第二章――ダンシング・ウィズ・テング

第11話 捜索依頼







 十月二十三日は、吹く風の冷たい日だった。今は日が傾きかけた夕方前の時間である。夕桜市夕桜町の南部、ビジネス街であるゆざくら南通りから逸れていった先にある裏通りを、戌井冬吾(いぬいとうご)は歩いていた。


 冬吾は今年十九歳になった大学生である。ともすれば不良チンピラの類と誤解を受けがちな目つきの悪さを小さなコンプレックスとするだけで、他には特に取り柄のない、長身の男だった。無地のシャツにややダブついたジャンパーを羽織り、下はジーパンという服装。その身体つきは筋骨隆々というほどではないが、それなりに鍛えられている。高校時代から肉体派のバイトを好んで続けていたためだ。


 冬吾の両親は既に他界していた。母は幼い時分に、父親は今から四年前に。今は唯一の肉親である妹の灯里(あかり)と共に生活している。


 冬吾は今も、父親の形見であるナイフを持ち歩いている。それは護身用というよりは、お守り代わりとしてという意味合いが強い。あるいは、冬吾にとっての精神的な補助装置と言ってもいいかもしれない。


 死んだ父の代わりに妹を守ることが自分の役目である。冬吾はそう信じて生きてきた。だから、自分が弱っているところは妹に見せたくなかった。そう思っているうちに、自然と自分を強く保つ術は身についていった。


 そんな考えを冬吾が本格的に持ち始めたのは、灯里の病気が分かってからのことだ。


 父親が亡くなってしばらく後、灯里はとある難病を発症した。元々が病弱であったのと、父の死のショックとが重なったためだろうと思われた。その病気のせいで、灯里はあまり自由に出歩くことができない。学校に行くくらいなら大丈夫なのだが。


 幸いと言うべきか、父は密かに貯めこんでいたようだった。刑事の仕事以外、趣味らしいものを持っていなかったせいかもしれない。実直な性格だったから、遊び歩くようなことも殆どなかったのだろう。その遺産と保険等の手当のおかげで、今のところ生活には苦労していない。もちろん、無駄遣いなどすればすぐに消し飛んでしまう程度の額ではある。先述のバイトは、学費分くらいは稼ごうと冬吾が自主的に始めたものだった。


 そのバイトも今はもう辞めてしまった。いや、新しいバイトを始めたというのが正しいだろうか。それはバイトと呼ぶには、たいそう風変わりであると言わざるを得ないだろうが……。


 目的のオフィスビルに辿り着いた冬吾は、建物正面に設置された下り階段を降りていく。しばらくすると、ひんやりとした少し広い地下の空間に出た。周囲は灰色のコンクリートの壁に囲まれ、前には扉があり、その左右を守るように二人、スーツ姿の男が立っている。いわゆる見張り番というやつだ。二人とも日本人離れした異様な体格の持ち主で、さながら寺院の門脇に置かれた仁王像のような凄みである。


 冬吾は二人に向かって言う。


「入れてくれ」


 合わせて、『社員証』を提示する。写真と名前が記載されているだけの単純なカードだ。しかし、そこに記載されているのは本名ではない。コードネーム、つまりは闇の住人としての名である。冬吾のコードネームは『ノラ』、なんとも間の抜けた感じだが、そう決まってしまったのだからしょうがない。


「少々お待ちください」


 右側の男がそう言って冬吾に近寄ってくる。社員証を受け取り、冬吾の顔をじっくり眺めてから、今度は足元まで見下ろしていく。今度は扉の方へ寄って、脇に設置されたカードリーダーに社員証をかざした。扉上部に付いた緑のランプが点灯し、入棟が許可されたことが示される。


「…………失礼しました。ではお入りください」


 男はカードを冬吾へ返すと、下がって扉を開けてくれた。


「……どうも」


 冬吾は社員証を懐へしまいつつ小さく頭を下げて、扉の奥へと入っていく。狭い廊下が前へと続いていた。


 後ろで扉が閉められたのを確認してから、冬吾はほっと息をつく。ここへ来るのももう何度目かになるが、何度やっても慣れるものじゃない……心臓に悪い。


 廊下の突き当りにエレベーターがある。ここは地下一階、冬吾が呼び出されているのは、地上一階である。地下一階から上行きの階段は設置されていないので、エレベーターを使うしかない。呼び出すと、ちょうど下から昇ってきていたところのようで、すぐに扉が開いた。


 エレベーターの中には一人の女性がいた。まず目を引いたのは、その奇抜な服装だ。フリルの付いた白ブラウスに、レース入りの黒いコルセットスカート、編み上げのハイヒールブーツ……ゴシックな装いに身を包んだ女性は、まっすぐ良い姿勢で立っていた。


「あら、まぁ」


 その女性は冬吾に気がつくと、奇遇だとも言いたげに微笑んだ。その年齢は冬吾と同じくらい、つまり二十歳前後に見える。肩までまっすぐ伸びた艶がかった黒い髪と、落ち着いた印象を与える理知的な眼の持ち主だった。


「たしか……ノラさん、でしたか?」


 女性は冬吾に向かって問いかける。


「へ? ……ええ、そうですけど」


 冬吾は記憶を探りながら、エレベーターの一階のボタンを押す。既に最上階である八階のボタンが光っていたので、この女性は八階へ向かっているようだ。


 ……やはり思い出せないので、素直に訊くことにした。


「あの、どこかで会ったことありましたっけ?」

「ふふ、直接お会いしたことはありません。これが初めましてですよ」


 女性は口元に手を当て上品に笑いつつ答える。彼女の佇まいにはどこか気品があって、その服装と併せるとまるで中世貴族のお嬢様のようにも見えた。


「そういえば、今日が初仕事でしたね。健闘を祈っております」

「はぁ……ありがとうございます」


 困惑しつつも、冬吾は礼を言う。今日が初仕事――たしかにそうだが、なぜそんなことまで知っているのだろう。


「それで、あなたは――」


 誰なんです? と続けようとしたところで、エレベーターの扉が開いた。一階分上昇しただけなのですぐだった。


「わたくしは、岸上薔薇乃(きしがみばらの)と申します」

「えっ……岸上?」


 その名前はたしか……。


「扉が閉まってしまいますよ?」

「あっ――」


 慌てて冬吾はエレベーターの外に出る。


「いでっ!?」


 閉まりかけの扉に肩を思いきりぶつけてしまった。


「あらあら、そんなに慌てなくても」


 そそっかしさを令嬢に笑われてしまう。恥ずかしい……。


 扉の閉まっていく向こうで、薔薇乃は上品に手を振りながら言った。


「では、美夜子(みやこ)によろしくお伝え下さい」


 扉が閉まって、昇っていくエレベーターの前で冬吾はしばらく立ち尽くしていた。


「そうか……今の人が」


 正直、今まで自分が勝手に抱いていたイメージと違いすぎてすぐにはピンと来なかった。人間、見かけによらないということか。


 一階の廊下には左右に小部屋がいくつも並んでいた。冬吾はその中の一室の前に立って、扉をノックする。


「入れ」


 ぶっきらぼうな声が返ってきた。扉を開けて中へと入る。部屋は無機質な灰色の壁に囲まれた六畳ほどの空間で、中心に白いテーブルと椅子が置かれているだけだった。まるで警察の取調室のようだ。


 テーブルの奥側でスーツ姿の男が椅子に座っていた。年齢は二十半ばほど、オールバックにした髪の下の気難しそうな顔には、スクウェア型の眼鏡がかかっている。乃神朔也(のがみさくや)、二週間前に監査室室長という役職を死んだ上司から引き継いだ男だった。


「禊屋(みそぎや)はまだ来てないのか」


 冬吾は乃神へ尋ねる。乃神は右手を動かし部屋全体を示すようにして、


「見ての通りだ」


 「そうか」と頷いて、冬吾は乃神の向かいに用意されたパイプ椅子に腰掛ける。


「――ひとつ、言っておくがな」


 乃神は両腕を組んで冬吾を睨む。


「禊屋には借りがある。だからわがままに付き合ってやってはいる……が、俺は今でも、お前のような奴がナイツに入ることを認めるつもりはない。役に立たないと判断したら、即刻捨てる。そのつもりでいろ」

「……わかってるよ」

「お前のような雑魚の代わりなどいくらでもいる。それを忘れないことだ」

「わ、わかってるって言ってるだろ……」


 前に会った時もそうだったが、こいつ、いちいち嫌味な言い方をしないと気が済まないのか? 性根が曲がっている。


 自分だって、この場に相応しい人間だとは思っていない。少し前まではこんなことになるとは考えもしていなかったのだ。


 だが、冬吾にはこのナイツグループに身を置かなければならない理由がある。


 事の始まりは、二週間前。冬吾はある殺人事件に巻き込まれた。それは、ナイツと伏王会という対立しあう二つの犯罪組織にまつわる事件だった。冬吾はただの学生であるにも関わらず、策略に嵌められ殺人の下手人に仕立てあげられたのである。


 ナイツの幹部を殺害したとして捕らえられ、危うく処刑されそうになっていた冬吾を救ってくれたのが、禊屋と名乗る少女だった。禊屋は、ナイツの身内で起きた問題を解決することを生業とする顧問探偵……らしい。


 その後も奇怪な成り行きで、冬吾はナイツに身を置き、禊屋と組んで仕事をすることになった。今日はその初日である。


 背後で足音がした。ノックもなしに扉が開けられる……噂をすれば影。


「おっ、もう来てた。おっ待たせー」


 入ってきたのは、見た目高校生くらいの垢抜けた少女だ。緩くウェーブのかかった、高純度のルビーを溶かしたようなロングの赤い髪が目立つ少女。彼女が禊屋だ。


 黒ブラウスにデニムのショートパンツ、上着にくすんだカーキ色のモッズコートという出で立ちで現れた禊屋は、冬吾の隣に置かれた椅子に座る。


「んふふ、初仕事だねぇ。きんちょーしてるー? ねぇねぇ」


 冬吾を手で小突きながら禊屋が言う。


「別に……緊張なんてしてないけど」

「ほんとーかなー?」


 もちろん嘘だ。不安で少々吐き気さえある。


「なーんか、顔が青い気がするんだケド?」

「……気のせいだよ」

「まー大丈夫だって。今日のはそんなに危ないやつじゃないし。でしょ、乃神さん?」


 乃神は今回の仕事の仲介人だった。乃神は眼鏡のブリッジを指の背で持ち上げてから言う。


「今のところ危険な要素は見受けられないな」

「で? なにをすればいいの?」


 いよいよ本題に入るようだ。乃神は少し間を置いてから答えた。


「行方不明になった女を捜してもらいたい」

「その女の人っていうのは?」

「名は涼城花凛(すずしろかりん)という。年齢は二十四歳」


 乃神は手元に置いてあった資料の中から、一枚の写真を取り出して禊屋に渡す。


 そこには、黒いドレス姿の女性が薄暗いバーラウンジのような場所を背景に立っていた。細面の美女で、意志の強そうな眼の持ち主だった。いかにも「男を弄ぶことに悦びを見出しています」というような妖艶な笑みを浮かべている……というのは、少々偏った見方だろうか。ドレスはボディラインのはっきり出るタイプで、その表情も相まって男を挑発する艶かしさに満ちている。


「朱ヶ崎(あけがさき)に、イースタン・ミストレス・クラブ……通称EMCという性風俗店がある。いわゆるソープだな。ナイツが出資している、一部のVIPのみが利用できる会員制の高級店だ。涼城はその店の人気ナンバーワンの女だったんだが、三日前の二十日に、突然店を辞めた。そして今日になって、店を辞めて以後行方をくらましているということが判明した。連絡も取れない状況だ」


 なるほど、この色気ならば店でナンバーワンというのも納得がいく気がする。


 ちなみに朱ヶ崎というのは夕桜市の東側にある港町で、関東でも有数の歓楽街だ。夕桜市内では最も子どもを近づけたくない地域に違いない。


「ふーん……連絡が取れない、っていうのは?」

「今日になってから、居場所を探るため電気会社を装って携帯の番号へかけてみたが、繋がらない。圏外にいるか、電源を切っているかのどちらかだ」

「この人、どこに住んでるかはわかってるわけ?」


 禊屋は髪の毛先を手で弄りながら問う。


「朱ヶ崎のマンションだが、こちらも三日前から帰った形跡がない。中まで入って調べたわけではないが、集合ポストに郵便物が貯まっていたそうだ。電話が繋がらないことと合わせて考えてみると、失踪したと見るのが妥当だろう」

「仕事に嫌気が差して、実家に帰ったとかじゃないの?」


 たしかに、店を辞めた後で急に姿を消したというなら有り得そうなことだ。乃神は頷いて、


「確かめた結果それなら、別にそれでも構わん。彼女が今どうしているかということを調べてもらうのが、今回の仕事内容だ」

「ん、見つけて店に引き戻してほしいって依頼じゃないんだ?」

「無論、可能ならばそうすべきだろうが、彼女が嫌がるようなら無理強いはしないとのことだ。というのも、今回の仕事は店からの依頼ではない。名前は明かせないが……涼城に入れ込んでいたとあるナイツ本部の重役から頼まれた、個人としての依頼なんだ。それを受注したのが今日の昼になる」

「にゃるほど。それで店を辞めてすぐじゃなくて、三日経った後で捜索の依頼が出されたわけね」

「ああ。依頼人がその事実を知ったのが昨晩だったらしい。店を変えて、どこか別の場所で働いているのではないか……依頼人はそう考えていたようだった。それで行方を捜すようナイツへの依頼が出されたので、こちらでざっと調べてみると、さっき話したように涼城は失踪しているらしいことがわかった。こうなってくると、少し厄介だ。だから禊屋、その手の分野が得意なお前に任せたほうがいいだろうと判断した」

「ふんふん」


 禊屋は頷きながら、


「贔屓の子が急にいなくなったから心配したってとこか。そして捜し出して、また会いたいと思った……それって恋人を思う気持ちみたいなものかな? それとも、娘を心配する父親みたいな気持ちかね?」


 禊屋の問いに乃神は肩をすくめる。


「さぁな、知ったことではない」


 そんなことには興味が無い、と。


「三日前から失踪してるってことは、なにか犯罪に巻き込まれたって可能性もあるんじゃないか?」


 冬吾は尋ねる。乃神は頷いて、


「ないとは言えない。如何せん、失踪の手がかりはまだ殆ど何もない状態だ。可能性だけならばいくらでも考えられる状況だな」


 禊屋は両腕を組むと、花凛の写真を見つめながら言った。


「まあ、調べてみないことには始まらないよね。要するに、今回あたしたちはこの涼城花凛って人の足取りを掴んで、報告すればいいわけだ」

「そういうことだ。……外に車と運転手を用意してある。まずは彼女の務めていた店、EMCに向かってみてくれ。こちらから既に話は通してある」


 その後、「話は以上だ」と乃神が打ち切ったので、冬吾と禊屋は部屋を出る。


「人捜しねぇ。なーんか、思ってたより地味な仕事になりそうな予感」


 禊屋は少し残念そうな口調で言う。


「結構なことじゃないか。危ない目に遭わないなら、それが何よりだ」

「ま、それもそーか」


 とはいえ、危険はないだろうというのも現段階での予測に過ぎないのだ。乃神が言っていたとおり、今はあらゆる可能性が残されていると考えておいたほうがいいかもしれない。


「そういえば、お前の助手はどうしたんだ? ついてこないのか?」

「アリスのこと?」


 二週間前の事件の際、アリスという人物が禊屋に協力していた。まだ直接会ったことはないが、名前からして女だろう。禊屋は彼女のことを助手と呼んでいたから、てっきり今回の仕事にもついてくるのだと思っていたのだが。


「まあ、たしかに助手とは言ったけどさ。あの時はどうしても必要だったからそうしたけど、べつに毎回手伝ってもらってるわけじゃないし」

「あぁなんだ、そうなのか」

「うん。それにあの子は――あー……いや、まぁいいや」


 禊屋は何かを言いかけたのを撤回する。


「なんだよ?」

「ううん、なんでもない! 気にしないこと!」

「そう言われても……。そんなこと言われたらよけい気になるぞ。何て言おうとしたんだよ?」

「なんでもないったら」

「いや、でも――」

「もー、しつこい! そんなに乙女の秘め事が気になるとゆーのかね? あれかー? キミはヘンタイくんかー?」

「へ、ヘンタイって……」


 ちょっと気にしただけなのに、あんまりな言い草だ。


 こうなっては禊屋がなんと言いかけたのか訊き出すことはできそうもない。なんとなく、アリスに何らかの事情があるような口ぶりだったが、実際の所どうなのかはわからない。


 仕方がないので、別の話題を探すことにする。


「――あっ」冬吾は歩きながら思い出して、禊屋に言う。「そういえばさっき、社長に会ったぞ。エレベーターで一緒になった」

「薔薇乃ちゃんと?」


 今のはほぼ確信に近い推測だったが、やはり当たっていたようだ。以前に、このナイツ夕桜支社の社長は岸上という名であることだけは聞いていた。


「そーいえば、キミはまだ直接会ったことなかったっけ」

「ああ」


 ナイツに所属する手続きをする際にも、禊屋が仲介してくれたのでそもそも会う機会がなかったのだ。


「‥…にしても、驚いたよ。あんなに若いとは思わなかった。俺たちと変わらないくらいじゃないか?」

「一つ上だよ。今年で二十歳。現・岸上家当主サマの一人娘なのだ」


 どうりで只者ではない雰囲気があったわけだ。ナイツグループの創始者は先代の岸上家の当主だと聞いたことがある。ということは、薔薇乃はその孫に当たるわけだ。


「『美夜子によろしく』だとさ」

「よろしくって……別に会おうと思えばいつでも会えるんだけど。ま、薔薇乃ちゃんらしいや」


 禊屋は笑いながら言う。古くからの友人のことを語るような口調だった。


 『美夜子』とは禊屋の本名である。志野美夜子(しのみやこ)。ナイツ内部でも、彼女の真の名前を知る者はほんの一握りだそうだ。


「前にも思ったけど、社長とは随分親しげなんだな」

「まあね。そもそも、あたしが『ここ』に入ることになったのも、薔薇乃ちゃんと縁があったからだし」

「……そうなのか」


 禊屋の過去は謎に包まれている。以前に、彼女は自身がナイツに身を置くことになった理由を、『ある人物への復讐のため』だと語った。その時、冬吾は知ったのだ。普段の彼女からは想像もつかないような黒い感情が、その胸中には渦巻いているということを。


 それを彼女に決意させたのはいったいどんな出来事だったのか、それ以上の詳しい話を冬吾は知らないし、また禊屋も語ろうとしなかった。だから、冬吾はあえてそれを訊き出すような真似はしないつもりだった。気にならないと言えば嘘になるが……話すべきかどうかは、禊屋の判断することだろう。








 ビルの外に出ると、ミニバン車が冬吾と禊屋を待ち受けるように道路上で停車していた。運転席の窓から知った顔が覗く。


「よぉー、お二人さん。お久しぶり~」

「あれ……静谷さん?」

「織江でいいよー。そっちのが親しみわくし」


 静谷織江(しずやおりえ)。二週間前、冬吾が巻き込まれた事件の関係者の一人。アンニュイな雰囲気のある人物で、眠そうな眼が特徴的だった。細身で、明るい栗色の髪を頭の右側でサイドポニーにまとめている。歳は二十前半というところ。


「運転手って織江ちゃんだったんだ」


 禊屋が言う。


「まぁな~。社長からの指示がないときはこういう雑用くらいしかやることないんでね。ほら、さっさと乗っちゃってよ」


 織江は薄手の朱色のセーター袖を通した腕を振って、二人に促す。冬吾と禊屋はバンの後部座席のドアを開けて車内に乗り込んだ。


「あ、そうそう。これ、渡しておくから」


 運転席の織江は斜め後ろの席に座った冬吾へ、左手で何かを差し出す。銃だった。黒鉄色のオートマチック拳銃だ。


「今回の仕事はただの人捜しだし、危ない目には遭わないと思うけどさ。念の為にこれくらいは持っておいたほうがいいぞ、と。そう思うわけよ」

「あ……ありがとうございます」


 素直に受け取ることにする。安全だと思っていても、実際に何が起こるかわからないということは、二週間前に嫌というほど学習させられた。


 車を発進させながら、織江が話す。


「ベレッタM92SF。口径9mm、装弾数は薬室分も合わせて15プラス1。あんたにはそれが一番慣れてるんじゃないかと思ってね。いつも練習で使ってたでしょ」

「……たしかにそうですけど。なんでそれを?」

「なんでって、射撃場にいたの見てたし。何度か」

「いたんですか!?」


 ナイツに所属することが決まってから、冬吾は数回に渡って夕桜支社のビル地下二階にある射撃場へと足を運んでいた。気が付かなかったが、そのときの様子を織江に見られていたらしい。


 そこは海外の大手ガンショップにあるような本格的な射撃場で、メンバーズカードである社員証を提示することで冬吾も銃をレンタルして練習することができた。冬吾が練習のために使っていたのは、二週間前の事件の際に手に取るはめになった、因縁の銃と同型のものだった。少しでも馴染みのあるもののほうが使いやすいだろうと判断してのことだ。


 禊屋の仕事には命の危険が伴うものも多い。それに付き合っていくとすれば、今後は銃の力を必要とする場面もあるだろう。冬吾は銃に関して素人以外の何者でもない。少しでも銃の扱いに慣れておくことは、冬吾にとっての急務だった。自分と、そして、禊屋を守るためにも。


 もっとも、たった二週間程度の、それも独学の訓練では、たいして身になった実感もないというのが正直な感想だ。


「そういや、禊屋は銃を持たないんだったか?」


 以前にそう話していたのを思い出す。隣に座る禊屋が頷く。手のひらを開いたり閉じたりしながら、


「あたし、ぶきっちょだからさ。しかも銃って重いし……。だからあたしが使うと逆に危ないっていうか……キミに当てちゃいかねないもの。だから銃は持たないようにしてるんだ」

「……ぜひそうしておいてくれ」


 後ろから撃たれたんじゃかなわない。


「…………」


 冬吾は手に持った銃を見つめた。いざという時は、人を撃つことになるかもしれない。だが、それは守るための力の行使だ。その覚悟はもう出来ているつもりだ。二週間前、禊屋を守るために二人の人間を殺し、ナイツに入ることを決断したあの時から。


 冬吾は銃を右手で引き抜けるような位置で、ジーパンの後ろで腰との間に差しておくことにした。


「あのさ、一つ言っとくけど……」


 禊屋はいくらか声を落として、真面目な口調で言う。


「本当に危ない場面になったら、あたしなんか置いてさっさと逃げること。所詮素人が銃握ってるだけのキミが、無闇に戦おうなんてしちゃダメだからね」

「何言ってるんだよ。俺の役割はお前を守ることだろ? 俺の力が大したことないってのは、まあ、ごもっともだけど……お前を置いて逃げるなんてのは、絶対にあり得ない選択だ」


 二人の声は車載オーディオから聞こえるラジオの音に紛れて、運転席の織江には聞こえていないようだった。もしかしたら、聞こえないふりをしているだけかもしれないが……ともかく、知らぬ顔で運転を続けている。


「――でも、それで死んじゃったらおしまいだよ? いいからいいから、気にしないで。あたしがいいって言ってるんだからさ」


 禊屋はどこか、自分の生というものに諦観めいた考えを持っているところがある。自分の命などよりも、他者のそれが救われるべきである……といったような感じだ。もしかするとそれは、彼女の過去に起因するものなのかもしれない。


 たしかに、禊屋を犠牲にすれば自分が助かる確立は高まるだろう。しかし。


「……自分だけが助かるなんてのは、嫌なんだよ」


 そんな意識が自分の中に深く根付くようになったきっかけは、もう随分昔のことになる。今でも夢に見る、幼い頃の記憶。自分は助かって、別の者が犠牲になった。自分の責任ではないことを頭で理解していても、その過去は冬吾の胸に重くのしかかったままだった。もう、あの時のような思いはしたくない。だから、無謀だとわかっていても、全員で助かる道を諦めたくない。


 禊屋は黙ってしばらく冬吾を見ていたが、やがて「……ふぅん」とそれだけ言うと、窓の外をぼんやりと眺め始めてしまった。短い沈黙があってから、冬吾は続けた。


「とにかく、俺はそうと決めたんだ。何を言われてもこの考えを変えるつもりはない。逃げるなら二人でだ。そうだろ?」


 禊屋が小さくため息をつく。


「……やれやれ。甘いというかなんとゆーか……もっと自分を大切にすればいいのに」


 呆れたように禊屋が言う。彼女にそれを言われるのは二度目だった。


「お互い様だ。お前も、簡単に『自分を置いて逃げろ』だなんて言うなよな」

「あはは、たしかに。意外と似たもの同士なのかもねーあたしたち」


 禊屋はやや照れくさそうに笑った。


「……んじゃあ、もし危なくなったら、二人仲良くとんずらしましょうかねー」









 三十分ほど車を走らせて、朱ヶ崎のとある通りに停車する。


「ふぁ……あぁー……――っと」織江はあくびをしてから、「ほい着いた。そこが目的の店だよー」


 運転席から右側を指さして織江が言う。その先には辺りの雑居ビルが二、三棟ほど合体したような大きさの、洋風で豪勢な建物が鎮座していた。


 冬吾と禊屋は車から降りて、店を眺めた。


 壁は綺麗な白塗りで屋根はペイルブルー、豪勢な門構えの周囲には多様多種の観葉植物が植えられていた。門の上部にはプレートが掲げられ、金色の飾り文字で「Eastern Mistress Club」とある。


「おお……これはなんとゆうか……すごい……」


 冬吾は思わず感心する。ここまでくると、ちょっとした洋館である。さすがは会員制の高級店だ。


「なーんかキミ、ワクワクしてない?」

「えっ?」


 不意に禊屋に尋ねられ、冬吾はしどろもどろになる。


「い、いや、そんなことはないぞ」

「んー? べつに恥ずかしがらなくていいのにー。キミだって男の子だもんねー。うんうん」


 禊屋はにやにやと笑って頷く。


 いけない。これは、完全にからかいモードに入っている。なにやらろくでもないことを考えて勝手に納得しているようだが、まったくの誤解であることを説明しなければ、自分の名誉に関わる気がする。


「違うって! 俺はただ建物に感心してただけで……」


 正直に話しているはずなのに、何だか言い訳っぽい。すると禊屋が相変わらずのニヤニヤ笑いを浮かべて言う。


「なるほどなるほど、じゃあそういうことにしときましょー」

「おい、何か誤解してないか……?」


 するとそこで織江が運転席で手を打って制止する。


「はいはいーそこまでそこまで」


 そしてまた小さくあくびをしてから、


「あー、ねみー……。私は一度帰るけど、終わったらまた連絡してよ。迎えに来るからさー……そんとき起きてたらね」


 まさか帰って寝るつもりなのか? 勤務中くらいは我慢してほしい。


「わかった。ありがとー織江ちゃん」

「じゃ、お二人さん。お仕事がんばってー」


 織江はそう言って、また車を走らせていった。……居眠り運転でもしないか心配だ。


「ではでは、あたしたちも行きますか」


 禊屋はさっさと店に向かって歩き始める。冬吾は置いていかれないように早足でついていった。









「――申し訳ございません。当店は女性のお客様の入店はお断りしておりまして……」


 店に入って早々、高そうなスーツを着た男が出てきてうやうやしい態度で言う。


 入口近くは小さなラウンジのようになっていて、外観に劣らず、内装もきらびやかな装飾、調度品で揃えられていた。


「ああ、違う違う。こんな店にカップルで入るワケないじゃん?」


 禊屋は笑って言う。そこで店の従業員はようやく気がついたというような顔をして、


「あっ……ひょっとして、ナイツの方々ですか?」

「そ。あたしがナイツの禊屋。それで、こっちが相棒のノラね」

「どうも」


 冬吾は頭を下げる。男はほっとした様子だった。


「ああ、これは失礼いたしました。夕桜支社の方からお話は伺っております。うちのスズちゃんのことですね」

「スズ?」


 冬吾には聞き覚えのない名前だった。


「いなくなった涼城さんのことかな? 源氏名ってやつ?」


 禊屋が言う。


「そうです。うちで働く間は、スズという名前でやっていました」


 なるほど。そういうことか。


「申し遅れました。私はこのEMCの店長を務めさせていただいております、佐渡拳(さわたりけん)と申します。よろしくお願い致します」


 そう言って男は頭を下げた。年齢は五十前後、中肉中背の人の良さそうな男性だった。


「それでは詳しいお話は、奥のほうで……」


 佐渡に案内され、関係者用の通路を進む。 


「ナイツの誇る凄腕の探偵と伺っていたものですから、もっとこう、強面の男性をイメージしていたのですが……」


 カーペットの敷かれた通路を歩きながら佐渡が言う。たしかにハードボイルド小説に出てくる探偵のイメージはそのような感じかもしれない。


「いやはや、それがこんなお若く、それでいて可憐なお嬢さんだとは。驚きました」


 身内の贔屓目なしに見ても、禊屋はずば抜けた美少女だ。それはこの店で働く、選び抜かれた美女たちですら嫉妬心を抱くほど……かもしれない。


「私からも、涼城のことをどうかよろしくお願いします」

「ふふん。まあ、任せといてよ。なんてったって『凄腕の探偵』だからさ」


 禊屋は得意気に胸を張る。


「おお! さすが、頼もしいですな」


 佐渡も禊屋のことを信用しきっているようだ。実際、禊屋の探偵としての能力はたしかだ。それは冬吾自身が身を持って知っている。二週間前に不可解な殺人の謎を解き明かし、罠にかけられた冬吾を救い出してくれたのは他でもない彼女だったのだから。


 しかし、今回は前回のそれとは少し勝手が違うように思う。果たして人捜しという分野においても、彼女はその才覚を発揮できるだろうか?


 通路の突き当りに、少し広くなったスペースがあった。通路から壁で仕切られてはいないものの、小部屋くらいの広さがある。通路側から見て左側に白い扉があった。


「こちらです。事務所のほうとはまた別に、私が一人で使っている仕事部屋です。言わば店長室というところですかね」


 佐渡が扉を開いて中に入るように促す。冬吾はふと見た扉に、妙なものが付いていることに気がついた。


「あの、すみません。これは?」


 冬吾は扉のちょうど中央辺りを指さす。そこには、縦二センチ、横五センチほどの長方形の小さな蓋のようなものだった。蓋の左端にはでっぱったツマミが付いている。


「ああ、これですか」


 佐渡は朗らかに笑って言う。


「実は、この店は昔にちょっとした改装工事を行っておりまして。以前はここもプレイルームの一つだったのです。当時のサービスの一つに、『覗き部屋』というものがございまして……」


 佐渡が蓋のツマミを掴んで、右側へスライドさせる。すると、蓋の後ろから小さな円形の穴が現れた。


「元々ここは、お客様が覗きを行う小部屋になっておりました。このように、隣の部屋に待機している女の子の自然な状態を、扉の穴からこっそり覗いていただく……という趣のサービスだったのです。今となってはそのサービスも廃止しておりますが、後になってこの部屋を店長室として転用したので、扉はそのままになっているのです。穴を塞いでもよかったのですが、私のようなおっさんが仕事をしているのを好き好んで眺める人もおりませんでしょう? 覗かれて困るようなものを置いているわけでもありませんし……というわけで、そのままにしてあります。小部屋の壁と扉は、邪魔になるだけなので撤去しましたが」


 つまり、ここは元々、客が覗きを行う部屋と嬢が覗かれる部屋とが二つに繋がった場所だったのだ。それで、通路の途中までと比べてここだけ広くなっているのだろう。


「覗き部屋かぁ。ほんと、いろんなこと考えるねぇ」禊屋は面白そうに笑っていた。「でもでも、覗くだけで満足できるのかねー? 触ってみたくならないのかな? キミ、そのへんどぉ?」


 禊屋は冬吾に顔を寄せて尋ねる。


「なんで俺に訊くんだよ!?」

「追加コースの設定次第では、その後通常通りにプレイしていただくことも可能でしたよ」


 佐渡が律儀に説明する。


「ではこちらへ」


 そして扉を開けて、冬吾と禊屋を中へ入るよう促した。


 部屋の中は通路と同じくカーペット敷で、右奥に長く伸びていた。窓はなく、均質な壁が四面。天井及び壁の色は黒で、シックな雰囲気だ。


 あくまでスタッフが使う仕事用の空間だからだろう、外観や店入口に見られたようなきらびやかな感じはなく、調度品の類もそう多くはない。扉から見て正面奥には、横長のわりと大きな木製デスクと椅子、手前左側の壁際には木製のサイドボードが置かれてある。


 奥のデスクの上には辞書などの本が何冊か平積みされており、その横にはデスクトップ型のパソコンが置かれてあった。仕事に使うのだろう。


「ああ、座るところがございませんね。少々お待ちください」


 右奥に佐渡が移動する。そちらを向いたときの右手側――つまり扉のある側の壁際に沿うように、折りたためるタイプの長机が置かれてあった。その上には薄型のモニターがある。これも仕事に使うのか、あるいは休憩のときに何か観るためのものだろうか。


 長机の反対側には二人がけくらいの大きさのソファチェアがあった。佐渡はそのソファチェアを重そうに抱えてこちらへ運んできた。


「手伝いましょうか?」


 見かねて冬吾が尋ねる。


「いえいえ……大丈夫です、大丈夫……です、よっと!」


 佐渡はソファを置いて一息つく。


「ふぅ。では、こちらへ」 


 禊屋と冬吾に座るよう促す。二人が座ると、佐渡はデスク横の椅子をこちらへ向けて座った。


「それで、いなくなった涼城さんのことなんだけど」


 禊屋が切り出す。


「三日前に店を辞めたんだよね?」

「そうなんです」


 佐渡は頷く。


「いや参りました。その前日になってから、急に言い出したんですよ。店のトップに急に辞められては困ると、もう少しだけ我慢してもらえないかとこちらからもお願いしたのですが、どうしてもと言うので仕方なく……というわけで、三日前の二十日の勤務を最後に退職しております」

「前日になってから、ねぇ……」


 禊屋は少し考え込んだ後、また別の質問を投げかけた。


「店を辞めた理由はなんだったのかな?」


 佐渡は困ったように笑って、


「それが、教えてもらえなかったんですよ。まあ……従業員のプライベートにはなるべく踏み込まないように、というのがこの業界のルールでもありますから、あまりしつこく尋ねることもしませんでしたがね」

「そう、わかった」


 禊屋はそこで話を切り替えた。


「ところで今回の依頼は、この店のお客さんで、涼城さんを贔屓にしていた人からなんだけど……」

「ええ、それも伺っております。もっとも、スズちゃんを贔屓にしていた方というと結構な人数になりますので、その依頼主が誰かというのは私も知りませんが」


 冬吾たちと同様に、佐渡も依頼人の正体については知らされていないようだ。依頼人はナイツの重役であるという情報が佐渡に伝わっているかは不明だが、どちらにしろ今回の仕事には依頼人の素性は関係ないと思って良いだろう。


「涼城さんとは今連絡が取れないわけだけど、いつからそんな状態だったかわからないかな?」


 佐渡は首をひねる。


「……うぅん、どうでしょう。二十日に彼女が退職してからは、こちらから連絡を入れることもありませんでしたので。わからないですね」

「そっか……」


 乃神の話では、彼女の住まいは三日前から郵便物が貯まった状態だったという。ということは、二十日にこの店で最後の仕事をした後に失踪した、というのが一番考えられそうではある。


「ふぅん……」禊屋は考えこんで、眉間を人差し指でなぞる。「涼城さんが店を辞めた理由に心当たりとか、ないかな? 例えば実家に帰りたがっていたとか。恋人が出来たって話してたとか」


 佐渡は困ったような顔になって、


「さぁ……ちょっとわかりませんね。先ほどもお話しましたが、女の子たちのプライベートにはあまり踏み入らないようにしていましたし。私のわかる範囲で言うならば、そういった心当たりはありませんでした」


 そこで、佐渡はなにか思い出したようにハッとする。


「そういえば……昨日、涼城を捜しに訪ねてきた人たちがおりました。客としてではなく、です」


 禊屋の眼の色が変わる。重要な情報だと判断したらしい。


「それ、どんな人だった?」

「はぁ、それが……どうも、カタギの方ではないようでして」

「というと、ヤクザとか?」

「ええ、名前は名乗りませんでしたが、そう見えました。二人組で……」

「どこの組かわかる?」

「はい。あのバッジの形は、おそらく長良(ながら)組かと」


 冬吾はよく知らないが、この周辺をシマとしている組なのだろう。


「長良組ねぇ。この店はナイツの出資でやってるんだから、わざわざヤクザが近寄ってくる理由はないよね。


 ヤクザがこういった店をケツ持ちとして庇護下に置き、その代わりにみかじめ料をせしめようとするのはよくある話だ。しかしこのEMCに関してはナイツがケツ持ちの役割も兼任しているため、外部の人間が介入してくる余地はない。


「……その二人はどうして涼城さんを捜してたんだろう?」


 禊屋の質問に佐渡が答える。


「なぜ涼城を捜しているのか、ということも教えてはいただけませんでした。――ですがどこか、切迫しているようにも見えましたが」

「切迫していた?」

「ええ、焦っていると申しますか、こう……露骨にイライラされていましたね」

「急いで涼城さんを捜さなければならない理由が長良組にはあるってことかな……ふーむ」


 禊屋は指をパチンと鳴らして言う。


「こいつはなんだか匂ってきたね……キナの香りがさ」


 どうにも、一筋縄ではいかない仕事になりそうだった。








 佐渡からは基本的な情報を確認し終えたので、ひとまず話を終えた。佐渡はまだ仕事があるからと店のほうへ戻って行ったので、冬吾と禊屋は店長室に残ったまま、涼城花凛捜索について今後どう動くかを決めているところだ。


 禊屋の話では――裏社会において絶大な力を持つ組織であるナイツだが、世間でその存在を知る者は限られるという。裏社会に身を置いている人間ならば大抵は知っているだろうが、そこらのチンピラ程度の素人なら名前を聞いたこともないというのが殆どだろうとのこと。実際、冬吾も二週間前まではナイツなどという組織は聞いたこともなかった。


「――そうなると極道組織……いわゆるヤクザってのももちろんナイツを知ってる側に入るんだよね。長良組も前にナイツへ仕事を依頼してきたことがあるし。それも、組長の長良甚五郎(ながらじんごろう)直々にね。依頼そのものは、あたしには関係のないことだったけど」


 禊屋の話を聞きながら、冬吾は質問してみる。


「……ちなみに、その依頼ってどんなものだったんだ?」


 禊屋は人差し指を立てて言った。


「ナイツの仲介で兵隊を十人ばかしレンタル! 別の組との戦争で!」

「……なるほど」


 物騒な話だとは思うのだが、あまり驚かなくなってきている自分に対してやや複雑な気分だ。


 兵隊というのはつまり、殺し屋のことなのだろう。ナイツには多数の殺し屋が在籍している。その紹介・派遣によってビジネスを行っているのだ。要するに、犯罪専門の人材派遣会社といったところか。


「話を戻すけど、そーゆーわけでナイツと長良組には一応繋がりがあるんだよね。もしかしたら、涼城さんのことも詳しい話を聞かせてくれるかも?」

「じゃあ、これからどうするんだ?」

「んーひとまず本部に戻って――」


 禊屋が言いかけたその時、


「あああ、あの! すみませんっ!」


 扉を少し開けた隙間から、女性が顔を覗かせていた。肩を大胆に露出させた、赤いドレスを着ている。ここで働く女性従業員だろうか。


 セミロングの茶髪で可愛らしい顔立ちをしていた。かなり若く、ぱっと見で十八歳に到達しているかどうかも怪しいところだ。


「あれれ? 店長になにか用かな? もう店に戻ったよー」


 禊屋が後ろを向き、ソファの背もたれに顎を乗せながら言う。すると女の子はあたふたと首を横に振って、


「い、いいえ! そうではなくて、ですね。あの、スズさんを捜しに来られたお二人っていうのは……」

「あたしたちだけど?」

「やっぱり! あの、私、そのことで話したいことがあるんです!」

「あなたは?」

「あっすみません。私、安土啓恵(あづちひろえ)といいます」

「そっかそっか、よろしく啓恵ちゃん。とりあえず中にお入りよ」

「失礼します……」


 まるで自分の部屋であるかのように、禊屋は自然に彼女を招き入れる。啓恵は佐渡の使っていた椅子に座ると、一呼吸置いてから言った。


「スズさんなんですけど……いなくなる前に、ちょっと気になる話を聞いたんです」

「ほほう?」


 禊屋は興味を惹かれたように少し前のめりになる。


「スズさんが急に店を辞めたのが三日前、その更に前の日の深夜でした。あ、前の日っていっても、時間的には日付が変わった後ですけどね。私はもう退勤して家に帰った後だったんですけど、スズさんから電話があったんです」

「どんな内容の電話だったの?」

「前日に店を辞めるという話を聞いていたのは店長だけで、他の従業員は当日になってからそのことを知りました。でも実は、スズさんは私にだけそのことを教えてくれていたんです」


 啓恵の話を聞いてまとめると、大体このようなことになる。


 その日、啓恵と涼城花凛は深夜〇時までの勤務で、啓恵は既に夕桜町にある住まいに帰宅していた。花凛からの電話があったのは一時を少し過ぎた頃だったという。本来、店の従業員同士が連絡先を交換することはトラブルの原因になるとして店側から禁じられているのだが、啓恵と花凛はこっそり交流があったそうだ。だが、そんな時間に電話がかかってくるのは珍しいことだったという。


 着信に応じた啓恵は、花凛の言葉に大層驚いたそうだ。


『――仲の良いあんただけに話すけどね。実は、ちょっとした儲け話が当たっちゃってさぁ。稼ぎがいいからこの仕事してたけど、もう働く理由がなくなっちゃったの。というわけで私、もう店を辞めることにしたから。次のシフトで最後』

「ええっ!? それ、本当なんですか? と、というか、儲け話ってなんのことですか?」

『あはは、やっぱり知りたいよねー。でもあんまり話しちゃうと色々まずいから、ごめんね』

「はぁ、そうですか……。店長にはもう、辞めるってことは伝えてあるんですか?」

『うん、そのへんは大丈夫。ま、そういうわけだからあんたも頑張って。それじゃあねー』


 話した内容はそれだけだったという。


「儲け話……儲け話ねぇ」


 禊屋は考え込んでいる。


「啓恵ちゃんはなにか心当たりないわけ?」


 啓恵は無念そうに首を振る。


「いいえ……思い当たることは何もないんです。すみません」

「あなたは、涼城さんと仲が良かったんですか?」


 冬吾が啓恵に尋ねる。啓恵は一瞬何のことかわからないといった様子だったが、すぐに気がつく。


「涼城……ああ、スズさんのことですね! はい。私がこの店に入ってから三ヶ月ほどになりますけど、最初からよく私に構ってくれる人でした。それで連絡先交換しあって、何度か一緒にお買い物行ったりもしましたよ」


 啓恵はしみじみと思い返すように話す。花凛と啓恵は友好的な関係にあったようだ。


「私、なんだか嫌な予感がしてるんです。三日も家に帰ってないだなんて、スズさんに何かあったんじゃないかって。すごく心配で……だから、私からもスズさんのこと、よろしくお願いします!」


 啓恵は勢い良く頭を下げた。禊屋は軽く頷いて、


「うん、任せてよ。ところで、今の電話の話ってもう他の人には言った?」

「いいえ、まだ探偵さんたち以外には話してません。一応、スズさんが私にだけ話してくれたことですし。でも、今日になってスズさんが行方不明になってるって聞いて、秘密にしておくのはまずいかな、って……。だから、探偵さんたちには伝えておいたほうがいいと思ったんです」

「涼城さんが行方不明になってるって話は佐渡さんから聞いたんだよね? 店の他の人達もそのことは知ってるのかな?」

「はい。店長が皆に話していたので。スズさんを捜すためにナイツから探偵さんがいらっしゃるというのも店長から聞きました」

「ふぅん……うん、オッケー。話してくれてありがとね。あと、念の為に電話の話は他の人にはしないでおいてもらえるかな?」

「あ、はい。わかりました。じゃあ、私はこれで失礼しますね。スズさんのこと、よろしくお願いします」


 最後にもう一度そう頼み込んで、啓恵は退室していった。


「うぅーーー……ん」


 禊屋はソファチェアに深くもたれかかり、身体がずり落ちてしまいそうな体勢になりながら、唸っていた。髪をぼさぼさと弄りながら、


「三日のラグってのがなんとも厄介だなー。店を辞めてからすぐだったら足取りを追うのも楽ちんだったろーに」


 冬吾は隣で椅子からずり落ちていく禊屋を眺めながら言う。


「たしかにそうだけど……それを言ったってしょうがないだろ?」

「しょうがないけどー……しょうがないけどー!」


 禊屋は子どものように足をばたばたさせている。


 依頼人がナイツへ調査を依頼しなければ、そもそも花凛の失踪が発覚したかどうかも怪しい。ラグが三日で済んだのはむしろ幸運だったかもしれない。


「ねぇねぇ。キミは、今のところどう思う?」

「どう思うって?」

「涼城花凛は今、どういう状況にあるのかな?」

「そうだな……やっぱり、佐渡さんが言ってたヤクザのことが気になるかな。そういう連中から追われる事情があって、行方をくらませたとするなら……」


 禊屋が引き継ぐように言う。


「今も逃げ続けているか、あるいは、もうヤクザに捕まったか……かな?」

「そうだな。そして、その事情ってのは多分――」

「『儲け話』のこと。ほぼ間違いなくね」


 二人とも意見は共通しているようだ。


「だったらやっぱり、その長良組ってのに話を聞いてみる必要がありそうだな」


 もちろん、気は進まない。ヤクザと相対することになるのだから当然だ。それよりもっとたちの悪そうな組織に属しておきながら、思うことでもないかもしれないが……。


「ようし、じゃあとりあえず……」


 禊屋はそう言って立ち上がる。


「本部に戻って、長良組に話を通してもらおう。そうすりゃ、話の一つや二つ、簡単に聞き出せると思うよ……たぶん!」

「そうだったらいいけど……」


 一抹の不安を抱えながらも冬吾は椅子から立ち上がる。とにかく、今は他に手段が思い当たらない。禊屋の考えに従ったほうが良いのだろう。禊屋の後ろについて、部屋を出る。


 そのとき、前を行く禊屋が部屋を出てすぐのところで急に後ずさったので、彼女の後頭部が冬吾の顎を打ち上げた。


「がっ!?」

「うおー! びっくりした!」

「びっくりしたのはこっちだ! なんで急に後ろに――」


 じんじん痛む顎を押さえながら禊屋のさらに前方を見てみると、そこには佐渡が驚いたような顔をして立っていた。


「ああ、申し訳ありません!」


 どうやら禊屋は、佐渡が通路側から突然現れたので驚いて後ろに下がったらしかった。


「あの、大丈夫ですか?」


 佐渡が声をかける。


「うん、ちょっと驚いただけ。それで、まだ何か用かな?」


 ……あのな、佐渡さんは俺を心配して言ったんだと思うぞ?


「あ、はい……」


 佐渡は気まずそうにこちらに視線を送る。大丈夫です、と伝えるように頷いておいた。


「それがですね、先ほどお話した、昨日涼城を捜しに来た二人組なんですが……」

「うん。それが?」

「今、来ています」

「ん?」


 そのとき、通路側から声が聞こえた。


「――おお、こっちやこっち。こっちにおったわ」


 通路から二人の男が姿を現した。前の男が手招きして後ろの男を呼ぶ。前にいるのが上下白色のスーツを着込んだ背が低い男で、髪を整髪料でべったりと固めてある。眼鏡をかけていて、レンズには琥珀色が入っている。その後ろ側にいるのが前の男とは対照的に全身黒のスーツの、戦車のように屈強そうな男。五分刈りで右頬には傷跡があった。歳は白スーツが四十前後、黒スーツは三十前後くらいと見える。なるほど、たしかにカタギには見えない二人組である。


 佐渡が慌てた様子でその二人へ言う。


「ああっ、あの、外でお待ちくださるよう申し上げたはずですが……」

「まあまあまあ、細かいこと気にすんなや」


 白スーツの男は気安く佐渡の肩を叩いて横へどかした。男は眼鏡を手で少しずらして、禊屋と冬吾を値踏みするようにねめつけた。


「――なんや、二人ともガキやんけ。おい、ホンマにこいつらが涼城を捜しとるんか?」


 佐渡は苦笑いを浮かべつつ答える。


「え、ええ。ナイツから派遣されてきた探偵の方で……」

「はっ。ナイツってなぁ、こないなガキまでこき使うとんのかい。ま、見てくれだけはええみたいやけど……んー、あと五年っちゅうとこやな。まだガキすぎるわな、わはは」


 顎を撫でながら白スーツが言う。


「あのさ」禊屋は一歩前に出て、男に向かって言う。「さっきからガキガキうるさいんだけど?」

 口調は穏やかだが、明らかに不機嫌になっている。

「アホか。ガキをガキ言うて何が悪いんじゃ、ガキ」


 対して男は面白がるように言う。


「むっか……むかついた!」


 禊屋は威嚇するように唸った。冬吾は小さくため息をつく。二人とも出会って早々ケンカするなよ……。


「なにさ、バカみたいな白いスーツ着ちゃって……。言っとくけどそれ、ぜーんぜん似合ってないよ?」

「なっ……バカみたいとはなんや! これはわしの一張羅で……」


 白スーツは意外なほどショックを受けたようだった。怒って言う。


「人の格好をとやかく言うのは、あれや……あかんねんぞ!」


 今度は白スーツの後ろに立っていた黒スーツが一歩前に出て、やたらと低いが威勢の良い声で言った。


「大丈夫です兄貴! 今日もよくお似合いですよ」

「せ、せやんなぁ? このガキのセンスがおかしいだけやんなぁ?」


 白スーツの言葉に禊屋が憤慨する。


「んもう! ガキじゃないってば! 名前は禊屋、覚えてて。いい? み、そ、ぎ、や。りぴーとあふたーみー?」

「あぁん? 禊屋ぁ? ……ああ、どっかで聞いたことあるなぁ。何のときやったか忘れたけど。お前、知っとるか?」


 後ろの男に声をかける。黒スーツの男はゆっくり首を横に振った。


「いえ。記憶にありませんが……」


 その時冬吾は、禊屋が何か思いついたような嬉しそうな顔をするのを見た。一瞬だったが、間違いない。その禊屋が男二人に向かって言う。


「ふぅん……でもね。あなた達があたしのことを知らなくても、あたしはあなた達のこと、よく知ってるよ」

「なんやと?」


 意外そうな顔で白スーツが言う。禊屋は悪巧みするような笑みを浮かべていた。


「んなわけあるかい。わしとお前は初対面や。知っとるはずがないやろ」

「ところが、知ってるんだよねぇ。あなたが長良組の若頭補佐、天内貴虎(あまないたかとら)。で、そっちはその弟分の霧谷龍馬(きりたにりょうま)……でしょ?」


 二人はきょとんとしたように禊屋を見つめてから、


「…………合っとる」

「な、なんででしょうか……?」


 二人とも顔を見合わせる。なぜ自分達の素性が知られているのか不思議に思っているようだ。驚いたのは冬吾も同様だった。どうして今会ったばかりの相手の名前を言い当てることができたのだろうか?


「ついでに住まいの場所は――」


 禊屋は天内と霧谷のそれぞれの家の住所と思しきものをつらつらと暗唱した。それを聞いている二人の反応からして、その住所も合っていたようだ。


「ど……どうゆうことや。ナイツはわしらのこと調べとんのかい? 何のためにや?」


 禊屋は天内の戸惑う反応を楽しむかのようにわざとらしく首をかしげて、


「さぁー?」

「さぁー、て! さぁはないやろっ! くそっ、ええからちゃんと教えんかい。どこでわしらのことを知ったんや? 何か企んどるんちゃうやろな?」

「何か企んどるのはそっちやろー? この店になんの用やねん?」

「真似すんな!」

「出身は島根県なんでしょ? なんで関西弁なの?」

「うぐっ」


 なんだかわざとらしい関西弁だとは思っていたが、エセだったのか……。


「兄貴はミナミの帝王に憧れていらっしゃ――いたっ」


 桐谷が口を挟んで天内に頭をひっぱたかれる。


「余計なこと言わんでええっちゅうねん! くそったれ、むかつくわ!」


 天内が床を大きく踏み叩いて言う。


「あーほらほら、そんなに力むとまた腰を痛めるよー?」

「なっ……!?」


 天内は右手で自分の腰元を押さえる。


「な、なんでわしが昨日腰痛めたっちゅうことまで……」


 初対面のはずの相手が、自分のプロフィールに留まらずなぜそんなことまで知っているのか、天内は理解が及ばず困惑しているようだった。


「まさか、監視されとるんか? どこまでや、家までか? それとも尾行がついて……? 昨日病院行ったから、そんときか……?」

「しかし、尾行されていた気配はありませんでしたが……」


 霧谷も怪訝そうにしながら言う。


「そらお前もわしも、気づかんかっただけとちゃうんかい?」

「いや……そうかもしれませんけど」


 戸惑う二人を見ていた禊屋が、不自然にかしこまった口調で言う。


「おほん……ナイツの力を甘く見ていただいては困ります。あなた方の動きなど手に取るようにわかるというもの。悪いことは言いません。この店にちょっかい出すつもりなら諦めなさい。さもなくば……」

「ま、待った! 誤解や誤解! わしら別にこの店そのものに用があって来てるわけやないんや!」

「じゃ、何のために?」

「あんたらと同じや。涼城花凛ゆう女を捜してたらこの店に行き着いただけなんや」

「ふぅん……どうして涼城さんを捜してたの?」

「それは……ちょっと」

「あっそ! 黙ってるならそれでもいいけどさ。何かあっても知らないよー?」

「待て待て待て! べ、べつに話さんとは言うてへんやないか。とりあえず、場所変えよ? 外で話そうやないか、禊屋サン」


 取り繕うような苦笑いで天内が言う。出会って三分かそこらでここまで態度が変わるとは。


「おっけー、いいよ」

「じゃあ、店出たとこで待ってるさかい……」


 天内は霧谷を連れてその場を後にする。二人がいなくなったのを確認して、佐渡が禊屋に寄ってきて言った。


「いやぁお見事でした。さすが禊屋さんです。もう既にあの二人の調査を済ませていたんですね?」

「ふふーん? べつに調査なんてしてないよん?」


 禊屋は得意げな顔で答えた。


「そんなわけないじゃん? だってあの二人どころか、長良組が関わってること自体、ついさっき知ったばかりなんだしさ」

「はぁ、では今のは……」

「ちょっとしたハッタリだよ」

「はったり……」


 佐渡はピンと来ない様子だ。


「じゃ、あの二人とちょっと話してくるから。行こ、ノラ」


 禊屋は通路へ入りかけて、こちらを振り向いた。


「なにぼけっとしてんの、置いてくよ?」

「あ、ああ、俺か」


 まだいまいち、自分のもう一つの名前というものに馴染みが薄い。そのため咄嗟に呼ばれると反応が遅れてしまう。


 佐渡と一度別れ、店の入口へ戻る通路を歩きながら、冬吾は尋ねた。


「――で? さっきのは一体どういうからくりなんだ? なんであの二人の名前やら何やら言い当てることができたんだ?」

「からくりも何もないよ。あの二人の名前も住所も、たまたま知ってただけ。それを、さも尾行か何かつけて現在調査中であるように話した――たったそれだけのこと」

「はぁ? 知ってたって、なんで?」

「ナイツが長良組に兵隊を貸したって話をしたでしょ? その頃、長良組は長引く抗争で経済的に火の車でさ。ナイツへの報酬の一部をお金以外のあるもので補ったの。それが情報。組の構成員についての色んなデータをナイツへ渡したんだね。それで実質、長良組はナイツに逆らえなくなる。要は弱点を握られてるようなもんだからね。まあでも、そんなことしたら組内でも反発が起こるだろうし、多分、そのことは組長しか知らないんじゃないかな? だから組長直々にナイツへ依頼をしてきたんだと思う」


 他の組員は自分たちの情報が勝手にナイツへ売られているとは知らなかったわけか。なんとも、恐ろしい話だ。


「あたしは別件で前にそのデータをちらっと見たことがあったから、覚えてたことを話しただけだよ」


 簡単そうに言ってはいるが、ちらっと見ただけの内容を、ああもはっきり覚えているのは尋常の記憶力ではない。


「だから組長に話を通してもらって調査を進めることも出来たと思うんだけど、直接あの二人から訊いたほうが手っ取り早いと思ったからああしたの。それに、ちょっとだけいじめてやりたかったしね。んふふ」


 禊屋はいたずらっぽく笑って言う。後者のほうが理由の割合としては大きそうだ。


「でも、天内って人が腰を痛めてたってことも見抜いていただろ? 痛めたのは昨日だって言ってたし、あれはさすがにナイツへ渡されたデータにもなかったはずだ。どうしてわかったんだ?」

「あの人、湿布の匂いがしたんだよ」

「湿布?」

「うん。気付かなかった?」

「いや、全然」


 禊屋は記憶力だけでなく、鼻も良いのかもしれない。


「湿布を貼ってるってことは、身体のどこかを痛めてるってことは想像がつくよね。あとはあの人の動きを見ていれば、痛めているのが腰だってのはすぐわかったよ。そういうのは本人が意識してなくても、自然とその部分を庇うような動きになるからね」

「……すぐわかったって……わかるか、普通? そんな微妙な動きの違いで」

「わかるよ、フツーに。注意深く見ていればね」


 禊屋は平然として言うが、それはやはり類稀なほど卓越した観察眼が為せる業であるように思う。


 何はともあれ、禊屋の機転のおかげであの二人が涼城を捜している理由を訊き出せるようになったわけだ。その手際は、見事だったと感心せざるを得ない。


 長良組の二人がもたらす情報が、調査にどのような影響を与えるか……それを確かめるため、冬吾と禊屋はEMCの店外へと向かった。








「――今から三日前、うちの組で管理しとった金が盗まれとることがわかった。わしらは、それに涼城が関わってると見とる」


 天内は店を出て、横合いの裏路地へ入ったところで話し始めた。舎弟である霧谷は、立ち聞きする者が現れないように少し離れたところで見張っている。


「盗まれたって……どれくらい?」


 禊屋が尋ねる。


「まあ、そのへんはやっぱり気になるわな。驚くなよ……盗まれた額は、なんと三億や」

「三億って……」


 冬吾は驚いて思わず口に出していた。相当な額だ。 


 天内はスーツの胸ポケットから煙草とジッポを取り出す。煙草を口に咥えると、火を点けた。一口吸ってから続ける。


「――あんさんら、厚乃木(こうのぎ)建設っちゅう会社を知っとるか?」

「知らない」


 興味無さげに禊屋が言う。冬吾のほうは、その名前を聞いたことくらいはあった。


「少しだけなら知ってます。ビルやマンション建築の会社で、結構な大企業だったと思いますけど」

「せや。その厚乃木建設とうちの長良組は、昔から仲良しやったんや。ひじょーに簡単に説明するとやな……例えば、厚乃木側からの要請でわしらが他の建設会社に圧力をかけるとするやろ? すると厚乃木は業界内の入札、談合で優位に立てるっちゅうことになる。その見返りとしていくらかの分前をわしらは頂いていたわけや」


 つまり、厚乃木建設という会社と長良組は癒着の関係にあったということか。


「盗まれたのは、その資金や。組の金庫に保管されとったんやけど、二十日の夜に盗まれてるのが発覚した。資金の受け渡しは半年に一回で、一回につき一億が約束やったから、つまり、三億は取引三回分ゆうことになるな。実に一年と半年分の蓄えが綺麗さっぱり、空っぽになっとったわけや」

「わかんないなぁ」


 禊屋は髪の毛先を弄りながら言う。


「どうしてそれに涼城さんが関わってることになるわけ?」

「まあ、そう焦らんといてくれ。話はまだ続く」


 天内は一つ咳払いをしてから続ける。


「金庫を管理しとったんは、暮野彰宏(くれのあきひろ)っちゅう男やった。金庫を開ける番号を知っとるんは、組長と暮野の二人だけや。暮野はうちの若頭補佐で、真面目なだけが取り柄みたいな、面白みのない男でな。まあ、そういうヤツやからこそ、金庫番なんて任されとったんかもしれん」


 口ぶりからして天内は暮野という男のことを好いてはいないようだった。若頭補佐といえば、組内の階級では天内と同等ということになる。たいていの場合若頭が組長に次ぐ組のナンバーツーであるから、その補佐となれば組内ではおおよそ三番目の権力を持つことになるのだろうか。


「暮野は三日前に姿を消した。連絡もつかん。その前日が、ちょうど厚乃木からの賄賂の受け渡しがあった日でな。厚乃木から得た一億を金庫にしまった…‥つまり、最後にその金庫に触れたんは暮野やった。そうゆうタイミングのせいもあってか、誰が言い出したか知らんけど、念の為に金庫を調べておこうということになった。そしたら、案の定や」


 金庫の中は、空っぽだったのだ。


「三億ゆうたら、とんでもない大金や。そして、それを盗み出したんは間違いなく暮野やった。組長以外に金庫の番号を知っとるんはあいつだけやったし、それが発覚するのを恐れて姿を消したとしか思えん。わしらはなんとしても暮野を見つけ出して、金の在処を吐かせなあかん。……残念ながら、今もって暮野の所在はわかってへん。三日前からのヤツの足取りらしい足取りが、まったく掴めへんのや」


 ……だんだんわかってきた。長良組の金庫番である暮野彰宏が、金庫の金を盗んで姿を消したのが三日前。それは、涼城花凛がEMCを辞めて失踪し始めた日と同じだ。それは、果たして偶然なのだろうか?


「わしらなりに、ほうぼう歩きまわって聞き込みやらなんやら色々して暮野のことを調べとるうちに、ある事実がわかってきた。暮野は風俗遊びにハマっとったんや。どうも三ヶ月ほど前から、一人の女目当てに何度も同じ店に通っとったらしい。根が真面目な人間ほど、一度そういうのに手を出すとあっという間にずぶずぶ沈んでいくゆうことがよくあるけど、暮野はまさにそのパターンやった。その線で調べてみると更に驚くべきことがわかった。暮野が熱を上げとった女が、暮野がいなくなったその日に店を辞めとるやないか。……これは絶対、何かある。そう思うて、わしらは暮野と同時にその女、スズこと涼城花凛を捜すことにした。わしの読みでは二人は一緒におるはずや。どちらか一方の足取りが掴めれば、もう一方も芋づる式にズルリ、とゆうわけやな」


 暮野と花凛の二人は、風俗店の客とキャストの関係だった。その関係はいつしかそれ以上のものとなって、ついには暮野に、組に対して重大な背反行為を働かせるに至ったのだろうか? 盗んだ金を元手にして、二人で逃避行を演じるために?


「ふむ、にゃるほど」


 禊屋は頷くと、EMCの建物の方向を見て、


「それで昨日と今日、この店にやって来たんだね?」 

「そうゆうことや。わしらは今、少しでも暮野か涼城についての情報が欲しい。せやから涼城についてなにか新しい情報でもないかと、昨日に引き続いてちょいとお邪魔しとっただけなんや」

「それで、なにか進展はあったの?」


 天内はため息をついて首を振る。


「長良組は全力でその二人を捜しとるけど、正直なところ、成果らしい成果は上がっとらんわ」


 長良組のほうでも、めぼしい手がかりは掴めていない状況のようだ。


「わしらが涼城花凛を捜しとる理由はそんなとこや。そんで、あんさんらのほうは?」


 禊屋が答える。


「涼城花凛を贔屓にしていた客から、彼女が店を辞めた後の足取りを掴んでほしいって依頼があってね」

「なんや、そんなことやったんかい。ほならちょうどええわ。ここはお互い、協力し合おうや。な、禊屋サン?」

「協力ねぇ?」


 禊屋はどうしたものかと片眉を上げる。今の話に別段おかしなところはなかったようだが、それだけで簡単に天内たちを信じてよいかどうか、思案しているのかもしれない。


「わしらのほうでわかったことはあんさんらに教えるし、あんさんらのほうでわかったことはわしらに教える、そんだけのことや。悪い話やないやろ?」

「まぁ……そうだね。キミはどう思う?」


 禊屋は冬吾のほうを向いて言う。


「いいんじゃないか? こっちだって、得られる情報は少しでも多いほうがいいだろ」

「よっしゃ、決まりやな」


 天内は満足したようににんまり笑う。


「でも、協力し合ったところで行き詰まってることには変わりないよね。どこかアテがあるわけ?」


 禊屋の言うことはもっともだ。長良組が総出になって捜しているにも関わらずまだ見つかっていないということは、暮野及び花凛の捜索はかなり難航していると見て良さそうだった。


「それなんや。もうどこを捜したらええかもわからん。わしらのほうは暮野のヤサをもう一度見にいくつもりやけど、昨日も調べたばかりやしな。今更暮野が戻ってくるとも考えられんし……」

「家の中になにか失踪の手がかりはなかったのかな?」

「なーんも。鍵をぶっ壊して入ってみたけど、それらしいもんはなかったわ」


 禊屋は「ふぅん……」と言って眉間を人差し指でなぞる。


「……ところで、涼城さんの家はもう調べたの?」

「ああ、あっちは無理や」

「無理?」

「防犯がしっかりしたマンションでな。暮野のボロアパートとは勝手が違うんや。防犯カメラもあるし、部屋の鍵もカードキー式で頑丈。強引に調べようとしたら、わしらのほうが捕まってまう」


 ナイツの事前調査でも、郵便物が貯まっていたことを確認しただけで部屋の中までは調べていないと乃神が話していたのを思い出す。なるほど、良いマンションなら防犯システムはしっかりしているだろうし、そう簡単には侵入できないだろう。


「そう。ならそっちはあたしたちのほうで調べてみるよ」

「はぁ? あのな、今の話聞いとったか? 涼城のマンションは……」


 禊屋は人差し指を立てて、どこか含みのある笑みを浮かべて言う。


「――不可能を可能にする。それが犯罪組織というものなのです……んふふ」







 現時刻は午後八時を少し過ぎたところ。冬吾と禊屋は涼城花凛の住んでいるマンション、『エレーナ』へとやって来ていた。EMCから徒歩で十五分ほどのところにある、三階建てのマンションだ。高級というほどではないが、質はそれなりに良い部類に入るだろう。ナイツの調べによると、花凛の部屋は三階の角部屋にあるという。


 エレベーターで三階まで上がり、綺麗に掃除されたカーペット敷の内廊下を移動する。シックな色調の通路を照らす明かりはぼんやりと薄暗くて、なんとなくホテルの廊下を思わせる。


「――ところでキミ、こんな遅い時間まで出歩いてても大丈夫なの?」


 禊屋がふと思い出したように冬吾へ尋ねる。


「ああ。灯里にはバイトで遅くなるって伝えてある」


 灯里は兄のことになるとかなりの心配性になる。だから冬吾は普段からそういう連絡は欠かすことがないよう心がけていた。


「灯里ちゃんかぁ。元気にしてる?」

「まあ、元気といえば元気だ。……お前と会って話したいって言ってたぞ」


 禊屋と灯里は、二週間前の事件の際にほんの少しではあるが電話で話したことがあった。なぜだか、お互い相手のことを気に入ったようで、冬吾は灯里から禊屋について色々訊かれる羽目になった。しかし事情を考えれば禊屋のことはあまり話さないほうが良いだろうし、そもそも冬吾もまだ禊屋のことをあまりよく知らない。そのため、灯里を誤魔化すのには少々骨が折れた。


「あたしも灯里ちゃんに会ってみたいなー。機会があればねー」

「……お前がいいなら、休みの日にでも連れてこようか? もちろん、ナイツ関連の話は隠しておくのは当然としてだけど」

「お? ほんとに? 会っていいの?」

「あいつが会いたいって言ってるんだから、問題ないだろ? それにあいつの誤解を解いてもらうためにも、お前から言ってもらったほうがいいだろうし」

「誤解って……ああ、あれのこと? あたしとキミが恋人同士とかゆー」

「いくら説明しても聞く耳持たずで困ってる」


 あれは禊屋のただの冗談であったことをどれだけ一生懸命に伝えても、「そんなに恥ずかしがらなくていいのに」とか、「はいはい、わかりましたから。そういうことにしておくから」と、そんな具合なのである。


 禊屋はくすくすと笑って、


「いーじゃん、そのままで。おもしろそうだし」

「どこがだよ!?」


 そうこうしているうちに、花凛の部屋がある廊下の一番奥に辿り着く。


 部屋の前にはスーツ姿の男が立っている。乃神だ。禊屋はマンションへ向かう前にナイツへ連絡して応援を呼んでいたのだ。なんのための応援なのかは尋ねても「後のお楽しみ」と、はぐらかされてしまったが。


「もう来てたんだ。早かったねー」


 禊屋が手をひらひら振って言う。乃神はやや疲れたような顔をしていた。


「お前から連絡があったことを伝えたら、さっさと連れて行けと随分急かされたよ。まったく、静谷のやつが眠りこけてなければ俺がこんなタクシー運転手のようなことしなくても……」


 乃神はぶつくさと不満を漏らす。やっぱり寝たのか、織江さん……。


「ん? 連れて行けってどういう……」


 冬吾が言いかけてから、乃神の背後でカーペットに座り込んでいる少女の姿にようやく気がついた。茶色のハンチング帽、白いシャツの上に灰色のベスト、黒い半ズボンと、服装だけなら少年のようにも見えただろうが、帽子の下から覗いている背中まで届いた長く美しいブロンドの髪は、まさしく少女のそれだろう。歳の頃は、中学生になるかならないかというところだろうか。


 少女はカーペットの上に置いたノートパソコンに向かってなにやら凄まじい速さでキーボードを打鍵している。少女はふと、気がついたように顔を上げた。そのぱっちりとした蒼い瞳が禊屋を捉えると、嬉しそうに顔をほころばせた。


「わっ、もう来たんだ! ちょっと待ってて、すぐに終わるから!」


 そう言いながらより一層の速さでキーボードを叩く。やがて、部屋の扉のほうから「ピピッ」と電子音が鳴った。見ると、扉に付けられたカードキーの差込口に何かが差し込まれてある。モデムカードのような形状の機械で、根本から細いケーブルで少女の扱うノートパソコンに接続されていた。


「はい。これで開いたよ」

「開いたって……まさか、それで鍵を開けたのか?」


 少女が何者なのか尋ねるのも忘れて、冬吾は言う。


「うん。簡単だったよ」


 屈託のない笑顔で少女が答えた。どういう仕組みかはわからないが、あのカード型の機械とパソコンで、カードキーの情報を偽造したということだろうか?


 禊屋が一歩前に出て少女へ向かって言う。


「ごくろーさま、アリス」

「お姉ちゃんっ!」


 少女は勢い良く立ち上がって、そのまま禊屋に抱きついた。


「あのね! 私、役に立てたかしら!?」

「もちろん! 助かったよーありがとー」


 禊屋はくしゃくしゃと少女の頬を撫でる。


「えへへ、やったぁ!」


 じゃれつく犬とその飼い主という感じだ。尻尾まで見える気がする。……それより気になるのは、少女の名前だ。


「あっ、アリスって……もしかして」


 あの、アリスなのか?


「そーだよー?」


 禊屋が少女の顔を撫で回しながら言う。


「この子が『あの』アリスちゃんなのです」

「やっぱり、そうだったのか!」


 冬吾はアリスのもとへ歩み寄る。名前からして女だろうとは思っていたが、まさかまだこんな子どもだったとは。色々と訊いてみたいことはあるのだが、今はまず言っておかねばならないことがある。


「二週間前は、君のおかげで助かったよ。ずっとお礼を言いたかったんだけど、会う機会がなくて……」


 アリスは冬吾の顔をじっと見つめる。なんのことだかピンときていないようだった。そこで禊屋が仲介してくれた。


「アリス、覚えてる? 前にあたしのお手伝いしてくれた時の……」

「あーっ!!」


 アリスが思い出したように叫んだ。


「じゃあ、じゃあ、あなたがトーゴなのね?」


 一応、ナイツでの仕事中はノラというコードネームで通すようにしているのだが、こういう状況では素直に本名を明かしても構わないだろう。


「あ、ああ。戌井冬吾っていうんだ。よろしく――」

「私、あなたのことが嫌いだわ!」

「なっ…………はぁっ!??」


 少女からのいきなりの宣戦布告に、さすがに戸惑う。


「あなたみたいな人を助けるためだとわかってたら、お手伝いなんてしなかったわよ!」

「ちょ、ちょっと待て! なんでそんなこと言うんだ!? 俺、君に嫌われるようなことしたか?」


 会うのは今が初めてだったのに!?


「したわよ!」

「なにを!?」


 アリスはビッとこちらに人差し指を向ける。


「自分の胸に訊いてみなさい!」

「えぇ……」


 これは参った。さっぱり嫌われるような理由が思いつかない。


 アリスは興奮してずれ落ちそうになった帽子を手で直しながら、


「いーい? いつかあなたに思い知らせてあげるんだから! セップクも覚悟しときなさい!」

「そんなに!?」


 心当たりの無い罪を命で償えというのか……あんまりだ。というかセップクって。西洋人のような見た目からそんな言葉が飛び出すのにはどこかおかしさがある。言葉はとても流暢だから、日本人とのハーフだろうか……?


「おい。いつまで茶番を続けるつもりだ」


 乃神が呆れたようにため息をついて言った。


「用件が終わったのなら、俺は帰るぞ。アリス、お前もだ」

「えー。私のお仕事、もう終わりなの? もっとお姉ちゃんのお手伝いしちゃダメ?」


 アリスが乃神に言う。


「んー……あたしは別にいいけど?」


 禊屋の言葉にアリスは大喜びする。


「やった!」

「ダメだぞ」


 すかさず乃神が釘を刺す。アリスはむっとして、


「えー? なんでよぅ!」

「お前がいたところで調査の邪魔になるだけだ」

「ならないもん! さっくんだけ戻ってればいいでしょ」

「ダメだ。俺にはお前を常に目の届く範囲に置いておかねばならないという役目がある。引きずってでも連れて帰るぞ。あとその呼び方やめろ」

「んもー! さっくんのいじわる!」

「さっくんではない」


 さっくんこと乃神朔也は宣言通り、アリスの襟首を掴んで引きずるようにして連れて行く。途中、一度立ち止まって禊屋へ言う。


「三十分なら外の車で待っていてやる。それ以上かかるようなら先に帰るぞ」

「お姉ちゃん、がんばってねー!」


 アリスは手を振りながら、乃神と共に廊下の角へ消えていった。


「かわいい子でしょ? もうちょっと大きくなったら、あたしと同じくらいの美人になると思わない?」


 禊屋はどこか自慢気に言う。たしかに、西洋人風の見た目であることを差し引いてもかなり人目を引きそうな少女だった。禊屋と二人で並べば、それだけで一つの芸術作品として成立しそうなほどだ。


「あの子は、どうしてナイツに? まだせいぜい中学生くらいに見えたけど」

「ナイツに身を寄せる人なんて、大抵はなにか特殊な事情があるもんなんだよ。キミだって、そうだったでしょ?」

「まぁ、そうだな」

「あの子の場合もそう。境遇というか、環境というか……そういうのが、普通の人とはちょっと違ったんだよね」

「普通の人とは違う……」


 それは、あの子どものものとは思えない、いとも簡単にカードキーのセキュリティを突破してみせた技術とも関係があるのだろうか。


「そのあたりは、あたしから話すべきことでもないと思うから言わないでおくけど。キミも知る必要はないと思うよ……少なくとも、今はまだ、ね。……あっ、こんなこと言い方しておいて結局教えないなんて、怒るかな?」

「いや……」


 人にはそれぞれに過去がある。それを冬吾はよく理解しているつもりだった。だからそれを無理矢理に知ろうとは思わない。自分がそれを知るべきというなら、その機会は自ずと現れるはずだ。


「それより……なんで俺、あの子に嫌われてるんだ……?」

「んー……なんでだろうね? あんなにはっきり嫌いだって意思表示されるなんて、よっぽどだよ?」

「なんというか、これは……結構、へこむな」


 冬吾はため息をついた。せめて理由がわかればいいのだが。そうじゃないとこちらも改めようがない。禊屋が励ますように冬吾の肩を叩いた。


「ま、今度また訊いてみればいいんじゃん?」

「そう、だな……」


 落ち着いたらちゃんと話してくれるかもしれない。


「ところで。せっかく扉開けてくれたんだから、さっさと調べちゃおっか?」


 禊屋がドアノブを掴んで扉を引いた。冬吾は禊屋に続く形で部屋に入る。自分の意志でする、初めての不法侵入だ。


 玄関にはいくつかの女性ものの靴が並んでいる。玄関横の飾り棚にはどこかの民芸品らしき奇妙な形をした人形や、キャラ物の小物などが置かれていた。


「……そういえば、少し考えたんだけどね」


 禊屋がぽつりと言って、靴を脱いで中へと上がる。


「涼城さんは三日前にEMCを辞めてから足取りが消えている。誰かが目撃したって話もなく、連絡はつかないし、集合ポストのこの部屋宛ての郵便物も貯まっている状態だったから、失踪したと……そう思われていたわけだよね?」

「ああ。だって、ここに帰ってきているなら郵便物くらい取っていくだろ?」

「それなんだよね。……もしも、だよ? もしも……彼女が郵便物を回収したくとも、できない状態だったとしたら?」


 ゆっくりと廊下を進んで、奥のリビングへと向かう。


「だから、失踪したから回収できないって話だろ?」

「ううん、そうじゃなくて……『彼女は始めから、失踪なんてしてないんじゃないか』ってこと」

「……待ってくれ。それってどういう……?」

「……あのさ。気がついてた? あたし、この部屋に入ってからまだ電灯のスイッチに触れてないの。なのに……玄関も奥の部屋も、『明かりがついてる』」

「まさか……『まだ部屋にいる』のか?」


 思わず声をひそめた。この奥に、涼城花凛がいるというのか?


「どうかな……そうだとして、天内さんの話と併せて考えるなら、ここには暮野もいるはずだけど。そのわりには……」


 禊屋は玄関へと目を向けた。そうだ。玄関には男物の靴は一足もなかった。それに、明かりがついたままなのに、この部屋はあまりにも静か過ぎた。人の気配がないのだ。既に冬吾と禊屋の侵入に気がついていて、息を潜めているだけなのか……それとも……。


「ちょっと、覚悟しておいたほうがいいかもね」


 禊屋はそう言って、リビングへの扉のドアノブに手をかけた。冬吾は後腰に差していた銃へと手を伸ばした。いざという時の備えだ。しかし、心の何処かでその必要はないという予感もしていた。


 扉が開く。


 リビングにはフローリングの上に絨毯が敷かれ、普通のテーブルと、ソファと、テレビなどが置かれてあり、奥にはキッチンが見えた。何の変哲もないリビングだった。……ただ一箇所の異常を除けば。


「……うっすら、そんな気はしてたんだ」


 禊屋は静かに言った。


 部屋の中央で、女がうつ伏せに倒れている。死んでから時間が経過しているのだろう、ひと目で絶命しているとわかった。その顔は乃神から写真で見せられた、涼城花凛、その人だった。


「依頼は涼城花凛を捜せってことだったけど……ねぇ、キミ。こういう場合は……どうなるんだろうね?」

「そんなこと……俺にわかるわけないだろ?」 

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