第13話 首斬り天狗







 翌朝、十月二十四日。冬吾はナイツ夕桜支社の地下にある射撃訓練場にやってきていた。早朝、携帯にナイツからの呼び出しのメールがあったが、その指定時間にはまだ多少余裕がある。昨夜のような失態を繰り返さないためにも、少しでも銃の扱いを上達させておかねば。そう思ったのだが……。


 調子は最悪、絶不調だった。射撃ボックスから三十メートル離れた先に円状の的が設置されているのだが、その中心どころか外側の部分にさえ滅多に当たらない。普段の成績がとくに優れているというわけでもないが、これはちょっとひどすぎる。


 おそらく、昨夜の激烈な経験が尾を引いているのだろう。実際に対峙している間はそんなものを感じる余裕すらなかったが、こうして一夜明けてみると、あの天狗への恐怖心がはっきりと残っている。銃の引き金を引くたびに、死を連想してしまう。


「次は外すなよ……」


 ダメだ。そう意識すればするほど、身体が硬くなってしまう。汗で滑りそうな指で、ベレッタの引き金を引いた。


「…………っ!」


 また外した。的よりだいぶ下に逸れてしまっている。


「――ガク引きって言うんだよ」

「え……?」


 背後から声をかけられて振り返ると、そこにいたのは織江だった。


「織江さん……急に声かけると、危ないですよ。驚きました」

「おおっと、間違えて撃たないでよー?」


 織江はおどけて両手を上げる。そんなことをしたら即刻、すぐそこで目を光らせている屈強そうな警備係に撃たれてこちらが蜂の巣にされてしまう。


「で――なんですか、その……福引き?っていうのは」

「抽選会してどーする。ガク引きね、ガク引き。あんたみたいに引き金に力を込めすぎてると、弾を撃つときに銃身がぶれて狙いが逸れちゃうのよ。素人がやりがちなミス」

「あ……そうなんですか」


 そういえば、天狗に対して撃ったときも同じような外し方をした気がする。初弾は標的よりも狙いは下に逸れてしまった。それに慌てて二発目も外してしまったのだ。あれもガク引きとやらを起こしていたのだろうか。


「べつに力を込める必要はないんだよ。肩の力を抜いて、引き金移動はあくまで滑らかに、ね。こんな風に――」


 織江は腰元から右手で拳銃を抜き出すと、一歩前に出て、的に向かって左手を添えて構える。そして、続けて三発撃ってみせた。


「おおっ。少しはカンが戻ったかな?」


 織江は満足そうだ。三発の弾はいずれも的の中心部に命中していて、遠目からではあるが、それぞれの誤差は数ミリほどしかないように見えた。簡単そうにとんでもないことをする。……やはりこの人はただ者ではない。


「あの……。昨日は聞き損ねたんですけど、織江さんはいったい何者なんですか?」

「まぁまぁ、気にしなさんな。今はただの、ちょっと強いだけの雑用係よ」

「人に過去あり、ですか」

「うんうん。わかってきたじゃない、新人クン」


 肘で小突かれる。そりゃあ、さすがに慣れてくる。こういう問答は禊屋、アリスに続いて三人目だ。


「ガク引きの原因は単純に、筋力不足ってこともあり得るな。ベレッタの重さは大体一キロくらいだから、それより重いもん持って筋トレしとくといいよ。銃身の反動を抑えられるようにってのはもちろんだけど、そうだな……銃を構えた状態のまま静止して、少なくとも五分は耐えられるくらいが望ましいね」


 五分……これは結構キツそうだ。何も持たずにまっすぐ前へ腕を伸ばしていたとしても、しんどい時間だろう。


「わかりました。できるようにします」


 生き延びるためにできることは何でもやっておくべきだ。織江の指導は、素直にありがたい。


「あとは……まぁ、あんまり一度にたくさん言っても仕方ないか。結局、実戦での慣れが一番大事だしね」


 織江はふと、何かを思いついたような顔をして、


「ああ、そうだ。これ、やるよ」


 持っていた銃の銃口側を左手で持ち直して、冬吾に差し出す。


「……くれるんですか?」

「昨夜みたいな本格的な戦闘になるかもしれないなら、予備の武器くらいあったほうがいいだろ?」

「予備……ですか? ベレッタに加えて、この銃を?」

「そゆこと。これはグロック17って銃。口径は9mm、総弾数は17+1で、ベレッタより小さくて軽い。その分ベレッタより反動が大きいから注意だな」


 昨夜は銃を弾き飛ばされてしまったおかげで、大ピンチに陥った。たしかに、銃は二丁くらい持っていたほうがいざという時には役立つかもしれない。


「ありがとうございます」


 冬吾が受け取ろうとしたそのとき、織江の左手が動いた。銃がくるっと回転したかと思うと、いつの間にか指がその引き金に添えられ、銃口は冬吾のほうを向いている。


「はっ――? ちょ、な、なんですか!?」

「あはは、これ、私の得意技ー! 西部劇みたいでかっこいいっしょ? 真似して良いよん」

「やめてくださいよ、そういう冗談は……」


 織江は愉快そうに笑うと、また片手で銃をくるりと回転させて銃口側を持つと、冬吾の手に持ち手部分を押しつけるようにして渡す。すると、大きなあくびを手で押さえながら、


「ふわぁーあ……ちょー久々に早起きしたからねみぃねみぃ。じゃ、私は戻って二度寝するから、あんたたちはお仕事頑張りな。私は午後まで非番なんでね。じゃーなー」


 手を振りながら織江は去っていった。……もしかして、自分にアドバイスをするためにわざわざ来てくれていたのだろうか。だとすれば、せっかくの厚意を無駄にはできない。冬吾は時間が来るまで、もうしばらく練習を続けることにした。







 必要以上に力むことなく、肩の力を抜いて、引き金を引く――織江から言われたことを意識してやってみるだけで、不調は大きく改善された……気がする。織江の腕前にはほど遠いが、いくらかはマシになったはずだ。織江から受け取ったグロックの感覚も、手に馴染んできた。


 呼び出しの指定時間がやってきたので、冬吾は射撃場を後にして、指定されていた応接室へと向かった。応接室は支社の一階奥にある。扉をノックすると、聞き覚えのある声が返ってきた。


「どうぞ。お入りください」


 中へ入る。応接室には、一つのテーブルを挟んで左右に二脚のソファがあり、左側に岸上薔薇乃が座っていた。昨日エレベーターで会ったときと同様、黒っぽいゴシックファッションである。


「おはようございます。ええと……岸上社長?」

「ふふ、そう固くならずとも良いですよ。お気軽に、薔薇乃と呼んでくださいませ」

「いや、でもそれは……」


 一応、自分はここの社員――それも新入りであるから、それはちょっと憚られる。


「あなたは、わたくしの大切な美夜子のご友人。であれば、あなたとわたくしも友人同士ですとも。歳も近いことですし、もっとフレンドリーにまいりましょう?」


 薔薇乃は随分と冬吾に好意的だった。そこまで言うからには、あまり遠慮をするのも失礼に当たるだろう。冬吾は素直に提案を受け入れた。


「はぁ、そういうことなら……わかりました。薔薇乃さん。――ところで、今日は乃神はいないんですか?」

「乃神さんには別件の用事を頼んであります。そこで、代わりにわたくしが」

「なるほど」


 薔薇乃とのやり取りを終えると、今度はその向かいの右側のソファに座っていた人物が冬吾へ手を振る。


「おはよー、ノラ!」


 禊屋は元気よく挨拶する。別れ際の様子から、実はひっそり心配していたのだが、もう昨夜の面影を残してはいないようだった。今日の禊屋は、Tシャツにフリル付きのミニスカート、上着にいつものコートという装いだ。


「おはよう。……足首、まだ痛むのか?」


 冬吾は禊屋の隣へ腰掛けながら尋ねる。彼女の右足首には包帯が巻かれてあった。


「すこーしだけね。でも走ったりしなきゃだいじょぶ!」


 そう言って、もう平気であるとアピールするように足をぶらぶらさせる。


「そっか……」


 自分が咄嗟に突き飛ばしたせいでもあるので、冬吾はそれを少しほっとした。


「では、お二人ともお揃いになったところで、打ち合わせを始めましょうか」


 薔薇乃がぽんと手を打って言った。


「――とは言っても、わたくしからお伝えすることは殆どありません。昨日の調査の続行。とりあえずは、それだけしていただければ」

「昨夜の天狗のことはどうなったんですか?」


 冬吾は尋ねる。


「美夜子にはもう話しましたが……昨夜あなた方お二人を襲撃したのはおそらく、伏王会に属する黒衣天狗というヒットマンだと思われます」

「黒衣……天狗?」

「文字通り、黒い衣を羽織り、天狗の面を付けていることからそう名付けられたようです。近頃最も精力的に活動しているヒットマンの一人で、その階級はBランクになります」

「はぁ……ランクなんてものがあるんですか?」

「殺し屋としてのランクですね。ナイツでも伏王会でもない、とある中立の組織によって発表されているものです。そのヒットマンがこなした仕事の数、達成速度、難易度……諸々が総合的に判定され、ランクが出されます。一番下がDランク、それからC、B、A、Sと順に高くなっていくのです」


 一番下がDで、一番上がSの五段階か。


「ランクはいわば、信頼度の目安ですね。高いランクを持つヒットマンほど、報酬の相場は高くなりますし、難しい任務を任せられることも多くなります」 

「……その、黒衣天狗のBランクってのはどれくらいのものなんですか? いまいち、そのへんの感覚がよくわからないんですが」

「現在、B以上のランクを持つヒットマンというのは、全体の十五パーセントに満たないのです。ヒットマンという職業の特性上、長生きできる者はそう多くありません。大抵の者はDやCランクのまま、死んでしまいます。その中でBランクにまで登りつめたということは、それだけで充分、凄腕だと評せる領域に入るでしょう」


 ……たしかに、昨夜襲撃をかけてきた天狗は纏う気配からして、ただ者ではなかった。あれがB……。Bであれなら、AやSランクになるとどうなってしまうんだ?


「しかし、ご安心ください」


 薔薇乃はにこっと微笑む。


「もう黒衣天狗があなた方の前に現れることはありません。わたくしから伏王会の神楽へこのことを連絡、及び警告をしておきました。ナイツと伏王会の間に協定がある以上、しばらくはそう派手なことはしないでしょう」

「神楽と話したんですか?」

「ええ。今、夕桜内を管轄地域とする支部を統括しているのは彼女ですから。配下へナイツへは手を出させないよう厳命しておくという言質を取りました」


 たしかに、伏王会も協定を盾に出されたら迂闊には動けないだろう。しかし……どうだろうか? これで本当に安心して良いのか?


「……黒衣天狗を差し向けてきたのは、神楽なんでしょうか?」


 冬吾はふと疑問に思ったことを尋ねた。


「それは、まだ判然としませんが……黒衣天狗が伏王会所属のヒットマンである以上、神楽の配下にあることは間違いありません」

「でも、神楽の命令だとすると……なんか、変な感じがするというか……」

「美夜子もあなたと同じようなことを言っていました。そうでしたね?」


 薔薇乃は禊屋へ尋ねる。


「うん。あたしが思ったのは――」


 禊屋は自分の考えを述べる。神楽が黒衣天狗を差し向けてきたとは思えない理由。神楽は明らかに禊屋との勝負にこだわっていた。それをヒットマンによる暗殺などでふいにするというのはちょっと考えづらい。


「やっぱり、神楽が命令したとは思えないな。誰か別の人間からの依頼だったのかもしれない」

「あっ、そだ。あいつはどうかな?」


 禊屋が思いついたように言う。


「この前、神楽と一緒にいた顎髭の男。思えば、あたしがこの前殺されかけたのって、あいつの出した命令のせいだったんだよね」

「アキカワとかいうやつか」


 神楽の直近の護衛を務めていた大男だ。前に会ったときには殆ど喋らなかったのでどういう人間かは定かではないが、神楽の言によると、アキカワは禊屋を危険視し、殺害の指令を下したとのことだった。


「……でも、あいつはもう神楽の意向には逆らわないんじゃないかな。前回にしても、神楽が禊屋にこだわっていたとは知らなかったって感じだったし。今度そんな勝手なことをしたと神楽にばれたら、あいつだって只じゃ済まないと思う。だから、可能性は薄いんじゃないかな」

「まぁ……そうかもねぇ」


 禊屋はソファに深く背をもたれて息をつく。冬吾は思いついたことがあって、薔薇乃に尋ねてみる。


「伏王会に所属している以上は外部からの依頼を受けてはならない……というしきたりがあるわけじゃないんですよね?」


 薔薇乃は頷く。


「伏王会にしろ、ナイツにしろ、そういったルールが存在しているわけではありません。それでも基本的には組織から要請される任務が主となるでしょうけれど」

「だったら、伏王会以外の人間が組織を介さず独自に黒衣天狗に依頼して、俺たちを殺そうとしたってことも考えられませんか?」

「そうですね……あり得なくはないかと。しかし、そんなことを誰が?」

「順当に考えていくなら……俺たちが死んで得をする人間、でしょうか」

「あるいは」


 禊屋が割って入る。


「あたしたちが生きていると困る人」

「俺たちが生きていると困る……あっ……もしかして」


 冬吾が思いついたことを、禊屋が汲んだように続ける。


「あたしたちが今している調査。それがその人にとっては非常に都合が悪かった。だから、いっそあたしたちを殺してでもその妨害をしようとした……とか?」


 冬吾は頷いた。


「可能性はありそうだ。問題は、俺たちを殺すよう黒衣天狗に依頼した『その人』ってのがいったい何者か、だけど」

「涼城花凛を殺した犯人?」


 やはりそうなるのか。だがそれ以外に事件の調査を都合悪く思う人物はちょっと想像できない。


「それでは……」


 薔薇乃は考え込むように細い顎を撫でつつ言う。


「その人物が、失踪した長良組幹部、暮野彰宏である可能性も?」


 禊屋が「うーん」と悩んで唸る。


「それも考えられそう……涼城花梨を殺した犯人としての最有力候補なわけだし。でも、それなら暮野は今もまだこの町のどこかにいて、あたしたちの動きを探ってるってことになる。それはちょっと変な感じもするんだよね。長良組が連日必死に探してるのに、ちっとも手がかりが見つかってないことを考えると、もう暮野はこの町にいないんじゃないかと思ってたんだけど」

「なるほど。それも一理ありますね」

「ま、推測に推測を重ねても仕方ないよ。昨日で糸口は掴んでるわけだし、まずはそれを手繰り寄せてから考えてみるとしよう!」


 禊屋はパチンと指を鳴らして、ソファから立ち上がった。糸口とは朱ヶ崎のホテル街での犯人(と思しき男)の目撃談のことだろう。冬吾も席を立とうとすると、


「美夜子。お待ちを」


 呼び止めた薔薇乃は、どこか不安そうな面持ちだ。


「今の話からすると……伏王会の動きを封じたからといって、まだ安心するべきではないのかもしれません」

「でも、もうその黒衣天狗ってのがあたしたちの前に出てくることはないんでしょ?」

「それはそうですけれど。黒衣天狗に依頼をした人物が、また別のヒットマンに頼る可能性もないとは言えませんし……」

「そんなこと考えてたらきりがないよ。多少の危険は覚悟してでも動かないと、なんにも出来なくなっちゃうよ? 大丈夫だって。組織のしがらみに縛られないフリーのヒットマンなんて、今どき殆どいないでしょ? 都合良くそんなのが出てきたりしないよ」

「……たしかに、そうですね」


 薔薇乃は困ったように笑った。


「いつになく心配性でいけませんね。わたくしらしくもないことを」


 薔薇乃は禊屋のことが気がかりらしい。平然として見えて、内心は友人が昨夜あんな目に遭ったことでの動揺があるのかもしれない。


 薔薇乃は立ち上がって言う。


「それでは、引き続き調査の続行をお願いします。外に車を用意してありますので」

「はーい」

「ああ、そうそう。ノラさん」


 禊屋が部屋を出かけたところで、冬吾だけが呼び止められた。振り向いて尋ねる。


「なんですか?」

「あなたに少しお渡ししたいものが。すぐ済みます、美夜子は先に行っていてください」

「? わかった!」


 禊屋は小首をかしげ不思議そうな顔をしていたが、特に気にとめなかったようで部屋を出ていった。


「少々お待ちを」


 薔薇乃は部屋の奥に向かうと、壁側に置かれてあった黒いトランクケースを運び、テーブルの上へと置いた。


「なんですか、これ?」

「余計なお世話、とも思ったのですけれど。もしかしたら、必要になる場面もあるかもしれませんし……用意だけは万全にしておくに越したことはないでしょう?」


 薔薇乃はケースの鍵を外して開いた。その中にあったものは……


「できる限り高品質のものを用意させました。ノラさんのお気に召すと良いのですが」








 薔薇乃からの贈り物を受け取った冬吾は、やや落ち着かない心地ながらも禊屋の待つ外へ急ぐことにした。すると、廊下の途中で思わぬ人物と出くわす。


「アリス?」

「あっ……」


 どこかへ行きかけていた少女は、冬吾の顔を見て気まずそうな表情になった。白いシャツの上に茶色のベスト、チェックの半ズボンという恰好はもちろんのこと、犯罪組織のアジトを闊歩する中学生くらいの女の子というだけで相当浮いた存在である。


「なにしてるんだ、こんなところで」

「……『こんなところ』とは言ってくれるわね。その『こんなところ』でしか自由のない私にどうしろって言うの?」

「……それ、どういうことだ?」


 アリスは呆れたようにため息をついた。


「私の生活圏はこのビルの中だけで完結してるってこと。外に出られるのは、昨日みたいに何かお仕事があるときくらいよ」

「そんな……どうして?」

「あなたには関係ないこと。……言っておくけど、別に私はそれを不幸だなんて思ってないから。衣食住どれにも不自由はしてないしね」


 ナイツから軟禁生活を余儀なくされているというわけでもなく、アリス自身納得した上でそういう状態にあるようだ。どういう事情があるかはわからないが、アリスの言葉には、彼女なりの強がりも含まれているように感じた。


「そうか。……悪かったな、事情も知らずにそんなこと言って」

「いいわ。私はカンダイでオンコーだから、許してあげる」

「そうかよ」


 ありがたいことで。


「それで、どこへ行こうとしてたんだ?」

「えっと、その、お姉ちゃんがいるって聞いたから……」


 アリスはなぜかばつが悪そうにする。


「禊屋か? もう、外に行っちまったけど」

「そう……ならいいの。別に。用事があるわけじゃないし」


 アリスは手持ち無沙汰な様子で薄金色の横髪を弄っている。


「そうか? ……じゃあ、またな」


 あまり禊屋を待たせるわけにもいかない。アリスと別れようと横を通り過ぎると、


「あ……待って、トーゴ!」

「な、なんだよ?」


 アリスは少しだけ逡巡してから言った。


「昨日の夜のこと、聞いたわ。お姉ちゃんのこと、守ってくれたって……。だから、その……ええっと、もう……」


 もごもごと口を動かしてから、やがて意を決したように続ける。


「あ……ありがとう……。あなたのこと、少しは見直してあげてもいいわ」

「……そんなかっこいいもんでもなかったけどな。でも、そう言ってくれるのは嬉しい。ありがとよ」


 アリスは小さく頷く。憎たらしいことも言うが、素直なところもあるじゃないか……などと言ったらまた機嫌を悪くしそうなので、黙っておく。


「言いたいことは、それだけ。じゃ……」

「待った、アリス」


 アリスは鬱陶しそうに振り返る。


「……なによ?」

「実は、ちょっと考えてみたんだよ。お前が俺のことを嫌う理由について」


 殆ど憶測でしかないが、もしかしたらというものは一つ思いついた。


「……それがどうしたの?」

「もしかしてだけど……お前、俺にお姉ちゃんを取られたような気がしたんじゃないか?」

「!……」


 アリスは驚いたように目を見開いた。冬吾はその反応にほくそ笑む。


「ははぁ。その反応からすると、はずれではないらしいな。でもそれは誤解だよ。俺と禊屋は、ただ仕事上の相棒同士ってだけだ」

「……バカ」


 心底呆れかえったような目でアリスは冬吾を睨みつける。


「……そーゆう問題じゃないのよ」

「ええ? じゃあ、どういう問題なんだよ?」

「あーーもう、ほんとバカ! むかつくっ!」

「あっ、おい!」


 アリスは冬吾の足を思い切り踏みつけてから、逃げるように廊下の向こうへと走り去っていった。


「いってぇ……何なんだよ、くそ」


 アリスが何に怒ったのか、何が気に入らないのかさっぱりわからない。意外とかわいい部分もあるのかも、と思ったが……やっぱり憎たらしいだけかもしれない。


 すっきりしないものを感じながらも、冬吾は外へ出ることにする。禊屋が待ちくたびれているかもしれない。








 冬吾と禊屋は、朱ヶ崎のホテル街へ入ったところで車を降りた。EMCの店舗のある場所からはやや北側の区画で、距離にして徒歩十分ほど。このあたりは通りの一つ一つが狭く、鉄筋ビルが密集していて、窮屈で薄暗い印象を受ける。世間は平日の昼間ということもあって、さすがに人通りはまばらだ。


「涼城さんと犯人らしき人物が、厚乃木さんによって目撃されたのはこのあたり……ふーむ」


 禊屋は、冬吾と並んで歩きながら町並みを見渡している。


 マンションの監視カメラに映っていた、涼城花凛を殺害したと思しき人物は、コートと帽子によって顔を隠していた。それによく似た恰好をした人物が、涼城花凛と連れ立って歩いているところを目撃されている。用心深い犯人につけいる隙があるとすれば、ここだった。おそらく今、自分たちは犯人の正体に迫れるかどうかの瀬戸際にいるのだ。


「それで、どうやって調べるつもりなんだ?」


 冬吾の問いかけに禊屋が振り向く。


「厚乃木さんはその人物の顔を見ていない。それでもこのあたりにいた人なら、誰かがその人物の顔をはっきりと見ているかもしれないよね。だからとにかく手当たり次第に聞き込みしてみることかな。とはいえ、最初に当たってみるポイントはもう決めてあるけど」

「厚乃木社長が言ってたホテルだな。ええっと……なんていったっけ」

「『ニューウィンド』、ね。二人が入っていったホテル。場所は調べてあるから任せて」


 つまり、涼城と犯人の男はそのホテルを利用したわけだ。フロント受付の従業員あたりが男の顔を見ている可能性はある。


「あ……でも、最近はフロント内から客の顔が見えないような工夫がされてるホテルもあるだろ? それだったらどうする」


 例えば、カーテンや磨りガラスでお互いに顔が見えないようになっているだとか、そもそもフロントは無人で部屋に精算機があるだけの完全自動になっているホテルもあるようだ。


「もしニューウィンドがそうだったら、運が悪かったと思うしかないね。……というか」


 禊屋はくっくっく、と笑いを堪えるように肩を震わせる。


「キミ、なーんでそんなこと知ってるの? 入ったことないでしょ、ラブなホテルなんて」

「う、うるさいな! テレビかネットか忘れたけど、前に何かで見たんだよ……」


 理不尽だ。なぜそんなことで笑われなきゃならないんだ。


「あはは、ごめんごめん。そーだよねー、ドーテー君でもそのくらい知ってても変じゃないもんねー」

「全然悪いと思ってないだろお前! ……じゃあ訊くけど、お前は入ったことあるのかよ?」


 なんだかセクハラめいた質問だなと思ったが、お互い様だ。禊屋は得意気な顔になって答える。


「もちろん」

「そ、そうなのか?」

「前に調査の一環で」

「……調査? いったい何の?」

「んーとね……情報収集、みたいな? 詳しく聞きたいかね? んん?」

「聞きたい……ような……恐ろしいからやめておきたいような……」


 ぼかした言い方をしたのも気になるし、禊屋が昨夜厚乃木社長に仕掛けた世にも恐ろしいトラップのことを思えば、冬吾としては怖じ気もつく。過去にあれよりもっとえげつないことをしていないという保証はないのだから。


「ま、その話はそのうちね。……あ、そーだ。ところでさ」

「なに?」


 禊屋は右手を冬吾の前へ差し出すようにする。


「手、繋ごっか?」

「ええっ!?」


 突然の提案に冬吾は思わず後ずさる。


「そんなに驚かなくても……キミって結構リアクション豊かだよね」

「ま、待て……なぜそんなことを?」

「あたしさ、こんな見た目だからかわかんないけど、こういうとこ一人で歩いてると、ちょくちょくエンコー待ちの不良学生なんかと間違われちゃうの。だからね……」


 禊屋は冬吾の左手を取って、その指と自分の右手の指とを絡ませる。禊屋の指のひやりと冷たい感触が伝わってきて、冬吾は身体をこわばらせてしまう。


「ほら。こうしたら、そんな間違い起きないでしょ?」

「…………そ、そうかよ。まぁ、好きにすりゃいいんじゃないの?」

「んふふ、照れてる照れてる」

「照れてないっ」

「ほんとーにわかりやすいね、キミは。言っておくケド、別の間違いを期待しちゃダメだからね?」

「しねーよ!」


 仕方なく、禊屋と手を繋ぎながらしばらく歩く。歩きながら、別に二人でいれば手まで繋ぐ必要はなかったんじゃないか、とか、そもそも他に通りを歩いてる人なんて殆どいないんだから無用な心配なんじゃないか、とか……そんなことが頭の中に浮かんだが、なんとなく、言うのはやめておいた。


「――お、あったあった。ここだね」


 禊屋が見上げるのは、レンガ造りの建物……かと思ったが、それはレンガ調のタイルを外壁に貼ったものだった。三階建てのビルである。高所に取り付けられた看板には、『ホテルニューウィンド』とある。


 冬吾と禊屋は建物の中へと入る。片開きの扉の先には、奥に細長い空間があった。正面にはカウンターを兼ねたフロントがあり、向こう側とをガラスで区切られている。その右横に通路がある。あそこから各部屋へと移動するのだろう。通路の前にはいくつか種類が分かれている部屋の内装を写した写真と、それぞれの部屋ごとの料金が掲示されている。


 フロントには一人、五十前後くらいの少し太り気味の男が、奥に置かれたテレビで芸能人による旅番組を見ているところだった。向こう側を向いているため薄くなった頭頂部がこちらからはよく見える。


「あのー、すみません」


 禊屋が男へ声をかけた。男はそこでやっと来訪者に気がついたように振り向く。


「お? おお、おお、悪いね。気がつかなかったよ。ほぉ、こりゃまた……」


 男はにやけ顔で禊屋を不躾にじろじろと眺めてから、次に横に立つ冬吾を見て小さく鼻で笑った。冬吾はなにかとてつもなく不当な侮辱を受けた気がしたが――話がこじれても厄介なので黙っておくことにした。


「休憩かい? 九十分からだけど」

「いや、あたしたちお客さんじゃないの。ごめんね」

「はぁ?」

「今、人を捜してるの。ちょっと協力してくれない?」


 禊屋はコートから一枚の写真を取りだした。冬吾たちが最初に乃神から見せられた、涼城花凛の写真だ。


「この人、ここに来たことある?」


 禊屋はカウンター上のガラスの開口部からそっと写真を差し出す。受付の男はそれを手にとると、すぐに思い出したように、


「あー、この子はたしか……」


 脈ありだ。やはり花凛はこのホテルに来ていた。


「来たことあるんだね? そのときのこと、覚えてる? どんな男と一緒にいたか、教えてほしいんだけど」

「……ああいや、悪いけど……俺からは話せないなぁ」

「ええっ!? どうして?」


 禊屋が詰め寄る。ガラスに頭を打ちそうな勢いだ。


「お嬢ちゃんみたいなかわいい子の頼みだから、力になってやりたいとこだけどねぇ……さすがにお客さんのことは話せないよ」

「そこをなんとか、お願いできないかな? ちょっとくらいなら、お礼できるんだけど?」

「なに、お礼? お礼くれるの? そんなら話は別」


 ……まじか。びっくりするほど簡単に食いついた。こちらとしてはありがたいが、それでいいのか?


「やった! じゃあとりあえず……」

「ああ、待った。その前にちょっと訊きたいんだけど」


 財布を取り出そうとする禊屋を制止して、男が尋ねる。


「……そっちの人は、お嬢ちゃんの彼氏かなにか?」


 冬吾のことだ。


「うん、そう――」

「違います」


 禊屋に先んじて冬吾が答えると、禊屋は不満げに頬を膨らませた。別に、この人に自分たちの関係をどう思われようが知ったことではない――が、勝手なことを言いふらされるのはごめんだ。


「ああそうかい。それならよかった、遠慮なくお願いできるってもんだ。うひひ……」


 受付の男は安心したように言うと、それはそれはいやらしいにやけ顔を浮かべた。


「う、なーんかろくでもないお願いされちゃいそうな感じなんだけど……」


 禊屋はこっそりと冬吾に耳打ちする。その不安は的中、男は続けてとんでもないことを口にした。


「そのお礼だが……お嬢ちゃんのパンツで手を打とうじゃないか」

「……は、はい???」


 さすがの禊屋もたじろぐ。


「お嬢ちゃんの今履いてるパンツ、それくれたらおじさん何でも話しちゃう。ぐふふ」


 この野郎……とんだスケベおやじだ! 冬吾は一歩前に出て、少し厳しく言ってやることにする。


「おい、いくらなんでもそんな頼みきけるわけないだろ!」

「な、なんだよ! あんたはお嬢ちゃんの恋人でもなんでもないんだろ!? 余計な口出しするなよ!」

「いや、そういう問題じゃなくて……」

「くそっ! ダメなのかよ!? 五十過ぎのおっさんが若い子のパンツ欲しがっちゃダメだってのかよ!?」

「ダメに決まってるだろが!?」

「ふ、ふん! それなら別にいい。あんたらに話すことは何にもない!」


 スケベおやじは腕を組んでそっぽ向いてしまった。しまった……重要な情報源なのに、怒らせてしまうのはまずかったか?


「……ああ、もう、わかったよ」


 禊屋はため息をつき、諦めたように言う。


「わかったって、お前……」

「いいから。ここで手がかりを逃すわけにはいかないでしょ?」


 たしかにそうではあるが……。


「おお、お嬢ちゃんは話がわかるみてえだな」

「その代わり、ちゃんと約束してよね! さっき見せた女と一緒にいた男のこと、ちゃんと教えてくれるって」

「もちろんだとも。お嬢ちゃんほどじゃないが、珍しいほどの美人だったからよく覚えてる。連れの男の顔もちゃんと見たよ」


 禊屋はそれを聞いてひとまず安心したようだ。


「じゃあ……ぬ、脱いでくるから……トイレの場所、教えて?」


 少し恥ずかしがる様子を見せながら禊屋はおやじへ尋ねる。


「いや、それはダメだ。そこで脱いでもらおう」

「は……? こ、ここで!?」

「スカートだし問題ないだろ?」

「いや問題ってそういう問題ではないというか……えぇ……それはちょっと……」

「ふーん、嫌なら別にいいけどぉ?」

「うぅ……調子に乗ってぇ……!」


 禊屋はカウンターを手で叩くと憎らしげにおやじを睨みつける。どうやら禊屋は、自分が主導権を握れないと調子が出ないタイプのようだった。


「おい禊屋、そんな無理しなくても……他を当たったほうがいいんじゃないか」


 冬吾の言葉に禊屋は首を横に振る。


「ダメ……! あたしはナイツの顧問探偵……プロの仕事人なんだもの。なによ、ストリップくらい、やってやろうじゃない……!」


 なんだかよくわからないが、凄いプロ意識だ。無茶な要求が却って禊屋の対抗心に火をつけたのだろうか。……それはそれで、ちょっと心配になるが。


「……キミ。ちょっとむこう向いてて」


 禊屋は顔を赤らめながら小声で言う。


「え? ……あ、ああ。わかった」


 冬吾は玄関のほうへ身体を向け、禊屋を視界から外した。


「いいって言うまで、こっち見ちゃダメだからね」

「おう……」


 背後で禊屋が大きく呼吸する音が聞こえる。恥ずかしさを堪え、腹をくくろうとしたのだろう。少しして、スカートの衣擦れの音が聞こえる。見るなと言われたものの、音だけが聞こえる状況というのは、これはこれで相当危ういものがある気がする……。


 ふと、冬吾が視線を下ろすと、玄関横に置かれた棚が目に入る。掃除用具などを入れておくためのものらしいが、問題はそれに取り付けられたガラス戸である。そう、ガラスに映っているのだ、禊屋の姿が。


 ……どうしよう、これ。


 ……たしかに、見るなとは言われた。禊屋の信頼を裏切るような真似は心苦しくもある。だが、これはいっそ不可抗力というものじゃないか? 例えるなら神の用意したお膳立て……うん、きっとそうだ、そうに違いない。……そうに違いない!


 禊屋はぎこちない動きでスカートの中に手を入れ、もぞもぞとしている。やがて、その細く締まった足を少しだけ開いて、ショーツを下へとずらしていく。ガラスに映った像では判然としないが、おそらく黒だろう。それがするすると下りていき、あとは足を抜くだけとなった。


 まずは左足から……禊屋の履くミニスカートは膝上二十センチはある上、足を抜こうとすればどうしても屈むような体勢になるから、ともすれば何かが見えてしまいそうで非常に危うい。それが禊屋にもわかっているのか、動作はゆっくりと慎重だった。だが、その恥じらいからくる緩慢さが逆に色っぽい。ともあれ、左足に続いて右足もなんとか無事に抜けた。


「……はい。これでいいんでしょ?」


 禊屋はぶっきらぼうに言うと、脱いだものをカウンター越しに差し出す。おやじはそれを受け取って鼻息荒くする。


「おお、あったかい……いや、感謝感謝。大事に使わせ……いや保管させていただきやす」


 拝むようにしてから大切にズボンのポケットに仕舞う。


「それじゃ、そっちも約束を果たしてもらいましょーか?」

「ああ、この写真の女と一緒に来ていた男のことを話せばいいんだろ?」

「そうそう。――あ、ノラ! もういいよ、こっちおいで!」


 禊屋が手をこっちこっち、と動かす。俺のことを犬かなにかと勘違いしているんじゃないだろうな、などと思いながらも冬吾は近寄った。


「――とは言っても、名前を聞いたわけじゃねえし、顔の特徴と……あとは、どんな話をしてたかくらいしか話せねえよ?」


 おやじの言葉に禊屋が食いつく。


「会話の内容まで覚えてるの?」

「ああ、少しだけどな。ちょうどあの女の受付をしてる時に、女の携帯に電話がかかってきて、何か話してた。短い電話だったよ。電話の内容まではさすがにわからなかったけど、一緒にいた男が女に尋ねてた。『誰からの電話だ?』ってな」

「それで、女はなんて?」

「ええっと……なんて言ったかな。く……くれも? くれどだったかな?」

「もしかして、暮野?」


 おやじはパンと手を打つ。


「そう! それ! 暮野だ! 女は『暮野さんから』って答えてた!」


 暮野……失踪した長良組の幹部だ。


「ちょっと待ってくれ禊屋」冬吾が割り込む。「涼城花凛が男と一緒にいるとき、暮野から電話がかかってきたってことは……」


 禊屋は頷く。


「男の正体は暮野彰宏ではない……ってことになるね。マンションのカメラに映ってた男も同様に」


 これで容疑者筆頭だった男が犯人のリストから除外されたわけだ。しかし、そうなると男の正体は一体?


 続けて禊屋が質問する。


「二人が来たのはいつだったか、覚えてる?」

「たしか……テレビであれがやってた時だから……そうだ、十九日の夕方頃だな」


 花凛が失踪した日の前日だ。厚乃木が二人を見たという証言の日付とも一致している。


「ふぅん……なるほどね。もしかしたら……」


 禊屋は眉間を指でなぞりながら呟く。何か思いついたのかもしれない。


「……そうだ。これ、見てくれる?」


 禊屋はコートのポケットから数枚の写真を取り出す。


「なんだそれ?」


 冬吾が尋ねる。


「今回の事件関係者の写真」


 見ると、たしかに冬吾たちが昨日会った人々の写真である。EMCの佐渡拳、安土啓恵、そして長良組の天内貴虎、霧谷龍馬の写真まである。


「そんなもん、いつの間に……」

「昨日のうちに頼んで手配してもらったの」


 写真を見る限り、EMCの二人は履歴書の顔写真あたりから引っ張ってきたものだとわかるが、長良組の二人に関しては完全に盗み撮りだ。ナイツは前々から長良組については根深いところまで把握していたようだから、この写真もそのときの産物なのかもしれない。


 禊屋はその写真から安土啓恵の分だけを抜いて、残りをおやじに渡す。


「もしかしてだけど、その中にいないかな? 一緒にいた男」


 おやじは一枚一枚注意深く写真を見て、やがてその中の一枚に目を留めた。


「あ……こいつだよ! こいつ! 間違いない」

「ほんとに?」

「むかついたからよく覚えてるよ。俺と同じくらいのおっさんのくせに、美人と付き合いやがって!ってな」


 おやじの示した人物とは、EMCの店長、佐渡拳だった。








 禊屋とともにホテルニューウィンドを出た冬吾は、すぐに禊屋に質問を投げかけた。


「……佐渡拳は涼城花凛と恋仲にあった……ってことでいいんだよな?」

「そりゃあ、そうじゃないと一緒にホテルなんて来ないんじゃないの?」

「いや、そうなんだけど、どうも想像つかないというか」


 当然、涼城花凛を殺害した犯人も佐渡ということになるのだろう。あの人畜無害そうな紳士が、そのような隠れた一面を持っていたことに驚きを禁じ得ない。


「どんなにいい人そうに見えても、結局あたしたちはその表面の部分しか見ることはできないからね。裏にどんな本性が隠れてるかなんて、少し会っただけの人にはわかるはずもないよ」


 たしかにそのとおりだ。禊屋はさすがにこういうことには慣れている。


「これはあたしの想像だけど……涼城さんは佐渡さんに利用されていたんじゃないかな」

「利用されていた?」

「うん。元々、佐渡さんと涼城さんは付き合っていた。店の他の従業員には内緒でね。最近になって、長良組の幹部であり金庫番の暮野が涼城さんに深く入れ込むようになった。彼女のために何度もEMCに通うようになったんだね。それが繰り返されるうちに涼城さんは、暮野が大金を任せられる立場にあることを知ったんじゃないかな。暮野本人がうっかり話してしまうかなにかして」


 もちろん、金庫番であるなどということは本来なら組織外の人間に知られるべきではないのだろう。しかし暮野からしてみれば、夢中になっていた相手だ。そういった警戒心も緩んでいたのではないか。


 禊屋は更に続ける。


「その情報を涼城さんを介して知った佐渡さんは、ある計画を考案した。暮野の恋心を利用して、彼の管理する金庫内のお金を盗み出してしまおうってね。その計画に、涼城さんは協力した」

「暮野は涼城花凛に騙されて、組の金を持ち出してしまったっていうのか?」

「彼女がその気になれば、難しいことではなかったんじゃないかな? 暮野は元々真面目で、そういう方面には免疫がなかったみたいだし」


 バレたら組を追われるどころか、殺されることになりかねないということは暮野も承知の上だったのだろう。暮野は今自分の持つ全てをなげうってでも、花凛と添い遂げようとしたのだ。しかし非情なことに、その思いが報われることはなかった。


「暮野は金庫から金を盗み出し、それを涼城さんに渡した。暮野は信頼しきってたんだろうけど……いやぁ泣けちゃうね。それがマンションの監視カメラに映っていたキャリーバッグだと思う」


 花凛とコートの男が映っていた映像に出てきたあれだ。


「でも、その後に涼城花凛は佐渡によって殺された……ってことになるんだよな。佐渡はどうして彼女を殺したんだ?」

「さぁてね。始めからお金を独り占めするために切り捨てるつもりだったのか、あるいは途中で不都合があったのか……何にしろ、涼城さんはショックだったろうね。信じていた相手に裏切られて殺されたんだから」


 涼城花凛が暮野の恋心を利用したのと同じように、佐渡は彼女の恋心を利用したのだろうか。このあたりは、本人に直接確かめる必要がありそうだ。


「そういえば、暮野はどうなったんだろう?」

「ここ数日でまったく音沙汰がないことから考えて……もう生きてないかもね」

「消された……ってことか?」


 禊屋は頷く。暮野が今も生きていたとしたら、花凛と連絡がつかないことを不審に思って何らかの行動を起こしていたに違いない。それが長良組の必死の捜索でも見つかっていないとなると、生存は絶望的のように思われた。全てを花凛に託した上で、自身は身を隠しているという可能性も、なくはないだろうが……。


「――それで、どうする? まず犯人は確定ってところだろうけど……佐渡を問い詰めに行くのか?」

「うーん、そうだね……」


 禊屋は何か悩むように考え込んでから、


「キミは先にEMCへ行っててくれる?」

「えっ? どうして?」

「あたし、ちょっと寄りたいところがあるんだよね」

「寄りたいところって? 俺もついて行くぞ」

「いや、いいっていいって。一人でいいから!」


 禊屋はなぜか慌てたように手を振って拒否する。


「何言ってんだ。一人で行動して、昨夜みたいな目に遭ったらどうする? 言っただろ、俺に遠慮する必要なんて――」

「違うんだってば! そうじゃなくて!」

「え……?」

「だからぁ……もー、なんでわかんないかな」


 禊屋は恥じらうような、それでいてやきもきするような素振りを見せるが、冬吾には何のことやらわからない。


「何なんだよ。はっきり言ってくれないとわからないぞ?」

「…………パンツ」

「は?」


 禊屋は頬を染めたままキッと冬吾を睨みつけると、ぐいと詰め寄る。


「だからっ、パンツ! さっきからお尻すーすーして気持ち悪いのっ! 新しいの買いに近くのコンビニまで行きたいんだけど、なんか文句ある!?」

「あ……ありません」


 あまりの剣幕に返す言葉もない。禊屋は少し落ち着いてから、


「……別に、心配しなくても大丈夫だって。昼間だし……ちょっとは人通りもあるし」

「あ、ああ」

「あたしもすぐ追いつくからさ。キミは先に行って、佐渡が逃げないよう見張ってて。でもまだ犯人がどうとかいう話はしないでいいから。なるべく刺激しないようにね」

「わかった。……じゃあな」


 「ん」と禊屋は片手を上げる。冬吾は一人EMCへと向かうことにした。









 EMCの入り口。扉を開けようとして、冬吾は気がつく。扉に張り紙がしてあるのだ。


『誠に勝手ながら、本日は臨時休業いたします。申し訳ございません』


「……? おかしいな」


 休業などという話、昨日は聞かなかった。試しに扉を引いてみるが、鍵がかかっている。冬吾は店の裏手に回って、裏口を調べてみることにする。


 裏口の扉には鍵はかかっておらず、簡単に開いた。扉の先には人気のない静かな通路が延びており、電灯は点いていた。


「あの……すみませーん」


 声をかけてしばらく待ってみるが、反応はない。どうしたものか……と思っていると、奥からひょっこり誰かが顔を出した。


「あ……どうもどうも!」


 そう言いながら寄ってきたのは、安土啓恵だった。営業時の艶やかなドレス姿とは違って、ロングのTシャツにジーパンと地味な恰好をしている。


「ええっとあなたは、トラさん……でしたっけ?」

「ノラです。それじゃ風来坊ですね」

「あ、すみません……。とりあえず、中へどうぞ」


 冬吾はやや広めの部屋に通される。畳の部屋で、靴を脱いで上に上がるようになっていた。部屋の中央にはテーブルが置かれ、その周りに座布団がある。隅のところにテレビが、壁際には鏡に化粧台などが設置されていた。テーブルの上にはお菓子を乗せたお盆と、少し懐かしさを感じる古めのラジカセがあった。


「私たちの待機室なんです。お客さんを取ってない時間はここでお喋りしたり、漫画読んだり、お菓子つまんだり……」

「へぇ……」


 女性従業員用の楽屋、といったところだろうか。奥に置かれた大きめの本棚には、漫画のコミック本や週刊誌などが見える。啓恵は小型の冷蔵庫から小さなペットボトルのお茶を出してくれた。


「それで、何かご用ですか?」


 ここへ来た理由は、まだ話さない方が良いだろう。


「いや、用ってほどでもないんですけど……事件について何か新しい情報でもないかな、と」

「すみません……。特にこれといったことは」

「いえ、いいんです。それならそれで。……ところで、今日は臨時休業とありましたけど?」

「あ、それですか。店長が急に決めたことなんですよ。今日出勤予定の子たちにも、そのことで連絡があったみたいで。休業の理由については、訊いてみてもなんだかはっきりしないんですけど……スズさんのことに関係があるのかもしれません」


 休業は佐渡が決めた? 何か引っかかるものを感じつつ、冬吾は更に尋ねる。


「休業なら、安土さんはどうしてここに?」

「実は、店長からバイトを頼まれたんです」

「はぁ、バイトですか?」

「ええ、店内の清掃なんですけどね。いつもは開店前に男性の従業員がやるんですけど、今日は休業なのに、なぜか私が頼まれちゃって。でも清掃といっても大したものじゃなくて、作業量的には一人でも全然余裕ですし、お給金も結構弾んでくれるみたいなので引き受けたんです」


 店を休業にして、女性従業員に掃除を……? 佐渡の考えがどうにも読めない。


「佐渡さんは今、店にいるんですか?」

「店長室にいると思いますよ」


 店長室と裏口は少し距離がある。先ほどの冬吾の声は聞こえなかったのだろう。


「そういえば店長……さっきまでどこかへ出かけていたんですけど、一時間くらい前に、なんだか大きなバッグを持ち込んでました。キャリーバッグって言うんですか? そんな感じの」

「キャリーバッグ……」

「え? ……どうかしました?」

「いや、なんでもないです。すみません。ちょっと、佐渡さんと話をしてきます」


 そう言って冬吾は部屋を出た。啓恵の言うキャリーバッグとは、マンションの監視カメラに映っていたものではないか? そうであれば、その中には長良組から盗まれた三億円が入っている可能性がある。――しかし、どうしてここに三億円を持ち込む必要があるのだろうか? 保管しておくなら、もっとそれに適した場所はいくらでもあるだろう。


 なにか胸騒ぎがした。自分たちは犯人に対して、王手をかけたと思い込んでいた――それが、大きな間違いだったかのような気がし始めていた。


 冬吾は通路を少しの距離移動して、店長室の扉の前に立つ。部屋の中からこれといった物音は聞こえなかった。ふと、思い出す。この扉には覗き穴があったことを。もしかしたら、相手に悟られず部屋の中の様子を窺い知ることができるかもしれない。冬吾は、扉の真ん中あたりにつけられた長方形の蓋を確認する。これを右横へとスライドさせることで、覗き見用の小さな穴が姿を現す仕掛けだったはずだ。冬吾は蓋の左側に付いたツマミ部を持って右横へと引く――が、何かに固定されているかのように蓋は微動だにしなかった。


「誰かいるのか?」


 部屋の中から佐渡の声がして、冬吾は心臓が飛び出そうになる。蓋をがちゃがちゃ弄っていた音が聞こえたのだろう。


「あ……えっと、ノラです! すみません、お邪魔して」

「え……? ああ、少々お待ちを」


 二十秒ほどしてから扉が少し開いて、そこから佐渡が身体の半分ほどだけ出す。


「これはどうも、ノラさん。何かご用でしょうか?」


 佐渡は妙にまばたきが多く、どこか落ち着かない様子に見えた。


「いえ、用というほどではないんですけど。涼城さんのことで新しくわかったこととか、思い出したこととかありませんか?」

「ああ……いえ、申し訳ありません。何もないですね」

「そうですか。ところで……今日はどうして休業に?」

「え? あぁ、そのことですか。それはですね――」


 その時、部屋の奥で「ゴトッ」と何か重たいものが倒れたような音がした。


「今の音は?」

「さぁ……机の上に物を置いていたので、それが倒れたのかもしれません」


 そう言って、佐渡は部屋の中を見ようともしない。冬吾に部屋の中を見せたくないかのようだ。何かを隠しているのか? ……三億円か?


「申し訳ございません。実は今、急ぎでやらなければならない仕事があるのです。あと……そうですねぇ」


 佐渡は左手首に付けた腕時計を見る。


「一時間ほどはかかります。お待ちいただければ、その後でいくらでもお話を」

「わかりました。待ちます」

「ご迷惑おかけします。――ところで、今日は禊屋さんはどうされました?」


 ……まさか「パンツ買いに行ってます」、とは言えまい。


「禊屋は……えっと……今ちょっと別行動中で」

「何をなさっているのでしょう?」


 妙に食いつくな。適当に誤魔化すしかないか。


「今、別の場所で聞き込みをしているところです」

「そうでしたか」


 佐渡は少し考える素振りを見せてから、「では、また後ほど」と扉を閉めた。


 とにかく、禊屋が来るまではおとなしくしているしかない。待機室に戻ろうと通路を歩いていると、ズボンのポケットに入れておいた携帯が振動した。画面を見て確認すると、見知らぬ番号からの着信だ。


「はい、もしもし?」

『久しいな、戌井冬吾。と言っても、ほんの二週間ぶりか』


 ぞくりと背筋がこわばった。その声は、冬吾を陥れた全ての元凶――


「神楽……!」


 咄嗟に、周りに人がいないことを確認する。誰かに会話を聞かれることがないよう、裏口の近くへと移動しながら話す。


「お前、何でこの番号を……」

『伏王会を甘く見てもらっては困る。君の電話番号など、調べればすぐにわかるよ』

「……何の用だ?」


 電話越しに神楽の笑い声がする。


『そう敵意を剥き出しにしてくれるな。私は君に忠告してやるつもりなんだ。ありがたいと思って聞いてくれ』

「忠告だって?」

『黒衣天狗のことは聞いているな?』

「ああ、お前の配下で、昨夜俺たちを襲ってきたヒットマンだ」

『ふふ……左様。そのことで一つ誤解があったことを訂正しておきたい。昨夜の襲撃だが、黒衣天狗は我々の命令で動いたのではない。こちらにナイツとの不可侵協定を破ろうなどという意思があったわけではなく、あくまで黒衣天狗の独断・暴走によるものだったということだ』


 やはりそうだったのか。いや、もちろん神楽が本当のことを言っている保証もないわけだが、その言葉を信じるとするなら、今日薔薇乃と禊屋と三人で話していた予想は当たっていたわけだ。


『事実関係の確認に少々手間取ってな。報告が遅れたことは謝ろう。このことは追って夕桜支社長にも伝えるつもりだが、まず一番の当事者である君に知っておいてもらいたくてね』

「そりゃわざわざどうも。……ついでに教えてほしい。あれが伏王会からの命令でなかったのなら、いったい誰からの?」

『さて……? そこまでは私の知ったことではないな』


 たとえ本当は知っていたとしても、面白がって隠しているのだろう、この女は。


「そうかよ。で? 言いたいことはそれだけか?」

『いや、本題はここからだ』


 神楽は幾分声を落とす。


『黒衣天狗にはつい先ほど私から直接、ナイツへは二度と手を出さぬよう厳命しておいた。厳命とは即ち、今度その命令に背いたら殺すということだ。そうしたらあいつ、どうしたと思う?』

「なんなんだよ、勿体ぶらずに言ってくれ」

『伏王会を脱けたよ』

「……え?」


 神楽は面白がるように笑う。


『もう一度言おうか? 黒衣天狗は伏王会を脱退すると宣言した。そのためこちらからも正式に首をきったよ。十五分前から我々とは無関係なので、よろしく』

「待ってくれ! それってつまり――」

『いわば、組織という鎖から解き放たれた獣だな。それも、血肉に餓えている。また君たちを襲いにくるかもしれない。もしかしたら、既に行動を起こし始めているかもな?』


 なんてことだ……。まさかそんな方法を取ってくるだなんて! 完全に予想外の事態だった。黒衣天狗が伏王会に属している限り、協定による縛りは有効だった。だが、伏王会から脱けてしまえば、そのしがらみは一切が無関係になってしまう。


『忠告とはそのことだ。本来ならば、既に無関係な者についてこのようにわざわざ報告をする義理もないわけだが――私はまだ君たちに死んでもらいたくはないのでね。少しだけ、気を利かせてやったつもりだ』

「……ありがたくて涙が出るね」

『ふっ、喜んでもらえて嬉しいぞ。……では、精々頑張って生き延びてくれたまえ。私をがっかりさせるなよ?』


 電話が切れる。


 冬吾がまず最初に考えたのは、禊屋のことだ。今、禊屋は一人だ。もしも黒衣天狗に襲われたら、間違いなく命はない。急いで電話をかける。禊屋はすぐに応答した。


『はいはーい。なぁに? もう禊屋ちゃんのこと恋しくなっちゃった?』

「冗談言ってる場合じゃない! いいか、よく聞けよ? すぐにどこかへ身を隠せ! 近くの店でもホテルでも、何でも良いから中に入れ!」

『は? なんで?』

「黒衣天狗だよ! あいつ、まだ俺たちを狙ってるんだ! そのためにわざわざ伏王会を脱けたって!」

『ちょ、ちょっと待ってよ。どういうことか詳しく――』


 そのときだった。


「――やめろっ!!」


 通路の奥から、男の声が響き渡った。


『……え? 今、何か言った?』

「いや……違う、俺じゃない」


 あの声、明らかにただ事ではない様子だった。


「と、とにかく、急いで隠れるんだぞ! いいな!?」


 そう言って電話を切る。同時に奥へ向かって駆けだした。あの声、聞き間違いでなければあれは……佐渡の声だ。


 店長室の前には、啓恵が不安そうな表情で立っていた。


「何かあったんですか?」


 啓恵は小さく首を横に振る。


「い、いえ、私もさっきの声を聞いて今来たところで……」


 そう言って、店長室の扉へ視線を送る。すると、部屋の中からまた声が聞こえてくる。


「…………!」


 よく聞き取れない、うめき声のような声だった。冬吾は扉のノブを掴んで回すが、扉は開かない。鍵穴らしきものは見当たらないので、中から内鍵がかかっているのだろう。そういえば昨日部屋に入ったときに扉に閂(かんぬき)のようなものがあったのを見た気がする。代わりに扉を強く何度も叩いて呼びかける。


「佐渡さん! どうしたんですか!? 開けてください!」

「助けてくれっ!!」


 部屋の中から聞こえてくる佐渡の声は、悲鳴にも近いものだった。


「くそっ!」


 扉へ思い切り体当たりをする。しかし、扉は思いのほか頑強で、びくともしない。これでは百回ぶつかったところで鍵を壊すことはできそうもない。ふと、映画やドラマで見るような、銃で鍵を壊すという方法が頭に浮かんだが、これはすぐに廃案にした。実際に拳銃の弾ごときで鍵を吹っ飛ばせるとは思えないし、この狭い屋内で弾丸が跳ね返りでもしたらあまりにも危険すぎる。


「あ、あの、ノラさん」


 後ろから、啓恵が恐る恐る言った。


「そこの、覗き穴から中の様子がわからないでしょうか?」

「……そうですね。やってみます」


 冬吾は扉に付けられた覗き穴の蓋に手をかけた。先ほどはなぜか動かなかった蓋だが、今度はスムーズに右横へとスライドした。豆粒ほどの大きさをした円形の穴が姿を現す。冬吾は中腰になって、右目でその穴を覗き込んだ。


「あっ……!」


 部屋の中の様子を見た冬吾は一瞬、呼吸が止まる。


 薄暗い室内に、黒い衣がはためいた。三メートルほど先に、フード付きの黒衣を纏う天狗が立っている。黒衣天狗だ――!


 赤い天狗の面は、昨夜織江に撃たれたために鼻が折れたままだった。天狗は黒色の壁を背景に、こちらに右半身を見せるような角度で立っている。右手には、それも昨夜と同じく、金色の柄の刀が握られていた。


 天狗の後ろには、黒い台がある。いや、台そのものが黒いわけではなく、台全体を覆うように布がかぶせられているのだ。天狗の羽織る黒衣と同じような、黒い布。おそらく、部屋奥の壁際にあった横長のデスクにそれをかぶせてあるのだろう。台は平面ではなく、ところどころ盛り上がっている。台に敷かれた布の上には何かが乗っており、それを覆うようにまた別の布がかぶせられているのだ。敷布に掛布といったところか。


 黒衣天狗は周囲を見渡すようにしてから、右横へ一歩移動した。天狗が移動したことにより、その後ろに隠れていた『顔』が見えるようになる。


 ――佐渡拳だ。黒い布によって顔以外の部分が覆われていたためすぐにはわからなかったが、佐渡は台の上に仰向けに寝かされていた。冬吾から見て佐渡の頭は左側、つまり仰向けになった佐渡の右半身を見ているような形になる。恐怖からだろう、佐渡は声にもならない声を発していた。首元まで掛けられた布のせいでよくわからないが、台の上でじっとしているのは、何らかの要因で身動きができないからだろうか? その姿は、手術台の上の患者のようにも見えた。上からかぶせられた布は黒く、執刀医が殺し屋であるという点を除けば、だが。


 更なる異変が起こったのは、そのときだった。突如として、冬吾の視界は真っ暗になる。その直後、


「な、なんだ!? 何をする気だ、やめろ!」


 佐渡の悲鳴が響く。


 ――何が起こった?


 理解が追いつかないうちに、部屋の中からまた音が聞こえた。何か重い物が一度にたくさん床に落ちるような大きな音。その数秒後にまた別の音。水音を伴う、厚い肉を引き裂くような音――冬吾は嫌な予感がして、穴から離れた。今の音は、まさか……?


「な、なにが起こってるんですか?」


 怯える啓恵の質問に、なんと答えるべきか逡巡していると――


 カチャ、と扉の向こうで音がした。内鍵が外されたらしい。


「安土さん、下がって!」


 冬吾はすぐに後腰に挟んであったベレッタを引き抜いた。昨夜の反省を踏まえて、既に弾は装填済み、親指でセーフティを外すだけで発砲が可能な状態にしてある。部屋に窓はなく、出入り口はここ以外には存在しなかったはずだ。黒衣天狗が逃げ出すには、必ずこの扉を開ける必要がある。……しかし、数秒待っても黒衣天狗が飛び出してくる様子はなかった。


 中で待ち構えているのか? だったら、こちらから中に入るのは危険かもしれない。しかし時間が経てば、佐渡が殺されてしまうのではないか。迷っている猶予はない――冬吾はノブを掴み扉を開けた。


 部屋には明かりが点いておらず、通路側から差し込む光によってかろうじて中の様子がわかった。


「うっ……」


 そこにあった、あまりにも衝撃的な光景に言葉を失った。扉の二メートルほど先に黒衣天狗が立っている。そして、その後ろには、デスク上に横たわった死体があった。先ほど首元まで掛けられていた布は、肩の辺りまで剥がされている。その肉体が既に生命活動を行っていないということはすぐにわかった。


 その身体には、もう首がなかったのだから。


「いやぁああああああっ!?」


 冬吾の後ろにいた啓恵が叫ぶ。死体を見てしまったのだろう。死体の、首があった位置からは、未だに勢いよく血が噴出していた。それは、まるで生命の残滓のようだ。まさにたった今、佐渡拳の命が絶たれたことを意味している。


 黒衣天狗の右手にある刀には、べったりと赤いものが付着していた。冬吾が聞いた、肉を裂くような音はそれだったのだ。黒衣天狗がその刀で、佐渡の首を切り落とした……。


 冬吾は黒衣天狗へ銃を向け、問い詰める。


「……なんで殺した? お前、佐渡の命令で動いていたんじゃなかったのか?」


 冬吾の考えでは、黒衣天狗を操って自分たちを消そうと動いていたのは、調査が進むと都合が悪い人物――つまり、涼城花凛を殺害し、三億円を手にした犯人である佐渡だと思っていた。いや、今でもそれが間違いだったとは思わない。しかし、それならどうして、黒衣天狗は依頼主である佐渡を殺した?


「…………」


 黒衣天狗は答えず、ただその後方で左手に持っていたものを手前へと引き寄せた。キャスター付きのキャリーバッグだった。色、形状からして、監視カメラに映っていたものと同じだ。


「三億円……?」


 まさか、黒衣天狗は三億円を奪うために依頼主を殺したというのか? しかし、バッグはそれほど大きく膨らんでいるようには見えない。いや、乃神が言っていたように、三億の体積はバッグの大きさに対してそれほどでもないから、外見上はわからずとも中に入っている可能性は充分ある。


 冬吾は、黒衣天狗が左手にキャリーバッグの持ち手の間に挟み込むようにもう一つ、黒い風呂敷包みのようなものを持っていることに気がつく。大きさ、質感からして、死体とデスクにかぶせられている布と同じものだろうか。中には何が入っているのか、ボールのような膨らみがある。大きさとしては、人の頭くらいの……人の頭?


 冬吾は再び死体の周囲に目を向けた。……ない。切り落とされたはずの佐渡の首は見当たらなかった。とすれば、あの包みの中には、佐渡の生首が入っているのか?


 そう思ってもう一度包みへと目を動かした、その時――黒衣天狗の左手から、何かが落ちた。包みの布の裏に握りこんでいたらしい。それは、小さな金属の塊のように見えた。


 それが床に着地したその瞬間、爆音と閃光が冬吾の世界を支配した。視界が一面真っ白になり、激しい耳鳴りで、何も聞こえない。驚いて何か叫んだような気がするが、自分の声すら聞き取れず、何がなにやら分からない状態だった。何が、何が起こった――!? 


 直後、冬吾は前からぶつかってきた何かにはね飛ばされ横合いに倒れ込んだ。ぶつかってきたのは黒衣天狗だろう。刀で切りつけられたかとも思ったが、身体にははね飛ばされた以外の痛みはなかった。


 ――逃げられる! 倒れたまま銃を構えようとしたが、自分が今どちらに銃を向けているのかもわからない。この状態のまま発砲することは不可能だった。


 しばらくすると、段々と視力が戻ってきた。まだ耳鳴りは残っているが、現状の確認くらいはできそうだ。床に手をついて、ゆっくり起き上がる。扉から少し離れた位置に啓恵が倒れていた。近づいて確かめてみるが、怪我をした様子はなく、ただ気を失っているだけのようだ。


 黒衣天狗の姿は跡形もなく消え去っていた。当然、キャリーバッグもだ。後に残されたのは、佐渡が殺されたという事実……そして、敗北感だった。目の前で相対しながら、またしてもしてやられた――冬吾は、自分の中に巻き起こる無力感と悔しさに打ちひしがれる。


 後悔した。黒衣天狗がなにかする前に、まず撃つべきだったのだ。それを自分は、相手が刀しか持っていないと油断してしまった。同じ理由で昨夜も痛い目を見ているというのに。


「くそっ……」


 冬吾は壁に拳を強く打ち付けた。








「――部屋に残った残骸から判断して、使われたのは着地式の閃光手榴弾……らしいよ。キミが扉を開ける前に、予めピンを抜いておいたんだろうね」


 禊屋は死体を検分しつつ話す。首を切られた死体という、大抵の人間は直視することも躊躇うほどのおぞましい光景であるはずだが、禊屋は平気な顔をしている。慣れているのだろう。


 あれからすぐに夕桜支社へと連絡を入れ、ことの顛末を報告した。EMCにはしばらくしてから応援の社員が十人ほど駆けつけ、黒衣天狗に襲われる危険があった禊屋も、ナイツの車に保護されEMCまで送り届けられた。


「窓はなく、入り口は一つだけか。黒衣天狗を捕らえるには絶好の機会だったようだが……肝心の狩人の腕が悪くてはな」


 乃神はため息をついて言う。今、店長室には冬吾、禊屋、乃神の三人が残っていた。黒衣天狗に繋がる証拠が残されていないか、調べているところだ。


「……すまない」


 嫌みを受け流すだけの気力も今の冬吾にはない。


「乃神さん。ノラは殺し屋とは違うよ」


 禊屋は死体から顔を上げて言った。


「それに、相手はB級ヒットマンだもん。殺されなかっただけマシと思わなきゃ」

「ふん……生きているだけで役に立てばいいんだがな」


 乃神はつまらなそうに言いながら、扉から見て左壁際にあるサイドボードの引き出しを上から順に開けていって調べ始めた。


「ところでさ、佐渡さん殺されちゃったけど、依頼のほうはどうなるの?」


 禊屋が尋ねると、乃神は特に目につくものはなかったらしい引き出しを閉じつつ言った。


「まだ奴が犯人だったという確かな証拠が見つかったわけではないんだろう? ならばそれが見つかるまでは調査は続けてもらう」

「まぁそうだけど。難しいかもねー、本人から自白が取れないとなると」

「目下のところ、最大の手がかりが黒衣天狗だ。奴を捕らえることができれば涼城花凛殺しについても何か分かるだろう」


 乃神は扉のほうへ移動する。


「お前たちはこの部屋の調査を続けてくれ。俺はここ以外の場所に佐渡と黒衣天狗の繋がりについての手がかりがないか、調べてみる」


 乃神が部屋を出ていくのを待ってから、禊屋が冬吾へ向かって言う。


「――それにしても、どうして黒衣天狗はキミを殺さなかったんだろう? あ、誤解しないでね? キミが生きててくれたことはもちろん嬉しいんだよ? でも……ちょっと不可解じゃない?」

「それは、俺も気になってる。あの時、閃光手榴弾で目の前が真っ白になって……黒衣天狗は殺そうと思えばいくらでも俺を殺せたはずだ。安土さんも。まぁ、彼女の方は放っておいても黒衣天狗にとって障害にはならないだろうけど」


 啓恵は今、ナイツの社員の付き添いで別室で寝かされている。ただ気を失っていただけなので、そろそろ目が覚めたかもしれない。


「殺せたはずなのに殺さず、その場から逃げただけ……なにか理由があったのかな?」

「……もしかしたら、殺す必要がなくなったからじゃないか?」

「どういうこと?」

「黒衣天狗は元々、佐渡の依頼で俺たちを殺すように指示されてたんだろ? だったら、佐渡が死んだ今、俺たちを殺す理由はなくなったはずじゃないか」

「ふぅむ……。一理ある……けど、それならそれでおかしな話が出てくるよ? 黒衣天狗はわざわざ伏王会を脱退してる。それは、あたしたちを殺すためでしょ?」


 そうだった。そういう話もあった。自分たちを殺すために伏王会を抜け出てきた殺し屋が、その相手を殺さず見逃すというのは不可解としか言い様がない。


「……それもちょーっと、気になってるんだけどね」

「なにが?」

「黒衣天狗が伏王会を離脱したこと。それまでずっと組織に雇われてたヒットマンが、一つの依頼のためにそこまでするかな? 組織の庇護や補助を受けられなくなることを考えると、佐渡さんの依頼のためだけにフリーになるってのはちょっと考えづらいよ」

「言われてみれば……そんな気もするな。他になにか事情があったんだろうか?」

「さぁねぇ……」


 禊屋はまた死体の持ち物などを調べている。そういえば、死体についても一つ気になるところがあった。


「黒衣天狗はどうして佐渡の首を持ち去ったんだろう?」

「そうそう、そのことなんだけど」


 禊屋は思い出したように言う。


「ナイツのほうで黒衣天狗について色々調べてくれてたみたい。こっちに来る途中で色々聞かせてもらったんだけど、今までのデータによると……黒衣天狗は必ず、暗殺(ヒット)した相手の首を切断して、持ち帰ってるらしいよ」

「……なんだそりゃ? なんのために?」

「依頼主に届けるため、とか? 依頼主と会う際にもああやって顔を隠してるなら、その分信頼を獲得する必要もあるだろうし。しっかり殺した証拠を持ち帰ってきてくれたら、依頼した側としては安心じゃない?」


 成果を正しく報告するために……か? まるで戦国時代だ。


「それなら、佐渡を殺したのもまた別の人物からの依頼だったわけか?」

「それもあり得るよ。でも確かとは言えない。ただ単純に、黒衣天狗が佐渡の三億に目が眩んだだけって可能性もあるからね。首を持ち帰る理由だって推測だし、本当はただの自己満足みたいなものなのかも」


 佐渡殺しは黒衣天狗単独の意図によるものなのか、あるいはそうではないのか、それも問題の焦点となりそうだ。


「――ありゃ? ありゃりゃりゃ?」


 突然、死体を調べていた禊屋が奇妙な声を出す。


「どうした?」

「うーーん? これ……ってどーいう……いや、でもそーいうこともある、かな……?」


 禊屋は手元の何かをじっと見て考え込む。しばらくして顔を上げると、今度は眉間を指でこすりながら辺りをうろうろしだした。


「おい、何を見つけたんだ?」


 禊屋は手の平を向けて制止する。


「待って! 今なにか思い浮かびそ…………あっ! あーーっ!?」


 素っ頓狂な声を出してはたと立ち止まる。興奮したような表情でこちらを見ると、


「…………ノラ。あたし、ちょっとすごいこと思いついちゃったかも!」

「すごいこと……? どんな?」

「ちょっと待ってね。あたしの考えが正しいなら……ここで何かがあったはず……」


 佐渡殺し以外に何かがあったということか? よくわからない。


 冬吾は禊屋が何を見つけたのか知りたくて、死体のほうを今一度確認してみる。


 冬吾が覗き穴から覗いた際に推察したとおり、黒い布がかぶせられていたのは、元々部屋奥の壁際に置かれていた横長の木製デスクであった。今は奥の壁際より一メートルちょっと手前の位置にある。敷布の上に死体は乗せられたままだ。身体の上に掛けられていた布のほうは、今は傍らにどけてある。どちらの布も、それ自体におかしなところは見つからなかった。黒衣天狗は何を思ってこんなものを使ったのだろうか? 死体やそれを乗せる台を黒く飾り立てることに何か意味が?


 前に来室した際にデスクに添えられていた背もたれ付きの椅子は、今は扉近くの部屋の隅に置かれている――これも黒衣天狗が移動させたのだろうか? デスクの上に置かれていたデスクトップ型パソコンは本体、ディスプレイ、キーボード、マウスとまとめて床の上に捨てられたようになっていて、それぞれ横倒しになっていたり裏向きになっていたりする。床には他に、辞書が数冊転がっていた。これらも前に来たときにはデスクの上にあったものだ。


 死体は身動きができないよう、胸、両手首を含む腰、両足首の三カ所をナイロン製のベルトがデスクの天板をぐるっと回る形で拘束されている。すぐには殺さず、身動きできないようにしてから殺害したことになる。それでは却って手間がかかるような気がするが、ここにも何らかの作為があったのだろうか? ざっと見たところ、他に気がつくような点は見当たらない。


「ねぇノラ。キミは、佐渡さんが殺される直前に一度顔を会わせたって言ってたよね?」

「ああ。どうして今日はEMCを休業にしたのか理由を訊いてみたんだけど、後にしてくれって誤魔化されたな」

「ふんふん……あのね。よーく、思い出してほしいんだけど……その時、この部屋に誰かいなかった?」

「え……?」

「だから、佐渡さん以外に店長室に誰か人がいなかったかって訊いてるの」


 ……思い返してみると、あの時の佐渡の様子には妙なところがあった。


「実際に部屋の中を見たわけじゃない。でも、佐渡には部屋の中を見られないようにしていたふしがあったな。俺と話している間に部屋の中で音がしたときにも、なにかを隠しているような感じがした」

「音って?」

「なにか、重い物が倒れたみたいな音がしたんだよ」

「ふーん……」

「それに、その後佐渡が黒衣天狗に殺されるまで、俺は裏口の近くで神楽と電話をしていたんだ。表口は鍵がかかっていたし、少なくともその間に黒衣天狗が入ってきたとは考えられない。つまり黒衣天狗はそれより前にこの店内に潜んでいたわけだ。その場所がお前の言うとおり店長室だったのかもしれないな」


 だとすれば、佐渡は黒衣天狗を意図的に隠そうとしていたことになる。密談でもしていたのだろうか……?


「そう考えると、あれもか……?」

「なんのこと?」

「佐渡と直接顔を会わせて話す前に、部屋の中の様子をこっそり確かめられないかと思って、覗き穴を覗いてみようとしたんだよ。でもそのときには蓋が動かなくて無理だった。だから、もしかしたら佐渡がなにか細工を施して動かないようにしていたのかもしれないと思って」


 その後、黒衣天狗を目撃した際には問題なく蓋が動いたことから故障ということは考えづらいだろう。


「覗き穴……か」


 禊屋は扉のほうへ近寄って、覗き穴の周囲を観察し始めた。ちなみに、扉のノブ及び閂型の内鍵のほうには細工の跡は見られなかった。黒衣天狗は内鍵によって施錠を行っていたと素直に考えていいだろう。禊屋はざっと観察を終えると、次は扉を開けて、腕だけ外側へ伸ばして蓋を動かしてみたりする。


「へぇー。これ、内側から蓋が開いてるかどうかわかるようになってるんだね」


 禊屋が確かめるのを見て、冬吾も初めて気がついた。


 部屋の内側から見た場合、扉の真ん中あたりに覗き穴があり、そのすぐ上に一部、くり抜かれたようになっている部分がある。大きさとしては縦三センチ、横一センチほどの長方形、そこからビニールテープの貼られた金属が覗いているのだ。


 それは外側に取り付けられた蓋の裏面にあたる部分である。覗き穴の蓋が閉じた状態だと、緑色のテープが貼られた部位が見えるようになっており、蓋をスライドさせ覗き穴を露出させると、当然内側から見える蓋の裏面の部位も移動することになり、今度は赤色のテープが貼られた部位が出現するようになっている。


 元々はサービスの一つとして覗きがあったという話だった。客は無防備な相手を視姦することに喜びを見出すのだろうが、実際のところは、相手からも覗いていることがわかるようになっていたわけだ。そのあたり、商売の現実という感じがする。


「この隙間になにか挟み込んでおけば、蓋が開かないように固定することはできそうだね」


 禊屋は覗き穴の確認を終えると、また別の話題を切り出した。


「じゃあ今度は、佐渡さんが黒衣天狗に襲われたときのこと。キミは裏口近くにいて、沢渡さんの悲鳴を聞いてこの部屋の前まで来た……そうだったよね?」

「そうだ。俺より少し先に安土さんが来ていた」


 啓恵のいた待機室は店長室から近い位置にあるから、彼女のほうが先に来ていたのは変ではない。


「キミは部屋の中の様子を確かめようとして、扉の覗き穴から覗いてみた……そこで、佐渡さんと黒衣天狗の姿を見たんだね?」

「そうだけど……」

「部屋の中、はっきり見えた?」

「たしか……ちょっと薄暗かったかな。うん、今よりはずっと暗かった気がする」


 今、店長室の中は天井の蛍光灯によって照らされている。蛍光灯のオンオフは入り口そばのスイッチで操作ができる。天井と壁が黒色をしているせいで元々暗めの印象があるが、あの時の暗さはそういうものではなかった。


「と、すると……そのとき点いてた明かりはこっちのほうかな」


 禊屋は部屋の真ん中あたりに立つと、扉から見て向かい側の壁に取り付けられたランプを見上げた。無地の筒型のランプシェードがかかっているシンプルなものだ。シェードの内側から電源のコードが伸びており、プラグとの中間部にスイッチが付いている。この部屋の中では珍しい装飾品だが、もしかしたら部屋の改修前のものをそのまま利用しているのかもしれない、とも思う。


 コンセントは部屋に三カ所で、いずれも低い位置にある。一つ目は扉のほぼ真正面奥、デスクの本来の位置に近いところだ。これはパソコンの電源用だろう。すぐ側には壁埋め込み型の無線LANルーターが設置されている。


 残る二つは扉側の壁の中央近くと、その真向かい正面の位置。そのうち後者はランプの真下の位置にあたる。現在、ランプの電源プラグはコンセントから抜けている状態だ。


「ちょっと点けてみよっか」


 禊屋はプラグをコンセントに差し込む。すると、スイッチを操作する前にランプの明かりが灯った。禊屋は移動して蛍光灯のスイッチを切る。すると、ランプから発せられる暖色系の光が、部屋をほのかに照らすようになる。


「どぉ? こんな感じだった?」

「ああ。多分、間違いない。でも、どうしてちゃんと明かりを点けなかったんだろう?」


 蛍光灯ではなく、壁掛けランプで明かりを点けておくことになにか意味が?


 禊屋はまたランプの近くに戻りながら、


「それはまだはっきりしないけど――ねぇ、キミはずっと、覗き穴からことの一部始終を全て目撃していたと言える?」

「どういう意味だ、それ?」

「んー、そのままの意味で」

「……そう言われると、全部を見ていたわけじゃない。というか、見えなかったんだ。途中で目の前が真っ暗になって、何も見えなくなった。それから、なにか物が落ちるような音が聞こえた。こう、どさどさどさー……って感じの。その後で、今度は首を切るような音が聞こえてきたんだ。それから少しして、扉の内鍵が開けられたから、中へ入った」

「見えなくなった……か」


 禊屋は思いついたように手を打った。


「それってさ、ランプの明かりが消えたからじゃないの?」

「ランプ……? いや、でも、それはおかしい。あの時、黒衣天狗は佐渡の前に立っていた。ランプには近寄ってすらいないぞ。それとも、他に誰か人がいたっていうのか?」

「それも面白そうだけど、とりあえず黒衣天狗が明かりを消したって方面で考えてみようよ。よく思い出してみて。黒衣天狗は手になにか持ってたりしなかった?」


 冬吾は自分の中の記憶を入念に探る。


「右手には刀を持ってた。左手は……わからないな。こっちに向けて身体の右側を見せていたから」


 それを聞いて、禊屋は満足気に微笑む。


「おっけー。例えば……そうだね、延長コードを使ったとか!」

「延長コード?」


 何の話だ?


「このコンセントに延長コードを差しておくの。まぁ、デスクの奥の方にあったコンセントでもいけると思うけど、とりあえずランプ下のコンセントを使うと仮定するよ。延長コードは長さ五メートルくらいの、ちょい長めのやつね。ランプのプラグは延長コードのほうに差して、明かりを点けておく。延長コードのコンセント部はそのままランプの下に置いておいて、黒衣天狗は、余ったコードの部分を佐渡さんを拘束しているデスクの下あたりから通して、左手に持っておく。完全に隠すのは難しいと思うけど、それは大した問題じゃないよ。デスクには見ての通り、黒い布が敷かれてある。それと、後ろの壁も黒色だね。コードの色が黒色だったら、それに紛れちゃって、覗き穴から見てもまずわからないと思う。なにより、薄暗い部屋の中だしね」


 たしかにそれだけの条件が揃えば、背景が保護色となってそれが延長コードだと判別するのは難しいだろう。目にしていたとしても、それを認識することはできなかったのだ。黒衣天狗はそのために黒い布を用いたのだろうか?


「あとは、タイミングを計ってコードを引っ張る、そうして壁のコンセントから延長コードのプラグを引き抜いたわけ。もしかしたら少しの力で抜けやすいように、プラグの差し込みを甘くしてあったかもね。どう? こうすればランプにもコンセントにも近づく必要なく、明かりを消すことができるってわけ」


 それならば、先ほどランプのスイッチがオンになったままだったことにも説明がつく。禊屋は補足するように続けた。


「使った延長コードは見当たらないけど、回収して持ち去ったんだろうね。キャリーバッグか生首の包みに一緒に入れて」

「たしかにその方法なら可能かもしれないけど……そんなことして何の意味があるんだ?」

「んふふ、それはまた後で説明するよ。今はとりあえず、黒衣天狗が意図的に、それも隠すようなやり方で明かりを消した可能性があるってことだけ覚えておいて」


 禊屋は勿体つけたような言い方をする。


「まぁ……それはそれとしてだ。黒衣天狗はランプを消した暗闇の中で、どうやって佐渡を殺したんだよ? いくら相手を拘束してるからって、手元も見えない中で首を切り落とすなんて不可能だろ?」

「黒衣の中に暗視ゴーグルみたいなものを隠し持っていたなら、充分可能だよ。もちろん、ゴーグルを着けるときはお面は外しただろうけどね」


 納得する。閃光手榴弾なんてものを持ち出してくるくらいだから、それくらいの準備はあっただろう。


「残る問題は……アレをどうしたか……」


 禊屋は顎を撫でつつ部屋を見渡し、中央付近のパソコンやら本やらが散乱しているあたりに目を留めた。


「……もしかして」


 禊屋は小さく呟く。すると顔を上げて、冬吾へ尋ねる。


「ねぇ、ノラ。黒衣天狗がこの部屋から逃げ去っていったときのこと、もう一度詳しく教えてくれる?」

「ああ、いいけど」


 冬吾は改めてそのときに見たこと、感じたことなど思い出せる限り思い出して禊屋へ伝えた。


「やっぱりね……うん、ありがと!」


 何がやっぱりなんだ? 冬吾が説明を要請するより先に、禊屋は扉から見て部屋の右奥のほうへと移動していた。ランプより右側には前に冬吾たちが座ったソファチェアが置かれてあるが、禊屋はそれに目もくれず、向かい側の長机に関心があるようだった。


 長机は扉側の壁に長い辺を沿わせるように置かれてあり、天板上の左端のところに薄型のモニターがある。禊屋はそれを触って調べ始めた。割と新しめのモデルのハイビジョンモニターだ。大きさは十五インチくらいか? 小さすぎるということもなく、持ち運べるくらいのサイズだ。リモコンはなく、右側面に付いたボタンで操作するようになっているようだった。そのためか、黒色のフレームはすっきりとしたデザインになっている。


 禊屋はモニターの裏側を覗き込んだ。各端子類備わっており、AV機器を接続することで映像の再生が可能となっている。端子の並んだところより上の部分にモニターアームが取り付けられていた。根元の部分で机の天板を挟みこむことで固定されている。アームによって高さや角度をある程度自在に調節することができるようだ。


「あっ……電源、抜けちゃってる」


 後ろ側から伸びた電源コードは、プラグが抜けていた。コードは机と壁の間のわずかな隙間に挟まれるようになっている。おそらく、ランプのある側とは逆の、扉側の壁に設置されたコンセントに差すようになっているのだろう。


「ふんふんふん……なるほどね。見えてきた見えてきた!」


 禊屋はなにやらテンションを上げているが、こちらとしては何がなにやらといった感じである。


「ええっと……あとは……」


 禊屋は扉の周辺に目を配る。


「……あった!」


 そう言って、天井のある部分を指さす。小さくてわかりづらいが、扉のすぐ前あたりに、下を向いたフック型の金具が付いているのが見えた。


「前に来たとき、あんなものあったか?」

「なかったはず。あたしの記憶では」


 ということは、なかったのだろう。禊屋の記憶力は既に実証済みだ。


「ノラ。あれ、なんかついてない?」


 たしかに、フックの部分に白い糸のようなものが絡まっているのが見える。


「ちょっと、近くでよく見てみよーかな」


 禊屋は近くにあった椅子を寄せてくると、その上に乗ろうと足を上げかけて――


「――あ」


 動きが止まった。


「……? どうした?」

「い、いや、なんでもない! ノラ、ちょっと代わりに確認して!」


 禊屋はなぜか顔を赤くして、慌てたように言う。スカートの裾を手で直そうとする仕草もどこか不自然だ。その様子を見て思いつく。


「あ……もしかして。お前、まだパンツ履いて――」

「もぉーっ! なんで言うの!? わざわざ隠してるのに!」


 しまった! 迂闊な発言すぎた! 


「わ、悪かった……スミマセン」


 急いで謝る。……危うく噛みつかれるかと思った。


「……だって、コンビニ入る前にキミから電話かかってきたんだもん。買う暇なかったんだよ。はぁ……もう、キミってば、でりかしー足りないよね」

「うっ……」


 深く胸に突き刺さる言葉だ。反省します……。


 おとなしく、禊屋の代わりに椅子に乗る。見上げると、鼻先五十センチくらいのところにフックがあった。糸はフックに結ばれていて、先の方が五センチほど下に垂れ下がっている。どうやら、途中で千切れてしまったらしい。


「あれ? これって……」


 ほんの僅かではあるが、糸の千切れた部分が赤くなっていた。糸は白色だから、この赤色は後からつけられたものだろう。


「まさか、血……?」


 しかし、佐渡の首が切られた際に噴出した血がこんなところにまで飛ぶとは考えづらい。血ではない、別のなにかか? それも思い当たらないが……。


 椅子から降りて、そのことを報告する。禊屋は指をパチンと鳴らした。


「おっけー、えくせれんと! どうやら、あたしの思ったとおりだったみたい!」

「あのさ、いい加減説明してくれないか? いったいどういうことなんだ?」


 じれったくなって、冬吾は尋ねる。しかし彼女は得意気に笑うと、


「ふふーん。すぐ答えを教えちゃうのも、なんだかつまんないじゃない?」

「いや、そんなことないと思うけど」

「そんなことないことないの! ヒントあげるから、少し自分で考えてみて?」


 禊屋は死体の乗せられたデスクの向こう側へ回ると、冬吾を「こっちこっち」と手招きする。冬吾が近寄ると、禊屋は死体の左手を持って、手首に巻かれた腕時計を見せてきた。


「これ、見ててなーんか気がつかない?」


 禊屋がさっき見ていたのはこれのことか? 死体に触れるのは少し勇気のいることだったが、思い切って左手首を持って調べてみる。


 手首に巻かれているのは、何の変哲もない革ベルトのアナログ式腕時計のように見える。文字盤は数字で一から十二までの数字と目盛りが刻まれているシンプルなものだ。針や、文字盤外側のフレーム――ベゼルといったか――にも特殊な装飾が施されているわけではない。ガラス製の風防はやや傷が目立つが、使い込んでいればこんなものだろう。もちろん、時刻にもずれはない。


 ベルトのほうを見てみる。バックルは、内側から数えて二つ目の穴の位置で留められていた。


「あ……」


 それらしいものがやっと見つかった。


「ベルトの穴……か?」


 禊屋は小さく微笑して頷く。こうした革製のベルトは、使い込んでいるうちにバックルの留め金が穴を徐々に大きく広げてしまう。もちろんそれで機能的に何かしらの問題が生じるわけではないが。気がついたことというのは、その使い込みを示す穴の広がった痕跡が全体で一カ所だけ、それも『内側から数えて四つ目の穴』であることだ。つまり、今バックルを留めている場所より二つ分も外側にずれた穴だ。今の時点で時計は手首にフィットしているので、穴二つ分も外にずらせばかなり緩くなってしまうはずである。


「どぉ? ピンときた?」

「きた……ような、きてないような」


 何か思いつきそうではあるものの、それを具体的に説明することはできなかった。


「んふふ、まだキミにはちょっと難しかったかなー」

「む……」


 元より禊屋に頭の回転の速さで敵うなどとは思っていないが、そう言われるとなんだか悔しい。禊屋に答えを仰ぐのはもう少しだけ先延ばしにすることにした。








 気を失っていた安土啓恵は、待機室にて休んでいたが、既に目を覚ましたらしい。冬吾と禊屋は彼女から話を聞くことにした。啓恵の顔色はあまり優れなかった――あんなものを見ればそれも当然だ――が、話をすることは快諾してくれた。


「――佐渡店長と、スズさん、ですか?」


 啓恵が言う。テーブル越しに座る禊屋は頷いた。


「そ。付き合ってたみたいなんだけど、啓恵ちゃんはなにか知らなかった?」

「そんな、ちっとも知りませんでした。でも……そう言われてみると、思い当たるふしはあるような……いえ、ただなんとなく店長と従業員というだけでない親密さがあったように感じた、というだけですけれど」

「ふぅん……そっか」

「でも、本当に信じられません。佐渡店長がスズさんを殺しただなんて……」


 啓恵がそう思うのも無理はないだろう。少なくとも表面上は、佐渡は極めて温厚な人柄に見えた。実際のところ、どうであったのかはまだはっきりとしない。


「そだ、啓恵ちゃんに確かめておきたいことがあったんだ」

「なんでしょう?」

「店長室の天井にさ、フックが付いてたの。こんなちっちゃいやつ。あれ、昨日来たときにはたしかなかったと思うんだけど。いつ付けられたか知らない?」

「フック……ですか? いえ、そんなものがあったなんて私も知りませんでした」


 どうやら本当に知らなさそうだ。


「昨日なかったのなら、今日ということになるんでしょうけど……私、店長室へは近づかないようにと言われていたので。ちょっとわからないです」

「どういうこと? それ、佐渡さんから言われてたの?」

「はい。仕事に集中したいので、静かにしていてほしいと。掃除についても店長室の周りはいいから、って言われました」


 禊屋は冬吾のほうへ目配せする。佐渡がそんなことを言った理由は分かる。おそらく、佐渡にはどうしても隠していたいことがあったからだ。三億円のことにしろ、黒衣天狗のことにしろ……。


「あの……ところで、一つ訊いてもいいですか?」


 啓恵はやや遠慮がちに尋ねた。


「ん、なぁに?」

「お二人は、さっきまで店長室にいた……んですよね?」

「うん。そうだけど?」

「ええっと……もし違ってたら、すみません。というか、もの凄く変なことを言ってると思われるかもしれないんですけど……」


 啓恵はもじもじと、禊屋の顔色を窺っているようだ。


「? よくわかんないけど、いいよべつに。気にしないから言ってごらんよ」

「その……向こうで、パンツがどうの……って話、してました?」

「え……」


 禊屋は目をぱちくりさせる。冬吾も同様に驚いていた。……なぜ、彼女がそれを知っているのだ?


「待って、啓恵ちゃん。……なんでそんなこと知ってるの?」


 あの場には、自分と禊屋しかいなかったはずだ。当然、あんな話を誰かにするわけもない。かといって、待機室で眠っていた啓恵が店長室の前で盗み聞きをしていたとも考えられなかった。


「あっ、合ってたんですね? じゃあ、やっぱりあれは禊屋さんたちの声だったんだ……」

「『あれ』? ……『声』???」


 禊屋は大きく首をかしげた。


「せ、説明します。といっても、私にもよく分かってないんですけど……」


 啓恵はテーブルの上のラジカセを前に引き寄せた。


「私、目が覚めた後、ラジオをつけたんです。楽しげな番組を聞けば、少しは気が紛れるかと思って。それで周波数の調節をするダイヤルを回してたんですけど、そしたら途中で、禊屋さんたちの声が聞こえたんです」

「……聞こえたって、どこから?」

「だから、ラジオからです。ノイズ混じりでしたけど。だから最初は禊屋さんたちに似ているだけだろうって思ってたんですけど、聞こえてくる会話の内容もなんだかそれっぽい感じだったので……」


 馬鹿な。……なぜ、そんなことが起こる?


「……啓恵ちゃんはラジオはよく聞くの?」

「ええ、まぁ。元々は大学に行くための勉強中に聞き始めたのが、いつの間にか習慣みたいになっちゃって。この待機室でもよく聞いてますよ」

「今までにも店長室の中の物音が聞こえてきたことって、あった?」

「いえいえ、あるわけないじゃないですか。だから驚いたんです」


 啓恵は首を横に振りつつ答える。


「今日だってノラさんがこちらに来る前にここの掃除をしながらラジオを聞いてたんです。あまりピンとくる番組をやってなくて、あちらこちらと放送局を変えていたのでダイヤルも回しました。その時には、こんな変なことなかったんですけどね……」


 ……ということは、その異変が起こり始めたのは事件の起こった後ということになるのか?


「……聞こえた内容のこと、もうちょっと教えてくれるかな?」


 禊屋は眉間を指でこすりながら尋ねた。啓恵は部分部分で思い出そうとしながら答える。


「私が聞き始めたときにちょうど話していた内容が、えっと、その……パンツの話なんです。その後は、白い糸に赤い色がどうのという話とか、禊屋さんがノラさんにヒントを出すとかなんとか、そんな会話が聞こえました。……私には、よく意味がわかりませんでしたけど」


 たしかに、あの部屋の中で禊屋と交わした会話の内容に間違いない。『白い糸に赤い色』とはフックに結ばれていた糸のことだが、あの時はフックそのものについては言葉に出して言及していなかったので、天井のフックについて彼女が知らなかったのはおかしなことではないだろう。


 禊屋は更に尋ねた。


「それより後の話は聞こえなかったの?」

「まったく聞こえなかったわけじゃないですけど、最初の方と比べたら声が小さくなって、内容まではわかりませんでした。ノイズもありましたし……」


 禊屋は人差し指の先でテーブルをトン、と叩く。


「……にゃるほどね。うん、ありがと啓恵ちゃん。おかげで一つ思いついた!」


 そう言って禊屋は座布団から立ち上がった。


「ノラ。そういうわけだから、もう一回店長室に行くよ!」

「あ、ああ……」


 禊屋から肩を叩かれ、冬吾は遅れて立ち上がる。すると、啓恵が禊屋を呼び止めた。


「あっ、禊屋さん!」

「ほ? まだ、なにかある?」

「お節介かもしれませんけど……私、こういう仕事ですからいつも予備として新品の下着を鞄に入れてるんです。それで、今日は仕事は休みなんですけど、癖でいつも通り準備してきちゃったんですよ。というわけで――パンツ、いりますか?」


 禊屋は震える声で答えた。


「い……いる! いりますっ!」








 トイレから戻ってきた禊屋は、なんだかさっきよりテンションが上がっていた。


「ふっふっふ……完全復活したこの禊屋様の前には、如何なる謎も存在し得ないとゆーことを! 今から証明してみせようじゃん?」


 腕組みしたまま不敵に笑う禊屋。どうやら彼女には、既に今回の事件におけるいくつかの謎の答えが見えているらしい。


「おう、頼んだよ禊屋サマ。俺はもう降参だ。何がどうなってるのか、さっぱりわからん」


 冬吾は両手を上げて降参の意を表明する。禊屋は頷いた。


「うむうむ。任せたまえ、ワトスン君」


 誰がワトスンだ。


 冬吾と禊屋は今、店長室の扉から少し離れたところの通路に立っている。どうにも、部屋に入る前に説明しておくことがあるらしい。


「いい? 今から部屋の中に入って、あることを確かめるけど……キミは喋っちゃダメ」

「は? ……な、なんでだよ?」

「んもー、鈍いんだから。そんなんだから喋っちゃダメって言ってるの」


 禊屋は呆れたような顔をする。……なんなんだ、いったい。


「もしかして、さっきの安土さんの話が関係あるのか? その……俺たちの会話がラジオから流れ出てたってことと?」

「初歩的な推理だよ、ワトスン君」


 禊屋は急に芝居がかって、かっこつけるように前髪を人差し指で払った。


「さきほどの啓恵嬢のお話をよく聞いていれば、その原因も場所も容易に検討がつく。――つまり、盗聴器だよ」

「盗聴器……?」


 禊屋は「いえす」と答える。


「盗聴器は大きく分類して二つのタイプがあるの。録音式と、電波式の二つね。今回使われているのは、おそらく電波式。音を電波で飛ばして受信機へ伝えるものなんだけど、これにもいくつかの種類があって、その中には電波にFMラジオと同じ周波数帯を使ってるものがあるの。啓恵ちゃんが聞いたのはそれだよ」


 部屋の中に盗聴器が仕掛けられていて、それから発せられる電波を、ラジオを聞こうとしていた啓恵が偶然に傍受したということか。ノイズが混じっていたのもそれが理由だろう。


「場所も検討がつくって言ったな? どこに仕掛けられているか、わかってるのか?」

「あの時、あたしたちは天井のフックの確認をしてから、死体の方へと移動したよね」


 覚えている。禊屋がヒントと称して、冬吾に時計を調べさせたからだ。


「啓恵ちゃんは、あたしたちが死体のほうへ移動してからの会話はよく聞こえなかったって言ってた。まぁ、ちゃんとした受信機なら部屋の中の話し声くらいはきちんと拾えてるとは思うんだけど、啓恵ちゃんの場合ただのラジオだったからね。でも、それで盗聴器の位置は大体わかるよ」

「俺たちが死体のほうへ移動してから聞こえる声が小さくなったってことは、盗聴器は部屋の手前側……扉の近くにあるってことだな?」

「そういうこと」

「でも、なんでそんなものが仕掛けられてたんだ……?」

「啓恵ちゃんの話では、事件が起きる前にもラジオを聞いていたけど、そんな状態じゃあなかったんだよね。ということは、かなりの確率でその後起こった事件が関係していると見ていい。そして、事件の関係者の中で盗聴器を店長室に仕掛けるメリットがあるのは一人しか思い浮かばない。もちろんそれは黒衣天狗のこと。あいつは、自分の仕掛けたトリックが見破られないかどうかが心配だったんだろうね。それは今後の自分にとって非常に大きな問題だから。それで、盗聴器を使ってあたしたちを監視しようとしたんだよ。ん? この場合、『監音』とでも言ったほうが正しいかな?」


 黒衣天狗の仕掛けたトリック、そしてそれが見破られるかどうかが奴自身の今後に関わってくるという話も気にはなるが、それは後で説明してもらうとして、今は話を逸らさないでおく。


「そうだとしてもだ。さっき部屋を調べたときに、もうお前がそのトリックとやらを解いてしまったことは黒衣天狗も気づいてるはずだろ? 今さら盗聴器を回収するのは、なんとなく後手に回ってしまった感じがするな」

「んー? そんなことないよ?」


 禊屋は悪巧みしているときの顔をする。


「あいつには大きな借りがあるからね。しっかりやり返さないとあたしの気が済まないの。だからさ、こっちからも罠を仕掛けるよ」

「罠って?」

「ま、そのへんは後のお楽しみってことで」 


 禊屋はウインクすると、店長室の扉のほうへと向かった。


「――じゃ、いくよー」


 ノブを回して、扉を開く。禊屋に続く形で部屋に入り、冬吾は後ろ手に扉を閉めた。禊屋はまず、フックの確認に足場として使ってそのままにしていた背もたれ付きの椅子をじっくりと、隅から隅まで観察し始めた。その椅子なのか?――と、尋ねたくなるのをギリギリで抑えた。


「こっちかな?」


 禊屋はぽつりと呟くように言うと、椅子の脚を持って逆さ向きにしてから床に置いた。背もたれがあるので斜めに傾いているが、脚の方から座面の裏を見る形だ。禊屋はにやりと笑って、短い鼻歌を奏でた。


「……あった」


 椅子の座面裏に、セロテープで貼り付けられた黒く丸い物体があった。間違いない、盗聴器だ。百円玉くらいの大きさで、注意深く見ないと椅子の部品かと思って見過ごしてしまうかもしれない。


 どうするのかと思って禊屋を見ていると、目が合った。彼女は口の前で人差し指を立てる。「喋るな」という意味なのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。詰めにかかるための、彼女なりの儀式なのだろう。禊屋は盗聴器に向かって冷静に、且つ挑発的に言い放つ。


「――謎は禊ぎ払われた。観念するんだね、黒衣天狗。いいや、いっそ本名で呼ぼうか。佐渡拳さん?」

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