第8話 近くて遠い向こう側
外へ出た時には、日が暮れ始めていた。やけに朱い夕日が、夕桜という名の街を染めている。パン屋の閉店までには間に合いそうもないが、なんとか今日のうちに家に帰ることが出来そうだった。そうしたら、また灯里にも会える。
――助かった。冬吾は沸々と安堵の気持ちがこみ上げてくるのを感じた。何度死を覚悟したかもわからない。ほんの数時間の出来事でしかないが、このことはきっと生涯忘れないだろう。あまりに、強烈な体験すぎた。
「いやーほんとよかったねー、無事に帰ることが出来て」
並んで歩きながら、禊屋が言った。近くまで見送ってくれるつもりらしい。裏通りのこのあたりは、この時間でもひっそりと寂しい。自分たち以外の人の姿は見当たらなかった。
「本当に助かったよ。なんてお礼を言ったらいいかもわからない。……けど、言うべきことは言っておくよ。ありがとう」
「んふふ、どーいたしまして」
彼女もどこか嬉しげで、足取りが軽快だった。
「それにしても、残念だったね。結局、お父さんのことはよくわからないままで」
「ああ……」
あの後、オフィスルームに残されていた岸上の荷物を調べてみた。しかし、岸上が冬吾に伝えようとしていたこと――千裕の死について何かわかりそうなものは残されていなかったのだ。
千裕の死の真相は岸上の頭の中だけにあって、そのまま永遠に葬り去られてしまったのだろうか……。
知りたかった。四年前の秋、尊敬する父が殺されたあの日に、いったい何があったのか……なんとしても、知りたかった。
今でも、あの頃の記憶は鮮明に思い出せる。あの事件がきっかけで、灯里は病に伏せってしまったのだ。元々病弱ではあったが、父の死によるショックで体調を崩したのがまずかった。今では学校へ通えるほどに回復しているが、あのときの灯里は生死の境を彷徨うほどに衰弱していたのだ。一歩間違えれば、あのときに灯里は死んでいたかもしれない。
冬吾にとってもそれは辛い日々だった。悲しみと不安で押し潰されそうになった。ある人が助けてくれなければ、冬吾は立ち直れなかっただろう。それほどに、あの事件は冬吾にとって忌まわしい出来事だったのだ。
自分がどうしたところで岸上が殺されるのを止められたわけじゃない。しかし……それでもだ。どうしようもなかったというのはわかるが、重大なチャンスを無駄にしてしまったという感覚はやはりある。果たしてこの先、これほどのチャンスがあるだろうか? もしかしたら、もう…………。
「……大丈夫?」
禊屋が心配そうに冬吾の顔を覗き込んだ。気づかぬうちに、暗い顔になっていたようだ。
「あ、ああ……平気だよ」
「そう?」
「ところで……ああいうことは、よくあるのか?」
話題を切り替えようと、冬吾が尋ねる。禊屋は歩きながら、
「ああいうことって?」
「島原がああなったみたいに、追い詰めた犯人に逆上されることがさ」
「んー……それなりには。今思えば、さっきのはちょっと迂闊だったかも。ちゃんと銃を没収してから話すか、乃神さんあたりの抑止力になるような人を同席させておくべきだったね」
たしかにそうかもしれない。終わったことを後悔しても仕方がないが。
「いやー、ノリと勢いってのは怖いね。これからは気をつけよっと」
禊屋は反省しているようだが、ノリと勢いであれをやっていたというところが実に危なっかしい。
「それなりにって言ったけど、それってつまり、その度に殺されかけてるってことだろ」
「うん。でもほら、かけてるってだけで殺されるとこまではいってないし」
「そりゃそうだろうけど……」
住む世界の違いを実感せざるを得ない。
「……俺、これからどうしたらいいんだ?」
冬吾は気にかかっていたことを尋ねた。禊屋は小首を傾げ、
「これから?」
「ほら、君が俺を雇うって話」
禊屋は笑う。
「ああ、そのことね。気にしないで。あれはあの場を切り抜けるためのでまかせだから」
「でまかせ?」
「そ。ああでも言っておかないと乃神さんを説得できそうもなかったからね。キミはこのまま家に帰って、明日からはいつも通りの日常に戻れるよ」
「でも、あれがでまかせだったと乃神が知ったらまずいんじゃ?」
禊屋はひらひらと手を振る。
「ないない。元はといえば、あんな強引にキミを処刑させようとするのがおかしいんだもん。伏王会がどうのとか言ってたけど、キミが知ってるナイツの情報なんてほんとーーに、ごく一部でしかないの。そんなことのために伏王会が動くだなんて、ちょっと考えられないよ」
「……言われてみれば、そうかもな」
なんだか拍子抜けした気分だが、事実、冬吾がナイツのことについて知っていることは少ない。わかるのは様々な犯罪絡みの仕事を手がける大規模な組織であるということくらいで、建物の詳しい構造や、社長というのがどんな人間なのかも知る機会はなかった。
「そういうわけだから、こうやって一度外に連れ出して、向こうが手を出せなくさせてしまえばもうこっちのもん。なんならあたしから社長にかけあって、もうこれ以上ナイツがキミに干渉しないようにさせるからさ」
「ああ、それはありがたいよ。でも……」
「安心していいよ。社長はそのへん、話のわかる人だし」
冬吾は首を横に振る。
「いや、そうじゃなくて……それがハッタリなのはともかく、そのためにキミが支払った一億は、戻ってこないんじゃないのか?」
ナイツという組織と禊屋の仕事内容を考えれば、それなりに高額の報酬を受け取っていたとしても不思議ではないが、それでも一億が安い金額であるとは思えない。
「まーそうだね。あたしがこの仕事始めてからこれまでの稼ぎが殆どパー」
「うわ……」
「返してくれる?」
禊屋は手の平を差し出すようにする。冬吾のみるみる青ざめていく顔を見て、彼女が笑う。
「あはは! 冗談! いいよ別に、一億くらい。貯金はしてたけど、使うあてがなかったしね」
「そうは言っても、俺の気持ちに整理がつかない。……すぐには無理だけど、少しずつならなんとか」
……返済まで、いったい何年かかるかわからないが。
「いいって言ってるでしょ。あたしはお金には興味ないの。その一億は天から降って湧いたもんだと思いなさい、わかった?」
禊屋の勢いに押され、冬吾は曖昧に頷く。
……金には興味が無い、か。冬吾はふと、あることが気になった。いや、思えばそれは、最初からずっと気になっていたことでもあった。
「……禊屋。一つ、訊いてもいいか?」
「ん? なに?」
「君はなんでナイツにいるんだ? 金のためじゃないなら、どうして」
「…………」
それから少し歩いて、禊屋はふいに歩みを止めた。先へ行きかけた冬吾も立ち止まって、彼女のほうを振り向く。彼女は俯いていた。
「……悪い。答えたくないなら、答えなくていいぞ」
「……復讐」
「え……?」
禊屋の口から、彼女には不似合いな物騒な言葉が飛び出した。
「復讐のため。それが、あたしがナイツに身を置くただひとつの理由」
「……どうして、ナイツにいることが復讐に繋がるんだ?」
「その相手は、今どこにいるかもわからないんだ。裏の世界に精通した人間が本格的に行方をくらまそうとしたら、まず普通の捜し方じゃ見つけることはできない。でも、この仕事を続けていればナイツに集まる多種多様の情報を得ることが出来る。そうすればいつかは、そいつに辿り着くことが出来るかもしれないって……そう思ったの」
禊屋はそう説明した後で、肩をすくめて笑った。
「無益で一人よがりな、ただの私怨だよ。大した理由じゃなくて、幻滅した?」
「いや、そんなことは……」
幻滅なんてするものか。ただ……驚いたのはたしかだった。禊屋にだって何か事情があるということはわかっていたはずなのに。彼女の性格や言動の印象がそれをうまく結びつけなかったせいかもしれない。
彼女の過去に何があったか……なぜ、復讐を決意するに至ったかということは、とても聞くことができなかった。彼女自身、ぼやかした話し方をしている以上、問いただしても答えてはくれないだろう。しかしそれでも、彼女の言葉の端々から滲み出す暗い何かが、その壮絶さを物語っている気がした。
……何より、それを語る禊屋の姿は見ていて心苦しかった。胸が締めつけられた。
「……はぁ、喉乾いちゃったな!」
重くなった空気を変えるように禊屋はそう言うと、また歩き出す。前方には狭い道路に形ばかりの横断歩道の白線が引いてあり、その道沿いにちょうど自販機があった。
「そうだ、ジュースおごってよ。それで一億のことはチャラにしてあげる」
「ジュース一本で? 太っ腹だな」
「さよう。この禊屋様の寛大なる処置に感謝したまえ」
そう言って、禊屋はふふんと得意気に顎を上げた。
禊屋はオレンジジュースを、冬吾は紅茶を買うと、二人は近くの塀に寄りかかりながらそれを飲むことにする。
「……なぁ、禊屋。さっきのボディガードの件、本当のことじゃ駄目か?」
禊屋は飲んでいた缶ジュースから口を離して冬吾のほうを向くと、怪訝そうに顔を歪めた。
「……は? ……何言ってんの?」
氷水をぶっかけられたかと思うほど冷たい口調で返され、挫けそうになるのをなんとか堪える。
「い、いやだから……本当にお前のボディガードとして俺を雇ってくれないかって言ってるんだ」
「一応訊くけど、どうして?」
「やっぱりこのままじゃ、俺の気が済まないんだ。君へ借りを返したい」
「……それだけ?」
「違う、もう一つある。ナイツには沢山の情報が集まるって言ってただろ。それなら、親父の死の真相もわかるかもしれないと思って」
それを知っていた岸上豪斗は既に死んだ。だが、彼だってナイツに身を置いていたからこそ、その真相に気がつくことができたのではないのか?
「この機を逃したら、一生それはわからないままになってしまいそうな気がする。だから――」
「ダメだよ。ダメに決まってるじゃん」
馬鹿馬鹿しいとばかりに切り捨てる禊屋。
「どうして?」
「キミねぇ、そんなこともわからないの?」
禊屋は呆れたようにため息をつく。
「さっきも言ったけど、この仕事は今回みたいな危ない目にしょっちゅう遭うんだよ? キミには守ってあげないといけない子がいるんでしょ。もしもキミが死んだら、その子は一人ぼっちになっちゃうんじゃないの?」
「……灯里のことか」
禊屋は頷く。
「あの子のためにも、キミは生きてないといけない人間なの。じゃないと、せっかく助けた甲斐がないじゃん」
「……まるで自分は死んでもいい人間、みたいな言い方だな」
「ん……あたしの話は今はいいの!」
禊屋は「とにかく」と繋げて、
「その案は却下。そもそもあたしにとってメリットがないよ。キミみたいな素人を護衛役にしたところで、いったいなんの役に立つとゆーのかね?」
「う……それはごもっとも、です」
これには言い返せない。肉体労働のバイトをしていたから人並み以上に体力はあると自負しているが、武道の心得などは皆無であり、中高の授業で柔道をかじった程度でしかない。
「わかった。君の言うとおりだ、馬鹿なことを言った」
「うむ! わかればよろしい」
灯里に心配をかけるような真似はできるだけしたくない。父親のことは気にかかるが、過去のために未来を蔑ろにするというのも違うだろう。
冬吾は紅茶の缶に口をつける。もう飲み干してしまった。気が付かない内に自分もだいぶ喉が渇いていたらしい。
缶を自販機横のゴミ箱へ捨てるのを見て、禊屋が言った。
「じゃあ……ここで別れよっか」
禊屋はまだ中身の残ったジュースを持って、よりかかっていた壁から離れた。
「用がないなら、もうこの辺には近づかないほうがいいよ」
「そうする。また厄介事に巻き込まれるのは御免だからな」
「まあ、今後会うこともないだろうけど、お達者でね」
――そう。禊屋とはきっとこれっきりになるだろう。そして、そうあるべきでもある。頭で理解してはいても、なぜか心に引っかかるものがあった。それが何なのか、冬吾にはわからない。ただそれは、「寂しい」という感情に似ているような気がした。
「じゃ、そーいうわけで――」
禊屋は片手を上げそう言うと、踵を返す。
「禊屋」
気が付くと、冬吾は呼び止めていた。
「んー?」
二、三歩歩き、横断歩道の白線を越えたところで禊屋は立ち止まって、振り返る。
「禊屋。最後に一つ、訊かせてほしいんだ」
「いいよ。なに?」
言うべきか、迷った。それはきっと、自分の身勝手な願いを彼女に押し付けることになるだけだ。しかし、それがただのエゴであるとわかっていてなお、冬吾は一縷の望みを込めて言う。
「君は、ナイツから抜けることはできないのか?」
「……どういう意味?」
「俺は、そうして欲しいと思う。復讐なんて諦めて、その仕事から離れてほしい」
「…………なんで、そんなこと言うの?」
禊屋の声の響きと目が、冬吾への失望を感じさせた。しかしそれでも、言わずにはいられない。
「その仕事を続ける限り、君は今回のような目に遭い続ける。そのとき運が味方すればいいけど、そうじゃなかったら……一歩間違えたら、簡単に死んでしまうような世界なんだろ。……その復讐は、どうしても優先させなきゃいけないものなのか? 自分の命よりも?」
「……キミには関係ないことだよ」
「関係ある。俺は、君に死んでほしくない」
「え……」
禊屋は一瞬、驚いたような顔をする。するとやや俯いて、静かに言った。
「……キミは優しいね。でも、その優しさはあたしにとって毒なんだ」
「毒……?」
「住む世界が違うんだよ。キミはあたしを理解できないし、あたしはキミを理解できない」
白線の向こう側に立つ禊屋は、手を伸ばせば届く距離にいる。それなのに、その存在が遠くなっていくように感じた。
「もう後戻りなんてできないし、するつもりもない。あたしの復讐はあたしの生きる理由であって、それを捨てるくらいなら……死んだほうがマシ」
「……そうか」
禊屋の言葉に嘘はないのだろう。彼女の決意は頑なで、悲壮的だった。どんな言葉を投げかけたところで、その意思を変えさせることなどできない。
「悪かった。軽々しいこと言って」
禊屋は「ううん」と首を振る。
「心配してくれたんでしょ? ……ありがとね」
彼女は微笑む。それを見てまた、チクリと心に痛みが走った。
「――じゃあ、今度こそさよなら」
冬吾は頷いた。
「ああ、さよなら」
後ろへ向き直って、前へと歩き出す。振り返ってみたくなる欲求はあったが、耐えた。耐えなければならないと思った。
そしてしばらく歩いた後、ゆっくりと、自分の来た道を確かめてみた。彼女の姿は、もうどこにもなかった。
彼女と自分の道は、ただ一箇所で交差しただけに過ぎない。一緒に過ごしたのはほんの数時間だったが、それでもこの先、彼女のことを忘れはしないだろう。
――帰ろう。冬吾はまた歩き出す。自分には、帰るべき場所がある。待っている人がいる。彼女だって、そう言っていた。
「…………あ」
十分ほど歩いてから、冬吾ははたと立ち止まった。自分が、とんでもない過ちを犯していたことに気がついて。
――何が彼女にそうさせたのかは、彼女自身にもよくわからなかった。
ただ、助けたいと思った。あの兄妹に、幸せになってほしいと思った。自分がかつて味わったような、失う哀しみを背負ってほしくはなかった。
断罪人である自分が人を救えるということに、昂揚感を覚えたせいもあったかもしれない。人を死に追い込む事こそあれ、死から救い出したというのは初めての経験だった。そしてその後味は、悪くはない。
楽しかったと思う。今日この日は、彼女にとって特別な日になりそうだった。
禊屋はナイツの夕桜支社への道を戻っていた。ことが済んだらアリスと会う約束をしている。今回はお手柄だったから、褒めてあげなくては。彼から貰った缶ジュースを飲みつつ、そんなことを考える。
裏通りの角をひとつ曲がったとき、突然、横合いの陰から何かが飛び出した。
「あっ……」
――後頭部に強い衝撃。
禊屋の身体は大きく揺れて、地面へとうつ伏せに倒れた。何が起こったかもわからぬまま、視界が急速に閉じていく。意識が消える直前、禊屋の目に見えたものは、男二人の足と、地面へこぼれたオレンジジュースの缶だった。
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