第7話 探偵、密室を破る




 その時、扉をノックする音が聞こえた。禊屋は冬吾の耳元へそっと顔を寄せると、


「それ、一応隠しておきなよ」


 冬吾は未だに自分の右手にベレッタが握られたままだったことに気がつく。これでは反撃して逃げ出そうとしていると他の者に誤解されかねない。机や床の上に置いておくのも変だしと、冬吾はジーパンと腰の間に銃を差し込み、パーカーの裾を上から被せて隠すことにした。それを見届けると、禊屋は手を上げ、


「どーぞー」

「よお、進展はどんなもんかと思ってよ。もうすぐ時間になるが、どうせ上手くいってねえんだろ?」


 入ってきたのは島原だった。禊屋はにこっと笑って、


「ちょーどよかった。これから説明しようと思ってたところなの。島原さんも聞いていって?」

「は? 説明? なんの?」

「そりゃあもちろん……真犯人が如何にして、岸上豪斗殺害の咎を彼に背負わせようとしたのか、ということ」

「……ほお、そいつは面白そうだ! 聞かせてもらおうじゃねえの」


 島原は試してやろうとでも言うように腕組みする。


 禊屋もそれに対抗するように腕を組んで、話し始める。


「まずあたしが気になったのは、監視カメラの映像と彼の証言の矛盾。会議室に入った時、岸上豪斗の姿はなかったと彼は言った。でも、監視カメラの映像から豪斗おじさんが十二時三十分以降に部屋を出ていないのが明らかである以上、会議室におじさんがいないということはあり得ないの。嘘をつくとしても、この嘘には彼にとって何もメリットがない。却って自分の容疑を深めるだけで、それこそ場を混乱させての時間稼ぎくらいにしかならない。それも監視カメラの映像を確認したら一発でわかるんだから、殆ど無価値と言っていい。だったら、彼は本心からこの証言をしたと考えるべき」


 禊屋は唄でも紡ぐようにすらすらと語る。


「じゃあ、どうして彼はおじさんが部屋にいないと思ったんだろう? 会議室内には下の倉庫への窓がある。彼が入った時にはちょうどおじさんは倉庫の中にいたのかもしれない? ううん、それもあり得ない。なぜか? 順番に説明するね」


 禊屋はパソコンの画面を見る。


「監視カメラの映像では彼が会議室へ入った後、犯人らしき人物が部屋を出て行く様子は映っていない。ということは、犯人はもう一方の出口である倉庫のほうから脱出したのかもしれないね。でも、その仮説も行き詰まってしまうの。死体が発見された後で、窓には会議室側から鍵がかかっていることが確認されているから、犯人は倉庫から脱出した後でもう一度会議室へ来て窓を施錠しないといけなかった。だけど、監視カメラの映像を見る限りそれが出来た人はいないし、実際に窓を確認した乃神さんにも、窓に施錠をした様子はなかった。よって、こう考えられる。『窓は彼が会議室へ入った時点で既に施錠されていた』とね。同時に、おじさんが倉庫の中にいたという説も否定されるわけ」


 島原は鼻を鳴らして笑う。


「じゃあ、結局どうしてそいつがそんな勘違いしたっていうんだ? この部屋でも下の倉庫でもないってんなら、もう隠れ場所がないぜ」

「ううん。あったんだよ、隠れ場所は。この部屋にね」


 馬鹿な。冬吾は思わず口を挟む。


「待ってくれ。そんなはずは……」

「キミがこの部屋に初めて入った時、ちゃんと隅から隅まで探したと言い切れる? 扉の裏は? 机の下は? ……スクリーンの後ろ側は?」

「……スクリーン?」


 あの時の光景がフラッシュバックする。部屋の奥で下ろされていたスクリーン。まさか、あの後ろに?


「待てよ待て待て。おかしいだろ?」


 島原が両手を広げて言う。


「そもそも、なんで岸上さんがそいつから隠れるような真似をしなきゃならないんだ。そいつの話では、呼び出したのは岸上さんの方だったんだろ? だったら隠れる理由なんてねえじゃねえか」

「そう、おじさんは自分の意志で隠れていたんじゃない。はっきり言ってしまえばね、『その時点でおじさんは殺されていたんだよ』」

「なっ……なんだと!?」

「おじさんの死体は、犯人によって隠されていたの」

「……はははっ! 禊屋ちゃんも焼きが回ったんじゃねえか?」


 島原は愉快そうに笑う。


「言いたいことはいくつかあるけどよ。まず一つ、その時点で岸上さんが殺されていたってのはあり得ねえ。岸上さんが殺されたのは、そいつがこの部屋に入った後だってことはとっくに判明していたはずだぜ。凶器のナイフがそいつの持ち物だってんだから、間違いねえ。実際、こいつの鞄からナイフの鞘が見つかってるんだしな」

「果たして、そのナイフは本当に彼のものだったのかな?」


 冬吾は迷った。自分が置かれた状況を考えれば、口を挟むべきではないとわかっている。しかし……。


「言いたいことがありそうだね。言ってごらんよ?」


 冬吾へそう促す禊屋の眼は、任せておきなさいという言外のメッセージを発しているように思われた。だから、彼女を信じて――決心する。


「そのナイフは特別製で、市販されてるものじゃない。それに柄頭にあるイニシャルは、親父のイニシャルと同じ『C・I』だ。犯人が予め用意しておけたとは思えない」

「そら見たことか。こいつだってそう言ってるじゃねえか」


 島原は嘲り笑う。禊屋はすっと両眼を閉じる。


「――絶対に同じものを用意しておくのは不可能。まさにそう思わせることこそが、犯人の狙いだったんだよ」


 ……眼を開ける。


「事実、犯人はそのナイフを用意していたわけじゃない。『ナイフは、豪斗おじさんの持ち物だった』んだからね」

「は……はぁ?」


 理解が追いつかない。凶器が、岸上豪斗の持ち物?


「わ、わかるように説明してくれ!」

「キミは驚くかもしれないけど、落ち着いて聞いてよね。ヒントはあったんだよ。おじさんの財布の中身から、綺麗にカードや身分証明書の類だけ抜き取られていたこと。これはおそらく、『おじさんの名前を隠すため』のものだった。犯人は迂闊だったね。財布ごと処分してしまえば、あたしに感づかれることもなかっただろうに」

「名前……? 名前って、岸上豪斗だろう? そんなの隠したって何の意味も――」


 禊屋はふりふりと首を振る。


「ちがうちがーう。いい? おじさんは、岸上家に婿入りしたって話をしたでしょ? だったら、今とは違う名前、『旧姓があった』に決まってるじゃん。旧姓のときに発行した身分証明書は、自分で申し出ない限り名前欄はそのままであることが多いからね。犯人にとって、その旧姓を知られることは都合が悪かったの」

「旧姓……? 待ってくれ、旧姓っていったい」

「念のため、岸上家の親戚同士でもある社長に確認をとりました。答えはすぐ返ってきたよ。豪斗おじさんが岸上家へ婿入りする前の名前は……『戌井豪斗』。多分、キミのお父さんの兄弟だよ」

「なっ――!?」


 頭を鈍器で殴られたような衝撃があった。


「そんな……親父に兄弟がいるなんて話、聞いたことも」

「そこはほら、なんか事情があったんでしょ。キミのお父さんが刑事だったなら、こんな犯罪組織に与する兄や弟とは縁を切ってた可能性だってある」


 たしかに、否定はできない。なにより、海馬の奥底にある微かな豪斗の記憶がその仮説の信憑性を補強している。


「……会ったことがあるような気はしてたんだ。でも、それがどうしても思い出せなくて」

「キミが小さい頃だったなら、一度や二度くらい会っていてもおかしくないかもね。それに、キミを呼び出すきっかけとなった、キミのお父さんの死の真相をなぜ知っていたのかというのも道理が通る。犯罪組織の情報網なら警察が掴んでいないことだって知ることは可能だし、それが自分の兄弟に関わることなら自発的に調べていたとしても何もおかしくない」

「でも、待ってくれ。それがどうナイフに繋がってくる?」


 禊屋は物分かりの悪い生徒を相手にした先生のように、馬鹿丁寧に答えた。


「いい? 凶器のナイフは、キミのお父さんの遺品ではなく、豪斗おじさんが元々持っていたものなの。キミのお父さんが父親からナイフを貰ったのと同じように、おじさんもナイフを貰っていたんだよ。兄弟だから、きっとデザインもそっくりなやつをね。そして、キミと同じように普段からお守り代わりにして持ち歩いてたの。多分、オフィスに置きっぱなしの荷物の中にでも入ってたんじゃないかな? もちろん犯人もそのことを知っていて、それをこっそり盗み出して、おじさんを殺したわけ」

「それならイニシャルが違ってないとおかしい。戌井豪斗だから、イニシャルは『G・I』になるはずだろ?」

「『G』を削れば、『C』になるじゃん」

「け、削る?」

「うん。盛り上がってる部分が字の形になってるんだから、Gのいらない部分をちょちょいと削るだけ。お手軽カンタン。よく見たら跡でわかると思うよ」


 柄の材質は木だから、削ることは不可能ではない。盛り字のイニシャルを逆手に利用したトリックだ。


「……それじゃあ、禊屋ちゃん」


 島原が禊屋をまっすぐ見据えて言う。


「犯人は岸上さんのナイフを使って岸上さんを殺した。その後、この男が会議室へ入って気を失っている間に、鞄からこいつのナイフを盗み出したんだな? 濡れ衣を着せるために、鞘だけを残して」

「鞘だけを残した理由についてはそのとおり、でも、おじさんを殺した犯人が盗んだんじゃないよ」

「え?」


 声を出したのは冬吾の方だ。


「おいおい、犯人が盗んだんじゃないなら、いったい誰が盗んだっていうんだよ?」


 島原が冬吾の気持ちを代弁するように言う。そうだ、犯人じゃないなら、盗む理由がない。禊屋は肩をすくませて答えた。


「そもそも、犯人には彼のナイフを盗むことは出来なかったんだよ。だって、『彼が気を失っている間に会議室へ入った人間はいない』んだから」

「……どういうことだ?」

「さっき説明したように、会議室の窓は彼が入った時点で施錠されていたの。それは死体が発見された後で窓の施錠を確認したこと、そして、彼が会議室へ入った後で扉から出て行く犯人の姿が映っていないことから出した結論だけど、それなら当然、犯人もその時点で会議室を脱出済みだったと考えられる。出ることが出来ないんだから、始めから入ってないと考えるしかないよね」

「まあ……言われてみりゃ、たしかにそうだな。じゃあ一体誰が?」


 島原は頷きながら言う。禊屋は冬吾へ向き直った。


「さて、キミのナイフを奪ったのは誰だったのでしょー? 心当たりはない? 例えば……『いきなり鞄の中に手を突っ込まれたりしなかった?』」

「あっ……!」


 頭の中で光が走る。思い出した。あの女だ!


「神村だ……! あいつ、電話番号とか言ってメモを鞄の中に……まさかあの時に」


 しかし、あの一瞬で、しかも片手で、ナイフを鞘から抜き、盗み出すことなど可能だろうか? ……常識離れした芸当であるが、不可能ではないと思う。抜いたナイフを袖の下に隠した後で、鞄から腕を出したのだろう。


「『困難は分割せよ』、犯人に出来ないことを協力者である神村がカバーしてたわけだね」


 島原は呆れたように笑って、


「あの女が? そう上手くいくもんかね。どうにも信じられねえが……まあいい。話を戻そうぜ。犯人は岸上さんのナイフを使って岸上さんを殺した。その後、会議室内にその死体を隠したって言ってたな。それが言いたいことの二つ目だ。どうして犯人は岸上さんの死体を隠す必要があったんだ?」

「彼を確実に会議室の中に誘い込むため。この部屋は扉のガラスから覗きこむことで中の様子が窺えるようになってるよね。ノックをしても返事がなかったら、本当に人がいないか、部屋へ入る前にガラスから中を覗きこもうとする人はいると思う。そして彼もそうした。その時、もしも外から死体を発見されてしまったら、部屋に入る前に誰か人を呼んできてしまうかもしれない。そうなると犯人にとっては大変マズイ。せっかく用意した計略が台無しになってしまうからね。そもそも彼が会議室に入る瞬間が監視カメラに映っていないと彼を容疑者とすることは難しいし、ナイフの偽装、そして催眠ガスの仕掛けも効果を発揮しない」

「催眠ガス?」


 禊屋は天井の空調へ向かって指を指す。


「おそらく空調内に麻酔効果のあるガスを散布する仕組みがあるはず。調査する時間がなかったからこれは完全な推測になるけど、遠隔操作が出来るようになっていたんだと思う。神村が彼をここへ連れてきた時点で犯人へ連絡を入れる、それを受けて犯人はガスの仕掛けを作動させることで、会議室内をガスで満たした。もちろん、犯人役である彼をこの部屋で眠らせることに意味があった。二つの目的があったんだけど、一つは後で説明するとして、もう一つは、死体発見までのタイムラグを作ることで死亡時刻を誤魔化すためだった。実際には彼が入るより前におじさんは殺されていたわけだけど、おそらく彼が部屋に入った時点で死後三十分ほど経過していたはず。その三十分の差をどう誤魔化して、彼が殺したように見せかけるかが犯人にとって重要だったの。彼が眠ってしまう前に死体を見つけていたなら、すぐに他の誰かを呼びにいくだろうということは推測がつく。そうなったら、犯人以外の誰かが死体を見て気づいてしまうこともあり得た。被害者が殺されたばかりなら首からの出血はまだ止まってないはずだけど、そのとき、死体は死後約三十分が経過していて血はおおよそ乾いていたはずだからね。監視カメラの映像と合わせて確認すれば、彼が殺したとするには、被害者が死体となってから時間が経ちすぎているということがたちどころに判明してしまう。だから彼が死体を見つけてしまう前に眠らせた。その結果さらに三十分の余白の時間が生まれることになるんだけど、それだけ時間が経ってしまえば死体の死亡推定時刻は幅が出てしまうし、彼の犯行だとしてもおかしくないように見えるから」


 たしかに、それだけ時間が経ってしまえば出血は止まっているだろうし、死体が三十分前に死んだものか、それとも一時間前に死んだものかなんて区別は、医者でもない限り不可能だろう。


「それに、資料整理のために散らかっているこの部屋の状況も犯人に有利に作用した。紙の山やダンボールを避けながら歩かなきゃならないから、部屋の奥に到達するには通常より時間がかかる。その間に十分な量のガスを吸い込んでしまうというわけ」

「……わかったよ。ナイフのことも死体を隠した理由も、一応は納得できる。でもな、実際に、死体はこの机の上に乗った状態で発見されたってことを忘れちゃいねえよな? 犯人は部屋に入ってないってのは禊屋ちゃんが言ったことだぜ。もちろんこいつが死体を動かしたわけでもない、となれば、一体誰が隠していた死体を引きずり出して机に乗っけたってんだ?」


 禊屋は肩をすくめて、薄く笑う。


「『部屋に入らずとも、犯人は死体を動かすことが出来た』んだよ」

「ああ?」

「実演するのが手っ取り早いから、ちょっと待っててよね」


 禊屋はリモコンを操作して、先ほど調べたままになっていたスクリーンを収納させる。すると今度は、岸上の乗った机を部屋の奥へと移動させ始める。そして、壁際まで来たところで停止した。


「ちょうどスクリーン裏の隙間となる部分、ここに死体は隠されていたの。この机に乗せられた状態でね。スクリーンの下端は、机の天板より少しだけ低いから死体は隠れてしまう。それに部屋の中心部には長机の列が出来ていて、そのうちの一つが減ったり増えたりしてもわからない」


 禊屋は冬吾へ向き直って、


「キミが最初にこの部屋へ入った時と、目を覚ました後では列の机の数が違っていたんだ。このスクリーンに隠れていた机が移動した分、列端に一つ増えていたというワケ。『キミが気を失っている間に犯人がしたこと、それは死体を机に乗せたんじゃなくて、予め死体を乗せた机を発見時の場所まで移動させるということ』だったんだよ」


 目が覚めた時、死体が乗った机は列で言う一番奥側、端っこにあったため、スクリーンの後ろ側からそのまま手前に移動すればその位置に来ることになる。しかし、どうやって部屋に入らずに机を移動させたというのだろうか?


「犯人は、このテグス糸を使って机を移動させたんだ」


 禊屋は手に糸の束を掲げてみせる。工具箱の中で見つけたものだ。それをほどいて伸ばしていく。


「……もう少しかな?」


 ほぐした糸の長さは結構なものだ。十メートルほどはあるだろう。ある程度の長さのテグス糸を確保すると、禊屋はそれをハサミで切った。


 禊屋は一方の糸の端を持って、死体の乗った机のほうへ移動して屈みこんだ。天板下にある、横渡しの支柱パイプの上から糸をぐるりと通す。


「一方は、ここに固定するよ。ただし、この時点では結んだりしないで、ただパイプの裏を通すだけ。実は、このパイプの真ん中の裏っ側に、縦に一本線の傷がついてるんだよね。この傷は糸をパイプの真ん中で固定させるためのものだと思う。傷によってできた僅かな窪みに糸を食い込ませておくことで、後で引っ張るときに糸がずれて力が変な方向に逃げないようにしておくの」

「引っ張る……?」


 糸を引っ張って、机を移動させるということだとは思うが、いったいどうやって引っ張るというのか?


 禊屋はパイプに通した糸を引き寄せると、机からはやや離れた位置で結びつけた。机のパイプの裏を通る、直径一メートルほどの糸の輪ができたことになる。


「さて、半分はこれでよし。もう半分は、その……」禊屋は部屋の中央を指さす。「昇降機を使うよ」


 プロジェクターの昇降機は、こちらも先ほど調べたまま、点検用モードで下がったままの状態になっている。禊屋は糸の輪とは反対側の先端を持って、プロジェクターの乗った土台の上へ糸を通した。入口側から見て土台の右半分、天井から繋がった支柱二本とプロジェクター本体の間を通る形だ。


 禊屋はそこで屈みこむと、今度は倉庫への窓を開いた。


「終着点はここ。裏側まで貫通した鍵穴に糸を通しまーす」


 糸を窓の鍵穴から差し入れると、裏側から引き通す。鍵では裏側の小さな穴でつっかえてしまうが、細いテグス糸ならば問題なく通過できる。


 禊屋は今度は、窓を通過した糸の先端に、先ほど糸を切るのに用いたハサミの持ち手の部分を結びつけた。


「重りになるものならなんでもいいんだけどね。ペンとかでもオッケー」


 そうは言っても、その重りとやらがなんのためのものか説明してもらわないとこっちは困るのだが……。


 ハサミは窓の下、五十センチほどのところで糸に吊るされ宙ぶらりんになっている。それをいったいどうするのかと思っていたら、禊屋はそのまま窓を閉じてしまった。更に、鍵穴に棒状をねじ込んで鍵までかけてしまう。糸はごく細いので、鍵穴を貫通したままでも問題なく施錠された。


「さて、これで準備はできた」


 禊屋はリモコンを操作して、再びスクリーンを下ろす。机上の死体はスクリーンの後ろに隠れ、その下から糸が昇降機へ向かって伸びている。


「犯人は豪斗おじさんを殺した後で、ここまでの準備を終えていたんだね。キミが会議室に入った時の状況は、実はこうだったの。その時は窓の上にも机が並んでいたんだろうけど、今は見やすさを優先してそこまでは再現しないでおきます」


 たしかに、あの時は机によって窓の位置が隠されていた。糸を前後から挟み込むようにするなら、机を窓の上に配置しておくことは可能だろう。それによって、昇降機から窓へ下りていく糸を隠す効果もあったのかもしれない。


「透明のテグス糸は、よく注意して見ようとしなければまず気がつかない。部屋の奥側でもあることだしね。犯人は死体の存在だけでなく、この仕掛けに気づかせないためにも、彼を眠らせておかなければならなかった。これにはさっき説明したのと同様に、部屋が散らかっていたために奥へ進みづらいということが有利に働いたの。彼が糸を視認できる距離に近づく前に、意識を失わせることができたというわけ」


 禊屋はそこまで説明すると、不敵に笑って、リモコンを顔の横で掲げる。


「――では、彼が意識を失った後、この部屋で何が起こったか……実際にその目でご覧あれ」


 部屋の奥へ向けてリモコンのボタンを押す。まず、スクリーンが上がっていく。


 ……次に、部屋の真ん中へ向けてリモコンを向け、昇降機が動き始めた。


 駆動音がして、昇降機の土台が少しずつ上へ昇っていく。それに伴って、支柱とプロジェクターの間に通された糸も持ち上げられていく。昇降機の下へ伸びた糸が高いところから手繰られるように上がっていき――そして、「ゴトッ」という音が窓の下で響いた。


「ハサミが……!」


 窓の裏側で、ハサミがつっかえているのだ。窓には鍵がかかっているから、どれだけ上へ引っ張られても、糸と窓の強度が耐える限りはそれ以上持ち上がることはない。


 ――では、昇降機の土台に通された糸はその先どうなる?


「あっ……!」


 冬吾は愕然とした。糸の片方の先端――ハサミのついた側が窓下で固定されてしまったが、昇降機土台は依然として上昇し続ける。そのため、もう一方の糸の先端だけが引っ張られていく。そう、つまり、死体を乗せた机に通された糸が昇降機の方向へと引っ張られるのだ。


 スクリーンは既に上がりきっており、間を邪魔するものはない。少しずつ、ゆっくりと、死者を乗せた揺り籠が移動する――!


 キャスター付きの机は、このような僅かな力でも確実に動いていた。そして、死体を乗せた机がいよいよ長机の列の一番端に接しようとした、その時――またしても驚くべきことが起こった。


 「ブツッ」と、何かが切れたような音がして、その次の瞬間には、窓下の倉庫で何かが落ちる音がした。気がつくと、机と昇降機にかかっていた糸は跡形もなく消えていた。


 今はもう、冬吾が目を覚ました時と同じ状況。スクリーンは上がっているし、昇降機は天井に収納され、そして――死体が長机の列の一番奥に現れている。


「い、今……何が起こったんだ?」


 冬吾が見間違いをしていなければ――糸は、一瞬の内に窓の下へ吸い込まれていったように見えた。


 禊屋は死体を乗せた机を少しずらして、それと隣り合っていた机の真ん中辺りを指さす。


「言ってなかったけど、ここにカッターナイフの刃を仕込んであったの」


 先ほど見つけた、天板の裏にセロテープで貼り付けてあったというあれだ。いつの間に……。


「糸で引っ張られた机は、やがてこのカッターナイフの刃がついた机と密着する。パイプを通してあった糸は昇降機の方向、斜め上へと伸びているから、位置的にちょうど天板裏のカッターによって切断される。パイプには糸の輪っかを通していただけで、切断されるのはその輪っかの部分だから、パイプには糸の痕跡は一切残らず、窓下に仕掛けてある重り――今回で言うハサミのことだね――によって糸は一気に倉庫へと落下していった。こうすることによってトリックの実行後、糸を現場に残さずに済んだというわけ」

「だけど、それでも倉庫の中にはやっぱり糸が残っているんだろう? 君が調べた時にはそんなものはなかったんじゃ……」

「もちろん、犯行後に犯人が回収したんだよ。そのために、六階の監視カメラを切っていたんだから」


 六階の監視カメラについては、アリスに調べさせていた情報だ。それに繋がってくるのか……!


「このトリックは事前に準備さえしておけば、作動させるのはとても簡単。リモコンのボタン二つ押して、スクリーンと昇降機を操作すればいいだけなんだから。そして、その操作は部屋に入らずとも、『扉の外から、ガラス越しに行うことができる』。リモコンの赤外線は透明なガラスを通過するからね。だから、それまではオフィスにいてアリバイを作ることだってできる。……さて、ここまでくれば、それが出来たのが『たった一人しかいなかった』ということが判明するんだけど」


 禊屋の視線は、島原へ向けられていた。男は、薄笑いを浮かべる。


「……なにが言いたい?」


 禊屋は冷笑する。


「わからなかった? ――あなたが犯人だって言ってるの、島原さん」

「馬鹿馬鹿しい! 何を根拠に!」

「根拠ならあるよ。いっぱいある。まず、彼が会議室へ入った後で、最初に扉へ近づいた人物はあなた。その後、乃神さんと一緒に戻ってくるわけだから、犯人がリモコンをガラス越しに操作できたとすれば、あなたが一人で近づいたその時しかあり得ない。もちろん、その姿は監視カメラに撮られているし、彼に濡れ衣を着せるためにも、監視カメラのチェックという工程はどうしても必要だった。だからあなたはそうとわからないように、『ガラスから覗き込むふりをして、右腕でカメラを遮る壁を作り、その陰で左手に持っていたリモコンを操作した』の」


 そういえば、と思い出す。あの時の島原は、右腕で表情がよく見えなかった。てっきり、異常事態を確認して動揺しているのかと思ったが、あの後ろでは巧妙にリモコンを操作していたのだ……。


「その後、乃神さんと一緒にここへ入ったとき、どさくさに紛れてリモコンを部屋の中に戻した。その証拠に、リモコンは部屋奥のホルダーではなく、扉の横に置いてあった」


 本来の置き場所に戻しておくのは目立つから、そこに置いておくしかなかったのだろう。


「でも、間一髪だったね。後もう少し仕掛けを作動させるのが遅れていたら、彼が目覚めてしまうところだったんだから。さすがに催眠ガスの効果がどれほど保つかは計算してなかった?」

「し、知らねえよ!」


 島原は吼える。


「大体だな、俺がいったいいつ室長を殺せたっていうんだ!?」

「島原さん、一度会議室の中へ入ってるよね?」

「……ああ。だけど、あれは岸上さんに頼まれて、別の場所から資料を運んだだけだ。それに、資料を置いたらすぐ出ていったはずだ。あんな短い時間で何が出来たって言うんだ?」


 たしかに、島原は一度ダンボール箱を持って会議室へ入っている。だが、島原が部屋の中にいたのはほんの一分ほどで、殺人を行ったりトリックを準備したりするにはとても時間が足りない。


「あれはただ、『鍵をかけに来ただけ』」


 禊屋は一切動じず、島原をまっすぐ見据えて言う。


「島原さん。別の場所から資料を運んだ……って言ったけど、それは下の倉庫のことなんじゃないの?」

「…………だったらどうなんだよ」

「あなたは会議室へ入る前に、一度エレベーター側の廊下へ出ている。実はそのとき、あなたの懐には豪斗おじさんの荷物から抜き出した凶器のナイフがあった。六階の監視カメラは切られているから、倉庫へ入るところさえ他の人に見られなければそれでいい。あなたは倉庫の中へ入った。この時点で、ナイフの柄に描かれたイニシャルの改変を済ませておく。あとは、梯子を昇って、下から会議室の窓をノックする。部屋にいたおじさんは、何ごとかと思って窓を見る。あなたはそこで、何か適当な理由を言って窓を開けさせた。例えば、『倉庫から資料を運ぶのに手間だから、窓を通して直接移動させたい』とかなんとかね。おじさんは特に疑いもせずに窓を開ける。そうして監視カメラに映ることなくまんまと会議室の中に侵入したあなたは、準備していたナイフでおじさんを殺した……そうでしょう?」

「くだらねぇ! 妄言だ!」


 島原は吐き捨てるように言う。禊屋はそれを無視して更に続ける。


「おじさんを殺した後は、さっき説明したようにトリックの準備をおこなって、また倉庫から脱出した。ただし、それでは窓に鍵がかけられないから、もう一度扉側から会議室へ入る必要がある。だから資料を運ぶのを装って、会議室へ入ったの。鍵はもちろんおじさんの遺体から予め拝借しておいた。窓を施錠し、机をその上に移動させたら、あとは鍵をおじさんの遺体の懐へ戻すだけだから、そんなに時間はかからない、一分もあれば十分。散らかった部屋も、予め歩ける場所を見定めておけば大した支障もなく移動できたはず。その後は何食わぬ顔でオフィスに戻ってアリバイを作ればいい。頃合いを見て、会議室で彼を見つけたふりをして仕掛けを作動させた。その際に倉庫へ落ちた糸は、その後のどさくさで回収すればいい」


 冬吾が会議室で目を覚ました後、乃神と島原がやってきた。あの時、島原は手錠を取りに行くとか、社長へ連絡を入れるとかで何度か部屋を出ている。その間に倉庫へ行き、糸を回収することは不可能ではなかっただろう。


「違う! 違う違う違う!! 俺はやってねぇ!!」


 島原はかなり興奮し始めてきているようだ。対して禊屋は、不気味なほど落ち着いて見える。冬吾と話している時の彼女とはまるで別人だ。……どちらが、本当の彼女なのだろう。


「いいや。犯人はあなたしかあり得ないんだよ、残念だけどね」

「ほざくな! 俺が殺したって証拠は何にもねぇだろうがっ!!」

「――うん、そうだね。あたしには科学的な検証なんて無理だから、指紋やルミノール反応を調べることもできない。それに、そっちだって既に犯行に繋がる証拠品は処分してしまっているかもしれない。根気よく調べれば、見つかるかもしれないけど……。でもね、そんなもの必要ないんだよ」

「……はぁ? 何を言ってやがる……!」

「物的証拠なんて必要ない。あなたが犯人だってことは、神村が教えてくれたんだから」


 島原は呆然として、しばらく沈黙した。やがて、口を開く。


「神村……だと?」

「そう、神村。犯人の協力者であり、おそらくこの事件の黒幕」

「あの女が、なんだって?」

「――ほら、また言った」


 その時、冬吾は禊屋の言っていることをようやく理解した。島原が犯人ではないのなら……なぜ、『そのこと』を知っているのだ?


「あなたはさっきも神村の名前が出された時、『あの女』と言った。たしかに彼は、神村と名乗る女に案内されてここへ連れて来られたよ。でもね、『神村が女であることはあたしにしか話していないはず』なんだ」

「……っ!」


 島原は、自らの犯した致命的な失態に気が付き、目を見開いた。


「神村が女であることを知っていた――たったこれだけのことで、島原さん、あなたが犯人であると断定するには十分すぎるよ」

「…………」

「なんなら、一緒に話を聞いていたはずの乃神さんに確認してみる? 彼は神村が女だとは知らないはずだけど」

「……必要ねえよ」


 諦めたように島原が笑う。両手を力なく上げて、


「負けだ負け! あーあ、しくじったな。ちくしょう」

「教えて。あなたは伏王会についたの?」


 島原は感心したように口笛を短く吹いた。


「そこまで気づいていたとは、察しがいいじゃねえか。そうだ。俺は伏王会のスパイとしてここに潜伏していたのさ」

「……一体いつから?」

「一ヶ月ほど前からだな。この際だから全部白状しちまうが、俺はそれより前からこの支社内の物資を横流ししていたんだ。それがどういうわけか、ナイツではなく、伏王会の連中に嗅ぎつけられた。多分、流し先の連中から漏れたんだろう。ついてねえよな。ちょっとした小遣い稼ぎのつもりだったのによ。それをネタに俺は伏王会から強請られた。この事実をナイツへ伝えられたくなければ、伏王会の手駒となれ、ってな。その交渉を持ちかけてきたやつが、今回神村と名乗っていた女……神楽だった」


 神楽……ついにその名前が出た。やはり神村の正体は、伏王会の重鎮である神楽だったのだ。


「わかんないな。どうして伏王会のナンバー2がそんなことを?」


 禊屋の問いに島原は肩をすくませる。


「さぁな。だが、あいつにはあいつなりに考えがあるらしいぜ。俺なんかには到底及びもつかねえような、イカれた考えがな。あいつはたしかに頭はキレるが、それ以上に狂ってやがる」


 島原は思い返すように語る。


「今回の計画を考えたのは神楽だ。発端は、岸上室長が俺の横流しに感づいたことだった。誰が犯人かまではわかっていなかったようだが、俺まで辿り着くのは時間の問題だった。早急に何らかの対策が必要だと思った俺は、神楽にこのことを報告していた。それが昨日のことだ。そして今日の昼になって、計画の概要が神楽から伝えられたのさ。驚いたね。よくもまあたった一日でこんな方法を考えつくもんだ。もう一人の協力者である守衛も、神楽が懐柔していたらしい」

「この計画は、豪斗おじさんと彼の関係性を理解していないと考えだすことはできないはずだよね。どうして神楽はそれを知っていたの?」

「神楽からの命令で、この部屋と岸上室長の持ち物には盗聴器をつけさせてもらっていた。もちろん、室長を殺すついでに処分したけどな。神楽はそれで岸上室長についての情報を集めていたんだろう」

「ふーん……そう……」


 禊屋は納得がいったようないっていないような、微妙な顔をしている。


「ところで、倉庫にあった工具箱に拳銃が入っていたけど、あれってもしかして?」

「あれか? そのとおり、俺が横流ししようとしていた銃だ。少しの間あそこに隠しておいて、後で持ち出すつもりだったんだがな」


 この銃は島原が隠したものだったのだ――冬吾は後腰に差した銃へと意識を向けつつ思う。


「……なあ禊屋ちゃんよ。俺は景気良くべらべらと、あれもこれも喋ってやったよな。どうだい? なんとか俺を助けてくれるよう、口を利いちゃくれねえか?」


 島原はどこか余裕ある態度でそんなことを言う。


「残念だけど、それは無理だよ。あたしにはそんな権限ないし、そもそもあなたに情けをかける義理はないもの」

「へっ…………冷たいね。まったく――」


 島原は薄く笑うと、右手をスーツの中へ潜ませた。まずい! 冬吾が気づいた時には、もう遅かった。


「――涙が出てくるなぁ!」


 島原の怒声とともに、禊屋へ拳銃が向けられる。禊屋は眉一つ動かさず、島原を見つめている。


「……脅すつもり? そんなことしても無駄だよ。ここから無事に逃げられるはずないじゃん」

「うるせえっ! んなことはわかってんだよ!! ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう!!」


 島原は堰を切ったようにまくしたてる。


「てめえのせいで何もかもおしまいだクソガキが!! 何が何でもお前をぶっ殺さねえと気が済まねぇんだよ!!」


 だめだ……完全にキレている。怒りに支配された状態ほど危険なものはない。このままでは島原は本当に、禊屋を殺すだろう。……死ぬ。死んでしまう。俺を助けようとしてくれた人が。


 だが、どうすればいい? 冬吾は床に座ったまま、島原の横合いにいる。手錠で拘束されたままだから、動きは制限されてしまう。島原は既に銃を構えていて、指先にほんの少しの力を込めて引き金を引くだけで、その弾丸が禊屋を襲うだろう。なんとか意識をこちらに向けられればいいが、それでこちらが撃たれたらどうする? ……死ぬのは嫌だ。


 ――そうだ。銃がある。腰に隠していたベレッタ。これを使えば、島原を止められるかもしれない。


 いや、駄目だ。銃は使えない。弾が薬室に装填されていないのだった。スライドを一度引いて、弾を薬室に送らなければこの銃は撃てない。しかし、こうして手錠がかけられた状態では、そのたった一度スライドを引くということさえもままならない。ごちゃごちゃやっているうちに島原に撃ち殺されるのがオチだろう。発砲できないなら、せっかくの実銃もおもちゃと変わりない。


 禊屋と目が合う。冬吾の考えを読み取ったのか、禊屋はごくごく小さく、首を横に振ったように見えた。余計な手出しをするな、ということだろうか?


「島原さん。あなたやっぱり間違えたよ」禊屋はぽつりと言う。「自分の選んだ結末だからね。悪く思わないで」


 島原の顔が憎悪に歪む。


「こいつ……っ! 少しは怖がる顔を見てからと思ったが、もういい……死ね!」

「やめろっ!!」


 気がついたら声を上げていた。死ぬのは嫌だ。でも、死なれるのも嫌だ。もう“あんな思い”をするのは御免だ!


 島原は叫び声を聞いて、今になって冬吾の存在を思い出したようだった。


「お前もよく見とけ! こいつの綺麗な顔がザクロみてえになっちまうのをよぉ!」

「やめろって言ってんだろうが!!」


 腰の銃へ手をかける。


「なっ――てめぇっ!?」


 冬吾の動きを見て、背後に何か隠してあると瞬時に察したのだろう、島原は途端顔色を変え、銃を素早く冬吾の方へと向ける。


「馬鹿っ!」


 禊屋が短く叫ぶのが聞こえて――直後に、銃声が響く。


 ……何が起こったのか、わからなかった。冬吾はまだ後腰の銃に手をかけただけだ。冬吾が銃を抜くより遥かに速く、島原は銃をこちらに向けていた。撃たれた――ように思った。


 だが、倒れていたのは島原の方だった。うつ伏せになった頭からは血が流れている。


「間に合ったようでなによりだ」


 部屋の入口で声がする。乃神だった。その手に持った拳銃からは、硝煙が立ち込めている。


「はぁーーー……危なかったぁ。もう少し早く来てよ乃神さーん」


 禊屋はぐったりとして言う。そこにはもう、犯人と対峙していた時の冷徹な彼女の姿はなかった。


「五時三十分。約束の時間通りだ」


 乃神は左手首の腕時計を掲げて見せる。そうか……調査の時間は一時間の約束だった。それでこちらへ来たところだったのか。


 なんにせよ、助かった……。冬吾はほっとして銃から手を離す。乃神は冬吾が銃を抜こうとしていたことには気づいていないらしい。


「……死んだのか?」


 島原はもう、ぴくりとも動かなかった。


「頭を撃った……即死だ」平然として乃神は言う。「禊屋、彼はどうして岸上室長を殺した?」


 島原がナイツの物資を横流ししていたこと、それをきっかけに伏王会の間諜となっていたことなどをかいつまんで禊屋は話した。


「――そうか。裏切り者には死あるのみ。……そんなことはわかっていただろうに、馬鹿な真似をしたものだ」


 蔑んでいるのか、哀れんでいるのか、どちらともつかないような口調だった。非情な男だと思っていたが、同僚の死にさすがに思うところがあるのだろうか、乃神はじっと島原の遺体を見ていた。何か言おうかとも思ったが、話しかけづらい雰囲気だったのでやめておいた。


「ちょっと、キミ!」


 禊屋が冬吾の前で屈みこんだ。その顔は少し怒っているように見えた。


「さっきのあれ、なに? なんであんなことしたの?」


 問い詰めるような口調。何か悪いこと、しただろうか。


「あ……あれって?」


 禊屋は乃神に聞こえないように顔を寄せて、小声で言う。


「さっき、銃を使おうとしたでしょ?」

「ああ、そのことか」

「その銃、そのままじゃ撃てないって説明したよね? まさか忘れてたの? さっきも目で、『危ないから動かないように』って伝えたつもりだったんだけど」


 あの時禊屋が首を振ったように見えたのは、やっぱりそういう意味だったのか。乃神が来ることも、禊屋はあの時には既に見越していたのかもしれない。


「わかってたよ、撃てないのは。でも、あのままじゃ君が撃たれると思った。だから、なんとか止めようと思って……俺が島原へ銃を向けたら、やつの意識はこっちに向くだろ? そうしたら、少しは時間稼ぎができると思った」


 禊屋はぽかんとした表情になる。


「は……? 撃てないってわかってたのに、銃を向けようとしたの? そんなことしたら、キミが殺されちゃうかもしれないじゃん。ううん、実際、乃神さんがあと少しでも遅れてたらキミは撃たれて死んでたとこだよ?」

「まぁ……そうなんだけどさ。気がついたら身体が動いてたんだ。結局、無駄だったみたいだけど」

「はぁ……」


 禊屋は呆れたように片手で頭を抱える。


「馬鹿だね、キミは。もっと自分を大事にすべきだ。あたしみたいな人間を助けるために死にかけるなんて、そんな馬鹿なことはないよ」


 禊屋が自身を卑下するような言い方をしたのが気にかかった。彼女はそのエキセントリックな性格のわりに、自分で自分のことをつまらない存在だと思い込んでいるようなところがあるのかもしれないと、冬吾は思った。それがなんだか悲しく、寂しい気がして、冬吾は思わず言い返していた。


「そんなこと言うなよ。君は俺を助けようとしてくれたじゃないか。だから俺だって君を助けたいと思った。それは、何もおかしなことじゃないだろ?」

「……だから、キミを助けたのは、それがあたしの仕事だからで、恩義を感じる必要なんて――」

「助けてくれたことには変わりない。君は俺の恩人だよ」

「…………」禊屋はきまりが悪そうに髪をくしゃくしゃと弄りながら目を逸して、小さく呟いた。「……あっそ」


 立ち上がると、乃神のほうを向いて言う。


「乃神さん。手錠の鍵、ちょうだい。彼は犯人じゃなかった。もうここに拘束しておく必要はないでしょ?」


 乃神は冬吾のほうをじっと見つめた後で、禊屋に向き直る。


「駄目だな」


 ……なんだって?


「あー……ごめん乃神さん。聞き間違いだったら申し訳ないんだけど、今、『駄目』って聞こえたような」

「駄目だと言ったんだ」

「なっ……どうして!?」


 禊屋は憤慨する。


「犯人は島原さんだった。彼はたまたま巻き添えにされただけなんだよ?」

「わかっている。だが、そいつは俺たちの事情に深く首を突っ込みすぎた。解放するにはリスクが高過ぎる」

「……だったらどうするの。殺すつもり?」

「必要とあらば」


 乃神はそう言って冷徹な視線を冬吾へ向ける。それは道端のゴミに向ける視線と同じだった。


 わかっていたことだ。殺人について無実を証明できたとしても、無事に帰れる保証はないと。不可抗力とはいえ、組織の内情を知りすぎた冬吾はナイツ側にとってみれば、爆弾のようなものだろう。生かしておく理由はないのだ。


「あのね、乃神さん。彼は裏の世界とは縁もゆかりもない一般人なの。そんな人がうちらのことを知っていたからって、それでどうにかなるものじゃないでしょ? 彼だって自分の命は惜しいはず、無闇に今回のことを話したりはしないと思うけど」

「勘違いするなよ禊屋」


 乃神は切って捨てるように言う。


「お前はただのアドバイザーに過ぎん。岸上室長が亡くなった今、今回の事案について決定権を持つのは俺だ。それに、俺が問題にしているのはそんなことじゃない。こいつが伏王会に顔と名前を知られているという事実が厄介なんだ。本人の意思は別として、伏王会がその気になればこいつを足がかりにナイツの内情を知ることだってできるだろう。伏王会からの拷問を受けてなお口を割らずにいるという保証はあるまい?」

「…………」


 禊屋は口をつぐむ。


「少しのリスクが命取りになることだってある。不安の芽は早い内に摘み取っておくべきだ」

「…………あーそうですか。わかったよ」


 匙を投げるように言う禊屋。……命運尽きた、冬吾はそう思った。禊屋は最後まで冬吾を味方してくれていた。だが、それももう限界だ。彼女には感謝している。恨むとすれば、それは己の不運だ。


「――じゃあ、彼はあたしが雇う」


 禊屋が言ったことを、冬吾はすぐには理解できなかった。乃神もそれは同じだったようで、怪訝そうな顔をして禊屋を見ていた。


「……何を言っている?」

「聞こえなかった? 彼を雇うって言ってるの。ほら、ちょうどボディガードの一人くらい欲しいなと思ってたんだよね」

「ボディガードだと? それならそんな男より、うちに所属するヒットマンの誰かでもつければいいだろう。実際、今までお前が危険な仕事をする際にはそうしてきていたじゃないか」

「うるさいなぁ。あたしのボディガードに誰を選ぼうがあたしの勝手でしょ?」


 乃神は少しの間黙ってから、せせら笑った。


「ふん……そういうことか。いっそ身内に引き込んでしまうことで、その男が殺されるのを回避させようと考えたわけだ」

「何か文句がある?」

「大ありだ。その男の身柄は今、俺の管理下にある。禊屋、お前が今さらどうこうできる立場じゃないんだよ」

「そう。じゃあそのどうこうできる権利を買うよ。いくら出せばいいの?」

「はっ、いったいどうしたんだ禊屋? 随分この男に執心のようだが」

「彼の身柄の譲渡。それにはいくら出せばいいのか、って聞いてるんだけど?」


 禊屋は苛ついたように言った。乃神は却って愉快そうに顔を歪め、眼鏡の位置を直しつつ言う。


「では……そうだな。一億が妥当なところか」

「お前っ……!」 


 冬吾は乃神を睨みつけた。ふざけている。一億だなんて金、用意できるはずがない。始めからまともな交渉をするつもりなどないのだ。


「一億、ね。わかった」


 ……耳を疑った。禊屋は即決してしまったのだ。さすがの乃神も、これには唖然としている。


「あたしの口座はあなたたちが管理してるんだから、勝手に引き落としといてよね」

「……なぜだ」


 乃神は禊屋の異常さに、笑う余裕さえなくなったと見えた。


「なぜ、そこまでしてこの男を助ける?」


 禊屋はやや疲れたような、自嘲的にも見える笑みを浮かべて答えた。


「……さぁね。ただの気まぐれだよ」

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