第9話 策謀と決意と




 ……男たちの話す声が聞こえる。


「――にしても、改めて近くで見るとすげー美人だなぁこれ」

「ほんと勿体ねぇよ。これならいくらでも稼げるだろうに」

「クスリでトバしてペットにするってのはどうよ?」

「うわ、それはないない。ヤク漬けとか台無しだって」

「えー? 頭のいい女がまともな思考できなくなっちゃってるんだぜ、興奮しねぇ?」

「俺、女の子がかわいそうだと立たねぇんだよ」

「よく言うわ、ほんと……」


 禊屋はゆっくりと目を開けた。ここは……車の中?


 ミニバンタイプの車内のようで、後部座席を倒した上に敷かれたマットレスに寝かされていた。いつの間にか自分のコートは脱がされており、ブラウスとショートパンツのみの薄手の服装になっている。


「おっ、目が覚めたみたいだ」


 前には二人の男がいる。ともに年齢三十くらいの、小太りの男と、坊主頭にタトゥーの入った男。


「おはよう禊屋ちゃん。ごめんねー手荒いことしちゃって」


 小太りが下卑た笑みを浮かべて言う。


 後頭部がじんじんと痛む。……思い出した。あの角を曲がったところで、いきなり殴られたんだ。


「……送迎を頼んだ覚えはないんだけど?」

「余裕だな禊屋ちゃん。そそるぜ」


 坊主が言う。


 ……この状況はまずい。この男たちの目的が何なのかはわからないが、ろくなことではないだろう。車は停止しているが、後部座席側のドアは完全に男たちによって塞がれている。これでは不意をついて逃げ出すということもできそうにない。


 ……それに、なんだか身体がおかしい。熱病に冒されたように発汗し、呼吸が荒くなる。全身を甘痒いような衝動が襲ってくる。


「あなたたち……なにを……」

「薬が効いてきたろ?」

「薬……?」

「禊屋ちゃんが寝てる間にプスッとな。なに、別にヤバいもんじゃねえよ。ちょーーーっと色んなトコが敏感になるだけ」


 ……そのせいか。言われてみれば、首元に少し違和感がある。


「俺らな、禊屋ちゃんを殺すように言われてんだよ」


 坊主はニヤニヤと笑いながら言う。


「禊屋ちゃんみたいなかわいい子を殺すのは俺らだってやりたくないよ? でもやらないと俺らが殺されちゃうからさ。で、かわいそうな禊屋ちゃんに最後の思い出を作ってあげようと思ったわけ。どう? この思いやり」

「……最悪」


 禊屋は男たちを睨みつけて、それだけ言った。下衆すぎて言葉も出ない。


「あーだめだ。もう我慢できねえ」

「あっ……!」


 小太りに肩を掴まれ押し倒される。臭い息が顔にかかる。大きな身体にのしかかられ、禊屋の細い腕では到底どかせそうにない。


「おい、ずりぃぞ!」 

「うるせえよ。後で代わってやるから待っとけ」


 坊主は舌打ちをする。


「アキカワさんが来る前に済ませねえとまずい。急げよな」


 アキカワ……聞いたことのない名前だ。それよりも、自分を組み伏せているこの男に、禊屋は見覚えがあった。


「あなた……守衛の……」

「嬉しいねぇ。覚えててくれたのか」


 一度見たこと、聞いたことは忘れない。この男は、ナイツの守衛として働いていた男だ。支社内で何度かすれ違ったことがあるというだけだが……。


「じゃあ、あなたが……今日の事件の……?」

「正解。俺が神楽の指示でお手伝いしてたというわけ」


 自分を殺すように言ったのも、神楽の指示なのだろうか。その問いを発する前に抑え込まれる。


「へへ……役得だよなぁ。お前とヤレるなんて夢でも見てる気分だ」

「ひっ……!」


 男の舌が禊屋の頬を舐め上げた。全身に寒気が走る。必死に男から顔を逸らせて抵抗する。


「いやっ! やめて!」


 手を相手との間に挟んで逃れようとするが、絶望的なまでの体格差は覆せない。簡単に払いのけられてしまう。


 そうしている間にも男の手が禊屋の胸へ伸び、ブラウスの上から胸を乱暴に弄る。


「くっ……ふぅ、ん……! やだ、やめて……よぉ……」


 意思とは無関係に、身体を痺れるような感覚が襲う。


「何がやめて、だ。よくなってきたんだろうが、色っぽい声出しやがって」

「ちが……う……あっ……んっ」


 男が身体を擦り寄せるように密着させてくる。胸だけでなく内腿の敏感な部分も触られる。嫌悪感しかないはずなのに、甘い痺れが止められない、顔が上気する。


「はぁ、はぁ……離して……はなし、て……」


 嫌だ。もう嫌だ。どうせ助からないなら、はやく殺してほしい。

 男が胸元へ顔をうずめ、首筋へ舌を這わせた。


「んっ……ああっ……!」


 ぞわぞわとした感覚に、思わず身体を跳ねさせる。そのとき、僅かに男の拘束が緩んだ。男に悟られぬよう、禊屋はすかさずショートパンツのポケットに手を差し込んだ。


「ん?」


 違和感を覚えたのだろう、男が己の太腿に目をやる。そこには小さな折りたたみナイフが突き刺さっていた。護身用とするにはあまりに頼りない、禊屋が唯一持ち歩いていた武器だった。


「あっ……がっ!!」


 男は飛び上がって禊屋から離れ、ナイフを抜こうとする。


「やめとけって! もし動脈に刺さってたらヤバい!」


 坊主が忠告する。禊屋は呼吸を整えながら、男二人へ笑ってみせる。


「……は、は……ざまぁみろ。それで首切って死ねば?」


 発砲音がした。禊屋は右肩に衝撃を受けて叫ぶ。


「はっ……ぅああああっ!!」


 小太りが拳銃を持っていた。撃たれたのだ。禊屋の右肩からはおびただしい量の血が流れ出している。


「お……おいおい、殺す気か!?」


 坊主が慌てた様子で言う。


「ちげーよ。こいつ、俺らを煽って自分を殺させようとしたんだ。ああ殺してやるさ。生まれてきたことを後悔するほどの苦痛を味あわせてからな」


 小太りは禊屋に近寄ると、暴れられないように上からのしかかる。そして、未だ出血を続ける右肩の傷口に指を突っ込んだ。焼きごてを押し当てられたような激痛が禊屋を襲う。


「あ、ぐ……ああっ!! やめてやめて離して痛いっ!!」


 必死でもがくが、今度こそ男はびくともしない。


「あーあ、またかよ。お前の趣味にはついていけんぜ」

「黙ってろよ。俺はこれが一番興奮するんだ。女が苦痛に泣き叫んでる姿がよぉ」


 男の歪んだ笑顔が頭上にあった。悔しくて、惨めだった。この男の快楽に供するだなんて、それだけで耐え難い苦しみだった。


「もういい……! 殺してよ……お願いだから……!」 


 涙を流して懇願する。恥も外聞もない。一刻も早くこの地獄から逃げ出したかった。


「何言ってやがる。まだまだ――」


 そのとき、車のガラスをこんこん、とノックする音が聞こえた。


「あ? なんだ?」


 小太りと坊主がその方向を向いた、その瞬間――続けて何発もの銃弾がガラスを突き破って車内へ撃ち込まれた。合わせて八発か、九発か、かわすことなど到底不可能な連射――男二人はそれぞれ頭部と上半身に銃弾を受けて倒れる。血まみれで、もう微動だにしない。生命活動を絶たれたことは一目瞭然だった。


 禊屋は何が起きたかよくわからないまま、窓の外を見た。そして、その眼が大きく見開かれる。


「なん……で……」


 なんで、キミがこんなところにいるの?





 ――間が抜けているとしか思えない。冬吾はジーパンの後ろに拳銃を挟んだままであったことをすっかり忘れていたのだ。なんだかんだで長い時間そうしていたから、もう身体の一部のような感覚になっていたのだろう。


 さすがに、このまま持ち帰るわけにもいくまい。禊屋とあんな別れ方をした後でというのは気が重いが、仕方なく冬吾は来た道を戻って、ナイツの支社へと向かった。


 途中、缶ジュースが落ちているのを見つけた。オレンジジュース。中身が結構な量こぼれていて、飲み干した缶を捨てたようには見えなかった。


 ――嫌な予感がした。禊屋が飲んでいたものと一緒だ。ここで、彼女に何かがあったような気がしてならなかった。


 駆け出して、禊屋の姿を捜した。夕暮れは既に暗い色を落とし始めている。時間が進むほどに見つけるのは難しくなるだろう。しかし、禊屋の姿どころか、人一人として見当たらない。まるでこの街から自分以外の人間が消えてしまったかのようだ。


 そのとき、銃声が聞こえた。音の聞こえた方向へ走りだして、一台のバンを見つける。その中で行われていた所業を窓越しに見て、冬吾は瞬時に――自分がどうすべきかという結論を脳内で打ち出していた。


 自分を助けてくれた彼女が泣いている、傷つけられようとしている。――そんなことは許せない。見過ごせるはずがない。


 車内にいる男たちへの怒りで、冬吾は躊躇うことなく腰のベレッタへと手を伸ばした。スライドをしっかりと引いて、今度こそ撃てるようにする。男二人は銃を持っている。ならば、不意打ちでやるしかない。そうしなければ、彼女を助けることができないと思った。


「禊屋!」


 スライド式のドアを開けて、中で倒れている彼女へ呼びかけた。ぐったりと消耗しきった様子で、右肩からはひどい出血をしている。


「おい大丈夫か!? しっかりしろ!」


 禊屋を抱き起こすと、彼女はハッとして、その手を振り払う。


「逃げて! 人が来る前に!」

「え? な、なんで?」

「キミがこの人達を殺したってバレたら、もう無関係じゃいられなくなる。だから早く逃げて!」

「でも君を置いていくわけには」

「あたしのことなんていいから!」


 禊屋は車内から冬吾を押し出す。そのときだった。背後から聞き覚えのある声がしたのは……。


「まったく……驚くようなことをするな、君は」


 ぞっとするような気配を感じ取り、後ろを振り向く。


「神楽……!」


 そこに立っていたのは、冬吾を奸計へと陥れた張本人。昼間に会ったときと同じパンツスーツ姿で、火のついた煙草を右手の指の間に挟み、黒塗りのベンツに寄りかかっている。その隣には、スーツ姿の背の高い男が立っていた。二十代後半くらいの、顎ひげの生えた男。彼女の仲間だろう、こちらも油断ならない雰囲気がある。


「ほう、私の正体には気がついていたか」


 神楽は笑う、底の知れない不気味さを纏って。


「ならば改めて名乗ろう――伏王会差配筆頭、神楽。……よろしく」

「……何の用なの?」


 禊屋が冬吾の後ろの車内から顔を出す。まだ呼吸が荒いようだ。


「久しいな禊屋。お前と話をしにきた。ああ、ついでに戌井冬吾、君ともな」


 冬吾は憤慨する。


「ふざけんなよ……! お前のせいでな、こっちは死ぬほど迷惑してるんだ!」

「はははっ! そうだろうな。君が怒るのも当然だ」


 神楽は面白そうにそう言うと煙草を口にあて、紫煙をくゆらせる。


「――それにしても、よく助かったものだ。その幸運は誇っていいぞ」

「……人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」


 右手に持った銃を構えた。撃つつもりで構えたのではない、ただの威嚇だ。だが、必要となれば……。その覚悟を表明するために構えた――はずだった。


 発砲音がして、右手に鈍い衝撃が走る。手に持った銃が弾き飛ばされたのだ。銃は地面に転がっていく。


「なっ――!?」


 見ると、神楽の隣に立つ男が腰のあたりで拳銃をこちらに向けていた。銃口からは硝煙が立ちのぼっている。「あれ」に撃たれたのか? あの瞬時に、銃だけを狙って?


「聞こえなかったか?」神楽が言う。「私は話をしにきたんだ。野蛮な殺し合いには興味が無い」

「よく言うよ……」


 禊屋が痛みに耐えるように言った。


「あたしを殺すように命令したのは、あなたじゃないの?」

「それについては謝罪しよう。その命令を出したのは私ではない。このアキカワが独断でやったことだ」


 神楽の隣に立つ男が緩慢な動作で頭を下げた。


「お前の存在を伏王会の障害になると危険視したようだ。私の意図を伝えていなかったせいでもあるが、勝手なことをされてこちらも困っている」

「そんなこと言われて、信じろっていうの?」

「そう言うしかないのでね。こうして来たのはそこに転がっている二人を止めるためでもあった。まぁ、その必要はなくなったわけだが」


 神楽は冬吾のほうを見て笑う。煙草を横へ向けると、アキカワが携帯灰皿を取り出して灰を受け止めた。


「どうするって言うんだ? 俺を殺すのか」


 冬吾は緊張しつつ尋ねる。


「だから、殺しにきたのではないと言っているだろう。安心しろ。そんなカス二人失ったところで、私にとっては蟻に噛まれた程度のことでしかない。……本題に入ろう」


 神楽は冬吾の後ろの禊屋へ視線を向ける。


「禊屋。我々伏王会と共に行くつもりはないか?」

「……どういうこと? ヘッドハンティングのつもり?」


 禊屋も戸惑いを隠せないでいる。神楽は頷いた。


「まさしく。実は以前からお前には注目していた。今回の試験を経て、その能力は充分であると判断する」

「……試験?」

「今回そこの戌井冬吾を巻き込んで島原が起こした事件は、お前の能力を見極めるためでもあった。ちょうどいい機会だったからな。夕桜支社内で殺人が起きたら、お前が関わってくるということは容易に想像がつく。お前が事件を解決できたら私の目利きは正しかったことになるし、解決できないならそれはそれで島原を継続して使っていくことが出来る。どちらに転んでも私にはプラスだった」


 神楽は島原を助けるために一計を案じたのだと思っていた。しかし、真意は別のところにあったのだ。


「あたしを……試したの?」

「そういうことになる。どうだ、伏王会の顧問探偵となるつもりはないか? ナイツのそれよりも高待遇を保証しよう」

「話にならない」禊屋は即断した。「あなたみたいな人間の下で働くなんて、反吐が出る……!」


 神楽はやれやれといった様子で笑う。


「ふむ、嫌われてしまったか。正直に話せば理解を示してくれると思ったのだが。なかなかどうして、人の心理というのは難しいな、アキ?」


 アキカワは鼻で笑って頷いた。


「――だが、私自ら赴いてきたからには何の成果もなしというわけにもいくまい。少々汚い手を使わせてもらう」


 これまで汚い手ばかり使ってきた女が今更何を言う。冬吾は内心悪態をつく。


「取引をしよう禊屋」

「取引?」

「そこの男は私の部下を殺している。そして私の裁量如何でその処遇がどうなるかは決まる。賢いお前ならその意味がわかるだろう?」

「っ!……卑怯者」

「目的のためなら手段は選ばぬことにしている」


 ――なんて狡猾な。冬吾は歯ぎしりする。


 神楽は冬吾を人質にとったのだ。冬吾を無事に見逃してやる代わりに、禊屋に伏王会に入れと迫っている。


「……さぁ、どうする?」


 神楽は薄笑いを浮かべ、選択を迫る。


「……禊屋。俺が殺したのは俺の責任だ。君が俺のために伏王会に入ることなんてない」

「なに……何言ってんの!? キミは、あたしのせいで……」


 禊屋は泣き出しそうな声で言う。俯いて、拳を握りしめているのがわかった。そして、禊屋は神楽に向き直る。


「……わかった。その要求、呑む」

「……言ったな?」

「だから彼のことは見逃してやって」

「…………」


 神楽は煙草を吸って答えようとしない。禊屋は焦れたように、


「そういう約束でしょう!? あたしが伏王会に入ったら、彼のことは見逃すって」

「ああ。……満足した」


 神楽はアキカワの持つ灰皿に煙草を押し付けて捨てた。


「伏王会に入れと言ったな。あれは嘘だ」


 ……何を言っているんだ、この女は。


「……意味がわからないんだけど?」


 禊屋も同じ考えらしい。


「実のところ、お前を試しているうちに別の興味が湧いてきた。お前ともっと知恵比べをしてみたい。お前なら、私の退屈な日常に彩りを添えてくれるかもしれん。そのためには、仲間に引き入れるより敵同士であったほうが都合がいい」


 要するに、取引などと持ちだしたくせに、本気で禊屋を伏王会に入らせようとは思っていなかったらしい。からかっていただけなのだ。


「今回のことでひとまずは心の充足を得た。近く再戦の機会はあるだろう。その時を楽しみにしているぞ」


 神楽が話を打ち切りそうになったので、冬吾はそれを呼び止めた。


「待てよ。まだお前に聞きたいことがある」

「……なんだろうか?」

「お前は今回の事件で、俺と岸上豪斗の隠された関係を利用した仕掛けを用意していたな。そのためには、俺と岸上に血縁関係があったり、普段からナイフを持ち歩いてることを予め知ってなきゃならなかった。島原の話では、盗聴器を使って岸上についての情報を集めていたってことだったが、本当にそれだけなのか? 少なくとも、俺がナイフを持ち歩いてるってことは、それだけではわからなかったはずだ」


 つまり、神楽は岸上だけでなく、冬吾に対しても何らかの調査を行っていたことになる。


 それは一体いつからだ? 島原が神楽に報告したのは昨日のことだと言っていた。それから計画を考案したのであれば、冬吾への調査もそれからということになりそうだが、そうだとすると明らかに時間が足りないはずだった。


「……これは驚いた。君は思っていたより賢いな」


 神楽は感心したように言う。


「その慧眼に敬意を表して、一つだけ教えてやろう。私はずっと以前から君のことを知っていたんだ。だから父親の形見のナイフを持ち歩いていることや、病身の妹のことを何よりも大切に思っているなどということも、当然知っている」


 神楽の口から妹のことが発せられ、冬吾は戦慄する。


「どうして……!?」

「さぁて、どうしてだろうな? これより先は自分で考えるがいい」


 神楽は面白がるようにそう言ってから、ふと何か思いついたように考え込む。


「……期待してはいなかったが、案外、君も興味深い人間のようだ」


 神楽は更に、耳を疑うような台詞を続けた。


「ただ安穏と暮らさせておくには惜しいな。私は闘争においてこそ人の真価が見えると考えている。……選ばせてやる。ナイツか伏王会、どちらかに入ってもらうとしよう」

「ふざけないで!」禊屋が激昂する。「彼は関係ないでしょ?」

「関係ないだと? そんなことはあるまい。その男は、うちの構成員をもう二人も殺しているんだ。立派な闇の住人さ」


 神楽は冬吾を見て言う。


「さぁどうする、戌井。伏王会に入るというなら私が口を利いてやろう。――言っておくが、どちらにも入らないというのはナシだ。その選択をすれば君の妹を殺すぞ」


 極めて冷淡に神楽は言ってのけた。脅しなどではなく、本当にそうするつもりだと確信させるだけの凄みがあった。


「てめぇッ――!」


 思わず掴みかかりそうになるが、アキカワの持つ銃がこちらを狙っていつでも撃てる状態であることに気がつく。悔しさに歯噛みする。これでは何もかも相手の思うがままではないか。神楽は嘲笑しつつ言う。


「忘れるなよ。私がその気になれば、君も、その周囲の人間も、まとめてこの街から消し去ることなど造作もない。組織の人間を二人も殺されて、それを許してやろうというんだ。これは極めて寛大な処置だと思え」


 ……今はこの女の言うことに従うほかない。


「君にとっても悪い話ではあるまい? この世界に身を置いていれば、父親の死の真相にだっていつかは辿り着けるやもしれんぞ?」

「お前、親父のことも何か知ってるのか!?」


 神楽はその問いに対して肩をすくめるのみだった。たしかに、岸上のことを盗聴していたのなら何かしらの情報を掴んでいたとしてもおかしくはない。


「……さて、どうするんだ?」


 神楽が決断を迫る。……迷う余地はない。


「……ナイツだ。俺はナイツに入る」

「ふっ……そう言うと思ったぞ」


 神楽は満足気に微笑む。


「ご満悦か?」

「ああ、実に愉悦。これから面白いものが見られそうだ」


 この女はきっと、物事を自分にとって楽しいかそうでないかという基準でしか見ていないのだろう。その上で、自分が損をしないように上手く立ちまわっている……たちが悪いとしか言い様がない。


「君の動向は、折を見つつ観察させてもらうとしよう。こちらからどうするということはないが……私を興ざめさせるような真似は控えてくれよ? 飽きた玩具は壊したくなる」

「……それは、脅しか?」

「さて……どう判断するかは、君次第だが?」


 ……つまり、これから先も断続的にこの女から監視されるということか。だが裏を返せば、神楽の不興を買うことさえなければ灯里に危害が加えられることもないと考えられる……。

 

 しかし……目的が見えない。神楽は本当に、ただ面白いからという理由だけでこんなことをしているのだろうか? だとしたら、島原が言っていたように、頭はキレるがそれ以上に狂人であるという評も頷けるが……。


 冬吾は神楽を警戒して睨みつけていたが、ふと思い出して言う。


「――そうだ。お前に預けているものがあっただろ。返せよ。大事なものなんだ」

「預けて……ああ、これか?」


 神楽が軽く腕を振ると、袖の下から抜き身のナイフが出てきた。手品師か何かか、こいつは……。


「私にとってはどうでもいいものだ。返そう」


 神楽は柄の方を冬吾へ向けて差し出す。冬吾がそれに手を伸ばそうとした――その時。


 神楽は手首を捻ってナイフを回転させると瞬時に持ち直し、冬吾の首元へ突きつける。その早業に身じろぐ間もなく、冬吾はただ息を呑んだ。


「い……いきなりなにを」

「私と君はもう敵同士なんだ。生き残りたいのなら、今のような油断はなくすことだな」


 くすっと笑って冬吾の肩を叩くと、今度はきちんと柄のほうを向けて押し付けるようにナイフを渡す。それを受け取って冬吾は言う。


「余計なお世話だ」

「では私はこれで失礼する。また会えるのを楽しみにしているぞ」


 神楽はそう言い残してベンツの後部座席に乗り込む。アキカワが運転席に座って、車は走り去っていった。


 それを見届けると、冬吾はすぐに禊屋のほうを向いて言う。


「禊屋! 大丈夫なのか、傷は!?」

「え? あ、ああ、うん」禊屋は戸惑ったように頷く。「弾は外側をかすっただけで、骨やすじに当たったわけじゃないし。血は出てるけど見た目ほどひどくはないよ、多分。縫うくらいは、するかもだけど」

「じゃあ、やっぱり病院に行ったほうがいいんじゃ……」

「医者をナイツに手配してもらうから大丈夫。……ごめん。車の中にあたしのコートがあると思うんだけど、探してくれる?」

「あ、ああ……任せろ」


 禊屋は、自分で車の中を探すことも出来ないほどに消耗しているのだ。冬吾は後部座席の下から、禊屋のモッズコートを見つけ出した。


「ポケットに、ハンカチと携帯入ってるから……あたしに……」


 言われたとおりに禊屋へ渡す。


「ありがとう……あ、そっか」


 禊屋は気がついたように言うと、とろんと蕩けたような目を冬吾へ向ける。


「ねぇ……縛ってくれる?」

「えっ!? しばっ……!?」

「止血。ハンカチ、自分じゃ巻けないから」

「あ……ああ、なるほど」


 そりゃそうだよな。こんなときに、なにアホなことを考えているんだ俺は……。


 ハンカチを禊屋の右の腋から通し、肩の傷口へ布をあてがうようにして強く縛る。


「んっ……」


 禊屋は一瞬痛みに表情を歪めた。


「あ……悪い! 痛かったか?」

「大丈夫、痛いくらいでちょうどいいよ……ふぅ。これで一安心。ありがと」


 禊屋は弱々しいながらも微笑んで言う。これくらいお安いご用だ。禊屋は続いて、携帯でどこかに電話をかけ始めた。


「――うん。じゃあ、そういうことだから。詳しいことはまた後で」


 禊屋は電話を切る。


「お医者さんと、その死体の処理も頼んどいたから。あとは向こうに任せておけばいいよ」

「死体の処理……って、そんなことまでやってるのか、ナイツって」


 そんなものどうやって処理するのか気にはなるが、知らないままでいたほうがいい気もする。


「…………ありがとう。キミが来てくれなかったら、死んでたかもしれない」


 禊屋は車内のマットレスの上で、俯いたまま座っている。冬吾が来なかったとしても、神楽があの二人を止めていたかもしれない。だが、冬吾は自分のした行為を後悔してはいない。人殺しが正しい行為とは思わないが、それを理解した上で、あの二人を許すことなどできるはずもなかったから。


「いや……夢中になってて、よく覚えてないんだ。でも、これで助けてもらった借りは返せたかな」

「うん……」


 禊屋は頷く。そして、続けて言った。


「…………ごめんね」

「なにが?」

「あんな偉そうなこと言ったのに、結局、あたしのせいでキミを巻き込んじゃった。謝っても許されるとは思わないけど――」

「やめてくれ。謝る必要なんてない。こうなったのは成り行きで……誰が悪いって言うなら、あいつらが悪いに決まってるだろ」

「そうかもしれない……けど、それでもあたしは、キミを巻き添えにしたくなかった」


 禊屋は自責の念に囚われてしまっているようだった。けれどそれは、感じる必要のない罪悪感だ。


「……その、おかしな言い方になるんだけどな」


 冬吾は言うべきか迷いつつも続ける。


「俺は、この成り行きもありだと思ってるよ」

「え……?」


 禊屋はきょとんとした眼で冬吾を見る。


「もちろん、大変なことになったってのは間違いないし、この先どうなるのか不安だらけではあるんだけどさ。俺は、これで良かったと思える部分もあるんだよ」

「……お父さんのこと?」

「親父がなぜ死んだのか知りたいっていうのも、その一つではある。……でも、もっと大事なことがあるって気がついた」

「……なに?」

「それは、だな……」


 冬吾は気恥ずかしくなって目を逸らし、鼻先を掻きつつ言う。


「その……つまり、君とまた会えるのが嬉しいってことなんだ」

「へ……? あ? えっ?」


 禊屋の顔がみるみる紅潮していく。自分も同じくらい赤くなっているのかもしれない。冬吾は勢いに任せて続けた。


「俺は君のことをもっと知りたい。君の味方になりたい。だから、今日のことは不幸なんかじゃないって思える。……そういうわけだから、君には笑っていてほしい」


 思いの丈を言い切って、禊屋のほうを見た。彼女はなぜか向こう側を向いている。


「……禊屋?」

「……よく、そんな恥ずかしいこと言えるよね。笑っちゃうよ、ほんとに……」


 小さく、震える声でそう言うのが聞こえた。


「……ああ、笑ってくれ。そうしてくれたら俺も嬉しい」


 禊屋は手で目元を拭うようにすると、こちらを向く。彼女らしい、元気な表情が戻っていた。


「――うん。そうなってしまったもんは、しょうがない! じゃあ、これからキミはあたしの相棒ってことで。それでいい?」


 冬吾は彼女の表情を見て安心し、頷く。


「わかった」

「色々とこき使うから覚悟してよね」

「それは……程々にしてほしいな」


 禊屋はふと、何かを思いついたような顔をして、


「……うん。キミには教えてもいいよね。というか、知っておいてもらいたい、かな」

「何のことだ?」

「美夜子」

「え?」

「志野美夜子(しのみやこ)。それがあたしの本当の名前。相棒なら、そのくらい知っておくべきでしょ?」

「……そうか。そうだな」


 志野美夜子。噛みしめるように胸の中でその名前を反芻した。


「じゃあ、改めてよろしく、ノラ!」

「の、ノラ……って?」

「この世界でやっていくなら、キミにも新しい名前が必要でしょ? ノラってどう? あたしが考えたんだけど」


 たしかに、偽名があったほうが何かと便利ではあるかもしれない。しかし。


「……それってもしかして、野良犬から来てるのか?」

「あ、バレた?」


 彼女はてへっと舌を出す。


「いやわかるよ!」

「いーじゃん、ノラで! かわいいよ?」


 ……かわいいか?


「はぁ……まぁ、好きにすればいいんじゃないか?」

「じゃ、ノラでけってーい! わーい!」


 彼女は嬉しそうにパチパチと手を叩く。簡単に決めてしまったが、本当にこれで良かったのだろうか?


 彼女は右手を冬吾へ差し出す。


「これからよろしくね、相棒クン?」


 そう言う彼女の瞳は、活き活きとした輝きに溢れている。それを見ると、前途多難であろう未来の不安も薄れていく気がした。冬吾はその手を力強く握り返す。


「こちらこそ、よろしく頼む」

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