベレッタの銃口側、銃身を掴み――それを、右手に持ち直した。


「…………」


 天狗は黙ったまま冬吾へ銃を向けている。……怪しまれたか? 銃身を持つことで抵抗の意思がないことを示したつもりだったが、右手に持ち直したのはやはり不自然に思われただろうか? だが、『あれ』をやるとしたら利き手である右手でなければ厳しい。


「……佐渡拳?」


 禊屋が天狗へ向けて言う。自覚はないだろうが、ナイスアシストだ。天狗の注意が禊屋へ向いた。


「御名答。……俺が黒衣天狗だ」


 天狗は面を上げて顔を見せた。佐渡拳に間違いない。


「こんなことしても無駄だよ。あたしたちを殺したとしても、あなたもすぐにナイツに殺される。絶対に」

「……逆だな。無駄なんかじゃない。大きな意味のあることだ」


 EMCの店長として接していたときとはまるで違う、静かな凄味のある声。佐渡は面を戻して、再び天狗となる。


「俺の計画の全てをご破算にしてくれたお前への復讐ができるのなら、最高の終末じゃないか」

「……そう。それなら、殺す前に教えて。どうして涼城花凛を殺したの?」


 ……質問に答えさせることで応援が駆けつけてくるまでの時間を稼ぐつもりなのだろう。しかし、それでどれだけ保つか……。


「花凛は……計画の穴になると思ったから殺した」

「計画の……穴?」

「あいつは、安土啓恵に計画を漏らしたからな」

「漏らした……? まさか、儲け話がどうとかいう電話のこと? たったそれだけのことで?」

「あいつからその話を聞かされた時、俺は危惧した。この女には危機感が足りない……いつか、ボロを出して俺の足を引っ張るとな。だから、暮野から金を預からせたら、すぐに殺すことにした。マンションのカメラには顔を映さないようにしていたつもりだったが、まさかホテル街で見られた時と同じ恰好をしていたというだけで目星をつけられるとはな」


 ……信じられない。


「たったそれだけで……計画の協力者を、恋人を殺したのか?」


 佐渡は冬吾の言葉を馬鹿馬鹿しいとばかりに笑った。


「恋人だと? 笑わせるな。そんな風に思ったことは一度もない。俺は最初からあいつを利用するつもりだった」

「最初から……?」

「お前たちは知らないだろうが……暮野と俺は高校の同級生同士でな。EMCをあいつに紹介したのも俺だった。そうしたらあいつ、みるみるうちに花凛にハマっていったんだ。俺は以前、暮野が酒の勢いで自分が長良組の金庫番であると言っていたのを覚えていた。花凛が俺に気があるということは知っていたから、これを利用して暮野から三億をかすめ取る計画を思いついたのさ」


 佐渡は淡々と語る。


「だが……花凛を殺すはめになったあたりから予定が狂い始めた。俺は暮野を呼びつけて、長良組から匿ってやると言った。馬鹿なあいつは簡単に騙されて、俺に感謝したよ。俺が花凛を差し向け、破滅に追いやった張本人であることは気づく素振りさえ見せなかった。俺は暮野を、仲違いの末に花凛を殺した犯人に仕立て上げ、その後自殺したように見せかけ殺すつもりだった。だが、長良組に怪しまれるようなことがあってはならないと慎重に動きすぎたのが失敗だったな。まさかナイツの探偵が出てくるとは、想定外だった」

「じゃあ、やっぱりあの死体は……暮野彰宏なのか?」

「その通り。本来の予定とは違ったが、せいぜい有効に使わせてもらうことにした」


 この男……友人である暮野でさえ自分の駒としたというのか。


「生首を持ち帰るのは、黒衣天狗としてのサインみたいなものだったんだが……まさかこんな形で利用する日が来ようとは、俺も予想していなかったよ。まぁ……お前らのせいで、全て台無しだがな。禊屋、お前は絶対に殺すつもりだった。放っておけば必ず俺が生きていることを突き止めると思ったからな。そのために、伏王会だって脱けた。それなのに……」


 佐渡が禊屋を殺すチャンスが訪れる前に、禊屋が謎を解き明かしてしまった。それを思えば、EMCに一人赴いたとき、禊屋と別行動をしていて本当に良かった。事件を目撃したのが冬吾でなく、禊屋であったならば、佐渡はおそらく彼女を殺していただろう。


「……どうしてあなたは伏王会に入ったの? 三年前に殺しからは足を洗ったんでしょ?」


 禊屋は佐渡をまっすぐ見つめる。その目には、憤りとも悲しみともつかない複雑な感情が宿っているように見えた。佐渡が問いに答える。


「……そのつもりだった。もう切った張ったの世界は御免だと思っていた。だが……もう飽きてしまった」

「……飽きた?」

「退屈だったんだ。変化の薄い日常に、飽きた。だから黒衣天狗は、ストレス解消のために始めたアルバイトみたいなものだ。ナイツに対しては建前上、既に足を洗ったことにしておきたいから、名前と姿を隠せるスタイルの殺し屋として伏王会へ自分を売り込んだ。梅田組での経歴のおかげであっさり採用された、ありがたいことにな」


 佐渡の感性は常軌を逸している。それとも、裏社会に長く身を置けば誰でもこうなってしまうというのか? いや……そんなはずはない。この男は、ただの外道だ。それ以上でも以下でもない。


「……そろそろ終わりにするか。もたもたしているとナイツの加勢が来る」


 佐渡が首を鳴らしながら言った。


 ……覚悟を決めろ。冬吾は心中で己を鼓舞する。ここでこの男を殺さなければ、死ぬのは自分たちのほうだ。


 ベレッタの銃身を握る右手に力を込め、自分の顔面へ向けられた銃口を見る。まだだ。まだ動くべきではない。相手は実力、経験共に自分より遙か上なのだ。侮るな。ただ小手先の奇手を用いる程度で敵う相手じゃない。勝つためには、機会を正確に見極める必要がある。相手の僅かな心理の間隙――それを逃さず捉えなければならない。しかし……そのための猶予は、まだ残っているのか?


「そうだ……いいことを思いついたぞ」


 佐渡は右手に銃を構え、冬吾が下手な動きをしないよう油断なく視線を送りながら、左手で黒衣の腰元のあたりを探る。


「……ほら」


 佐渡が左方向にいる禊屋のほうへ何かを放り投げる。禊屋の少し前で、ナイフが地面を転がった。


「それで自害しろ」

「なっ……」


 冬吾は驚いて銃口から目を逸らしてしまう。


 何を言っているんだ、この男は?


「お前には最も屈辱的な死に方をさせてやる。自分で死ぬなら首を切るでも腹に突き刺すでも、方法はなんでもいいぞ。そうしたら、この男だけは助けてやってもいい」


 禊屋が最後の言葉に反応する。


「……本当に?」

「ああ、そうしよう」


 禊屋は躊躇った様子を見せたが、それはほんの一瞬だった。前へ出て、ナイフを拾い上げるとそのまま道路上へ膝をついた。


「お、おい……」


 まさか本当に言うとおりにするつもりじゃないだろうな? この男がそんな約束守るはずがないだろ?


「ふん。どこかのガキのようにナイフを投げたりするんじゃないぞ。そんなそぶりを見せた瞬間、この男を殺す」


 禊屋は佐渡を睨みつける。


「……しないよ、そんなこと」

「ではさっさと死ね! あと十秒経ってお前が生きていたらこの男から殺すぞ!」


 禊屋は両手でナイフの柄を持ち、刃先を己の首元へ向けた。その手は、冬吾の目にも震えているように見える。


 まさか、本当に……死ぬつもりなのか? なぜだ? 禊屋なら佐渡の言葉など信用するに値しないとすぐにわかるはずだ。禊屋が死ねば、こいつはその後で平然と俺を殺そうとするに決まって――ああ……そうか。そういうことか。


 禊屋の考えがわかった。あいつは……自分が死ぬことで、佐渡に隙を作らせようとしているんだ。


 念願の復讐を果たした瞬間の光景だ、それを佐渡が見逃すはずがない。その一瞬ならば、たしかにつけいることの可能な隙となり得る。それをうまく利用すれば、あるいは自分にも勝ち目があるかもしれない。


 ……ふざけるな。なんて馬鹿な考えだ。くそっ! 禊屋のやつ、俺の考え得る限り最低最悪の答えを出しやがって……!


「あと五秒……!」


 佐渡が左手の指を一つずつ折ってカウントダウンする。表情は見えないが、声から復讐達成を前にした高揚が伝わってくる。


 なんとかしないと……! だが、どうすればいい? 下手に動いても、二人とも殺されるだけだ。


 禊屋と目が合った。冬吾は小さく首を横に振る。


 ――そうじゃない! それじゃダメなんだ!


「あ……」


 冬吾は信じられないものを見る気持ちだった。禊屋は、笑ったのだ。いつもの軽い調子で、こう言うのが聞こえた気がした。


 ――ごめんね?


「……だめだ」


 冬吾の声は佐渡には聞こえなかったようだった。カウントダウンは、三秒を切っていた。禊屋は覚悟を決めたように目を瞑ると、ナイフを持ったまま天を仰ぎ見るようにした。


「さぁ、死ね! 禊屋ッ!!」


 佐渡は禊屋のほうを見て言い放った。ほんの僅かで、一瞬の変化――冬吾の目は、『それ』を捉えた。『目を切った』――今しかない!


 佐渡の銃口から逃れつつ、ベレッタを握る右手を上げる。銃身を握った状態から、トリガーガードに人差し指をかけ、回転させることで持ち手側に握り直す――織江がナイツの射撃場で見せた技の、物真似だ。こちらに戦意がないと思わせた上での、奇襲攻撃。これで勝負を決める――はずだった。


「あっ――」


 まずい、と思ったときにはもう、トリガーガードから指が抜けていた。ベレッタが地面に落下する。当たり前だっ! こんな器用な芸当、ぶっつけ本番でできるわけあるかっ!


「――あ?」


 佐渡の意識がこちらに戻る――撃たれる! 空いた右手で咄嗟に佐渡の自動拳銃を掴んだ。


 発砲音と同時に、左脇腹に鈍い痛みが走る。


「ぐっ……!」


 辛うじて頭部への銃撃は逸らせた。銃身を掴む右手が熱い。だがそのおかげで相手の銃はスライドが動かず給弾に失敗したらしい。排莢不良による弾詰まりだ。


「ちっ――!」


 佐渡が舌打ちする。右手がふりほどかれ、佐渡は手動で排莢するためスライドを左手で引く。スムーズで素早い動作だった――が、佐渡が次の弾を撃つより前に、冬吾は左手で後腰のグロックを抜いていた。


「あああああっ!!!」


 叫びながら、グロックの引き金を連続で引いた。五発か六発か、あるいは七発か。何発撃ったか定かでないが、とにかくありったけを相手の腹に向けて撃ち込んだ。佐渡はうめき声も出さず、崩れ落ちるように仰向けに倒れた。


 冬吾は大きく息を吐くと、そのまま膝をついた。


「ノラ!」


 禊屋が駆け寄ってくる。涙目の心配そうな顔が冬吾の顔を覗き込んだ。


「お腹、撃たれたの!? す、すぐ医者呼ぶから! ……ダメだよ! 絶対、死んじゃダメだから!」


 禊屋はコートのポケットを探ってから、携帯を捨てていたことに気がついたようだった。大した慌てっぷりだ。


「あのな……そんな泣きそうな顔で、人に『死ぬな』とか言うならさ……自分がまず、簡単に死のうとするんじゃねえよ。……次あんなことしたら、本気で怒るぞ」

「あ……う、うん………ごめん、なさい。ていうか……へ、平気なの……?」

「ん……これか? いや、やっぱり当たったらそこそこ痛いもんなんだな」


 冬吾は立ち上がって、シャツをめくってみせる。


「今日支社を出る前に、薔薇乃さんから貰ったんだ。昨夜みたいなこともあるかもしれないから、念のためにって」


 その的確な見通しには感謝しなければなるまい。


「……防弾、チョッキ?」


 灰色の防弾チョッキで、腹に撃ち込まれた弾丸は見事に表面のところで受け止められている。


「さ……先に言っといてよぉ!?」

「す、すまん……すっかり忘れてた」

「はぁ、もう……ほんとに、心配したんだから……」


 禊屋は目元を指で拭う。それを見て、少しばかり罪悪感が芽生えた。


「悪かったよ。でももう――」


 気のせいかとも思うほど微かな音が聞こえた。――視界の左端で、何かが動く。目を疑うような光景がそこにあった。倒れていたはずの佐渡が、こちらに銃を向けている。


「きゃ――!?」


 冬吾は目の前の禊屋を右手で払いのけて、それとほぼ同時に左手で構えたグロックの引き金を引いた。


「がっ……は…………」


 佐渡は籠もったうめき声を上げ、大きく一度跳ねてから、それっきりもう二度と動くことはなかった。


「嘘……生きてたの?」


 禊屋が唖然とした表情で尋ねる。


「もっと早く気がつくべきだった……相手も防弾チョッキをしてる可能性があるって」


 だが、防御箇所以外の部分を撃たれれば当然、防弾の意味はない。撃った弾丸は、佐渡の喉元に命中していた。


「……今度は、当たったぞ」


 これで、昨夜の借りは返せた。


「…………」


 禊屋は冬吾を見ながら目をぱちくりさせていた。


「……なんだよ?」

「今……さ。さりげなく、すごいことしてなかった?」

「…………言われてみれば、そうかも」


 自分でもちょっと信じられない気がする。利き手でもない左手で、咄嗟に撃った弾がよくも狙いどおりの位置に当たったものだ。いや、狙ったというよりは、気がついたら身体が動いていたという感覚が近いだろうか。


「もしかして、左手で撃ったほうが上手なんじゃない?」

「そんな馬鹿な、右手でしか練習したことないのに……いてて」


 左腕を動かしたせいで肩口の刺し傷が痛んだ。もう少し内側だったら防弾チョッキの範囲だったのだが。いや、たしか刃物による突きは防弾チョッキでは防げないんだったか?


「肩の傷、痛むの?」

「少しだけ。でも大したことな……あっ」


 冬吾はその場に尻餅をついてしまう。


「ちょっと、大丈夫? やっぱり傷が深いんじゃ」

「いや……そうじゃない。ちょっと、気が抜けちまったみたいで」


 冬吾は情けなく笑う。安心したら、どっと疲れが押し寄せてきてしまった。もうしばらくは立ち上がれそうにない。


「……んふふ、しょーがないなぁ!」


 禊屋は嬉しそうに笑って、冬吾の横に膝立ちになる。そして、冬吾の頭を胸に抱き寄せた。


「うわっわ……ちょ、なに!?」


 禊屋が冬吾の耳に囁く。


「人が来るまでは、こーしててあげる。頑張ったから、ごほうび、ね?」

「ごほうびって、お前な……」


 赤面しつつも、禊屋から伝わる心地よい体温と、柔らかい感触はたしかにごほうびだな、などと思ってしまうので強くは言えない。禊屋は少しだけ強く抱きしめ直して、小声で言った。


「……助けてくれて、ありがとうね。かっこよかったよ。……お疲れさま」

「…………おう」


 もしかしたら、しばらく誰も来なくていいかもしれない……朱ヶ崎の町を染める夕日を見ながら、冬吾はそんなことを思った。








 その後の話をざっとまとめると、このようになる。


 冬吾、禊屋、織江はすぐにナイツの手配した医者にかかった。派手な交通事故でもあるので入念に検査が行われたが、三人とも後々に尾を引くような怪我はないとの診断だった。織江の頭の傷も軽い裂傷で、二、三日入院するだけで済むとのことだ。


 あれだけの大事故、そして銃撃戦が起きてまったく騒ぎにならなかったのは奇跡的なことであるが、ナイツのフォローがあったことは言うまでもない。そもそも、朱ヶ崎のあの辺りではヤクザ同士の抗争がしょっちゅう起きているため、住人もよほどのことがなければ近づかない区域なのだという。まるで世紀末だ、と冬吾は思った。


 事件の発端となった三億円は、佐渡の乗っていた黒のセダンの中から発見された。元々は長良組の三億なのだが、ナイツによって回収されてしまった以上、三億は丸ごとナイツのものになるのだろうか――と一時は思われたのだが、結局はナイツと長良組で山分けということになったらしい。その配分比率はかなりナイツに有利なものだったようだが。


 佐渡は死んだが、EMCは新しい店長を据えて営業を続行するそうだ。安土啓恵は店を辞めたらしい。その後の彼女のことは知らないが、夕桜の町に住んでいるのなら、いずれまた会うことがあるかもしれない。


 涼城花凛殺害の犯人である佐渡は死んで、依頼は無事に達成されたことになる。花凛に入れ込んでいたという依頼人の心境は複雑であろうが、ナイツの仲介を通して仕事を請け負うだけの身としては知る由もないことだ。


 以上、全てが綺麗に収まったというわけではないが、これにて涼城花凛と黒衣天狗に纏わる事件は収束を迎えたのだった。

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