第12話 闇夜の怪人







 その後しばらくして、ナイツの死体処理班が到着した。自分たちはその死に関与してはいないが、このまま放置しておけばいずれ死体は別の者に発見され、警察沙汰になることは目に見えている。警察とナイツは極力互いにノータッチの関係であるらしいが、それでも余計な面倒事が起きないとは限らない。よって組織にとってのリスク回避のためにも、花凛の死体をここに放置しておくことはできないそうだ。


 花凛の死体は極秘に処理され、世間的には失踪したまま、ということになる。なんとも無情な話だが、ここは割り切るしかない。


「後頭部に大きな打撲痕があった。それが死因だろうね」


 禊屋は死体が運ばれていくのを見守りながら言う。既に死体と部屋の調査はあらかた済ませていた。


「凶器はおそらく、この置物。底のところに血が付いてる」


 テーブルの上に置かれてあった置物を手に取る。ブロンズ製の、台座の上に猫が座っているという形状のものだ。特に珍しいようなものでもない、どこかの土産物屋で売られていそうな代物だった。台座の裏側に、少量の血痕が付着しているのがわかる。花凛はこれで後頭部を殴りつけられたのだろう。


「ぱっと見、衝動的に置物を手にとって殺害したように思えるけど、実際のところどうだったのかはまだわからない。部屋をざっと見て回ったけど、財布や預金通帳、高価そうなアクセサリーには手が付けられてなかった。他にも荒らされたような形跡は特になし。何か失くなっていたなら、それは部屋に何が置いてあるかよく知っている人物の犯行の可能性が高い。少なくとも行きずりの強盗とかいうのではなさそう」


 禊屋は調査からの考察を述べていく。自分の中で考えを整理しておく意味合いもあるのだろう。


「玄関には鍵がかかっていて、そのキーは室内のテーブルの上にあった。でも、このマンションは全室オートロックだからこれは問題にならない」


 犯人は花凛を殺害後にそのまま部屋を出ていったのだ。電灯を消しておかなかったのは、ただ単に忘れていたのか、あるいは消す意味もないと判断してのことか。


「一つ気になること。部屋の中にも遺体の服からも、携帯電話が見つからなかった。これは多分、犯人が持ち去ったと見るべき。犯人にとって都合の悪い情報……もしかしたら、犯人の正体に繋がるおそれのある情報が入っていたのかもしれない」


 そうであるならば、やはり犯人は花凛の知り合いということになりそうだ。


「犯人は暮野じゃないのか?」


 冬吾は素直に自分の意見を述べた。禊屋は頷く。


「そうかもね。彼女と一緒にいた可能性が一番高い人物なわけだし。死体の様子からして死後二日から三日は経過していたから、殺されたのは長良組でお金が盗まれていたことが発覚した前後だね」


 つまりその後……長良組が暮野と花凛の関係に気がついた頃には、既に花凛は殺害されていたのだ。


 気温の低い日が続いていたせいか、遺体がほとんど腐食を起こしていなかったのは冬吾にとって幸いだった。これが真夏の出来事だったら、一生忘れることのできない光景を見る羽目になっていたかもしれない。


「長良組から金を盗んで、二人で逃げるつもりだった。しかし仲違いを起こして暮野は涼城さんを殺害、そして逃亡……うぅん、『いかにも』なストーリーだよね」


 禊屋は両腕を組んで言った。


「そうは思わないって言いたいのか?」

「うーん……別にそういうんじゃないけどさ。面白みがない、とは思うよねー」

「面白みね……」


 たしかに、その通りなら何の捻りもない展開だとは思う。だが、現実とは得てしてそういうものではないか?


「そーだ。一応、あの白スーツのおじさんに連絡しておかないとね。協力するって約束しちゃったわけだし」


 禊屋はコートのポケットから携帯を取り出して電話をかける。いつでも連絡できるように番号は前もって交換しておいた。少ししてから、天内が応答する。


『おお、禊屋サンかいな? なんかあったんか?』


 携帯での会話は隣の冬吾にも聞こえる。


「いやー、ちょっと大変なことになっちゃってねー……」


 禊屋はこれまでの経緯をかいつまんで天内に伝える。


『――そらまた、厄介なことになっとるようやな。ようわかったわ。ほんで、その部屋に暮野のその後の足取りがわかりそうなもんはなかったんやな?』

「うん。残念ながらね」

『そうか。まぁ、涼城を殺したんは暮野のやつでまず間違いないやろ。それはそれとして、今、暮野がどこにいるのかさっぱりわからへんのが問題やなぁ』

「そっちは暮野って人のヤサを当たってみるって言ってたけど、成果はナシ?」

『昨日となーんも変わりなかったわ。こらもうこの町にはおらへんのかもしれんな』

「でもそーなると、捜し出すのってかなり大変じゃない?」

『大変やろうが関係ないわ。これは金の問題だけとちゃう。長良組のメンツにかけても、あいつはなんとしてでも捜し出して、ぶっ殺さなあかんのや』


 凄みを効かせた声で天内は言う。


『ところで、禊屋サンはこれからどないするつもりや? 依頼はたしか、涼城を捜せってだけなんやろ? もうこれで手を引くんか?』

「んー、依頼人次第かな。個人的には、このまま終わるのはちょっとすっきりしないケド」

『ま、わしらとしては、ナイツの協力があれば心強いんやけどな』


 現在、乃神が依頼人に対してこのことを連絡しているところだ。乃神が戻ってきたら、冬吾と禊屋がこの先調査を継続するか否かがわかるはずである。


『――ああ、そうそう。さっきも言おう思うて、結局忘れとったんやけどな。それくらい些細な、どうでもええことなんやけど』


 天内はいくらか明るい口調で話題を切り替えた。


『最近、朱ヶ崎で妙な噂が流れとるのは知っとるか?』

「ミョーな噂? ……なにそれ気になる!」


 禊屋は俄然、興味を惹かれたような顔になった。


『暮野と涼城について聞きまわってるうちに、何度か耳にした話なんやけどな。深夜の朱ヶ崎に、「天狗」が徘徊しとるらしいわ』


 天狗……? 何を言っているのか、よくわからない。


「わお! そりゃすごい!」


 すごいという反応もちょっとズレてる気がする……。


『少し前からいくつか目撃例があってな。そいつは全身真っ黒のマントを羽織っとるらしい。あのーほら、シャンシャンなるやつ、錫杖いうんか? あれを持っとるから、黒っぽい恰好と合わせて托鉢僧か何かに見えんこともないらしいけど。せやけど、目撃されとるんはもう日付も変わった時間帯やし、そもそも、朱ヶ崎みたいなとこで坊さんがふらふらしとるゆうのもおかしいわな。そんでよう見てみると、そいつは赤い天狗の面を被っとったらしいわ。深夜の朱ヶ崎に現る、怪人物というわけや』

「ふぅん。黒マントに天狗のお面、ね……。その人、そんな恰好でいったいなにしてるんだろう?」

『さぁなぁ。見た奴はもれなくびびってもうてすぐ逃げ出しよるから、そいつが何者なのかはわからん。目撃例が出始めたのはひと月かふた月ほど前からや。わしもこれが暮野のことと何か関係あるやなんて思うてへんけど、他にこのあたりで変わったことと言うたらそれくらいでな。妙に気になったから、一応あんさんの耳にも挟んでおこう思たんや』

「なるほどね、一応覚えとくよ」

『こっちの話はそれくらいや。まぁ、そっちでまたなんかわかったら連絡してくれると助かるわ。ほなまた』


 通話が終了する。


「それにしても、天狗って……」


 冬吾としては、突拍子がなさすぎてピンと来ない話だ。


「あたしは興味あるよ。おもしろーじゃん、わけわかんなくて。ついでに調べてみるのもいいかもね」


 禊屋はわくわくしている様子だ。


「事件に関係あるとは思えないけどなぁ」

「そんなもんまだわかんないじゃん? こういうことこそ、意外と事件の根っこの部分に繋がってたりするんじゃないかな。カンだけどさ」

「カンかぁ……」


 せめてもう少しばかり論理的なものを当てにしたいところだ。


「だってだって、天狗姿の怪人だなんて、これはもう探偵としては無視できないでしょ。絶対なにか関係あるよ。あるはず。あたしが今決めたから間違いない!」


 なんというか、もう無敵という感じだ……。


 そのとき、禊屋の視線が動いた。部屋の外にいた乃神が戻ってきたのだ。依頼人への連絡はとれたのだろうか。


「乃神さん、どうだった?」

「電話で依頼人にこのことを報告してきた。可能ならば犯人を見つけ出してほしいとのことだ。特定後の犯人の生死は問わない、ともな。追加報酬は出すと言っている。既にこちらで引き受けておいたが、問題ないな?」

「ん、おっけい!」


 禊屋は手の親指と人差し指で輪っかを作って答えた。


 冬吾としても、調査の続行はやぶさかではない。このまま打ち切られてしまっていたら、消化不良もいいところだった。


「でも禊屋。犯人の手がかりなんてあるのか? この部屋もあちこち調べたけど、それらしいものは見つからなかったし……」


 禊屋は手で髪をぼさぼさと弄る。


「そーそー、それなんだよねぇ。今の段階では、犯人を特定なんて気が遠い話だよ。せめて暮野って人の居場所さえわかればなぁ。彼がこの事件と関係していないとは思えないし」


 すると、乃神が言う。


「暮野とやらの居場所はわからんが、犯人の手がかりなら見つけられそうだぞ」

「んん? どーゆーこと?」


 乃神の背後の陰から、また別の声がする。


「ふふーん。また私の出番のようね、お姉ちゃん?」


 アリスがひょっこりと顔を出した。


「出番って……君が手がかりを見つけてくれるのか、アリス?」


 冬吾が彼女に尋ねると、嬉しそうな顔が一転、シベリアの凍土のように冷たくなる。


「……気安く名前を呼ばないでくれるかしら?」

「うぅ……すまん」


 なんなんだよもう……。


「で、どういうことなの? アリス」

「あ、あのね……!」


 禊屋に尋ねられるとまたぱっと表情が変わる。少女とはいえ、なかなかの曲者である。


「部屋の入口を撮ってる防犯カメラがあるんだけどね。その映像の記録を私のパソコンで見られるようにしたのよ!」


 アリスは小脇に抱えたパソコンを見せつけるようにする。


「防犯カメラかー。そういえばあったね、そんなの」


 禊屋は気がついていたようだが、冬吾はそんなものがあったということを今知った。


「――っていうか、そんなことできるの!? アリスすごいっ!」

「えへへー」


 アリスはかっこつけるようにハンチング帽のつばを指先でひょいと持ち上げた後、誇らしげに胸を張る。


「カメラ本体を経由して記録を保存しているサーバーにアクセスしたの。あくびが出るほど簡単だったわ。元々はお姉ちゃんたちが部屋に入った証拠を消そうと思ってしたことなんだけどね」


 カードキーの時と同じく、人並み外れたハッキングの技術を用いたのだろう。


「やり方はよくわかんないけど、とにかく、その映像に犯人は間違いなく映ってるってことだね。わーお! これは大きな前進だよーアリス!」


 禊屋がアリスを抱きしめる。


「あはは、苦しいよーお姉ちゃん」


 本当に仲が良いのだな、と冬吾は思う。こうしていると、本物の姉妹のようにも見える。


「おい、アリス」


 乃神が言う。


「いちゃつくのはいいが、その映像とやらを見せてからにしてくれないか」

「はーい」


 アリスは禊屋から離れ、抱えていたノートパソコンを開く。


「ここの防犯カメラの映像は撮影から一週間保存されてるみたい。古い記録から順に上書きされていくタイプ。とりあえず、三日前くらいから確認してみるね」


 花凛の遺体の状態からして、殺害されたのはその頃だったと思われる。つまり、その時間を調べれば部屋を出入りする犯人の姿が映っているはずだ。


 画面にカメラの映像が映し出される。廊下を俯瞰で映したもので、花凛の部屋はその一番奥に見える。映像の右下には日付と時刻が表示されていた。


「これが三日前……二十日の昼ごろの映像。あっ、出てきたよ」


 アリスが画面を指さす。一番奥の部屋から、花凛が姿を現した。一人だ。


「EMCに出勤しにいくところだろうね」


 禊屋が言う。


「じゃあ、帰ってくる時間まで飛ばすね」


 アリスはキーボードとパッドを操作して映像を先の時間へと早送りで進めていく。他の部屋の住人たちもそれぞれ部屋を出たり入ったりしているのが見える。花凛が戻ってきたのは、午後の七時前だった。


「あっ! これっ!」


 アリスが指差す先に、花凛と並んで歩くもう一人の人物の姿があった。身長は隣の花凛より少し高く、男性の平均くらいだろうか。その人物は、トレンチコートに中折れ帽子という出で立ちだった。


「……顔、見えないなぁ」


 禊屋が残念そうに言う。帽子を深くに被っている上に、コートの襟を立てているため、顔が隠れてしまっている。身体のシルエットもコートのせいで曖昧だが、おそらく男性であることは間違いないだろう。


「涼城はなにか持っているようだが」


 乃神が気づいて言う。花凛は大きなキャリーバッグを引いていた。外側にポケットなどが付いたソフトケース型で、キャスターが付いている。


「これって……長良組から盗まれた三億円かな?」


 禊屋が言う。


「三億円って、札束でもかなりかさばるだろ? このバッグひとつに入るもんなのか?」


 冬吾の疑問に乃神が答えた。


「そうだな……見たところ、バッグは百リッターほどのサイズだ。三億円の大きさはパッケージングされた札束で換算するなら三十リッターちょっとになる。まぁ、これなら充分入るだろう。重さはそれなりになるだろうが」


 なんだ、意外とそんなものか。三億円の大きさなどぱっと思い浮かぶものではないと思うが、そこは職業柄か。


 花凛は扉の鍵を開けて、コートの男と一緒に部屋の中へと消えていった。


「……ちょっと時間、進めるね」


 アリスが言って、また早送りにする。動きがあったのはそれから三時間後だった。


 コートの男が一人で部屋から出てきた。


「殺したか」


 乃神が言う。おそらく、そうなのだろう。相変わらず帽子で表情は見えないが、どことなく周囲をはばかるようにしていて、落ち着きが無いように見える。


「バッグを持ってるな。金を奪ったのか」


 部屋に入る際に花凛が引きずっていたキャリーバッグを、今度は男のほうが手に引いていた。


「むぅ……やっぱり顔、見えない……」


 禊屋は口惜しげだ。男はカメラの存在を警戒しているのかもしれない。


「一応、他のカメラでも確認してみよっか……」


 アリスは他のカメラで撮影された映像に切り替えていく。念入りに調べてはみたものの、男が花凛と一緒にマンションに入ってきてから、退出するまでの間、カメラの映像にその顔をはっきりと映し出す瞬間はなかった。そして、それ以降花凛の部屋に出入りする者はいなかったので、少なくともこのコートの男が涼城花凛を殺害した犯人であるということは間違いなさそうだった。


「それより前の日はどうだ? カメラの映像の保存期間は一週間と言ったな。その間に男が部屋を訪ねていたなら、顔が映っている可能性がある。それがこのコートの男と同一人物であるとは断定できないだろうが、手がかりにはなるはずだ」


 乃神の提案にアリスは頷いた。


「わかった。ちょっと待って……」


 アリスはパソコンを操作し、一週間分の映像記録を順次早回しで再生していく――が、結果は芳しいものとは言えなかった。三日前以外の日に部屋を出入りしたのは住人である花凛のみ。念のために一昨日、昨日、今日の分も合わせて調べてみたが、花凛はもちろん、訪ねてくる人の姿も映っていなかった。


「……ごめんね。お姉ちゃん。こんなんじゃ、役に立たないね……」


 しょんぼりとして、アリスが言う。


「なんでアリスが謝るのー?」


 禊屋は少女の頭をくしゃくしゃと撫でる。


「たしかに顔は映ってなかったけどさー。これでも重要な手がかりには変わりないよ。というかむしろ、あたしにとっては充分すぎる! みたいな?」

「ほんとに?」

「うん! アリスのおかげで大きく調査が進んだんだよ。ありがとね」

「……うん」


 アリスは小さく頷いた。


「それで、どうする?」


 乃神が言う。


「今日はもう時間も遅いが……帰るなら支社まで送ってやらんこともない」

「そうだなぁ……」


 禊屋は部屋の時計を確認する。午後十時前。遅くなると連絡してはあるが、そろそろ帰らなければ、妹が心配するかもしれない。そんなことを考えていると、禊屋がこちらを見ているのに気がついた。


「どうした?」

「キミは先に帰ってていいよ。乃神さんに送ってもらいなよ。あたしはもうちょっとだけ調べておきたいことがあるから」

「待てよ。それなら俺も付き合うぞ」

「いいっていいって。別に危ないことするわけじゃないし。一人でじゅーぶん」


 禊屋は手をひらひら振って言う。


「いや、でも……」

「灯里ちゃん、心配するでしょ? 早いとこ帰ってあげなよ」


 彼女にはなんでもお見通しのようだ。しかし……。


「……やっぱりダメだ。先に帰るなんてできない。危なくないだなんて、信じられるかよ。この前だって、予想もできないようなことでお前は死にかけたじゃないか。事件のこととはまた別に、お前の存在そのものを危険視する連中だっているんだぞ」


 禊屋は気まずそうに視線を下げる。


「ん……まぁ、それは……そうだけどさ。あんなこと、そうそうあるもんじゃないって」

「馬鹿言うな。少しでも可能性があるなら無視すべきじゃない。死んだらそれで終わりなんだぞ? わかってるのかよ、ほんとに?」

「わ、わかってるよ……」


 禊屋は口を尖らせつつ、髪の毛先を弄っている。……いかん。なんだか説教みたいになってしまっている。


「……とにかくだな。俺が先に帰ったとして、もしもその間にお前の身になにかあったら、俺は一生後悔する。そんなのは御免だ。だから最後まで付き合う。もう決めたからな」

「んもぅ、頑固なんだから……せっかく人が気を利かせてあげたのに」


 頬を膨らませて禊屋が言う。


「そんな気遣い無用だよ。だって……」


 言葉に詰まる。こういうことは、改めて口にしようと思うと結構恥ずかしい。


 禊屋が首を傾げて尋ねる。


「だって、なに?」

「……なんでもない。それで、どこ行くんだよ?」

「うん。一度EMCに戻ってみようと思って。佐渡さんや啓恵ちゃんあたりにさっきの映像見せたら、なにか心当たりがあるかもしれないじゃない?」


 一理ある。人を訪ねるには非常識な時間かもしれないが、EMCという店の業種からして、この時間でも余裕で営業時間内だろう。


「どうするか決まったか?」


 乃神が声をかけてくる。冬吾は頷いて、


「乃神。もう一度EMCまで連れて行ってくれないか? 車でなら五分もかからないだろ?」


 乃神はため息をついた。


「別に構わんが……それより、お前」

「なんだ?」

「さらっと呼び捨てにするんじゃない。お前より立場は上だということを忘れるなよ、野良犬が」

「そーでしたか。すみませんね、乃神サン」


 乃神が舌打ちをしたが、それ以上はなにも言ってこなかった。二週間前に受けた恨みつらみがそうさせるのだろう、乃神に対しては平気でこういう物言いができてしまう。


「……ねえ、あなた」

「ん……?」

「あなたよ、トーゴ」


 アリスが自分のジャンパーの袖を引っ張っていることに気がつく。向こうから話しかけてくるとは、一体どうしたのか。


「どうした?」

「ちょっと、こっち来て」


 袖を引っ張られ、禊屋からも離れた部屋の隅に移動する。


「――お姉ちゃんのこと、しっかり守ってあげて」


 冬吾にしか聞こえない声で、少女はそう言った。


「あなたの言うことは、合ってるわ。お姉ちゃんのことを狙う不届き者が、この世界にはたしかにいるのよ。お姉ちゃんのせいで不利益を受けるような連中のことね。それなのに、お姉ちゃんは自分の身を守ることに無頓着で……正直、今まで死なずにすんだのは、運が良かっただけなのよ」


 彼女自身、そう話してくれたことがある。命の危機に陥ったのは二度や三度ではないと。アリスは心底心配そうな表情で、続ける。


「私じゃ、お姉ちゃんを守れないから……あなたみたいな雑魚素人でも、私よりは強いはずだもの。だからしっかり守ってあげて。……お願い」


 言い方に少々気になるところがないではないが、少女の禊屋のことを心配する気持ちは本物だ。それは、痛いほど伝わってきた。


「……任せとけ。いざという時は、やれるだけのことはやってみるさ」

「……やっぱり、なんだか頼りないわね」

「おいっ!」


 彼女から認められるには、まだ時間がかかりそうだった。


「ノラー? なに話してるの?」


 禊屋が近づいてくる。アリスがぱっと冬吾の側を離れた。


「どしたの? もしかして二人とも仲直りできた?」


 アリスが首を横に振る。


「仲直りなんてしてないわ! ちょっとしつけをしてただけよ」


 ……ひどい。ひどすぎる。


「仲良くしてくれたほうがあたしとしては嬉しいんだけどなぁ。まぁいいけど。それより、先に外で待っててくれって乃神さんが。もう少しだけ部屋の後処理にかかるみたい」

「ああ、わかった」


 アリスは乃神の元から離れてはならないらしいので、冬吾と禊屋の二人だけでマンションを出る。マンション外は駐車場までライトが点在しているが、この時間となると他に人の気配もなく、ひっそりと寂しげだった。夜風に吹かれて、禊屋が身を縮める。


「うおー寒いー! まだ十月なのにこの冷え込みよう……この調子だと四月くらいには毎日吹雪かもねー」

「はいはい……」


 禊屋は上にコートを着てはいるが、下はショートパンツで脚を殆ど露出させた恰好なので寒いのも当然だろう。耐えかねたのか、禊屋はコートの前のボタンを留めることにしたらしい。


「……それ」

「ん?」

「結構、古いよな。新しいやつ買わないのか?」


 垢抜けた服装を好む禊屋にしては、愛用しているらしいそのモッズコートだけがどこか浮いているように見える。サイズが大きめで見た目にも野暮ったい。かなり使い古されているようで、カーキ色もところどころ色落ちしてしまっている。


「ああ、これね」


 禊屋はボタンを留めながら話す。


「貰い物なんだ。大切な人からの」

「大切な人って?」

「誰でしょー?」

「……親とか?」

「ブッブーはずれー」

「……わからん」

「だろうねー。当てさせるつもりないし」

「なんだそりゃ」


 ともかく、彼女にとっての思い出の品らしい。それでずっと愛用してきているのだろう。禊屋はボタンを留め終わると、冬吾のほうを向いて言う。


「――さっきはありがとね」

「……なんのことだよ?」

「こうしてわざわざ付き合ってくれたこと! さっきはお礼言い損ねちゃったから。キミがあたしの心配してくれてるってわかって、実は、けっこー嬉しかったよ」


 ……そういうことをストレートに伝えてくるのは、勘弁してほしい。冬吾はなんだか逃げ場がなくなったような気がして、目を逸らしながら答えた。


「……だから、いいんだって。そんなこと気にしなくても。灯里には遅くなるって伝えてあるんだし。俺が最後まで付き合うのは、むしろなんていうか……そう、当たり前みたいなもんだ」

「そっか。……うん、そーだね。だって……あたしとキミとは、相棒同士だもんね?」

「……まぁ、そういうこと」


 禊屋はそこでいたずらっぽく笑って、


「さっき言いかけてやめたのって、このことでしょ?」

「ぐ……わかってて言ったのか……」


 恥ずかしいからあえて言わなかったのに。意地が悪い。


 禊屋が笑うのを眺めながら、冬吾はぼんやり考える。何も危ないことなど起きずに済んでしまえば良いのだが……。








 午後十時半を少し過ぎた頃、冬吾と禊屋はEMCへと戻ってきていた。店は〇時までは営業しているとのことだ。


 店に入るなり、佐渡が出迎えてくれた。ここへ来る途中、事前に連絡をしていたのだ。


「お待ちしておりました。禊屋さんと……ええと、ホラさんでしたっけ?」

「ノラです。ホラ吹き男みたいで嫌ですね、それ」

「あ……これは失礼しました」


 冬吾と禊屋は店長室へと通される。前と同じく二人がけのソファチェアに座ると、佐渡が切り出した。


「それで……例の話は、本当なのですか?」


 冬吾が答える。


「……はい。涼城花凛さんは、自室で何者かに殺されていました」


 佐渡はショックを隠し切れないように、大きくため息を吐いた。


「まさか、死んでいただなんて……かわいそうに」

「それ……ほんとう……なんですか?」


 後ろの扉から啓恵が出てきて言った。


「アンちゃん。聞いてたのか?」

「す、すみません、店長。さっき、禊屋さんと電話で話すのが聞こえたので……」


 アン、というのは啓恵の源氏名らしい。苗字である安土の安から取っていたりするのだろうか。


「スズさんがどうして……なんで、殺されたんですか!?」

「ごめんね」


 禊屋が言う。


「それはまだ話せないんだ。まだはっきりとしてないことが多すぎるからね」

「そう、ですか……」


 啓恵にしても、相当なショックだったようだ。花凛のことは職場の先輩として慕っていたらしいから、当然だろう。


「でも、ちょーどよかったよ。啓恵ちゃんにも見てもらいたいものがあるんだ」

「……なんですか?」


 禊屋は携帯を取り出して、例の防犯カメラの映像を映し出す。事前にアリスから転送してもらっていたものだ。


「……ここ」


 禊屋は画面上、花凛の部屋に入ろうとするトレンチコートの男を指さす。


「この男が涼城花凛を殺した犯人のはずなんだけど……心当たりないかな?」

「心当たりと言われましても……顔が見えませんし、これでは……」


 佐渡の言い分は至極もっともだ。この映像だけでなにかがわかるとは思えない。


「啓恵ちゃんはどう?」

「私もちょっと……すみません」


 啓恵は申し訳無さそうに頭を下げる。


「んー、やっぱ難しいか……」


 禊屋は頭を掻く。


「仕方ないな。出直そう」

「はー、ざんねん……」


 肩を落とす禊屋を連れて部屋を出る。


「――それじゃあ、また明日にでも来ます」


 店を出たところで、冬吾が言う。見送りにきた佐渡が丁寧に頭を下げた。


「ええ、お待ちしております。調査の進展を祈っております」


 挨拶を交わして、店を後にする。


「これといった成果なしかぁ。つらいなー」


 禊屋が歩きながらぼやく。


「今日調査を始めたばかりなんだから、そう焦る必要もないんじゃないか?」


 それに当初の見通しからすれば、殺人にまで事態が発展しているというのは、かなりイレギュラーな出来事だと言っていいだろう。一日そこらで解決できると思うほうが間違いなのだ。


「ところで、帰りはどうするんだ? タクシーでも呼ぶか?」

「織江ちゃんが迎えに来てくれるだろうって乃神さんが言ってた。夕方寝ちゃったから眠くないんだと」

「ああ、そう……」


 禊屋は携帯で織江に連絡を取る。少し話してから、通話を終えた。


「なんかね、ちょうど買い物に出てたところだからちょっと時間かかるってさ」

「じゃあ、どこかで時間潰すか」

「と言っても、このへんいかがわしいお店かお酒飲む場所しかないしなー……おっ?」


 禊屋が突然振り返る。すれ違った壮年の男性を目で追っていた。


「どうした?」 

「今、向こうに歩いて行った人……」

「あの人が、どうかしたか?」

「厚乃木建設の社長さんだよ、あれ」

「厚乃木建設って……長良組に賄賂を渡してたっていう、あの厚乃木建設?」

「そう。さっき移動中の暇な時にケータイでどういう会社か調べてたんだけどね。そこに社長の写真があったから憶えてた……名前は、厚乃木道輔(こうのぎみちすけ)」


 厚乃木はEMCのある方向へ向かっているようだった。


「もしかして、あの人もEMCの客か?」

「……そうかも。ちょっとインタビューしてみる必要、ありそうだね」

「追いかけるか?」

「待って。せっかくのチャンスだから確実にいきたいの。まずは店に入るのを待とうか。そうすれば逃げられないよ」

「それはいいけど……こちらが質問しても素直に教えてくれるかどうかはわからないぞ。そもそも、どうやって話を訊き出すつもりだ? 一応長良組と繋がりがあるとはいえ、相手は一般人だろ? ナイツの名前を出しても通じるかどうか……」

「ふむ、そこがちと問題だね。一般人相手に無闇にナイツの力を使うのは避けたいし、穏便に済ませたいよね。うぅん……どうしようかな……」


 禊屋は眉間を指でさすってしばし考えた後、顔を上げた。


「――よし。これでいこう。キミ、ちょっと手伝ってね」


 冬吾はなんだか嫌な予感がした。禊屋が悪巧みをするときの笑みを浮かべていたからだ。








 ――EMCの店内。プレイルームの扉が開く。


「――ふふ、厚乃木さん? 来てくれてありがとう。お話、訊かせてもらえるってことだよね?」


 佐渡に頼んで、空いている部屋を使わせてもらうことにしたのだ。禊屋はこの部屋を指定して、厚乃木を呼び出した。


「美人の誘いは断らないようにしてるんだ。それに、あんなこと言われたら無視するわけにはいかないだろう?」

「あんなことって? あ、ここ座って」


 禊屋はベッドを叩いて、厚乃木に隣へ座るよう促す。


「どうして……君みたいな女の子が、我が厚乃木建設と長良組との関係を知っているんだね?」

「だから、言ったでしょ? こう見えてもあたし、探偵なの。そのくらいのこと、簡単に調べ上げられるんだよ」


 たしかに、嘘は言っていない。


「むぅ……」

「大丈夫、安心して? べつに厚乃木さんのこと脅そうとか、そんなこと考えてないから」


 考えていないだけで、そのつもりになれば可能であることは匂わせておく。巧妙だ。


「……それで、私に訊きたいことというのは?」

「細かい事情は話せないんだけど、あたしは今、涼城花凛って人を捜してるんだ」


 既に彼女が亡くなっているということは伏せておくつもりらしい。


「涼城? 誰だ、それは?」


 禊屋は、涼城花凛がEMCで働いていたということ、長良組の暮野と共謀して金を盗み出した疑いがあることをかいつまんで伝えた。


「ああ、スズのことか! そりゃあこの店で一番人気だった女だ、もちろん知ってるとも。何度か指名したことだってあるぞ。しかし、まさか失踪していたとは驚きだな。その、暮野って男が仕組んだことなのか?」

「どっちが主導していたのかはまだわかってないの。厚乃木さんは、暮野って人と会ったことある?」

「いや、そんな奴は知らん。賄賂の受け渡しも、いつも決まった窓口係がいるからな」

「窓口係? それって、誰のこと?」

「天内とかいう。いつも派手な白いスーツを着た、関西弁を喋る男だ」


 見知った名前が出てきたので驚く。天内は長良組の窓口係として、賄賂の受け渡しに関わっていたようだ。厚乃木はさらに思い出したように続けた。


「……ふむ、それならあの時見たのはその暮野という男だったのかな」

「どういうこと? 見たって?」

「いや、前に一度、店の外でスズを見かけたことがあってな。人違いかもしれんと思って、気付かれないようにこっそり近づいてみたんだが、声や喋り方からして本人だったことは間違いない。こう、腕を組んで仲良さそうに歩いていたから、恋人だと思ったんだが」


 禊屋は俄に食いついた。


「それっ! 詳しく教えて! 見たって、どのくらい前?」

「なんだ? そんなことが知りたいのか?」

「そう! なんなら、情報料としていくらか払ってもいいよ」

「……そうだなぁ」


 厚乃木は考えこむような声を出す。


「どう、いくらで教えてくれる?」

「いや、金はいい。別のもので払ってもらう」


 声に下卑た響きが交じる。


「うーん? 別のものってなにかなぁ?」

「とぼけちゃいかんね。こういう部屋で話をしようだなんて、もとからそのことも考えてあったんじゃないのか?」

「あはは、バレた?」


 並んで座る厚乃木に対して猫なで声で言う。


「もーしょうがないなぁ……ちょっとだけだよ?」

「よぉし、契約成立だ」

「あっ」


 禊屋が声を上げて、ベッドが軋んだ。


「もぉ、いきなり押し倒すなんて乱暴だよ?」

「すまんすまん。もう辛抱たまらなくなってな」

「そんなに焦らなくても……ちゃあんと、してあげるから」


 破壊力のある一言だ。


「その前にまず教えて? 涼城さんを外で見たのって、いつのこと?」

「ええと、たしか、十九日だ」

「ふぅん……」


 花凛が失踪した日の前日である。


「脱がすぞ」

「はーい」


 衣擦れの音。厚乃木が禊屋のブラウスを脱がしていく。


「それで、んっ……最初はゆっくり触ってよね……。それでさ、その一緒にいた男の顔って、見た?」

「はっきりとは見てないなぁ。帽子を被っていたし」

「あっ、ん……もしかして、コートも着てた?」

「ああ、よくわかったな」

「それってさぁ……ひゃっ!? もう、そんなとこ舐めちゃダメ!」

「わはは、すまんすまん。……どうした? 携帯なんか取り出して」

「それって、こんな感じだった?」


 例の防犯カメラの映像だ。


「そうそう、そっくりだ。帽子のデザインもコートの色も、こんな感じだったな。……これ、何の映像?」

「ちょっとね…………」

「なんだか怪しいなぁ」

「んんっ! ふぁ……あっ、ちょっと……それ、いいかも」

「そうだろう? ほら、顔こっち向けて」

「待って。それはまだダメ」

「なんだよ。もう色々教えただろ?」

「これで最後! これだけ教えてくれたら、キスどころかなんでも自由にしていいよ」

「な、なんでも?」

「それこそ、最後までシてあげてもいいんだけど……?」


 ひそひそと、淫靡な響きを持たせて禊屋がささやく。まさに魔性という感じだ。


「よ、よし。何が知りたい?」

「その二人、どこを歩いてたの?」

「そんなことか。朱ヶ崎のホテル街だ。ほどなくして、『ニューウィンド』とかいうホテルへ入っていったが」

「オッケー、ありがと!」


 重要な情報を得られたことに満足し、禊屋はパチンと指を鳴らす。


「じゃ……こっち来て」

「それじゃあ、続きを……」

「好きよ、厚乃木さん。じゃあね」

「――えっ? じゃあね? がっ……!」


 バチッという音がして、それに続いてベッドから何かが転げ落ちる。


 ……もう大丈夫そうだな。


 冬吾がゆっくりとクローゼットの扉を開けると、ベッド脇の床の上で気絶している厚乃木の姿があった。


「……結局、一人でどうにかしたわけか」

「えへへ。ごめんね。せっかく狭いところに入っててもらったのに」


 禊屋がベッドの上で笑う。その手にはスタンガンが握られていた。


 厚乃木をこの部屋へ呼びつける前に、冬吾は部屋のクローゼットの中へ隠れるよう禊屋に頼まれた。色仕掛けを用いることになる展開は読めていたので、厚乃木が暴走するようならそれを制止するという役割だ。一応、ベッドのマットレスの端側にスタンガンを隠してあったのだが、禊屋はそれを使って一人で解決してしまったらしい。


 しかしなんともまぁ、男からすれば恐ろしい計略である。厚乃木社長には同情を禁じ得ない。


「それにしても、驚くほど上手くいったもんだな……」

「まぁねー。あたしがちょいと本気出せば、こんなもんだよー」

「それはよくわかったけど……その……」

「ん?」


 禊屋は首を傾げる。……ほんとに気がついてないのか? それともまた、自分をからかっているだけなのか……? とにかく、指摘せざるを得ない。


「服を、ちゃんと着てくれ」


 禊屋はブラウスをただ羽織っただけのような状態だった。薄ピンク色のブラジャーがちらちら見えて、目に毒だ。


「黙って楽しんどけばいいのに。ウブだねぇキミは」


 けらけらと笑いながら、ブラウスのボタンを留める禊屋。やっぱり気づいた上で、冬吾がどう反応するか様子を見ていたのだ。


「性格悪いぞ! まったく……このやり方だって、どうなんだ? 他になにか方法があったんじゃないのか?」

「なぁに? 怒ってるの?」

「怒っちゃいないけど……」

「……あ、もしかしてキミ」


 禊屋は立ち上がって、冬吾の前に立つ。冬吾の表情を窺うように顔を寄せて、


「あたしがやらしーことされたから、嫉妬しちゃったのカナ? ……自分もしてみたかった?」

「なっ……なんでそうなるんだよ!?」

「違うの?」

「違うっ。……大体、俺はそんなことに興味ない」

「えっ……」


 禊屋は驚いたように目をぱちくりさせる。すると、あからさまにうろたえながら、


「い、今……キョーミない、って言ったの? キミって……もしかしてそっちなの!?」

「ちげーーよ!!」

「えぇ……じゃあ、じゃあそれって、ただ単純にあたしにキョーミがないってことなの!?」


 ……別にそういう意味で言ったわけではないのだが。なんだか説明するのも馬鹿らしくて、後には引けなくなくなってしまった。


「……だったらなんなんだよ」

「……ふーん。そういうこと言うんだ」


 なにかスイッチが入ったかのような冷たい声。次の瞬間、


「うぉっ――!?」


 冬吾は禊屋に腕を引っ張られてベッドに仰向けに倒れこんだ。すかさず禊屋が冬吾の身体の上にまたがるようにのしかかり、挑発的な笑みを浮かべる。


「……ノラのくせに、ナマイキ」

「お、おのれ。なにをする……!」


 禊屋をどかそうと手を動かすが、禊屋に両手首を掴まれてベッドに抑え込まれてしまう。下腹部のあたりに乗られているため、力が思うように入らなくて、これでははねのけることもできない。すぐ目の前に禊屋の顔が迫る。


「さっきの台詞、撤回して」


 どうやら、自分は禊屋の自尊心を傷つけてしまったらしいことに今更ながら気がつく。しかし、ここで素直に撤回するというのもどうなんだ? いや、いっそいい機会じゃないか。こうなりゃ徹底抗戦だ。これを機に、からかわれ続けの関係から脱却するのだ!


「い……いやだ! 撤回しない!」

「しなさい!」

「やだっ!」

「……ふぅん? そこまで言うなら……試してあげる」


 静かにそう言うと、禊屋はそっと冬吾の首の後ろへ手を回す。ひんやりとした指の感触が首に当たった。


「なに――」


 なにをするつもりだ、という冬吾の言葉は途切れた。禊屋が身体を倒し、冬吾を上から抱きすくめるようにしたからだ。


「はっ……はぁ???」


 何が起こっている? 冬吾の脳は理解が追いつかないでいる。全身に密着して感じる禊屋の重みと体温、鼻先をかすめる髪の匂い、胸に当たる柔らかい感触……一度に色々な感覚に襲われ、何が何だかわからなくなった。


 そのまま数秒が経過する。


「ふふっ……顔、真っ赤だよ?」


 禊屋が耳元でささやく。


「素直に負けを認めるなら、このまましばらく抱きしめていてあげる」


 勝ち負けの話なのか……?


「どう? この感触、もっと味わっていたくない?」


 ……だ、ダメだ。負ける。心臓は張り裂けんばかりにどぎまぎしているというのに、この安心感はなんだ? 脳が溶かされているかのような心地だ。もっと、もっとこうしていたい……。


「……ま、まだだ。まだ負けは認めない……ぞ」


 殆ど気力だけで声を絞り出した。


「むー……それならこっちだって手加減しないんだから」


 禊屋の身体が離れていく。


「あ……」


 その瞬間、絶望と称するに相応しいほどの後悔が冬吾を襲った。


「ふふーん? やっぱりもっとしていてほしかったんじゃないのー?」


 禊屋はそう言いながら、ブラウスの内側へ手を入れて何かごそごそとしている。プチッと音がした。


「な、なにしてんだ!?」


 目を疑った。禊屋はブラウスの下から、ブラジャーを取り出したのだ。


「えへへー……びっくりした? はいっ」


 取り出した薄ピンク色のものを、冬吾の顔にかぶせる。


「うわっ!?」


 咄嗟に手でそれを掴んでしまう。温かかった。


「ほら、見て……?」


 禊屋は胸のあたりを強調するように冬吾へ見せつける。


「今ここ、なんにも着けてないんだよ? 布一枚通り越したら、もう裸なの。……わかる?」

「…………」


 言葉も忘れて、凝視していた。


「ふふっ……どーぉ? けっこー自信、あるんだけど?」


 それはもう、大いに胸を張れるのではないだろうか。


 禊屋はまた冬吾の耳元へと顔を寄せて、ささやいた。


「……触ってみる?」

「え? ……ええっ!?」

「顔真っ赤にしちゃって、かーわいい。もしかしなくても、キミって……ドーテーくんでしょ?」

「う、うるさい! どけってば!」


 無理矢理に身体を起こそうと身をよじって禊屋を振りほどこうとする。


「あぁんっ」

「うわ、変な声出すな!」

「いーのかなぁ、どいちゃっても? せっかくのチャンスなんだよ?」


 禊屋はそこでまた冬吾の耳元へ、更に声をひそめて言う。


「……オンナノコの柔らかさ、知りたくない?」


 ……何かが決壊する音を聞いた気がする。禊屋はそっと離れて、


「はい……どーぞ?」


 冬吾の眼前には、禊屋の胸がある。触っていい、と彼女はたしかに言った。だが、その甘言に乗ってしまえばそれはすなわち、冬吾は負けを認めたことになるのだ。そもそも、何が原因でこんな勝負になったかも、もうよく憶えていないのだが……負けるのはいやだ。


 でももう無理だ。人には耐えられる限界というものがある。自分はもう充分頑張ったと思う。相手が悪かったのだ。ここで潔く負けを認めたとして、それを恥だと罵る者が果たして存在するだろうか?


 導かれるように、ゆっくりと右手が動いていた。そして、あともう少しで触れようかというところだった。


「あっ」 


 ……こんなひどいことってあるか? あんまりじゃないか。


 禊屋の手が、冬吾の右手首をしっかりと掴んでいた。関係ないが、痴漢の現行犯で捕まる瞬間とはこんな感じなのだろうかと冬吾は思った。


「えへへー。このスケベめー」


 会心の笑みを浮かべて、禊屋が言う。


「お……お前が言うなよ……」

「んふふ。それもそーだ。じゃあヘンタイさん同士だねぇ、あたしたち」


 禊屋はクスクスと笑う。なにがそんなに嬉しいのかわからない。


「勝負はあたしの勝ち。よって、これからキミは一生あたしに服従すること!」

「そんな勝負じゃなかっただろ!?」

「いやーほんとに残念だったね、キミ。負けた上に、触ることもできないなんてさ?」

「くっ……」


 いっそ、泣き出してしまいたいくらい惨めだった。


「……まぁでも、さすがにかわいそうだし……ちょっとだけおまけしてあげる」


 掴まれたままだった右手が不意に動いて、柔らかく質量のあるものに押し付けられた。


「――うわっ!?」


 驚いて、すぐに手を離してしまう。


「あー……もう離しちゃった。んー……キミってさー……なんかもうほんと、アレだよねー」

「あ、いや、その」

「べつに少しくらい楽しんでも怒ったりしなかったのに。ざんねーん、もうサービス終了でーす」

「…………」


 自分は、この時の後悔をあるいは一生引きずっていくことになるのではないかと、冬吾はそう思ったのだった。








 部屋を出ると、佐渡が心配そうな面持ちで待っていた。禊屋は成果を報告する。


「重要な証言を引き出せたよ。涼城さんと、彼女を殺した犯人は前に一緒にいるところを朱ヶ崎のホテル街で目撃されてる。明日にでも聞き込みをして、男のほうの顔を憶えてる人がいないか、調べてみるよ」

「おお……それはそれは、大変な成果じゃありませんか、良かったですね! ところで……厚乃木様のほうは?」


 禊屋は親指で後ろの扉を指して、


「中で寝てるよ」

「は……?」


 きょとんとする佐渡。そりゃそうだろうな……。


「じゃ、さすがにちょっと疲れたから今日はもう帰るね。見送りはいいよ」

「あ、はい。またのお越しをお待ちしております」


 佐渡が頭を下げる。禊屋は店の外へ向かって歩きかけてから一度振り向いて、


「あ、そうそう。厚乃木さんが後で起きたら、急に気絶したから禊屋さんが心配してたよって言っといて」


 いったいどの口が言うのか。急に気絶させたのはお前だろ。


「いい性格してるよほんとに」


 佐渡には聞こえないように言う。


「えへへ、褒めないでよ」

「……いい性格してるってのは別に褒め言葉じゃないからな?」


 どこまでポジティブなんだ。


 店を出たところでちょうど、禊屋の携帯に着信が入った。


『おー、遅くなって悪かったね。取引終わって今そっちに向かってるから。あと十分ちょっとくらいしたら店を出た先の通りで待っててくれるかー?』

「はいはーい了解」


 連絡はそれだけで、電話はすぐに切られた。


「取引って聞こえたけど……」

「なんかね、とある富豪が持つ六億相当のダイヤをナイツで買い取ることになってて、それに運転手として同行してたんだって」


 六億……長良組の三億の時点でもそうなのに、金額のスケールが大きすぎてついていけない。


「いや、待て。お前さっきはそんなこと言ってなかったぞ。静谷さんは買い物に出てるところだって言ってただろ? 俺はてっきりそのへんのコンビニにでも行ってるのかと思ってたよ」

「ダイヤの取引だって買い物には違いないし。一緒でしょ」


 一緒か? 本当に一緒か? それでいいのか? 自分と禊屋の間には価値観の大きな隔たりがあるようだ。


 指定通り、店を出たところの通りで織江の到着を待つ。時刻は既に〇時を過ぎていた。灯里はまだ起きているだろうか……。


 明日は学校祭の準備だとかで冬吾の通う大学は休みなので、一日中、禊屋についてあちらこちら回ることになるだろう。まずは、禊屋の言っていた通り、ホテル街の聞き込み調査だ。


「――寒いー……織江ちゃん、早くこーい……」


 禊屋はコートをしっかり着て、朱ヶ崎の夜の寒さになんとか耐えていた。この時間にもなると、さすがに通りは寂しげである。人の歩く姿は殆ど見られず、風の吹く音だけが聞こえる。立ち並ぶ大半の店は既に終業時間を迎えたようで、通りを照らす明かりもまばらだ。


「こう、すこーしだけ時間が余っちゃうと困るよねー」


 禊屋は身体を温めるように腕をさすったりしている。


「そうだな。ところで……べつに、店の中で待っててもよかったんじゃないのか?」

「ああっ!? ……それ、もっと早く言ってくれないかなー? 一度出ちゃったら戻りづらいじゃん」

「す、すまん……」


 いや、つい謝ってしまったけど俺は悪くないじゃないか。 


「ねぇねぇ。暇だからさ、なんか話してよ」


 禊屋が冬吾の腕をつついて言う。


「ええ? 困るぞ、そういうの」

「なんでもいーから、お願い」

「そう言われてもな……」

「じゃ、あたしが話題考えてあげる。んーとねー……」


 禊屋は少し考えてから「そうだ」と何か思いついたように言った。


「ちょっと気になってたことあるんだよね。キミのことで」

「なんだ?」

「夕方、車の中で話したとき。キミ、自分だけが助かるのは嫌だ、って言ってたよね」

「それがどうかしたか?」

「あの時……なんていうのかな。キミさ、すごく悲しそうな目をしてたんだよ」

「……俺が?」


 自分では気がつかなかった。


「うん。だから……なんとなくわかっちゃった。昔なにかあったんだろうなって」

「……あったよ。それを話せばいいのか?」

「あー……でも嫌なら別にいいよ。ええと……ほら、ただの興味本位でってだけだし?」


 禊屋なりに気を遣っているのか、どことなく言葉の歯切れが悪い。それがなんだかおかしくて笑ってしまう。


「な、なにっ? なに笑ってんの?」

「いや、なんでもない。……いいよ、話す」


 冬吾はふと、空を見上げた。あの日に見た空と、よく似ている。自分を飲み込んでしまうのではないかと思うほど、深く、暗い、星一つない空。


「俺が十歳の時だった。今からちょうど九年前だな。学校が休みの日で、俺と灯里は家にいてさ。昼間、家に誰かが訪ねてきた。親父はいつも通り仕事に出てたから、俺が代わりに玄関へ出て、扉を開けたんだ。……三人くらいだったかな。スーツ姿の男が立っていた。いきなり刃物を向けられて、殴られた。子どもの力じゃ敵うはずもない。……俺と灯里は、誘拐されたんだ」

「誘拐……?」 


 禊屋は驚いたようだった。


「気がついたら、畳の部屋にいた。プレハブ小屋っていうのかな、そんな感じの狭い建物の中だ。小さな個室に落下式の簡単なトイレがあるだけで、他には何にもない。部屋の中には、俺と灯里の他にもう一人、女の子がいた。麻里亜(まりあ)って名前の女の子。灯里より一つ歳上の六歳だって言ってたけど、その割には落ち着いていて大人びたところのある子だったな。麻里亜も、俺たちと同じく誘拐されてきた子どもだったんだ。俺たちはその部屋の中に監禁された。入り口の扉は外から鎖と南京錠で、窓も鉄板で覆われて封鎖されていた。外の景色が見えないから、そこがどんな場所で、今が何時なのもわからない。ただし、時間を知るチャンスはあった。一日に一回だけ、俺たちを誘拐した連中の仲間が二人組で食料と水を届けにくるようになっていたんだ。その時には扉が開けられるから、外の明るさを見て今が大体何時くらいか知ることができる。扉が開けられたその隙に、逃げ出せやしないかと考えもしたけど、やめておいた。大人二人から逃げ切れるとは思えないし、そいつらが銃を持っているのを俺は見ていたから。そいつらは『飯だ』とか『おとなしくしておけ』とか言うだけで、なんで俺たちが誘拐されたのかとか、自分たちの正体に関することだとか、肝心なことは何も教えてくれなかった。……いや、他にも言っていたな。『本当は三人もいらない。逆らったら殺す』。……わかるか? 人質は一人いれば充分だから、反抗的な奴は容赦なく殺すぞ、って脅してきたんだ。だから俺たちは、待つしかなかった。助けが来てくれることをただ祈って」


 禊屋は彼女にしては珍しく神妙な面持ちで、黙って話を聞いていた。冬吾は続ける。


「――その特殊な状況が、心理的に作用した部分もあると思う。誘拐された者同士、麻里亜と俺たちはすぐに打ち解けた。お互いに家族のことや、好きなものの話をした。俺たちの父親は刑事だから、必ず助けに来てくれるはずだ――なんて麻里亜を励ましたら、向こうの父親も警察の人間だったらしくて、妙な親近感が湧いたりもした。心細さや寂しさはもちろんあったけど、そうした感情を共有できる相手がいたことは、俺たちにとって不幸中の幸いだった。今思えば、子どもなんだからもっと自分の置かれた状況に怯えて、日がな一日泣いていてもおかしくなかったんだろうけど、不思議とそういうことはなかったな。その頃の俺たちにとっては、あまりに現実離れしすぎていて、却って恐怖心も薄かったのかもしれない。ああ、でも灯里はかなり泣いていたっけ。まぁ、あいつは元々よく泣く子どもだったんだけどさ。最初は俺が泣き止ませてたんだけど、段々その役目は麻里亜に奪われた。女の子だからってのもあったのかな、灯里より一つ歳上なだけなのに、麻里亜は俺よりそういうのが上手かった」

「……灯里ちゃんがいたから、キミや麻里亜ちゃんはそのぶん気丈であろうとしたのかもね。心配させないように」


 禊屋の言葉に、冬吾は頷く。


「ああ、それはあったと思う。そういう気持ちがあったから、自分を強く保てた。だからさ、俺たちはこの三人でいる限り、どれだけ長く監禁させられていたとしても、耐えられそうな気がしてたんだ。風呂に入れないのはキツいけどな」


 冬吾は笑って言ったが、禊屋は真剣に聞き入っていてくすりともしなかった。


「――異変が起こったのは、監禁四日目からだった。一日一回届くはずの食料と水が、来なくなった。運ばれてくる食料は、保存食みたいなものが多くて味はいまいちだったけど、量だけは多かったから三日の間に多少の蓄えができていた。水も同じで、ペットボトルに入れられていたから余った分が少し残っていた。俺たちは、それらを少しづつ消費して食いつなぐことにしたんだ。だが、いくら待っても新しい食料と水は運ばれて来なかった。誰も来ないから、何日経ったのか時間もわからない。でも、俺たちもさすがにおかしいと気がついた。大きな声を上げてみたりもしたが、反応はなかった。まさか、自分たちの存在を忘れられてしまった? そんなわけはないだろうと思いつつ、それを確かめる術もない。正直、不安でたまらなかったよ。このまま助けが来なければ、俺たちは餓えて死んでしまう。それに、大きな問題がもう一つ起きていた」

「大きな問題?」

「……麻里亜が熱を出していたんだ。元々、あまり身体の強い子じゃないらしかった。秋と冬の入れ替わりで、監禁部屋には空調がなくて少し冷えていたからな。加えて満足に食事もできなくなっていた……体調を崩すのも無理はない。俺は男で一人だけ歳も上だったから、自分の分を減らして麻里亜に多く食べ物と水を分けるようにした。でも、時間が経つにつれて、麻里亜は衰弱していった。なにかを食べる元気もないくらいに」


 未だにそのときの記憶は鮮明に残っている。弱っていく麻里亜を前に、何もしてやれない無力感を子どもながらに感じていた。まるで地獄だった。先に麻里亜だけでもいいから助けてやってほしいと神に願ったりもした。彼女の分の苦しみは自分が背負うから、と。


「……やがて食料が底をつき、その少し後に水もなくなった。それからしばらくして、やっと……やっと助けが来た。水がなくなってから、丸一日くらいは経ってたのかな。後で聞いたら、助けが来たのは俺たちが誘拐されてから七日目だったらしい。助け出されたとき、初めて建物の外の景色をまともに見たけど、山の奥深いところだったよ。どれだけ泣き叫んでも助けが来ないはずだ」


 そのとき自分を助けてくれた人たちの顔とか、その人たちが話していたことはよく覚えていない。だが、一つだけ覚えていることがある。空を見たのだ。自分で動くだけの力もなくて、抱えられて運ばれる間に見たのを覚えている。どこまでも広がる、真っ暗で冷たい夜の空。


 それを見て、何を感じたのだったか……。助け出されたことによる、安心感? それもあっただろうが、少し違った気がする。……とにかく、冬吾はその空を見て泣いてしまったことを記憶している。


「――これも後で聞いた話。誘拐グループは警察に恨みを持つ武装集団で、無茶な要求を警察側に飲ませるため、警察関係者の子どもを人質に取ったということだった。だけど、途中で仲間割れを起こして自滅。俺たちに食料が届かなくなったのはそのためだった。誘拐した本人たちが死んでしまったから、俺たちがどこに監禁されているのか捜し出すのに時間がかかったらしい。親父はその間、気が気じゃなかったんだろうな。俺と灯里が発見されて病院に運ばれたと知ると、すぐに駆けつけてきて、泣いてたよ。あの堅物な親父でも泣くことがあるんだ、なんて、おかしなことを考えていた覚えがある」

「……麻里亜ちゃんは、どうなったの?」


 聞きたくはない、だが聞かざるを得ない――そんな表情で、禊屋は言った。


「……死んだよ。助けが来た頃には、もう意識がなかった。すぐに病院へ行ったら、助かったかもしれなかった。ちゃんとした食べ物や充分な水を摂取していたら、助かったかもしれなかった。あるいは俺たちにもっと知識や能力があったら……助けられたかもしれなかった」

「……自分のせいだと、思ってる?」

「いや……そうじゃない。どうしようもないことだったと、わかってはいるんだ。……ああ、わかってるさ。だからこそ、自分の力が及ぶことなら、なんとかしてやりたいと思うようになった……そんな感じかな」

「……そう。そんなことがあったんだね」


 禊屋は静かに言った。


「灯里ちゃんは、そのこと……」

「覚えてないよ。なにせ五歳の頃の話だしな。ショックも大きかっただろうから、そのせいもあるかもしれない。まぁ、覚えてなくて良かったと思う」

「そうだね……」


 禊屋は同意するように言って、髪を掻き上げた。


「ありがとう、話してくれて。思い出すの、辛かったよね」

「べつにいいよ。忘れたいと思ってるわけじゃないから」


 決して、忘れてはならないことだ。この痛みと一生付き合っていく覚悟ならば、もうある。


「……このこと、他人に話すのは初めてだったんだ」

「そうなの?」

「わざわざ人に聞かせるような話じゃないからな。それに、お前みたいにわざわざ首を突っ込んできたやつも初めてだった」

「うっ。ご、ごめん……」


 禊屋はばつが悪そうにする。冬吾は小さく笑った。


「でも……話してみて、少し気が楽になったかもしれない」

「そう……なら、良かったじゃん?」

「ああ」


 冬吾は頷いて、なんとなく携帯で時間を確認した。


「もうすぐ十分くらいになるけど……遅いな、織江さん」

「織江ちゃんの言う時間、あんまりアテにしないほうがいいよ。夕桜支社一の遅刻魔だから」

「まさかこの寒空の中で一、二時間待たされたりしないだろうな?」

「まぁ……それはさすがにないと思うけど。たぶん」

「やれやれ……ん?」


 冬吾は、いつの間にか禊屋が自分の顔をまじまじと見つめていることに気がつく。


「……なんだよ? 人の顔をじろじろと」

「いやー? じっと見てたらキミがどんな反応するのかなーっと」

「なんだそりゃ? ……おい、やめろって」

「んふふー、じぃーー……」

「こら――」


 禊屋にデコピンでもしてやろうと手を伸ばしかけたそのとき、風に紛れて別の音が聞こえた。


 ……シャン……シャン……シャン……と、鈴を鳴らすような音だ。


「なんの音だ……?」

「……ノラ。あれ」


 禊屋は声をひそめて、通りの向こう側を指さす。十数メートルほど離れた先に、『それ』はいた。


「あっ……」


 思わず大きな声を上げそうになるのをなんとか抑えた。


 ……天狗だ。夜の闇に溶け出すかのようなフード付きの黒衣に、血のように赤い天狗の面。鈴のような音は、右手に持った金色の錫杖から発せられるものだった。


「まじかよ……ハロウィンにはまだ早いぞ」

「というか、ハロウィンで日本の妖怪の恰好はしないんじゃない?」

「……そうかも」


 天狗に冬吾たちに気がついた様子はない。そのまま、冬吾たちから見て右側の路地へと入っていった。


「追うよ、ノラ!」

「ええっ!? なんで!?」

「あんな怪しいやつ、ほっとけるわけないじゃん! 事件に関係あるとかないとかそれよりも前に、あたしのカンが、本能が、あいつを追いかけろって言ってるの!」

「……仕方ないな」


 やめろと言っても、聞くようなタマではないだろう。冬吾は走りだす禊屋のすぐ後ろについて、天狗を追いかけた。


 路地へ入ると、そこに天狗の姿は既になかった。今夜は月が明るく、街灯のない路地側でもなんとか目が利いた。向こう側はまた別の通りに繋がっているのが見える。あまり清潔とは言えない一角で、空き缶、ペットボトルなどのゴミや建築廃材などが両端の壁際に無造作に積み重なっていた。


「あぁん、もぉ。……見失った?」


 禊屋は悔しげに言う。


 ……妙だ。路地へ入る前の天狗の移動するペースを考えたら、向こう側の通りに抜けるには早過ぎる。かといって、この路地に他にどこかへ繋がる道は……いや、一つある。


 冬吾たちから見て、右手側にむき出しになった非常階段があった。右側に建つ雑居ビルの裏にあたる位置だ。天狗はこの階段を……?


 階段の上のほうへ注意を向けようとした、その直前――冬吾は気づいた。影――月明かりによってぼんやりと浮き出された人の形をした影が、冬吾の分と、禊屋の分と、そして『もう一つ』。その影は、非常階段の影と重なるように連なっていた。


 かん、と金属を叩くような音が頭上から響く。思考より先に、本能が発する危険信号が、冬吾の身体を突き動かしていた。


「危ないっ!!」


 咄嗟に、目の前の禊屋を突き飛ばす。


「きゃあっ!?」


 禊屋へ覆い被さるような形になって、冬吾も一緒に道の上へ倒れこむ。その一瞬の後、二人の立っていた位置へ、天狗が『降ってきた』。その手に握られているのは、刃渡り一メートル強はあろうかという刀だ。非常階段の上で身を隠していた天狗が、飛び降りながら刀を振り下ろしてきたのだ。どす黒いまでの殺意を滾らせて。


 冬吾は戦慄する。……待ち伏せされた! 自分たちはまんまと釣り出されてしまったのだ。この天狗は、始めから冬吾たちをおびき寄せて、今のように不意打ちで殺すつもりだったに違いない。気づくのがほんの少し遅れていたら、今ので首を断ち切られていただろう。そう思うと、悪寒が全身を襲う。


「え……ちょっと、なに!?」


 さすがの禊屋も、突然のことに慌てふためく。


「立て! 逃げるぞ禊屋!」

「あっ……!」


 禊屋の手を引いて、向こう側の通りへ向けて走りだす。


 今のやり口でわかった。こんなやり方は普通ではない。相手はおそらく、殺しのプロだ。自分のような素人が敵う相手じゃない――それが、この一瞬で冬吾の下した判断だった。


 天狗の方は高所からの着地による衝撃でわずかに体勢を崩していたが、すぐにこちらへ向かってまたあの刀を振り下ろすに違いない。とにかく、逃げるしかない! 逃げなければ二人まとめて殺される!


 ――が、すぐに重大な問題が発生した。


「痛っ……」


 手を引いていた禊屋が後ろで小さく呟く。冬吾は振り向いた。後ろから迫ってくる天狗との距離は、ほんの数メートルだった。


「どうした、禊屋!?」

「……な、なんでもない」


 隠していても、わかった。禊屋の走り方に違和感がある。どうやら急に突き飛ばしたりしたせいで、足首を捻ったらしい。このままでは、すぐに追いつかれてしまうだろう。


「ごめん……やっぱりいい。置いていって」


 禊屋は弱々しい声で言った。このままでは足手まといになると思ったのだろう。


「できるわけないだろ、そんなこと!」

「もう、いいから……このままじゃ二人とも……」


 押し問答している場合ではない。この間にも天狗との距離は確実に詰まっていく。……どうやら、腹をくくる必要がありそうだ。


 路地の脇に青いポリバケツ型のゴミ箱があった。それをすれ違いざまに片手で掴み、闇雲に後ろへ向かって放り投げた。


「……ッ!」


 運良くゴミ箱は天狗に命中し、中身をその場にぶちまけた。これで数秒は時間が稼げただろう。


「行けっ!」


 禊屋の手を離し、通りの方へと促す。


「え……? な、なんで!?」

「先に逃げろ。あいつは……」


 天狗はごみを払いのけると、冬吾たちが立ち止まったのを確認し、警戒するようにゆっくりとこちらへ歩いてくるようになった。好都合だ。その間に冬吾は後腰に差したベレッタを抜き取り、スライドを引いて弾を装填する。


 当初の方針である「二人で逃げる」案は破棄だ。そして、禊屋が取ろうとしている方法も論外。禊屋を犠牲にして自分だけが逃げられるはずがない。今、自分たちが取れる方法の中で最良の選択は、これだった。


「あいつは……俺が倒す」


 二人が助かるには、これしかない。


「ばっ……バカ言わないでよ!」


 禊屋が叫ぶ。


「そんなこと――」

「いいから行けって!!」

「…………っ!」


 禊屋は通りへ向けてなんとか走りだした。これでいい。少なくともこれで、禊屋は助かる。あとは、自分が助からなければ。これが一番の難題なのだが……やるしかない。


 天狗は逃げ出した禊屋のほうへ注意を向けたようだが、それを冬吾は制止する。


「待てよ。お前の相手は俺がしてやる」

「…………」


 天狗は無言のまま、少しずつこちらとの距離を詰めてくる。見ると、天狗が持つ刀の柄は金色で、真鍮製のようだった。路地へ入る前の天狗は刀のようなものを持っていなかったことからして、おそらく、錫杖の中に刀身が仕込まれていたのだろう。いわゆる仕込み刀と呼ばれるものだ。鞘は持っていないところを見ると、路地へ入ってすぐに捨てたのかもしれない。


 身体のシルエットを頭まで覆う黒衣からしてそうであるが、恰好の全てが天狗のイメージに沿ったものというわけではないようだった。両手には黒い手袋をはめているし、足元は下駄ではなく、普通の運動靴だ。このあたりは機能面を重視しているのだろうか。


「あんた、何者なんだ? なんで俺たちを殺そうとする?」

「…………」


 天狗は横向きに転がっていたポリバケツの前で立ち止まった。冬吾の質問には答えず、ゆっくりと、刀を持つのとは逆の手である左手を上げた。人差し指を立てて、チッチッチ、と振る。


「……もしかして、『お前じゃ相手にならない』って言いたいのか?」


 天狗は頷いた。


「ああ、たしかにそうかもな……」


 余裕そうにしているが、相手からは一分の隙も感じられなかった。研ぎ澄まされた殺気、とでも言うのか。相対しているだけで、気圧されそうになってくる。距離は充分、相手の武器は刀のみ。銃を持っている自分の方が有利なはずなのに、まるでそんな気がしない。相手との、踏んできた場数の違いは明らかだった。


 だが、むざむざ殺されるつもりはない。一人残ったのは、禊屋を先に逃がすためではあるが、ここで自分が殺されることで時間稼ぎをしようなどとは、毛頭思っていない。


「…………」


 天狗はまた左手を冬吾の方へ向け、手のひらを上へ向けると、人差し指をくいくいと動かした。まるで、「早くかかってこい」とでも言いたげに。


「舐めやがって――!」


 冬吾は右手に持ったベレッタを敵へ向かって構えた。その瞬間――


「なっ……!?」


 冬吾の視界を青いものが覆った。先ほど天狗へ向けて投げつけたポリバケツ型のゴミ箱だ。天狗が足下に転がっていたそれを、お返しとばかりに蹴りつけてきたのだった。冬吾が銃を持つ手の手首にぶつかって、わずかに銃口が逸れる。


「しまっ――」


 考えるより前に、後ろへ跳んだ。直後、眼前でポリバケツが刀によって縦に一刀両断される。鼻先を切っ先がかすめた。


「…………っ」


 冬吾は思わず息をのむ。あと少しでも回避が遅れていたら、バケツごと頭を縦割りにされていた。


 ――やはり、ただ者じゃない。今のでこちらの初動は完全に潰され、距離の優位を覆されてしまった。だがこの一撃をかわせたのは大きい。二の太刀が飛んでくる前に、弾丸を撃ち込んで勝負を決する!


 冬吾はベレッタの引き金を力任せに引き絞った。続けざまに二発、発砲する。


 行動に移す前に、気がつくべきだった。たしかに、このような事態に備えて冬吾は射撃場で訓練をしてきた。ごく短い期間ではあったものの、それをしているのと、していないのでは大きな違いがあっただろう。技術は実践してこそ身につく。それだけ経験の有無というのは重要で、いざという時の命運を分けかねないものだ。しかし、冬吾の積んだ経験はあくまで、訓練でしかなかった。実戦の経験については、致命的に不足しているのだ。


 結論から言って――弾は二発とも外れた。一発目は地面に、もう一発は天狗から大きく右へ逸れた方向に。不安定な体勢のまま、撃ってしまったからだろうか。反省する暇も、撃ち直す猶予もなかった。天狗が刃先を上にして刀を振り上げる。


「あっ――!?」


 右手に重い衝撃が走る。ベレッタの銃身に刃が当たって、弾き飛ばされた。銃は冬吾の背後へ飛ばされ、地面を転がっていく。


 しまった――武器を失うのはまずい! 冬吾は瞬時に反転し、銃を拾いに飛び出そうとする――が、背後から風を切る音を察して、無理矢理に右横へと方向を切り替えた。


「ぐっ……」


 路地際のビル壁に勢い余って激突するが、突きの形で繰り出された天狗の攻撃はすんでの所で回避できた。


 いい加減にしろ! まったく馬鹿にもほどがある――敵に背を晒すなんて! 冬吾は心中で自分の不用意さを罵った。


 窮地は続く。冬吾は体勢を崩して壁際に座り込むような形になっていた。そこへ天狗は追い討ちをかけるがごとく、刀を振りかぶる。肩口から袈裟斬りにするつもりか、それとも一刀で首を切り落とすつもりか。この姿勢では今度こそかわすことは不可能だった。


 ふと、右手に何か堅い棒状のものが触れていることに気がつく。なんとか身を守りたい一心で、それが何かを確認する前に、掴んで力任せに振りまわした。


「チッ……」


 天狗が面の向こうで舌打ちをするのが聞こえた。殆ど偶然にタイミングが合わさり、冬吾の掴んだ鉄パイプが天狗の刀を弾き返したのだ。


 首の皮一枚繋がった――冬吾は鉄パイプを天狗へ向けて思いっきり投げつけると、相手がひるんだ隙に、今度こそ通りの方へ向かって飛び出した。目的はただ一つ、地面に転がった銃だ。


 路地を抜け出して、通りへと出る。もう少し、もう少しで――!


「うぁっ!?」


 冬吾の身体は地面に叩きつけられた。足がもつれて転倒してしまったのだ。最低だ。何もこんなときに、こんなヘマしなくたっていいだろうに!


 極度の緊張と瞬間的な酷使による過剰負荷で、冬吾の身体は本人の思っているよりも自由が利かなくなっていた。銃まではあと二、三メートルというところ。手を限界まで伸ばしたとしても届かない位置だった。もう身体が動かない。


 月に映し出された影が、冬吾を覆う。追いついた天狗が冬吾を見下ろしていた。無慈悲な悪鬼の前に、もはや為す術はない。万事休すだ。


 ……いや、まだだ。まだ武器はある。武器と呼ぶには、あまりにも頼りないかもしれないが。


 天狗が刀を振り上げる。


 ――やるしかない。冬吾は右手でジーパンの尻ポケットからそれを――ナイフを取りだした。冬吾が常に持ち歩くようにしている、父親の形見のナイフだ。親指で木鞘を弾いて外す。刃渡りは十センチほど。その刀身には、一筋の曇りもない。


 冬吾は相手へ狙いをつける。もう立ち上がって向かっていくだけの力も、猶予も残っていない。ならば、『投げる』しかない! それがこの状況でできる、最後の反抗――!


 チャンスは一度きり、一撃で相手を倒すにはどこを狙えばいい? 顔は天狗の面によって防御されている。腹や胸も、黒衣の下に衣服を着ていることを考えればナイフを力一杯投げつけたところで刃が通らないだろう。可能性があるとすれば、『そこ』しかない。狙うはただ一点――奴の全身で最も防御が薄く、且つ致命傷を与えうる部位――喉だ!


「当たれっ――!!」


 力の限り右腕を振り抜く。右手から射出された刃の弾頭は、天狗の喉元へ向かって一直線に突き進んだ。


「――ッ!?」


 天狗が咄嗟に上段に構えた刀を下げ――柄頭でナイフを弾く。ナイフは無惨に撃墜され、地面を転がった。


 それでお終いだった。正真正銘、最後の攻撃も防がれてしまった。どうすればいい。他になにか方法は……ないのか?


 ない。そんなものは存在しなかった。


 天狗が再び刀を振り上げる。「思ったより頑張ったじゃないか」と、面の向こうで男が笑った気がした。


「くそっ――」


 冬吾は顔を右腕で庇うようにする。先ほど目の当たりにした刀の切れ味を考えれば殆ど無意味といえる防御行為だが、反射的にそうしてしまった。


 目も瞑りかけたそのとき、冬吾は信じられないものを見る。刀を今にも振り下ろさんとする天狗――その鼻が、根元から折れて吹き飛んだのだ。


「――ッ!?」


 天狗が驚いた様子で右を向く。十数メートル離れた先に誰かが立っている。その人物は拳銃を持っているようだった。


 続けざまに発砲音が響く。天狗は瞬時に黒衣を翻して反転し、銃撃から身を隠すように路地の中へ走り去っていった。それを追うように、発砲していた人物が駆け寄ってきて、路地へ向かって銃を構える――が、既に見失ったようで、ゆっくり銃を下ろした。


「あちゃー、逃がしたか。やっぱダメだなーブランクあると。全然当たんねーや」


 そう言って髪を掻き上げたのは、冬吾の見知った人物だった。


「お……織江、さん?」

「よぉ新人クン。怪我してないかい?」

「は……ぁ。大丈夫です、一応……」


 織江が、どうしてここに? いや、送迎を頼んでいたのだから、近くには来ていて当然なのだが……騒ぎを聞いて駆けつけてくれたのだろうか?


 それより、彼女が銃を扱うことができたという事実にも驚く。それも、技量で言えば明らかに冬吾より数段上のレベルだった。どちらかというと彼女はこういう荒事めいた分野は苦手そうなイメージがあったのだが。


「私の言ったとおり、銃持っててよかったっしょ? まぁ……あんまり有効活用はできなかったみたいだけどさ」


 ごもっともな言葉だった。とてもまともな戦いと呼べるものではなかった。自分はただ相手に翻弄され続けただけだったのだから。生き延びられたのは、運が良かったからとしか言い様がない。下手すれば、一度と言わず三、四度ほど死んでいてもおかしくなかった。


「ありがとうございます。織江さんのおかげで、助かりました」

「お礼ならあの子に言ってあげなよ。近くまで来てたとはいえ、あの子が教えてくれなきゃ私も気がつかなかっただろうし」


 織江が顎をしゃくって示した方向には、禊屋が悄然とした様子で立っていた。


「……禊屋?」


 呼びかけても、禊屋は反応しない。こちらを見ているようで、見ていない……快活な彼女らしくない、何かに怯えたような目だった。何かを深く考え込んで、意識は別のところにあるようにも見える。じきに彼女は冬吾と目が合い、意識を取り戻したようにハッとする。


「ノラ……ノラぁ!」


 禊屋はまだ痛むのであろう右足を引きずりながら、見ていて危なっかしい足取りで冬吾のもとへ駆け寄る。


「うおっ!?」


 自分の上へ殆ど倒れ込むような形で禊屋に抱きつかれ、なんとか受け止める。


「な……なんなんだよいったい?」

「…………」

「禊屋?」


 禊屋は冬吾の胸に顔を埋めたまま、肩を震わせていた。


「……泣いてるのか?」

「ごめん、なさい……! あたしのせいで……こんな……」

「……別に、お前のせいじゃない」

「でも……! あたしが、あいつを追いかけようなんて言い出さなかったら……」

「そんなの結果論だろ。あんな怪しいやつ、普通は放っておけない」


 相手が禊屋の性格を把握した上で、その好奇心の強さを利用した待ち伏せの罠を仕掛けていた可能性はある。だが、それで恨むべきはやはり罠を仕掛けた当人であり、禊屋の落ち度などではないはずだ。そんなこと少し考えればわかりそうなものだが、禊屋も混乱しているのかもしれない。


「……怖かったの。キミが、死んじゃうんじゃないかって……あたし……また……」


 嗚咽混じりの、今にも消え入りそうな弱々しい声。どうやら、相当心配をかけてしまったようだ。


「あー……その……」


 困った。相手がいつもの調子ならばともかく、こんな状態ではなんと声をかけたら良いものか……。助けを請うように織江のほうを見るが、彼女はにやにや笑いながら、肩をすくめるのみだった。


 とりあえず、禊屋の肩を叩いてやる。気の利いたことなど言えないが、今は彼女のことを安心させてやりたかった。


「大丈夫だよ。そう簡単に死んでたまるかって」









 冬吾が家に帰り着いたのは、もう一時半を過ぎた頃だった。ナイツでの初仕事。簡単だとは思っていなかったが、想像以上にハードな一日だった。身体も精神も疲れ切っている。今は一刻も早く寝てしまいたい。


 襲撃してきた天狗については、織江がナイツへ報告し調べておいてくれるとのことだった。おそらく、どこかが雇ったヒットマンだろうとの話だ。いったいなぜ、冬吾と禊屋を狙ったのか……そしてそれは、現在調査している涼城花凛の死とも関わりがあるのだろうか?


 禊屋のことは、少し気がかりだった。一応、泣き止んではくれたものの、あれから別れるまで、普段とは人が変わったように落ち込んでいたのだ。自分のせいで冬吾が危険な目に遭ったと、自責の念に苛まれているのだろうか。


 多少、認識を改める必要がありそうだった。見かけよりも、彼女の本質というか、内面は、ナイーブにできているのかもしれない。


 自分の部屋は玄関から廊下を数メートル移動した先だ。音を立てないよう、慎重に歩く。


「お兄ちゃん?」

「おわっ!?」


 てっきりもう寝ていたと思っていた灯里の声がしたので、飛び上がりそうなほど驚く。


「お前……まだ起きてたのか?」


 灯里はパジャマ姿で、自室から出てきたところだった。今年中学二年になった妹は、同年代の子たちと比較してもかなり細いほうだ。外へ出る機会も少ないので、色白である。顔立ちは写真で見る母親によく似ていて、ふんわりと柔らかい印象がある。


 眠そうな声で灯里が言った。


「ううん……寝てたけど……玄関……音、聞こえたから……帰ってきたと思って……」


 どうやら自分が帰宅する際の音で起こしてしまったらしい。


「そりゃ悪かったな。お兄ちゃん静かにするから、寝てくれ」

「……ねぇ、お兄ちゃん」

「なんだ?」

「なに……してるの?」


 心臓の鼓動が早まる。


「……なにって?」

「こんな遅い時間まで……なにしてたの?」

「話しておいただろ。新しいバイトだよ。ほら、ええっと……そうそう、夜中のコンビニ」

「……ほんとに?」

「ああ」


 灯里はしばらく何も言わなかった。正直言って、妹の勘の鋭さには舌を巻くものがある。これまで何度、拙い嘘がばれて叱られたことか。この嘘も、もしかしたら……。


「……そう。それならいいの。お仕事お疲れ様」

「お、おう」

「あのね、お兄ちゃん?」

「ん?」

「危ないことだけは、しないでね」

「……わかってるよ。……じゃあ、おやすみ」

「おやすみなさい」


 灯里はにっこり笑って手を上げると、自室へ戻っていく。


 冬吾は自分の部屋に戻ると、ベッドに倒れ込むように横になった。緊張感が抜けて、一気に疲労が押し寄せてくる。


 ……果たして、自分は上手く妹を誤魔化せているのだろうか? どうも、そんな気がしない。


 自分がやっていることをもし灯里が知ったら、必ず止めようとするだろう。常に死の危険が伴う仕事だ。実際、今日だっていきなり死にかけた。それに……場合によっては自分が殺す側に回ることだってあるだろう。そんなことを、灯里が許すとは思えない。


 自分がナイツへ入ることを決めた経緯を話せばどうなるだろうか? それは、冬吾にとってあまり考えたくないことだった。間違いなく、灯里を深く苦悩させることになってしまうから。どちらにせよ、冬吾は自身の選択によってナイツの一員となったのだ。ならば、灯里はそれに無関係でいるべきだと思う。知る必要のないことは、知らないままでいい。


 ……灯里は、人質だった。二週間前に冬吾を罠に嵌めた張本人である神楽(かぐら)という女。彼女は、灯里の命を盾にして冬吾に組織への加入を迫ったのだ。


 なぜそのようなことをしたのか、神楽の意図は不明瞭だが、人を弄ぶことを楽しむ彼女にとっては、ほんの気まぐれが起こした悪意の一つに過ぎないのかもしれない。冬吾はそれを受け入れるしかなかった。灯里を殺す、と神楽が言ったからには、それはただの脅し文句などであるはずがないのだ。神楽の持つ圧倒的な権力を用いれば、その気になれば一人の少女を始末することなどは容易いだろう。


 そうしたのっぴきならぬ事情からナイツに入ることになったわけだが、冬吾はその成り行きの全てが不幸だったとは思わない。今の自分を取り巻く状況を上手く利用すれば、半ば諦めかけていたある目的が達成できるかもしれないからだ。それは冬吾の父、千裕の死の真相を掴むことだった。


 刑事である父は四年前に何者かに殺され、今もってその捜査は進展の気配を見せていなかった。だが二週間前、岸上豪斗(きしがみごうと)という男は、『その真相にまつわる何か』を冬吾に伝える直前に殺されてしまったのだった。そして、神楽もそれについて何かを知っている様子である。神楽からそれを直接問いただすことができれば話は早いが、おそらくそれは無理だろう。


 ならば、自分で辿り着くしかあるまい。ナイツは、裏社会において最も強力な一派のひとつである。そうした組織に身を置いていれば、警察が掴めない、あるいは表沙汰にされない情報を手にすることもできるだろう。実際、ナイツの幹部であった岸上豪斗もそうして真実に辿り着いたのではないだろうか? せめて彼が何を知っていたのか、そのメモでも残っていれば良かったのだが、そういったものは遺留品の中からは見つからなかった。今のところ、手がかりは一から自分で集めていくしかなさそうだ。


 迷いがないわけではない。灯里を守るための選択だったとはいえ、その結果もしも自分が死んだら、灯里は一人きりになってしまう。そんな灯里の姿は想像することさえ辛い。苦しい目に遭うのは、自分だけで充分なのだ。


 それに、刑事であった父がこのことを知ったらどう言うだろうか……。父は正義感の強い人だったから、やはり怒るだろうか。それとも、悲しむだろうか。他に方法がなかったということをきちんと説明すれば、もしかしたらわかってもらえるかもしれない? ……そんなはずはないか。


 冬吾は、ベッドに横になりながら、側の棚に置いてある写真立てを見つめる。父と冬吾と灯里の三人が写った写真だった。幼い灯里は父に抱っこされている。七、八年ほど前に家族で遊園地に行った際に記念撮影したものだ。あの頃から、色々なことが変わってしまった。


 ……考え始めたら、きりがない。今はとにかく、身体を休めよう。冬吾は目を閉じる前に、一人呟く。


「親父……俺、間違ってるのかな……」









 ナイツ夕桜支社の八階――社長室。草木も眠る時間。部屋の電灯は点いておらず、月の蒼白い光だけが天井近くの採光窓から差し込んでいた。部屋には一人の女がいる。黒色を基調とするゴシックな服装に身を包み、若くしてこの夕桜支社を束ねる存在――岸上薔薇乃である。彼女は、革張りのオフィスチェアに腰掛け、ある相手へ電話をかけていた。


『――私だ。やれやれ、非常識だな。こんな時間に電話など』

「それは失礼を。しかし、それはお互い様というものでしょう?」

『……ほう?』


 こちらの挑発に対して、面白がるような反応。相変わらずだ、と、薔薇乃は声には出さず苦笑する。


『どういうことだか、説明してもらおうか?』


 薔薇乃は少し間を置き、強調するように次のことを言った。


「それはもちろん、あなた方の差し向けた刺客が、わたくしの部下を襲ったことについてですとも。神楽さん?」


 電話の相手は、伏王会の神楽だった。現伏王会会長は病により近年表に出てくることが少なくなったため、差配筆頭という立場にある彼女が、現在の伏王会の実質的トップである。各地を転々としていることが多いようだが、最近は夕桜市内の伏王会支部に身を置いて権限を振るっていた。そのため、対立組織ながら同じ管轄内の支部長として薔薇乃がこうして話すのも、もう何度目かになる。


『刺客? さて……なんのことやら』

「とぼけるおつもりですか? しかしそれは通りません。襲われた部下がたしかに証言しております。黒い衣に身を包んだ……天狗に、待ち伏せされ、襲われた――と」

『黒い……天狗』

「心当たりがおありでしょう?」


 ヒットマンという肩書きを持つ者たちにはある種、常軌を逸したような者も多い。殺しを生業とする以上、多かれ少なかれ狂った部分を持ち合わせることになるのだろう。その狂気は見た目というわかりやすい形で表れる者もいれば、一見して常人のようにしか思えない者もいて、様々だ。禊屋と冬吾を襲撃した犯人は、今のところそのどちらにも取れた。


 天狗という扮装になにか儀式的な意味を見出しているのならば前者と言えよう。しかし、ただ己の正体を隠すための手段でしかないのならば、後者である可能性が高い。どちらにせよ、そうした奇異な出で立ちをしていれば当然、それだけ目立つということでもある。犯人の素性について、既にある程度の調べはついていた。


「黒衣天狗(こくいてんぐ)……伏王会所属のB級ヒットマンのはずですが」


 さすがにその正体まではまだ掴めていなかったが、近頃精力的に活動しているヒットマンの中に天狗の扮装をした者がいるという話はナイツにも伝わってきていた。黒衣天狗は伏王会に所属するヒットマンとして登録されている。ということは、襲撃の命令を出したのは伏王会ということになるはず……その推測をたしかめるため、薔薇乃は神楽に直接問いただすことにしたのだ。


 神楽はふっと笑う。


『生憎だが、私とて組織の構成員の全てを把握しているというわけではないのでね。その黒衣天狗という名も初めて聞いた。しかし……薔薇乃嬢。あなたのその口ぶりでは、私がそいつに命令を下した……と、疑われているかのように聞こえるが?』

「ええ。もちろん、そのつもりで申し上げたのですよ。きちんと伝わったようで、何よりです」

『それはそれは……甚だ不服なことであるな』


 そう言いながらも神楽は怒るようなそぶりを見せるどころか、却って愉快そうに笑った。


『一応、訊かせてもらおうか。なぜ、私を疑う?』

「襲われた部下というのは、我が夕桜支社の顧問探偵である禊屋、そしてその護衛役であるノラという者の二人なのです。そのうち後者の本名は戌井冬吾……この二人のことはあなたもよくご存知ですね。何しろ、あなた自身が直接、二週間前お会いになられたはずですから」

『ふむ……そんなこともあったかな。それで?』


 二週間前、夕桜支社の幹部であり、薔薇乃にとっては岸上家の遠い親戚筋にあたる岸上豪斗が殺害された。その犯人を影から操っていたのは、神楽である……薔薇乃はそれを確信している。


 薔薇乃はそのとき別件に当たっていたため不在だったが、禊屋の報告によれば、犯人自身がそう自白したというのだからまず間違いあるまい。しかし、岸上豪斗殺害の犯人と神楽との繋がりを、客観的に立証することは不可能であった。神楽は初めから、そうした事態を見越して自身に繋がるような証拠を残してはいなかったのだろう。


「わたくしの考えとしましては、神楽さん。またあなたが二人へちょっかいをおかけになられたのでは、と」

『ふっ、言いがかりもいいところだ』

「否定なさるのですね。……まぁ、それでもよいでしょう」

『随分と簡単に引き下がるのだな?』

「あなたのことです。始めから、素直に認めてくださるとは思っておりませんでしたから。あなたがこの一件に関係していたか、いなかったか、どちらにせよ、それを証明しうる方法がない限り、結局は押し問答にしかなりません。それは、わたくしの本意ではありませんので」

『では、どうする?』


 神楽はあくまで薔薇乃の出方を窺っているようだった。


「――ナイツと伏王会の間には、不可侵の協定があることをお忘れなきよう。わたくしが申し上げたいのは、ただそれだけです」


 ナイツと伏王会は、協定を設けることで全面戦争に突入することを互いに避けている。細かな抗争にまで目を向ければきりがないが、それでもなお、両者が本格的な戦争状態に陥っていないのはこの協定が存在するためであった。


『協定……か。それがどうしたというのだ?』

「黒衣天狗の暴挙は伏王会による明らかな協定違反です。あなたが実際に指示を下したかどうかの真偽はともかくとして、あなたが伏王会の実質的なトップであり、さらには現在夕桜支部の統括を行っている以上は、その責任はあなたにも及ぶものだと考えますが?」

『なるほど。私にその責任を取れと?』

「……いいえ。そこまでは申しませんけれど。ただ、今回のようなことが二度と繰り返されないよう、あなたからしっかりと通達していただきたいのです」

『それだけで良いのか? 随分甘いのだな、薔薇乃嬢は。下手人の首を差し出せ、くらいは言ってくると思ったが』

「そう言えば、あなたは応えてくださるのですか?」

『さて、どうかな?』

「無論、本音を言えばそうしていただきたいところです。しかし先ほどから申し上げておりますように、そこまで強気に出られるほどの手札がこちらにはないというのもまた事実。それに、幸い今回はこちらに怪我人も出ておりませんので。しかし……サービスは今回限りであると心得ておいてくださいますよう」


 薔薇乃の声は静かだが、冷たく刺すような凄味を伴っていた。


『もしもまた、同じようなことが起こったらどうする? そちらの大切にしている禊屋が、今度こそ死んでしまったら――』

「潰します」


 薔薇乃は言い切った。


「そのようなことになれば、容赦はいたしません。我が身命にかけて、あなた方を焼き潰してみせましょう。……塵一つ、残しはしません」

『……単なる脅しではなさそうだ。ふふっ、恐ろしいことだな』

「どうなのですか? あなたはそれを充分理解した上で、わたくしを怒らせるつもりなのでしょうか?」


 電話越しに神楽が笑う。


『いやすまない。つい、薔薇乃嬢がどう反応するかを確かめてみたくなっただけだ。気分を害したのなら謝ろう』

「……いいえ、気にはしません」

『それはそれとして……薔薇乃嬢。私は思うのだがな』


 神楽はふと、自らの思いを吐露するように語り始めた。


『この協定というものは、実にくだらない。そうは思わないか?』

「っ! …………さて、おっしゃる意味がわかりませんが?」

『力を持つ者が二組あるのならば、どちらが上かはっきりと決着をつけるべきなのだ。危惧されているとおり、互いにぶつかり合うことで疲弊し、勝ち残ったほうもただでは済まないだろう。漁夫の利を狙う者だって現れるはずだ。だが、私はそれでいいと思う。その程度で滅びる組織ならば、早めに淘汰されてしかるべきなのだ。伏王会にしろ、ナイツにしろ、現在までに掴んだ力や地位を失うことを恐れて、互いに闘争を避けている現状を、私は愚かしいと感じるよ』

「……わたくしたちの目的は、あくまで利益を追求すること……つまりはビジネスです。無闇に争うことではありません。それは、伏王会も同じことだと考えますが?」

『至極もっともな意見だな。私も、それは理解しているつもりだ。馬鹿なことを言っている自覚もある。しかし……それでも思わずにはいられない。退屈だ、とね』

「…………」

『……なんて、な。冗談だよ。これで仮にも伏王会を預かっている立場だからな、協定はしっかりと守るさ。それが会長のご意向でもある。私はそれに従うのみ……』


 神楽はおどけて言った。


 薔薇乃は考える。相手がどこまで本気なのかはわからない。しかし、今の発言の全てが偽りだったとは思えない。神楽という女が望むもの、それは、裏社会を統べる地位か? それとも……闘争そのものか?


『その黒衣天狗とやらにも、私から厳命しておこう。二度とナイツへは手を出すな、とね。……用件は終わりか? では、そろそろ切るぞ。あなたとの話は楽しいが、今後もこう遅い時間に電話をかけられるのは勘弁していただきたいな。私とて、眠らないわけではないのでね』

「それについては失礼いたしました」

『まぁ、構わんさ。……そうだ、薔薇乃嬢』

「なんでしょう?」

『禊屋と……ノラ、だったか? 二人によろしく』

「……ええ。それでは、ごきげんよう」


 薔薇乃は電話を切ると、大きなため息をついた。この手のやり取りは薔薇乃にとってそう珍しいものではないが、彼女の神経を磨り減らすことは確かだった。それも、相手は伏王会屈指の曲者である。一応、こちらの要求は通せたが……相手が相手だ。何かを企んでいる可能性も充分ある。まだ油断はできない。


 疲れからオフィスチェアに深く身を沈めようとすると、薔薇乃は部屋の入り口にいつの間にか人がいたことに気がついた。


「あら……まだ帰っていなかったのですか。美夜子?」


 彼女は少し開けた扉からこちらを窺っていたようである。薔薇乃は、その必要がある場合でなければ、なるべく彼女のことを禊屋ではなく、美夜子と本名で呼ぶことにしていた。


「ああ、うん。ちょっと気になってさ」


 美夜子は静かに部屋へ入る。


「それで、どうだった?」

「ナイツへこれ以上手出ししないよう念を押しておきました。協定のこともあります。しばらくはおとなしくしていることでしょう。……そんなところに立っていないで、お座りなさいな?」


 薔薇乃は手を差し出し、部屋中央に置かれた黒い革張りのソファへ美夜子を促す。美夜子がソファへ座ると、薔薇乃は社長用のチェアから立ち上がって、


「コーヒーくらいしかありませんが、お飲みになりますか?」

「いや、いいよ。喉、乾いてないし」

「それに今飲んだら、眠れなくなってしまいますものね。わたくしもよしておきましょう」


 薔薇乃は肩をすくめて笑う。


「そうそう。足の具合はいかがですか?」


 薔薇乃は美夜子の足へ視線を向ける。その右足首には包帯が巻いてあった。


「足首の軽い捻挫だって。まだちょっと痛むけど、歩く分には問題ナシ」

「それは結構でした」

「……ねぇ薔薇乃ちゃん。本当に、あの天狗は神楽の命令であたしたちを襲ったのかな?」

「あなたはそうは思わないのですか?」


 薔薇乃は移動して、美夜子の隣へと腰を下ろす。


「いや……はっきりとはわかんないけどさ。あいつは……驚かせようとしたとかそういうんじゃなくて、明らかにあたしたちを殺しにきてた。ってことは、どこかから殺しの命令を受けていたってことでしょ。なんとなくだけど……神楽はそういう直接的な方法は取らないと思うの」

「……たしかに、些か彼女のイメージとはそぐわない気もしますわね」

「それに、前に会ったときにあの人言ってたの。再戦を楽しみにしている、って。あの言葉を信じるなら、こんな形であたしと決着を付けようとするとは思えないよ。……まぁ、この二週間の間に向こうから興味を失われていたりしなければ、だけど」

「その心配はないようです。電話の終わり際に言われましたよ。禊屋とノラによろしく、と」


 美夜子の表情にすっと影が差した。思い詰めたように眉をひそめる。


「ノラさんのことを気にしていらっしゃるのですか? 彼は無事だったわけですし、彼自身もこの仕事が危険だということは承知の上だったのでしょう? あまりあなたが気に病む必要はないと思いますが」

「……わかってる。わかってるけど……ノラを巻き込んじゃったのはあたしのせいだからさ。今回のことだけじゃなくて、二週間前のあの時から……。だから、こう……なんてゆーのかな……色々考えちゃうワケ」


 美夜子は調子が悪そうに髪の毛をくしゃくしゃと弄っている。


「しかし、今後も彼があなたの相棒役として働くのならば、一々そんなことを気にしてもいられないでしょう? それとも、彼をその役目から降ろし、社内の倉庫係にでも移すよう手配しましょうか? そうすれば命の危機に晒されるようなことも少ないでしょう」


 薔薇乃の提案に美夜子は首を横に振る。


「いや……それじゃあきっと、神楽は納得しないと思うんだよね」

「ノラさんの妹さんのこと、でしょうか?」

「神楽は、ノラがただナイツに入ったというだけでは満足しないはず。彼が危機に対してどう抗うか……その興味心から組織への加入を迫ったんだと思う。だから、その目的が達せられないなら、神楽は宣言通り、灯里ちゃんを殺してしまうかもしれない」

「……あちらを立てれば、こちらが立たずといった感じですね。そうなると、やはり彼にはこのまま、あなたの護衛役として働いていただくのが一番かと思います」

「なんで、そう思うの?」

「少し考えればわかりますとも」


 薔薇乃は口の端を上げて笑う。


「黒衣天狗はランクBに属するヒットマン。殺し屋の階級でいえば上から三番目にあたります。ただの素人がB級ヒットマンに単身挑んで生き延びたなど、普通ではまず考えられないこと。それはもちろん、運の要素も多分にあったことでしょうが――それも含めて、彼には可能性を感じます。なにより……己の命を危険に晒してまで、あなたを助けようとしたこと。これは、たとえプロであってもそう簡単にできることではありません。彼の持つ、一種の資質と言ってもいいでしょう」


 そしてその資質はおそらく、彼と美夜子の間にある絆があってこそ発現するものだろう。だから、彼は美夜子の護衛役として置いておくのが一番いい。まだまだ発展途上ではあるが、育てば化けるかもしれない――そう感じさせるだけのものが、ノラこと戌井冬吾にはある……薔薇乃はそう考えている。


「もちろん、危険が予想される任務には別途、高ランクのヒットマンを護衛に付けさせましょう。わたくしは夕桜支社の長として、そして、かけがえのない友人として、あなたを失うわけにはまいりませんから。しかしそれ以外は基本、ノラさんとのコンビ……ということでよろしいのではないですか?」

「うぅーん……まぁ、そうだね」


 美夜子は一応納得したような反応を見せた。しかし、その表情には未だどこか陰が残る。


「何か問題が? ……もしかして美夜子は、ノラさんのこと、お嫌いですか?」

「えっ? そんな、嫌いなんかじゃないよ」


 やや慌てたように美夜子は否定する。


「あら。では、お好きなんですね?」


 美夜子は「えっ」と薔薇乃を見る。


「…………ええっと、待って薔薇乃ちゃん? それは、どーゆー意味で?」

「もちろん。一人の男性として、とゆー意味で」

「いやおかしいでしょ! なんで急にそーゆー話になるの!?」

「焦れったいですね。これはわたくしの興味本位で尋ねているだけです。――で? どうなのですか?」

「ええぇー……」

「……お好き、なのですか? まぁ、一度とならず二度までもお命を救われたわけですから、それはもう、芽生えるものは芽生えてもおかしくないと存じますけれど?」

「うぅー…………」


 美夜子は唸り声ともつかない妙な声を出して、顔を赤らめる。薔薇乃はそれをにこにこ微笑みながら見守っていた。やがて、美夜子は薔薇乃から目線を逸らして、


「………………ほ、保留で」

「まぁ保留! それはそれは……まぁ!」

「な、なに、そのイミシンな反応は!?」

「ふふふ、いいえぇ? 別に? なんでも……?」

「なんなの、もぉっ!」


 美夜子は薔薇乃の肩をゆするが、薔薇乃はほほほと笑っている。美夜子に対して、からかう側に回ることができる数少ない人物が薔薇乃であった。


 薔薇乃はこほんと一つ咳払いをする。


「――とまぁ、今のはただの冗談です。あなたがいったい何を悩んでらっしゃるのか、当ててみせましょうか?」


 薔薇乃は美夜子の前で人差し指を立てた。続けて言う。


「……『あの時』のことを思い出したのではありませんか? ノラさんと……あの方の姿を重ねたのでは?」


 薔薇乃の言葉に、美夜子はわずかに目を見開いた。


「……そんなんじゃ、ないよ」

「そうですか? あなたがああいう顔をなさるのは、決まってそういうときだと思っておりましたが」

「違う違う、大はずれー」


 両手をひらひら振って美夜子は笑う。


「それは残念。…………美夜子?」

「えっ?」


 薔薇乃は美夜子の顔へ手を伸ばす。美夜子はそこで気がついたようだった。


「……あ、あれ? おかしいな……なんで……」


 薔薇乃は人差し指の背で、美夜子の光る目元を拭う。


「違う……違うんだよ……」


 美夜子はソファの上で膝を抱えると、そこへ顔を埋めてしまう。静かに涙を流す美夜子の肩を、薔薇乃はそっと抱いた。美夜子は薔薇乃の肩に頭を預けるような形になる。


「美夜子……わたくしの前でくらい、素直に泣いてください」


 薔薇乃は思う。美夜子は未だ、あのときの呪縛から逃れられないでいる。……いや、それはとうにわかっていたことだ。もしも美夜子がその縛鎖から解放されることがあるとすれば、きっとそれは、彼女自身が死ぬときなのだろう。


 だから薔薇乃は、言葉をかける。美夜子に課せられた、あまりにも大きな十字架。それを代わりに背負ってやることはできなくとも、彼女の手を引いてやることくらいはできるかもしれないから。


「……何度でも言います。あれは、あなたのせいではありませんでした。忘れることなんてできるはずもない。あなたがあのことを思い出して、涙を流すのも当然だと思います。……それでも、どうか忘れないでいてほしい。あなたは悪くなかった。あなたはそうは思わないかもしれないけれど……せめて、わたくしがそう信じているということだけは、知っていてください」

「…………」

「それに……ノラさんはあの方とは違います」

「……わかってる」

「そうですか。それならよいではありませんか。何も心配することはありません」


 美夜子は小さく頷いた。


「……ありがとね、薔薇乃ちゃん」

「落ち込んだ友人を励ますのは、当たり前のことでしょう?」


 薔薇乃は美夜子の髪を優しく撫でる。


「……今夜はもう、こちらにお泊まりなさいな。わたくしが社泊用に使っている部屋があります。快適さは保証しますよ。ちょっとしたホテル並みですとも」

「それ……薔薇乃ちゃんと一緒のベッドで寝るってこと?」

「あら、お気に召しません?」

「……変なコトしないでよー?」

「まぁ、信用がないのですね……努力しましょう」

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