第6話 探偵、密室を検討する




「君はいったい、何者なんだ? どうしてこんなことをしている?」


 冬吾が尋ねると、彼女は眉間に人差し指を当て、悩むような仕草をする。


「うーん……どこから説明すればいいのかなぁ。お兄さんは『ここ』のこと、どれくらい知ってるわけ?」

「ほとんど何も。ナイツグループって名前の会社だとしか」

「でも、ふつーの会社じゃないってことはわかったでしょ?」

「そりゃあ、まあ」


 こんな目に遭ったら嫌でもそうなる。


「ナイツ(騎士)グループだなんて、いかにも清く正しい企業って感じだよね。騎士道精神とか、そんなの。でも、その実態は真逆。血も涙もない悪の犯罪組織なんだよ。それも日本でも最大規模の組織で、ここはそのうちの支部の一つに過ぎないの。んで、たくさんある支部の中でも業績が優秀なところは『支部』から『支社』扱いになって権限が強化される。ここもそう。だからナイツ夕桜支社、ね」

「悪の犯罪組織、か。普通は笑い飛ばすところなんだろうけど、信じるよ」


 というか、信じざるを得ない。


「百聞は一見にしかず、ってやつだね。話がスムーズに進んで助かるよ」

「でも犯罪組織と言ったって、どういうものか俺にはわからないからな。具体的にどんなことをしているんだ?」

「色々あるよー。銃火器、盗品貴金属、密輸品の売買などなど……違法合法問わず」


 ……今挙げた例の中に、合法なものは一つもなかったような気がするのだが。


「ただし薬物売買には手を出してないよ。トラブルのもとだからね。昔は麻薬カルテルとの繋がりがあって、ここでも取り扱ってたこともあるみたいだけど、今はナシ」

「……他には?」

「暗殺。たまーにだけど、要人護衛なんかもあるね」

「暗殺って……」

「ナイツには専属の殺し屋がたくさんいるの。刺殺、狙撃、爆弾、毒殺、放火、やり方は人それぞれ、その時々だけどね」

「殺し屋……」


 物騒な内容をすらすらと説明する彼女の姿に目眩を覚えそうになるが、なんとか意識を保つ。それにしても、見れば見るほど彼女という存在は、こんな場に相応しくないように思えた。そして、気になったことを尋ねてみる。


「じゃあ、君も……人を殺すのか?」


 彼女の表情に一瞬、影が差したような気がした――が、すぐに緩やかな笑みで答える。


「うん。殺すよ」


 今日見知ったばかりの相手だというのに、それを聞いてひどく悲しい気持ちになる。なぜ彼女のような子が、そんな境遇に身を置かなければならないのだろう。


「まあ、あたしは殺し屋とは違うから、殺すって言っても直接手を下したことはないんだけどね。でも、死に追いやったというのも殺すことに含めるなら……あたしは多分、下手な殺し屋よりよっぽど殺してると思う」

「直接手を下したわけじゃないって、どういうことだ?」


 彼女はウェーブのかかった髪を右手で掻き上げた。


「あたしは、ここの顧問探偵なの」

「こ、顧問……探偵?」

「顧問弁護士ってあるじゃん? 企業の内情をよく知ってる弁護士に、法律のことで色々相談に乗ってもらおうってやつ。あれの探偵版みたいなものだよ」


 ……? よくわからん。


「この手の業界にはね、面倒くさいトラブルって結構多いんだ。内ゲバの末の不審死や取引のどさくさに紛れての横領なんかは日常茶飯事だし、他にも、他所のスパイが紛れ込むことだってある。そういうトラブルの中でも、特に厄介な――つまり、内容の込み入った、解決の難しいものを代わりになんとかする専門家、それが顧問探偵。内部抗争ならその扇動者を、横領ならその犯人を暴き、見つけ出す。顧問探偵なんて看板でやってるけど、断罪人と言い換えてもいいかもね。だから当然、身内で殺人なんかが起きればあたしにお鉢が回ってくるというわけ」

「……そうか。それでここに」


 社長から連絡があったと言っていた。おそらく、島原から事件のことを知らされた社長が、彼女に伝えたのだろう。


「でも、そうやって犯人を見つけ出して……その後は、どうなるんだ?」

「裏切り者がのうのうと生きていけるほど、甘い世界じゃないんだよね」


 ……そうか。そういう視点で見れば、彼女のやっていることはたしかに間接的な人殺しなのかもしれない。おそらくそれが、彼女が言う「殺した」という言葉の意味なのだ。


「うちでは本名出すと色々と面倒なことにもなりかねないからさ。中には偽名を使ってる人もいるの。内勤の人なんかは本名の人も多いけど、外部と接触する機会の多いお抱えのヒットマンや情報屋は大抵偽名を使ってるよ」

「コードネームみたいなもんか?」


 彼女は頷く。


「カッコつけて言うとそんな感じ。あたしもそのうちの一人でね、禊屋って言うの。内部で起きるゴタゴタを穢(けが)れとして、それを精算し、禊ぐから禊屋。社長が名づけてくれたんだ。えへ、かっこいいでしょ?」

「禊屋――」


 それが、彼女の名前。しかし、彼女がなぜそんなことをしているのかという疑問は解消されない。探偵としての適正はたしかにあったのかもしれない、だがこんな世界へ足を踏み入れるきっかけとなった何かはあったはずだ。きっと、深い事情があってのことだとは思うが……それ故に、不躾に尋ねるのは憚られた。


「あっ、そぉーいえば」


 彼女は思い出したようにぽんと手を打って言う。


「まだ、お兄さんの名前聞いてなかったね。教えてくれる?」


 そうか。思い返せば、彼女にはまだ名乗っていなかった。乃神や島原からも、彼女が部屋に入ってきてからは「その男」とか、「そいつ」とか、はたまた「野良犬」呼ばわりされるばかりで、ちゃんと名前を呼ばれてはいなかったのだ。


「えっと、俺は」


 禊屋が冬吾の前に屈みこむ。彼女とまっすぐ眼が合い、冬吾は金縛りにあったような心地がした。目を奪われるとはこのことか。彼女の双眸は全てを見通すかのように澄みきっていて、今まで見たどんなものより美しく思えた。


「ん? なぁに? じっと見つめちゃって」


 からかうように彼女が笑う。途端、気恥ずかしくなって視線を逸らす。


「あ、いや……戌井冬吾だ。その……よろしく」


 よろしくという言葉がこの状況で適切かどうかは疑問の余地があるが、思いつくままに口にする。


「んふふ、よろしく。あ、ねえねえ。歳は?」

「今年で十九になった」

「うっそ!? 十九!?」


 彼女ははっと口の前を手で押さえて驚く。今まで見せた中で一番派手なリアクションだ。


「うわー……じゃあ同い年なんだ。五つぐらい上かと思ってた」

「よく実年齢より上に見られるよ。俺も、君のことは少し下くらいかと思ってたから驚いた」

「あたしは早生まれだからまだ十八だけどね」


 禊屋はその偶然を面白がるようにうんうんと頷いている。


「へぇー、そっかそっかぁ。奇遇だねぇ。じゃあ、あれ? 大学生? 花の大学生?」

「花の、かどうかはともかく、大学生だよ」

「いいなー。あたし、高校も途中までしか行けなかったから憧れるんだよねー」

「途中までって、どうして?」

「んー? 気になる? んふふ、でもひみつー」


 その言葉には、どこか誤魔化すような響きがあったように思う。少し不用意だっただろうか。人間、誰しも触れてほしくない部分というものはある。彼女にだって、きっとそれはある。


「――そうだ。鼻血、だいじょぶ? ティッシュあるよ?」


 禊屋はコートからポケットティッシュを取り出して、一、二枚引き抜くと冬吾の鼻下へあてがおうとする。


「い、いいって! 自分でやるから……!」

「そう?」


 彼女の手からティッシュをひったくって血を拭う。幸い、出血は既に止まっていた。


「……うん、綺麗になったなった」

「ありがとう」


 礼を言ってポケットティッシュを返す。禊屋はそれを仕舞いながら、


「ふーん。戌井、ねぇ。……ああそっか、だから野良犬なんだ」

「え……ああっ! あいつ、そういう意味だったのか!?」

「あはは! 本人が気づいてなかったんだ」


 ただ侮辱されただけかと思っていた。いや、まさにそうなんだけど。乃神が揶揄に込めた意図を見抜けなかったのが単純に悔しい。


「くそっ、絶対根性曲がってるぞ、あいつ」

「じゃあ、乃神さんが犯人だと思う?」

「……そこまでは、わからないけど」

「うん、短絡的でないところはいいね。まだ時間はあるからさ、じっくり考えればいいよ。――ところで、キミをここまで連れてきた神村って人のことなんだけど、もう少し詳しく聞かせてくれる?」

「ああ、わかった」


 冬吾は説明の都合上、岸上豪斗から電話で喫茶店へと呼び出されたというところから話す。そこで岸上の代わりに待っていたのが、神村を名乗る女性だった。


「あ? その神村って人、女なの?」

「ああ、言ってなかったっけ。綺麗な女の人で……あ、そういえば」


 神村と交わしたやりとりを思い出す。


「鞄、ちょっと取ってくれるか」

「これ?」


 禊屋はカーペットに置かれていた冬吾の鞄を引っ掴んで渡す。冬吾は自由に動く右手で鞄の中をまさぐって、ふと、また別のことを思いつく。


「……これは参考までに訊いておきたいんだけど」


 禊屋は「ん?」と片眉を上げる。


「今ここで俺が、電話で誰かに助けを呼んだとしたらどうなる?」


 鞄の中には携帯電話が入っている。その気になれば警察に通報することだって可能だ。


「あー……そりゃオススメしないね。うん、絶対やめた方がいい」

「どうして?」

「まず、警察に通報しようなんていうのは全くのムダ。なぜか? 警察は我々の存在を黙認しているからです」


 先生のような口調で禊屋は言う。


「黙認って……そんなことが……」

「あるんだよねぇ、そんなことが。なぜかというのはご想像にお任せするけど、お互いにノータッチというのが暗黙の了解。試したいなら試してみれば? 自己責任で」

「……いや、遠慮しておく」


 それが良い結果をもたらすとはとても思えなかった。大人しく彼女が事件を解決してくれることを祈るしかないのか。


 それにしても、警察が黙認を決め込むほどの理由とはなんだろう? 少し考えただけだと二つの可能性に思い当たる。


 一つには、ナイツの上層部に政界の大物との繋がりがあるという可能性だ。真偽は定かではないが、暴力団などでも同じような事情で摘発ができないことがあると聞く。


 もう一つは、報復を恐れて、という可能性。海外の話だが、マフィアの摘発に動こうとしていた捜査員が一家まとめて惨殺されたというのは聞いたことがある。日本でも同じようなことがないとは言い切れないし、ナイツの組織規模を考えれば、それくらいのことはしていてもおかしくないかもしれない。


「…………」


 ふと、ある想像が脳裏に閃く。――報復。父――戌井千裕が死んだ際にも、それは父が関わっていた事件関係者の報復ではないかと言われていたことがあった。父の死と、ナイツは関係があるのだろうか?


 刑事が殺されたというのに、未だに犯人の手がかりすら見つからないというのは、それだけ大きな組織が関わっているからかも……。


 ……いや、まさかな。


「どうかしたの?」


 禊屋が冬吾の顔を下から覗き込むようにする。


「い、いや、なんでもない」

「んでさ、鞄の中、何かあるんじゃないの?」

「あ、ああ、そうだった」


 冬吾はどぎまぎしながら、鞄の奥底から一枚の紙片を取り出した。


「なにそれ?」

「このビルに入る前、神村が携帯の電話番号を教えてくれたんだよ。もしもの時のためにってな。そのメモがこれなんだけど」


 鞄の中身は先ほど乃神に調べられたが、奥の方に入れ込まれてあったため気付かなかったらしい。紙が折り畳まれただけのゴミと判断されたのかもしれない。


「ふーん……でもさ、それ、本当の番号、書いてると思う?」

「……やっぱり、書いてないかな」


 実はそんな気はしていた。これで本当に神村の携帯に繋がる番号が書いてあったら、逆に驚く。


「書いてない、に山茶花堂の栗しるこを賭けてもいいよ?」


 禊屋は自信満々に謎の宣言をする。山茶花堂は夕桜にある和風喫茶で、雑誌などでも度々紹介されている有名店だ。……栗しるこが好物なのだろうか。


 冬吾は折り畳まれたメモ用紙を広げて、そこに書かれてあったものを見た。


「あ……あのやろう!」


 憤慨する。予想通り、番号は書かれていなかった。その代わりに、一文。


『人を見たら泥棒と思え』


 むかついて紙を握り潰す。


「忠告のつもりか!?」

「馬鹿にされてるだけじゃないかなー」


 そのとおりだと思う。今となっては、あの女のことを簡単に信用してしまった自分が恨めしい。ちょろすぎるだろ!


「ともかく、これでその神村って人が犯行に関わってるのは間違いないと考えて良さそうだね」

「ああ、俺をここへ連れてくるのがあいつの役目だったに違いない」


 そして、まんまと俺は騙されて計画通りにことを運ばせてしまったわけだ。


「裏口前の監視カメラにその神村って人が映ってたら苦労しないんだけど、キミの話からすると扉には近づかなかったんだよね? だったら映ってる可能性は低いなぁ。向こうもそのくらいは織り込み済みだろうし」


 監視カメラの位置ぐらいは把握しているということか。


「それにしても、神村……か。ううん……」


 禊屋は考えこむ。


「なんだ、心当たりがあるのか?」

「キミの言う、その神村なる人物の特徴に、よぉく当てはまる人があたしの知ってる人間の中にいるんだよね」

「ほんとか? だったら――」

「いや、その人があたしの想像する通りの人物だったとしても、彼女の方から辿るのは無理だと思う。一筋縄ではいかない相手だよ」

「何者なんだよ? そいつ」

「ナイツにも同業他社ってやつがあってさ。伏王会(ふくおうかい)っていう、関東の極道組織を母体に成長してきた組織がそれ。ナイツには僅かに及ばないけど、規模で言えば相当なものだね。全国区の組織なんて、そうあるもんじゃないよ」


 ここと似たような組織が他にもあるというのか。世の中には自分の知らないことが多すぎるようだ。


「伏王会の会長は今は高齢のために滅多に表には出てこないんだけど、その代理として会の諸々を取り仕切るブレーンがいるの。事実上組織のナンバーツーだね。伏王会差配筆頭、それが彼女――神楽(かぐら)って呼ばれてる。もちろん普段は伏王会の本部にいるんだけど、どういうわけか、最近はこの街で動いてるらしいんだよね」

「神楽……。君はそいつのこと、よく知ってるのか?」

「よくってほどじゃないよ。前に伏王会との会合があった時に社長について行ったことがあって、あたしも神楽と会ったのはその一度だけ。まぁ、若くしてそんな重要なポジションを預けられるだけあって、相当な切れ者なんだよね」

「切れ者って、君よりも?」


 禊屋は顔をしかめつつ、


「うぅん……。正直、敵に回すには自信がないなー」

「そんなやばいやつが、今回のことに一枚噛んでるっていうのか?」

「まあ、まだ百パーセントそうと決まったわけじゃないけどさ。なんでまたそんな大物が急に出てくるのかって話だし。でももしもそうだとしたら、この事件は思ってた以上に厄介かも」

「厄介って?」

「神村が神楽だとすると、その手助けを得ていた犯人は、伏王会と通じてるってことになるよね」

「えっと、じゃあつまり……犯人は伏王会のスパイってことか!?」

「その可能性は高いと思うな。困るんだよねぇ、こういうのは。後々面倒くさいことになるから」


 禊屋は両腕を組んでため息をつく。


「面倒くさいっていうのは?」

「ナイツと伏王会は、日本の裏社会において二大勢力と言っていい規模の組織。そして商売敵同士でもある。でもその二つがぶつかったらお互い、タダ事じゃ済まなくなるのはわかるよね? だから、協定によってナイツと伏王会は本格的な全面戦争は起こさないように取り決めてあるの。さっき言った伏王会との会合もそのためのもの。つってもまあ実際の所、建前上は仲良くしつつ、お互いに腹の探り合いをしてるって感じかな。小競り合いレベルの抗争はしょっちゅうだしね。それだけ微妙なバランスで成り立ってる関係なわけ」

「じゃあ、今回の事件がきっかけでナイツと伏王会で戦争が起こるってこともあり得るのか?」


 禊屋は否定するように手を振って、


「まさか。そこまでは心配しなくてもいいよ。このくらいならまだよくあるほうだし、協定はそう簡単に破られやしないもん。だから協定なんだよ」

「……そうなのか?」


 こんなことがよくある、というのも俄には信じがたいが、彼女がそう言うならそうなんだろう。


「それに相手もプロだから、失敗した時に備えて、これが伏王会の指示によるものだっていうはっきりとした証拠は残しちゃいないでしょ。……でも、何が弾みになるかはわからないけどね。うちにだって、『売られた喧嘩は買ってやろう!』みたいな、血気盛んな連中がいないわけじゃないし。……要するに、そういう人たちを刺激しすぎないよう、実際に事態の解決にあたるあたしとしては、いつもより慎重にならざるを得ないってこと。それが面倒くさいって言ったの」

「なんていうか、大変なんだな。君の仕事って」

「そうなの! 禊屋ちゃん、ちょー苦労してるのです」


 彼女はおどけて言うが、過酷な仕事であることは間違いないだろう。


「おっと、余計な話してる場合じゃないや。一時間しかないから急がないとね」


 思い出したように禊屋が言う。そうだ、細かい組織事情などはこの際どうでもいい。今は事件の解決を優先するべきだ。禊屋は立ち上がると、同じ所を行ったり来たりしながら冬吾に尋ねる。


「確認だけど、キミは豪斗おじさんとは面識はなかったんだよね?」

「ああ、今朝……十時頃だったかな。いきなり家の電話にかかってきて、呼び出された。待ち合わせはここから近い喫茶店で、二時半に」


 学校にはまだ向かう前だったので、予定を変更して岸上との待ち合わせを優先させた。


「結局……この人が俺に何を伝えようとしていたのかはわからなかったな」


 冬吾は机の上に寝かされたままである死体を眺めて言う。父の死の真相……それ自体ももちろん気になるが、そもそもどうして、彼はそんなことを知っていたのだろうか?


「その電話ってさ、ほんとに豪斗おじさんだったのかな」

「……どういう意味だ?」

「キミは岸上豪斗の声を知らない。だったら、その名前を騙ってまったく別の人物が電話をかけてきても、キミには判別がつかない」

「そんなことをして何になる?」

「キミを誘導できる。喫茶店まで呼び出せば、それから後は神村の役目ってことだったのかも」

「まさか……いや、でも……あり得るかも」

「……いや、やっぱり違うな。ごめん、今のナシ!」

「えっ? なんで撤回するんだ?」


 せっかく納得しかけたのに。


「そこまでしてキミを呼び寄せる理由がない。この場合、豪斗おじさんとキミとはまったくの無関係であるはずだけど、それなら犯人に仕立て上げるのはキミである必要はないの。やりようは他にもいくらでもあったはずだし、キミじゃなければならない理由もあったはず。そう考えると、おじさんはほんとにキミのことを呼び出していたと考えたほうがすっきりする」

「……なるほど。つまり、岸上豪斗が俺を呼び出したということを知った犯人は、それを利用した殺人計画を立てたってことになる……のか?」

「おそらくね。待ち合わせは二時半、か。午後休でもとってればおかしくはない……それとも、待ち合わせの店は近いから、休憩を装って出るつもりだったのか……おじさんがどうするつもりだったかは知らないけど、結果として時間通りに喫茶店へ行くことはなかった。そこには犯人の何らかの作為があったはず」


 その方法はいくらでも考えられるように思えた。神村が冬吾を連れてくるまでの時間稼ぎさえできればいいのだから。


「ところで、一つ訊いてもいいか?」

「なぁに?」


 禊屋は小首を傾げる。


「君は岸上のことをおじさんだなんて親しげに呼んでるけど、親しかったのか?」

「ああ、そのこと? ええとね。監察室って言って、身内が勝手なことしないよう、その行動に目を光らせる……っていう部署の室長が、おじさんだったの。それであたしにも仕事の斡旋をしてくれてたんだ。横領やら、他所の組織のスパイやら、そういった疑惑のある人たちに対しての調査とかだね。今回みたいに社長から直接仕事を頼まれることもあるけど、元々はそっちのほうが多かったよ」


 禊屋はそう説明した後で、ふと神妙な面持ちになる。


「まあ……親しかったといえば、親しかったことになるのかな。……うん、嫌いじゃなかったよ。優しかったし。家で余ったからとか言って、お菓子くれたりしてさ」


 岸上の遺体を見つめる彼女の表情は、少し寂しそうに見えた。


「そうか……じゃあ、悲しいな」


 禊屋の瞳が、何かに気がついたように揺れた。


「悲しい……か」


 禊屋は呟くと、肩をすくませ、ふっと笑う。


「……うん、そうかも。ちょっと悲しいね。なんだか慣れちゃって、つい忘れそうになるよ」


 禊屋がなんでもないことのように言い放った言葉は、未だ十代の彼女が口にするにはひどく現実離れしたものであるように思われた。それはきっと彼女が、人の死がありふれたものでしかない境遇にあったということを示しているのだろう。


 なぜかこちらまで悲しくなってくる。何か言うべきかと思ったが、適切な言葉が見つからない。


「おじさんって呼んでるのは他にも理由があってさ。社長の名前も岸上なんだよね。たまたま同じ名前っていうわけじゃなくて、ちゃんとした親戚関係ね。あたしは結構社長と会う方だし、岸上さんって呼ぶと紛らわしいの」

「そうなのか」

「うん。そもそもこのナイツグループを立ち上げたのは先代の岸上家当主サマでね。うちだけじゃなく、他の支社の重役も岸上一族の誰かってことは多いよ。でも、豪斗おじさんは結婚時に岸上家に婿入りしたとかで、しかもその婿入り先も社長と同じ本家ではなく分家のほうだから、立場としてはそれほどでもなかったみたいだけどね」


 いわゆる一族経営とかいうやつだろうか。


「さてさて……話を戻そう。問題は山積みだけど、目下のところ最優先で考えるべきは、一つ」


 禊屋は眉間を指でさすりながら話す。それが彼女が考える時の癖らしい。


「つまり、真犯人がどうやって密室を作り上げたかってことなんだけど」

「密室?」

「そう。扉に鍵はかかってないけど、この会議室は、監視された密室だったんだよ」

「監視カメラに、犯人が部屋に入る瞬間が映ってないから……か?」

「犯人と、被害者の両方ね」

「それなんだよな。俺がここへ入った時にはなかった死体が、目を覚ますと現れた。その間に誰かが入ったことは間違いないのに、外の監視カメラには誰も映ってなかった。明らかにオカシイ」

「ふぅむ……もいっかい、その映像を確認してみようかな」


 禊屋は長机の一つに近寄って、その上に置かれたスリープモードになっていたパソコンを操作する。ふと何かを思い出したように顔を上げ、


「おっと、そうだった。あっちの手配もしとかなきゃ」


 禊屋はコートのポケットから携帯電話を取り出して、どこかへ電話をかける。


「どこに電話するんだ?」

「あたしの代わりに動いてくれる、可愛い可愛い助手ちゃん」


 そう言い終わると同時に相手が着信に応じたらしい。


「アリス? 悪いけどちょっと頼みたいことがあるんだけど――」


 通話は一分かからないほどで終わった。禊屋が携帯を仕舞うのを見ながら冬吾は尋ねる。


「アリスってのが君の助手?」

「まあね。ちょっと守衛室に行ってもらおうと思って。あたしはここの調査で忙しいし」

「守衛室? どうして?」

「どうしてでしょー? ま、結果が出てからのお楽しみってことで」


 そう言って禊屋はパソコンの操作を再開させる。それと合わせて冬吾へまた質問をする。


「ところで、キミがここへ入ってすぐに気を失ったことについてなんだけど、なにか心当たりは?」

「会議室へ入ってすぐ、変な臭いがした。具体的にどうとは言えないんだけど……こう、薬みたいな臭いだ。多分、催眠ガスみたいなものじゃないかと思うんだよ」

「なるほど。まあ、それでいいんじゃないかな」

「それでいいって、随分あっさりだな」

「んー……」


 禊屋はパソコンで監視カメラの映像を確認している。ちょうど冬吾が会議室へ入ったあたりだ。確認しながら話を続ける。


「あるとすれば、犯人が空調の中にそうした仕掛けを仕込んでいたってところかな。タイマー式か、それとも遠隔操作できるようになっていたのかはわからないけど、キミが入ってくる少し前のタイミングで無色透明の麻酔ガスが散布される仕組みになっていた……とか」

「しかし自分で言っておいてなんだけど、催眠ガスなんてそう簡単に入手できるもんかな」

「おっと、それをここで言う?」

「できるのか?」

「ここじゃ大抵のものは手に入るよ。その手の商人はよく出入りしてるし。あたしも発煙筒みたいにガスを噴き出すやつとか、スプレータイプのものとか買ったことあるよ」

「何に使うんだよ……」

「そりゃ、いざという時のためよ。こういう仕事してると何があるかわからないもん」


 そういうものだろうか。……そういうものなのかもしれない。


「じゃあさ、この部屋の空調を調べたらその細工の痕跡が出てくるかもしれないな」


 禊屋は考えこむように唸る。


「それはそうなんだけど、さ。今回は後回しにする」

「え? どうして?」

「だって、空調を調べるって簡単に言うけど、けっこー大変な作業じゃん? 天井に付いたエアコンなんて、蓋を外すのも一苦労だよ」


 この部屋には入口から見て左右に一つずつ、送風口が設置されている。天井埋込み式のエアコンのようだった。天井の高さは三メートル以上はあるので脚立が必要だろうし、たしかに大変そうだ。その調査だけで一時間くらい経ってしまいそうである。


「それに、仮に空調の調査をして催眠ガス散布の細工の痕跡を見つけたとしても、それが犯人の正体に繋がってる可能性は薄いと思うんだよね。犯人が回収するチャンスはないわけだから、もし見つかっても大丈夫なようにしてあるはず。まあやってみなけりゃわかんないってのはごもっともだけど、今は時間ないんだしさ。もっと大事なことを優先すべきだよ」

「もっと大事なこと? ……ああ、密室の手がかりか?」

「そういうこと。……んー。やっぱり何にも映ってないよねぇ」


 映像を見ていた禊屋は小さくため息をつく。


「あのさ、他になにか気がついたこととか、ない?」

「――そういえば」

「あるんだ?」

「あれ」


 冬吾は天井の中央のある部分を指差す。その部分だけ、周囲から一辺が五十センチほどの四角形の切れ目が見えた。


「俺が部屋に入った時、あのプロジェクターの昇降機が下がってたんだよ。それと、スクリーンもあったな」


 今、プロジェクターは天井内に収納されており、壁際のスクリーンは天井から提げられた高さ二メートル半ほどの位置にある棒状のケース内に巻き取られている。


「なにか映してたの?」

「いいや。プロジェクターを使っていたようには見えなかった。思い返してみると、ちょっと変だったな。昇降機の土台は長机の少し上にくるくらいにまで下げられていた。スクリーンに何か映すなら、そんな位置まで下ろす必要はないだろ?」

「点検していた、とか?」

「そんな風でもなかったけどな」

「ともかく、キミではない何者かがその昇降機とスクリーンを操作したってことになるね。いったい何のためにそんなことしたんだろう?」


 冬吾は首を横に振る。わかるはずもない。だが、昇降機とスクリーンが操作されたということは、やはり自分が気を失っている間に誰かが部屋にいたということになるのではないか?


「昇降機にスクリーンね。たしか、リモコンがあったはず……」


 禊屋は部屋の奥、スクリーンのある方向へ移動する。


「おやおや?」

「どうした?」

「ないの。リモコン」


 スクリーンの設置された側の壁の右端に、壁掛けのリモコンホルダーが二つ並んでいる。一つには黒いリモコンが収まっているが、もう一方のホルダーは空っぽだった。


「黒いのはプロジェクターのリモコンだね。昇降機を動かすリモコンもいつもはここにあるはずなんだけど……」


 禊屋は人差し指で眉間を押さえる。考えこむように周囲を見渡して、「あっ」と声を上げた。今度は部屋の入口側に早足で移動する。行ったり来たり忙しそうだ。


「あったあった! これ!」


 部屋内側から見て扉のすぐ右側、扉を開けた時には隠れそうな位置のカーペット上に置かれていた白いリモコンを取って、冬吾に見えるように掲げる。


「なんでそんなとこに?」


 禊屋は「さぁ?」と首を傾げる。またダンボール類を避けつつ冬吾のところへ戻りながら、


「これ一つで昇降機とスクリーンの両方を操作できるみたい。やってみよっか」


 禊屋はまずスクリーンの方向へリモコンを向ける。吊り下げられた収納ケースの中心にレンズがあり、そこが信号の受光部らしかった。「ピッ」という電子音が聞こえて、電動でスクリーンが降りてくる。


「昇降機のほうは『上映』ボタンと『点検』ボタンがあるね。キミの見た状況を再現するなら、点検のほうかな?」


 天井へリモコンを向ける。天井から飛び出した球形のレンズが、赤外線を受光する仕組みだ。禊屋がボタンを押すと、昇降機はゆっくりと下がり始める。そして、あの時と同じ、長机の十センチほど上まで来たところで下降を止めた。


 長机の高さが七、八十センチというところなので、昇降機の土台部は一メートルないくらいの高さになる。下降しきるまでにかかった時間は、一分ほどだろうか。


「キミが会議室へ入った時はこんな状態だったわけだ?」

「ああ、そうだな」


 禊屋はまた部屋の奥へ移動し、スクリーンを検分する。スクリーンの大きさは縦が二メートル弱、横幅はそれよりちょっと大きく二メートル強というところ。余白を含めた全体の大きさなので、投映部分はそれより一回りは小さい。床からスクリーンの下端までの高さは六、七十センチほどである。


 禊屋はスクリーンをめくって裏を覗きこむ。先ほどまでスクリーンは収納されていたのだから、当然そこに何かあるわけではない。裏側は人一人が入れるくらいのスペースはあるようだった。


「特におかしなところは……ないか」


 その後禊屋は昇降機とプロジェクターのほうも調べたが、手がかりとなるようなものは見つけられなかったようだ。


「何かある……と思ったんだけどなぁ。いや、何かあるはずなんだ……それに気づいてないだけで……」


 禊屋は眉間を指で擦りながら思案する。だがやがて、


「あーーーだめ! わかんない!」


 途方に暮れたように髪をぼさぼさと掻く。


 その時、扉を控えめにノックする音が聞こえた。


「んぁ……だれー?」


 禊屋が言うと、扉が開いてその隙間から顔がひょいと出てくる。先ほどの静谷という女だった。


「ごめーん、ちょっといいかい?」

「わお、織江(おりえ)ちゃんだ!」


 冬吾が尋ねる。


「織江って?」

「あ、私の名前。静谷織江です。どもー」


 そう言って小さく頭を下げる。


「ああ、どうも」


 つられて冬吾も頭を下げた。


「どしたの織江ちゃん。なにかご用?」


 歳は織江のほうが少し上のようだが、女同士だからか、二人とも気安い口調だ。禊屋は誰に対しても気安そうだが。


「ああいや、用ってほどでもないんだけどさ。その湯呑み、洗っちゃいたくて」


 織江が指差す先にあるのは、手前の机に乗った一つの湯呑みだった。中は空だ。


「あっ、もしかして現場の証拠品だから持ち出すのダメだったりする?」

「んー……どうしようかな」


 禊屋は湯呑みの内側に鼻を近づけて匂いを嗅ぐようにする。


「お茶の匂いしかしないけど……まあ一応、事件を解決するまでは預からせてくれる?」

「あー、やっぱそうか。わかったよ、仕方ないな」

「――っていうか織江ちゃん、お茶汲み係だったっけ?」


 織江は苦笑する。


「あはは、最近、暇なときはここで雑用係やってるんだ。気楽で結構気に入ってるよ」


 今の言い回しからすると、本来の仕事は別にあるのだろうか? 実は、殺し屋だったりとか……。いやいや、こんなのんびりした女の人が殺し屋なわけないか……。


 禊屋は湯呑みをじっくりと見つつ、訊いた。


「この湯呑みも織江ちゃんが持ってきたもの?」

「岸上さんが会議室に行く前に頼まれてたんでね。持っていったのは一時半頃だったかな」

「織江ちゃんが会議室へ入ったその時、おじさんに変なところはなかった?」


 禊屋の質問に織江は首を傾げて、


「さぁねぇ……なかったんじゃないかなぁ。いつもどおりに見えたけど?」

「殺された理由にも、心当りはない?」

「わからないよ。まあ……私はまだ三ヶ月くらいしか付き合いがなかったから、岸上さんの人となりを全部知っていたわけじゃないだろうけどさ。こんなとこにいるのがおかしいくらい、まともな人だったように思うわけ。結構気に入ってたんだけどな」


 織江は小さくため息をつく。


「まあ、あれだ。身内を疑う仕事だから、それなりに恨みとかも買ってたんじゃないかな」


 岸上は身内の不正を暴く監察室の室長だった。組織の維持には必要不可欠な仕事なのだろうが、それを疎ましく思っていた者もいたのかもしれない。


「じゃ、もう一つ訊かせて。あれはどう?」


 禊屋は手の親指で後ろを示す。


「織江ちゃんが会議室へ入った時、プロジェクターの昇降機とかスクリーンとか、こんな状態じゃなかった?」

「いいや?」 


 織江が入った時には昇降機もスクリーンも下がっていなかったようだ。


「……あんたいったい、何を調べてるのさ?」


 織江が禊屋に尋ねる。禊屋はわざとらしく唸って、


「うぅむ……事件になにか関係がありそうなんだけど、それがわからないんだよねぇ」

「はぁ……スクリーンに、プロジェクターがねぇ」

「なんでもいいから事件の手がかりになりそうなこと、ないかな?」


 織江は腕を組む。


「さぁてね…………でもさ、その人が犯人かどうかはともかく、うちらの中に犯人はいないよ」

「なんでそう言い切れるの?」

「乃神さんたちから聞いたけどさ、その人が会議室に入った後で岸上さんは殺されたんでしょ? 凶器のナイフがその人のものだから」

「ふむ。それで?」

「その時間、私達は三人とも奥のオフィスルームにいたんだよ。島原さんが会議室のほうへ出て行って、その人を見つけてくるまではね。つまり、お互いがお互いのアリバイを証明出来るってわけ」


 冬吾が会議室へ入ってから後のアリバイがあるのならば、たしかに三人のうちの誰もが犯行は不可能ということになりそうだ。


「ほんとーにずっと一緒にいたの? 間違いない?」


 禊屋は念を押すように確認する。織江はあっさり頷いた。


「いたよ。まぁそもそも、その人の後で会議室へ入る人の姿は映ってないんだから、わざわざアリバイなんて証明する必要もないとは思うけどさ」


 ごもっともではある。しかし、オフィスにいたという話が本当なら、その間に何らかのトリックを施す猶予さえも犯人にはなかったことになる。謎の堅牢さは増したといえるだろう。……やはり、三人のうちに犯人がいるとは限らないのではないか?


 禊屋は一通りのことは訊いたと判断したようで、頷いて言った。


「……わかった。ありがとう」

「ん。まあ、頑張って。邪魔して悪かったね」


 織江はそう言って、部屋を退出していった。


 禊屋は机の上に座ると、考えこむ。


「怪しいと思った昇降機、スクリーンにも手がかりはナシ、容疑者にはアリバイまであるときた。さて、どうするかな……」

「他のところも調べてみたらどうだ? 何か発見があるかもしれないし」


 冬吾は具申する。禊屋は「それもそうだね」と頷いた。


「あとは、そうだなぁ……。うん、下の部屋も調べておきたいかな」


 禊屋は部屋中央の床にある窓を見つつ言う。昇降機の真下あたりだ。


「そういえばその窓、何なんだ? なんでそんなとこに窓が?」

「ああ、これね。うーん、なんていうか……避難用の通路、って言えばいいのかな?」

「避難用?」

「一応犯罪組織のアジトだからさ。襲撃を受けた場合に備えて、そういうのがあちこちにあるの」

「会議中に襲われたら、すぐ下の部屋に逃げ込めるってわけか」

「まあ、あたしもそれが有効活用されてる場面は未だに見たことないんだけどさ」


 馬鹿馬鹿しいような気もするが、ナイツという組織の実態を知っていればそういう事態がないとも断言できない。


「でも、窓に鍵かかってるんだよね。鍵はどこにあるんだろ?」

「その岸上って人が持ってるんじゃないのか?」


 禊屋はニコリと笑って、人差し指を立てる。


「一理ある。探してみましょー」


 そう言って、入口側から見て横向きに並んだ長机の列の一番奥――岸上の死体が横たわった机を少し右横へとずらす。死体を調べやすいようにするためだろう。


「――おやん?」


 机を動かす途中で、禊屋が何かに気づいたような声を上げる。


「どうした?」


 禊屋の視線は、死体の乗った机と隣り合っていた方の机に注がれている。死体の乗った机が一番奥だから、その一つ手前側だ。天板の上には何も乗っていないように見えるが……。


 禊屋はその机の下に潜り込むと、天板の裏側、その真ん中あたりに貼り付けられていた何かを爪で剥ぎ取った。立ち上がり、手に持ったそれをじっくりと見つめる。


「それは?」

「カッターナイフの刃……だね。セロテープでガチガチに貼り付けられてたの。それも、刃の方向を外側に少しだけはみ出させた状態で」

「うわ、なんだよそれ。危ないなぁ……」


 刃の大きさは刃幅、長さともに一センチちょっとというところ。天板の裏からちょろっととび出ていた程度では、注意深く見ないと気が付かないだろう。刃がはみ出ていた方向は、死体の乗った机のあった方向になるが、まさか事件と何か関係があるのだろうか。


「……まぁいいや」

「いいのかよ!」 


 禊屋はカッターの刃を机の上に置いて、死体の検分を始める。窓の鍵はズボンの左ポケットからすぐに見つかった。自転車の鍵くらいの大きさの棒錠だ。他の所有物はハンカチ、財布、煙草、ライターといったものくらいで、特別気になるようなものはない。遺留品は机上の死体の際に置かれた。


「あのさ」禊屋は突然尋ねる。「凶器のナイフだけど、ほんとにキミのものなんだね?」


 冬吾は頷く。


「柄頭のとこにイニシャルが入ってるだろ。『C・I』ってのは戌井千裕、つまり死んだ俺の父親の名前。親父の遺品をお守り代わりにして持ち歩いてたんだ。まったく同じものを用意するのは不可能なんだよ。それに事実、鞄には鞘だけが残ってたんだから、俺のナイフなのは間違いない」

「ふぅん……」


 禊屋は岸上の首に刺さったナイフをじっくり見つめた後で、また別の質問を冬吾に投げかけた。


「ところで、あたしとキミ以外にはこの死体に誰も近づいてないってことで間違いはない?」

「ああ、乃神も島原も、それにさっきの静谷って女の人も死体には触れてない。それは確かだ」

「ってことは、死体に近づくついでに鍵を忍ばせるってこともできないわけか……」

「鍵を忍ばせる?」

「窓の下は一階下の倉庫に繋がってるの。監視カメラに映ってない犯人は、そこからこの部屋へ出入りをしたのかもしれない。ただし、事件が発覚した後で窓に鍵がかかってるのを確認しているから、一度脱出した犯人はまたこの部屋にやって来て鍵で窓を施錠しなければならない。そして、そのためにはどうしても監視カメラに映ってしまう扉側から入る必要があるよね。怪しまれないように部屋に入る手段としては、死体発見のどさくさに紛れるという方法がある。犯人はそうして窓を施錠した後、死体に鍵を忍ばせておけばいいの。それができたとすれば、キミが目覚めた後で部屋に入った乃神、島原、織江ちゃんのうちの誰かということになるんだけど……と、まあ、長ったらしく説明したけど、今のキミの話を聞いて、それはまったくもって不可能であると判明してしまいましたとさ」


 禊屋はあてつけるように言う。推理がうまくいかないのは俺のせいじゃないぞ。


「ついでに言うと、窓のほうにも乃神が確認するまでは誰も近づいてないから、鍵はかけられない。やっぱりその説には無理があるな」


 直接確認した乃神にしても、窓を施錠したような動きはなかった。


「ということは、下の倉庫は事件とは無関係なのかな……?」


 禊屋は右手で顎を抱えて考えこむ。


「……お?」


 ふと、何かに気がついたように机に広げた岸上の遺留品に目をやる。


「そーいえば、携帯電話がない」

「携帯?」

「他の荷物はオフィスのほうだろうから、そっちにあるのかもしれないケド。そうじゃないとしたら……犯人が持ち去ったのかな」

「どうしてそんなことを?」

「はっきりとはわからないけど、たとえば……携帯に残された他の情報を得るため、あるいは、処分するためとか」

「そうか、犯人は伏王会からのスパイかもしれないって話だったな」


 禊屋は頷く。犯人がスパイなら価値のある情報のためにそれくらいのことはするかもしれない。監察室は身内の動向に怪しいところがないかを見張る部署だと言うが、その室長である岸上豪斗の部下が対抗組織のスパイだったすれば、それは皮肉と言うべきだろうか。


「ところで今回の事件の動機って、スパイであることが豪斗おじさんにバレそうになったからじゃないかと思うんだよね」

「だから、殺したっていうのか? ……一応、一緒に仕事をしてた仲間同士だったんだろ?」

「バレたら自分が死ぬんだもん。仲間だろうが関係ないよ」

「……そうか」


 受け入れがたい話ではあるが、まったく理解できないわけでもない。スパイとしても追い詰められた末の行動だったのだろう。


 禊屋は遺留品の中から長財布を手に取ると、それを開いて調べ始めた。


「財布の中身は……と。……ふーむ、これはどうしたことか?」


 彼女は小首を傾げる。冬吾は立ち上がり手錠が許容する範囲でそれを覗き込んだ。


 なるほど、奇妙である。


 財布の中の紙幣や小銭に手を付けられた様子はなかった。しかし、カード等の類は綺麗に抜き取られて一枚も残っていなかったのだ。


「カードの一枚も持ってないってことは考えられないよな。犯人が持ち去ったのか?」

「まず、そうと見て間違いないだろうね。問題はその理由だよ」

「持ち去った理由か……さっきの携帯電話と同じで、個人情報の取得が目的だったんじゃないか? ほら、カードと一緒に身分証明書とかも入れてあること、多いだろ?」

「にゃるほど。そうかもね」


 と、禊屋は財布を机の上に置く。


「ところで……その人、メモ帳とか手帳とか、どこかに持ってなかったか?」


 冬吾が尋ねると、禊屋は不思議そうな反応をする。


「持ってないみたいだけど……なんで?」


 そうなると、やはり遺体が身につけていた持ち物は、机の上に並べられているので全部か。


「いや、俺の親父のことでなにかメモでも残してやしないかな……と思ったんだよ」


 冬吾を電話で呼び出したのが岸上本人だったのならば、彼の遺品を調べることで、彼が冬吾に伝えようとしていた何かがわかるかもしれない……冬吾はそう予想したのだが、当てがはずれたようだ。


「ああ……そういうことね。残念だけど、それらしいものは見当たらないなぁ。ここにはないみたいだけど、オフィスのほうの荷物を探したら何か見つかるかもね?」

「そうか……」

「後でそっちのほうも調べてみよっか?」

「ああ、そうしてくれると助かる」

「オッケー。ま、その前に事件解決しちゃうかもだけど」


 そう言うと禊屋は、今度は机の上から窓の鍵を手に取る。


「――じゃ、倉庫の方も調べてみますか」


 窓の近くに屈みこむと、鍵穴に棒錠をねじ込む。カチッという音がして鍵が開いたことがわかった。禊屋は窓框の取手の部分を持ち、窓を引き上げるようにして開く。取手は部屋の入口側に、ヒンジ(蝶番)は奥側の框に取り付けられており、ヒンジを基点に本のページを捲るような形で窓は開け放たれた。


 取手側の框にはラッチが付いていて、鍵穴に鍵を差し込み回すことで、それが飛び出し床の間にある受け金で固定される仕組みになっているとわかった。そういうところは、窓というよりは扉に近いかもしれない。


 窓の下には鉄製の梯子がかかっており、下階の倉庫へと降りられるようになっている。倉庫の中は電灯がついていないため、冬吾の位置からでは暗くてよくわからない。


「ところで、避難用の通路だって言うなら、倉庫の方から鍵をかけられないのは欠陥じゃないか? 追手が来たらすぐに追いつかれてしまうじゃないか」

「ああ、それなら問題ないよ」


 禊屋は窓の下へ手を伸ばすと、横から何かをスライドさせる。それは鉛色をした鉄板だった。そこそこ厚みがある。


「倉庫の天井にこんな鉄板が取り付けられててね。こうやって窓を塞いだ後で、裏から掛け金で固定できるようになってるの。これなら窓よりよっぽど頑丈だよ」

「なるほど……」


 これならマシンガンで撃たれたとしても平気そうだ。


 禊屋は鉄板を戻すと、なぜか、窓の鍵穴の部分を表と裏側から交互に見比べるように凝視していた。


「なにしてるんだ?」

「うーーん。どうにかして裏側、倉庫の方から鍵をかけられないかなと思ったんだけどね」


 もしそんなことが出来たのならば、密室の謎について一歩前進かもしれない。


「でもダメだぁ。鍵穴は一応裏側まで貫通してるみたいだけど、奥に行くほど穴が狭くなってて、そもそも裏から鍵を差し込める構造になってないね」


 そう上手くはいかないということか。冬吾はなんとなく思いついたことを口にしてみる。


「だったら、裏側からヘアピンか何かを使って鍵をかけたってことはないか? 穴が貫通してるなら、技術さえあればそれでなんとかなりそうだけど」


 禊屋は素っ気なく首を横に振る。


「いーや、それは無理だね。ラッチ周りが錆びてるのかな。この鍵、回すのに結構力がいるんだよね。裏から穴に通せるような細い器具では、鍵はかけられないと思う。それに、そういう小細工をしたなら少なからず穴の周囲に細かい傷がついてたりするものだけど、そういったものも見当たらない」

「じゃあ、倉庫側から窓に鍵をかけるのは無理だってことだな」

「そゆこと」

「でもそうなると、本格的に犯人がどうやって会議室に出入りしたかがわからないな……」


 冬吾はいよいよ不安になってくる。残る時間は三十分もない。こんな調子で、タイムリミットまでに犯人の正体をつきとめることが果たして可能なのだろうか?


「なぁに? 不安なの?」


 しかし、禊屋はさして追い詰められた様子でもなく、笑った。


「大丈夫だって言ったでしょ。キミが犯人じゃないなら、あたしはきちんとキミの無実を証明してみせる。禊屋の名にかけてね」


 確かな根拠などない。だが、彼女のその言葉には、彼女に全てを委ねても構わないという気持ちになってしまうような、そんな暖かさがあったように冬吾は思う。


「君は、見ず知らずの俺のためになんでそこまで?」

「……知りたいの?」


 禊屋は悪巧みするような笑みを浮かべた。何を思ったか禊屋は、カーペットに手をついて、座っている冬吾の方へとにじり寄ると、そのまま冬吾の右肩へしなだれかかって身体を密着させた。


「なっ……!?」


 冬吾は突然の出来事に焦って、混乱した。鼻翼をくすぐるほのかに甘い香水の匂いと――右腕に当たったふっくらとした重みのある感触のせいで、頭が熱くなる。禊屋がそっと右手を伸ばして、冬吾の頬に触れた。


「っ――!」


 息が止まる。心臓は激しく鼓動して、視界が揺らめいた。頬を撫でる彼女の指は、冷たくて心地が良い。眼前には、動いたら唇が触れてしまいそうな距離に禊屋の顔がある。潤んだ眼が切なそうに冬吾を見つめていた。魅了され、思考を奪われる。禊屋という女は、少女の可憐さと、淑女の妖美を併せ持っているように思えた。


「……それはね」


 囁くような声。冬吾は唾を飲む。ゆっくり彼女の口が続きを告げた。


「――お仕事だから、です」

「……は?」

「……くっ、くふふ!」


 禊屋は吹き出すように笑う。それを見て、冬吾はやっと自分がからかわれていたのだと理解する。


「ふ、ふざけんなよな! こんな時に!」

「あっはっはー! ごめんねぇ。思ったより上手くいった……もといキミがかわいい反応をするもんだからさぁ? ついノリノリに」

「怒るぞ」

「ごめんって、怒んないでよ。悪い気はしなかったでしょ?」

「危うくトラウマになるとこだよ!」


 純情を弄ばれた屈辱という傷はそう簡単に癒せはしないのである。おのれ……この禊屋という女、実は結構ひどいやつなんじゃないのか?


 しかし当の禊屋は知らぬ存ぜぬといった様子で、鼻歌交じりに開けっ放しだった窓の方へと戻っていく。下への梯子に足をかけつつ、


「んじゃ、ちょっと下に行ってくるから留守番しててね。あ、一応言っとくけど、一人になるからって逃げちゃダメだよ?」

「この手錠じゃ無理だ」


 冬吾は机に拘束された左手を見せる。


「それもそーでした。まあ、すぐ戻るから、寂しくても泣かないようにね」

「泣くわけないだろ……」

「んふふ、じゃあねー」


 禊屋は引き止める間もなく、さっさと倉庫への梯子を降りていってしまった。


 会議室はしんとなる。禊屋によって明かりがつけられたので、窓下の倉庫の様子がわかる。倉庫内は広くはないものの、意外と物は片付いていてすっきりとしていた。禊屋が隅のほうで何かを探しているのが見える。手がかりを見つけてくれればいいのだが。


 一人残された冬吾は、なんとなく岸上の死体を今一度見てみることにする。


 ……やはり、どこかで会ったことがある気がする。それもかなり昔、子供の頃だったような。


「思い出せないな……」


 その時、冬吾の鞄の中で振動音が聞こえた。携帯に着信らしい。取り出して確認してみると、妹の灯里からの電話だった。


「はい、もしもし」

『あっ、お兄ちゃん? こっちは今学校終わったところだけど、そっちはもう帰ってきてる?』

「んっ……」


 さて、どうしたものだろう。


「い、いや、まだ帰ってない。もうしばらく時間がかかりそうでさ」

『そうなんだ』

「何か用だったか?」

『あのね、牛乳切らしてたのも思い出しちゃって、パンと一緒についでに買ってきてくれたら助かるんだけど……』


 パン……そういえばそんなことを頼まれていたっけ。


「ああ、それな。ええと……悪い、灯里。今日はちょっと都合が悪くなっちまって、買いに行けそうにないんだ」


 少なくとも目的のパン屋は個人営業の小さな店のため、夕方の六時には閉まってしまう。それまでに無事解放される見込みは正直に言って、ない。


『あ、そうなの? 別にそれならそれでもいいんだけど……明日絶対必要ってわけじゃないし』

「それに、夕食も先に食べておいてくれるか。いつ帰れるかわからないからさ」

『えっ……』


 途端、灯里の声に不安の色が宿る。


『ちょ、ちょっとお兄ちゃん、いつ帰れるかわからないってどういうことなの!? 何かあったの!? 大丈夫なの!? ま、まさか事故にでも遭ったんじゃ……』


 当たらずといえども遠からず、我が妹ながら鋭い。


「落ち着けって。何も起こってないし」


 嘘だ。


「俺は大丈夫だよ」


 これは本当、少なくとも今のところは。


『……お兄ちゃん、嘘ついてるでしょ』

「な、何を根拠に」

『そういう声をしてたもん』


 とんだ名探偵である。幼い頃からずっと一緒だったというのと、灯里の場合そういった感覚が人より敏感であるからかもしれない。


『ねえ、本当のこと言ってよ。お兄ちゃん、今どこにいるの? 何か困ったことになってるんじゃないの?』

「…………」


 冬吾は返答に窮する。


 果たして、本当のことを言って良いものだろうか? 答えはノーだ。ダメに決まっている。灯里のことだ、こんな突飛で荒唐無稽な話でも俺が真実を話しているとわかれば、それを信じるだろう。その場合、想定しうる中で最悪の事態が、ナイツの人間が灯里にまで口封じを行うということだ。あいつを俺の巻き添えにするわけにはいかない。犠牲になるとしたら、俺一人で十分だ。もちろん、それは最後の最後の妥協点であって、むざむざ死んでやるつもりは毛頭ない。


『お兄ちゃん? 聞いてるの?』


 だが、この場をどう切り抜けたものだろう。どう誤魔化そうとしたところで、灯里の眼を、もとい耳を欺けるとは思えない。


「……聞いてるよ。その……あのな――あっ!?」


 横からいきなり持っていた携帯を奪われる。いつの間にか禊屋が戻ってきていた。彼女は冬吾の隣に座り込むと、そのまま灯里に話しかける。


「もしもーし」

『あ、あれ? お兄ちゃん? え、ええっと、どなたですか?』

「初めまして、冬吾くんの妹さん。あたしは禊屋っていいます」

『みそぎや、さん? ……あ、ああ! もしかして』


 何かに気がついたような声。何に気づいたんだ? 待ってくれ、嫌な予感が――


『あなたは、お兄ちゃんの彼女さんですか?』

「違ーう!」


 思わず横からツッコミを入れる。


「あははー、そうでーす」


 面白がるように答える禊屋。お前も乗ってんじゃねえよ!


『ああ、やっぱりそうだったんだ……ふつつかな兄ですが、よろしくお願いいたしますね』

「こ、こちらこそー」


 ……禊屋ですら押され気味のように見えるのは気のせいか。


『それじゃあ、いつ帰れるかわからないっていうのはそういうことだったんだ……! なーんだ、お兄ちゃんったら恥ずかしがらずにそう言ってくれたら良かったのに。私は応援するよー!』


 そういうことってどういうことだ、とはとても訊けず、もはや冬吾はこの嵐が過ぎ去ってくれるのを待つばかりであった。


「そういうわけだからさー、お兄ちゃんは大丈夫だよ、安心して。妹さん、ええっと」

『戌井灯里といいます』

「灯里ちゃんはお兄ちゃんのこと、好きなんだね」

『はい、大好きです。小さな頃からずっと、お兄ちゃんは私の味方でしたから。ヒーローなんです、私にとっての』


 隣でその本人が聞いてるとは思っていないのだろう。こっ恥ずかしい。そういうこと、人にべらべら喋るなよな。


『でも、お父さんが死んでからはお兄ちゃん、ちょっと無理してるように感じました。お兄ちゃんも辛かったと思うんです。でも、私の前では弱ってるところを見せようとしませんでした。お父さんの分まで頑張ろうとしてくれていたんだと思います』


 ……自分で意識していたわけではないが、言われてみればそうだったのかもしれないと冬吾は思う。灯里は、本人以上に冬吾のことを理解してくれているのかもしれない。


『――本当は、それが苦しくもありました』

「苦しかった? ……どうして?」


 冬吾を代弁するように禊屋が尋ねる。


『私は、病気なんです』


 元々、灯里は病弱だった。それが、四年前の父親の死を受けてのショックが原因だったのか、一段とたちの悪い病気を患ってしまったのだった。


『そのせいであまり自由に外を出歩けなくて、お兄ちゃんにもたくさん迷惑をかけています。だからずっと――今でも、お兄ちゃんの人生を、私が縛ってしまっているような気がしています。私の世話ばかりで、お兄ちゃんが自分の幸せを探す時間なんてこれっぽっちもないんじゃないかとずっと心配でした。だから、お兄ちゃんが禊屋さんみたいな恋人を見つけてくれたことはとても嬉しいんです。これからは、私じゃなくて禊屋さんの味方ですね』

「……優しいね、灯里ちゃんは」

『――あ、なんか、すみません! 重いなぁ、なんて思わないでくださいね!?』

「あはは、大丈夫だよ。それにさ、お兄ちゃんはこれからも灯里ちゃんの味方でいてくれると思うよ。ヒーローってのは、誰か一人のものでないといけないわけじゃないんだから」

『……そうですね。そうだったら、私は嬉しいです』

「うん。……じゃあそろそろ切るよ、灯里ちゃん」

『禊屋さん。また、お話してくれますか?』

「……もちろん。楽しみにしてるよー」

『ありがとうございます。では、また』


 通話が終了する。禊屋はほうっとため息をつくと、冬吾のほうへ携帯を返しながら、


「泣いてるのー?」

「泣いてねーよ!」


 正直に言うと、少し涙ぐんではいた。


「良い子じゃん。これからもヒーローでいてあげなよ、おにーちゃん?」


 禊屋は目を細め、からかうように笑っている。


「やめろよ。ヒーローなんてたいそうなもんじゃない。あいつはまだ世間をよく知らないから、俺のことを過大評価してるだけなんだよ」

「ふーん」

「あいつはああ言ってたけどな、俺だって灯里の世話になってるんだ。灯里がいてくれたから、辛いことがあっても俺は耐えられたんだと思う。そういうこと、あいつは気づいてないみたいだけどさ」


 ……そもそも、あいつは考え過ぎなんだ。申し訳なく思う必要なんかない。俺は一度だって灯里のことを負担に思ったことなんかないんだから。


「だから、俺はあいつが言うほど偉い人間じゃないんだよ」

「そうだとしても、だ。キミが灯里ちゃんにとってかけがえの無い存在であることに違いはない。だったら、彼女を悲しませるようなことしちゃダメだよ」

「そんなことは、言われなくたってわかってるよ」

「なら、よし。じゃあちゃんと生きて戻らないとね」

「……もちろんだ」


 冬吾は力強く頷いた。禊屋はポンと手を打って、


「そーだった、下で面白そうなの見つけたんだ」


 立ち上がると、窓の近くに置いていた青色の箱を持って冬吾のところへ戻る。禊屋が倉庫の中から持ってきたものらしかった。材質は鉄、上面に持ち手が付いており、片手が持ち運びができるようなサイズ。いわゆる工具箱というやつだ。


「これは?」

「倉庫の中、結構ホコリまみれでさ。ざっと見たところ、ホコリをかぶってないのはこれだけだったの」

「つまり、この箱は最近動かされたってことだな?」

「あぶそるーとりー」

「…………」


 なんで急に英語使ったんだろう……。


 禊屋は箱前面の留め具を外して、箱の蓋を開いた。二段式で、箱を開くのに連動して横面の金具が上段を外側へ飛び出すようにスライドさせ、下段を同時に開く仕組みになっていた。箱の中身を見て冬吾は思わず息を呑む。


「銃……?」


 工具箱の下段、そこには拳銃が収められていた。


「ベレッタだねぇ。なんでここにあるのかはわかんないけど……忘れ物かな?」

「……どういう状況で銃を工具箱の中に置き忘れるんだよ」


 うっかりにもほどがある。


「そういえば、ここの人間はどいつもこいつも銃を携帯してるのか?」

「全員じゃないけど、まあ結構多いよ。あたしとしても、護身のために拳銃の一丁くらい持ってたほうがいいとは思うけど」

「じゃあ、君も持ってるのか?」

「いーや。あたしは不器用だからさ。却って危ないし、銃は持たないことにしてるの」


 禊屋は銃を手に取ると、慣れた手つきでそれを調べ始める。その様子は、言うほど不器用には見えない。


「弾は入ってるみたい。せっかくだし触ってみる? ほいっ」

「おわっ!?」


 ひょいと投げるように銃を渡され、冬吾は心臓が止まりそうな思いをする。


「危ないだろっ!? 暴発でもしたらどうすんだ!」

「危なくないよー。薬室には弾、入ってないんだから。その状態ではどうやっても弾は出ませーん」


 薬室というと、弾が射出される前に装填される部位のことだったか。


 銃の知識には明るくないが、以前に映画かなにかで見たことがある。たしか、オートマチックピストル――つまりこのベレッタのような拳銃は、最初の一発に関しては弾倉に弾が入っていてもそれだけではダメで、手動で銃上部のスライドを引いて弾倉から薬室に弾を送らないと撃てないようになっているはずだ。一度発砲すればその反動でスライドが勝手に引かれ、二発目の弾丸が薬室に送られるため、手動の操作は初弾の分だけでいい。


 そういえば先ほど、禊屋が銃身のスライドを半分ほど引いて排莢口から中を覗き込むようにしていたが、あれは薬室に弾が入っているかどうかを確かめていたのだろう。


 冬吾は右手の銃をじっと見つめる。ずしりと重い。手錠をかけられるわ、本物の銃を握るわと、この短い時間で随分人生経験値を稼いでいる気がする。こんなことで稼ぎたくなかったけど。


「それより、こっちのほうが面白そうだよ」


 禊屋はにやにやとしながら、工具箱の上段を指さす。


 そこには乱雑にものがつっこまれていた。金槌、ハサミ、カッターナイフ、キリ、ドライバー、レンチ、ネジ、釘……工具箱にあって然るべきものという感じだ。


 禊屋はその中から、輪の形に巻かれた透明の糸の束を取り出した。


「それは?」

「見たまんま、テグス糸だろうね」


 工具箱の中身としてはやや珍しい気がするが、銃が入っていたことと比べたら大分マシだろう。取り立てて注目すべきであるとも思えない。


「おっ」


 振動音。今度は禊屋の携帯に着信らしい。禊屋は着信に応じると同時に、岸上の死体の乗った机のほうへと歩き出す。


「はーい、アリス。どう? 調べてくれた?」


 アリスというのは禊屋の助手で、守衛室を調べるように依頼していた人物だ。禊屋は話しながら机の際へ屈むと、机の脚の間にある横渡しのパイプ部を手で触りだした。長机には長い辺と短い辺とがあるが、禊屋が触っているのはその長い辺の脚の間に渡された支柱であり、冬吾がまた別の長机に手錠によって繋がれている部位とも同じである。


「……うん。うん。にゃるほどね。思ったとーりだ。助かったよ、ありがとね。うん? いいよー、終わったら会いに行くからね」


 通話が終了する。禊屋は最後に支柱の真ん中辺りの裏側を覗き込むようにして何かを確認すると、戻ってきた。


「机になにかあったのか?」

「傷がついてたの。パイプの真ん中、その裏側にね。縦に一本線が引かれたような感じ」

「傷……? それが事件に関係してるのか?」


 禊屋は頷いた。


「それと、アリスから連絡があったよ。守衛室では、『六階の監視カメラだけ映像が記録されてない』みたい」

「六階っていうと、この下の階だよな」

「監視カメラの設定が前もって変更されてたみたいだね。今日の朝十時以降の映像は残ってないんだってさ」

「それも犯人がやったことなのか?」

「犯人、というよりはその協力者だろうね」

「姿を消したっていう、例の守衛か」

「イエス。さーて、ちょっと思いついたことあるから確認させてね」


 禊屋はパソコンを操作して監視カメラの映像を出す。


「今さら何を確認するんだよ? もう散々見ただろ?」

「問題は、キミが会議室へ入る前の時間だよ」


 時間を十二時三十分へとシークさせる。オフィス方向から出てきた岸上が会議室へ入るところが映された時間だ。


「これ以降、豪斗おじさんは会議室を出てない。じゃあ、他に誰が会議室へ入ったのかな?」


 映像を早送りにする。一時三十二分。次に映ったのは織江だった。画面右側、オフィスのある廊下から出てきて、お盆に湯呑みを一個だけ乗せて、廊下を歩いている。会議室の前で立ち止まると、ノックをしてから中に入っていった。一分も経たない内に織江は出てきたが、湯呑みはなくなってお盆だけを小脇に抱えている。そのまま元来たオフィスの方向へと戻っていった。


「ふむ、お茶を運びにきただけって感じだね」

「そういえば、さっきそんなこと言ってたな」


 映像のものと同じと思われる湯呑みは、今も入口から見て一番手前側の机の上に置かれてある。


「ところで、右側にはオフィスがあるんだよな。他には?」

「給湯室と、トイレくらいだね。階段もエレベーターもないから、そこから他の階には移動できないよ」

「実質、右側の通路の先は行き止まりってことか」


 一時五十分。織江の次に現れたのは、島原だった。しかし、島原は会議室のある通路の前を素通りして、右から左へまっすぐ、エレベーターのある方向へと消えていった。


「ふんふん、お次はー?」


 二時十二分。冬吾が会議室へ入るよりちょうど三十分前になる。今度は乃神だ。会議室の隣の部屋――監視カメラの映像では手前側になる――へと入っていく。


「隣の部屋ってたしか……資料室って言ったっけか?」

「うん。監察室取り扱いの案件についてのデータとか……まあ、それ以外にも色々保管されてるみたいだけど、あんまり入ったことないからよくわかんないや」

「資料室か……。資料整理をしてたって言ってたけど、それでかな」


 乃神はそれからしばらく資料室にこもっていた。


 そして二時二十三分。島原がエレベーターのある画面左側から姿を現す。両手にダンボール箱を抱えている。それほど重くはないのか、ダンボール箱を片手に抱え直してノックをしてから、扉を開ける。これも一分ほどで島原は会議室から出てきた。中に置いてきたのか、ダンボール箱はなくなっている。この会議室にはざっと十数個のダンボール箱が置かれているので、島原が持っていたものがどれかはちょっと判別がつかない。


「島原はどこに行ってたんだろう?」

「さぁて、ね」


 二時三十五分。乃神のいる資料室の扉が開いた。


「……あれ? 乃神のやつ、出てこないぞ」


 一分半ほど経ってから、乃神が十数冊にも及ぶファイルの束を両手に抱えて出てきた。手が塞がっているため、身体で扉を閉めている。なるほど、その状態ではノブを回せないため予め扉を開けていたというところか。乃神はファイルを抱えてオフィスの方へと消えていった。


 その後、二時四十二分に冬吾が会議室へやってくる。ここまでが冬吾が会議室へ入るまでの各人の動きということになる。


「……わからないな。岸上さんは俺のナイフで殺されてたんだ。事件が起きたのは俺が会議室へ入って気を失った後のはずで、それより前の映像を見ても仕方がないんじゃないのか?」

「実は、そうでもないんだよね」


 禊屋には何かがわかりつつあるようだが、冬吾にはさっぱり見当がつかない。


「俺が入る前に会議室に何かの仕掛けをしたってことか? だったら、俺より前に入った島原が怪しい……あっ、でもちょっと待ってくれ」


 冬吾は映像を少し前に戻す。乃神が資料室の扉を開けて、しばらく出てこなかったところだ。


「資料室は会議室より画面の手前側だ。そしてこの時、資料室の扉は手前の方向へ開いてるから、うまいことその扉に隠れて画面に会議室の入口が映らなくなってる。この間なら誰かが出入りしたとしてもわからないぞ」


 誰かが、とは言うがこの工作が意図されたものだとしたら、それはもちろん乃神ということになるだろう。


「んー……」


 禊屋は惜しい、という風に目を細める。


「目の付け所は鋭いけどね。扉が開いてたのは一分か二分、そんな短い時間でなにが出来たと思う?」

「それは……わからないけど」

「まあ、キミの推理はともかく」


 禊屋は髪を描き上げると、人差し指を立てて言う。


「これで犯人が何をしたのか、あたしにはそのおおよその見当はついたよ」

「ほ、本当か!?」

「あとは、キミに尋ねておきたいことがあるんだけど」


 禊屋は冬吾の前を行ったり来たりしている。


「なんだよ?」

「キミのお父さんのナイフ。あれは元々どこで――つまりキミのお父さんは、どうやって手に入れたものだったわけ?」

「たしか……もう死んだ父親――俺にとっての爺さんから貰ったものだとか話してたな。親父が生まれたとき、爺さんが知り合いの金物屋に特注で作ってもらったものだって。ナイフが記念だなんて変わってるけど、爺さんはそういうのが好きだったみたいだ。爺さんも婆さんも早くに亡くなったから、俺は会ったことはないんだけど……もしも俺が生まれるまで存命だったら、俺の分のナイフも作らせていただろうって、親父は言ってたよ」

「ふーん……なるほど、そーゆーことか」


 意を得たり、とばかりに禊屋は笑う。するといきなり携帯を出して、どこかへ電話をかける。


「また、アリスってやつのとこか?」

「いーや、違うよ」


 少しして、相手が出たようだ。


「あっ、今忙しい? そう? 大丈夫……じゃない? ごめん、でも一つだけ質問させて! 三十秒で終わるから!」


 禊屋は歩きながら遠くへ行ってしまってそこから先の会話はわからなかった。本当に三十秒ほどで電話は終わった。禊屋は戻ってきつつ電話を仕舞う。


「誰に電話してたんだ?」

「社長。出張先で忙しいみたい」


 随分フランクな関係なんだな……。


「で、何がわかっ――」


 禊屋は手で冬吾の発言を制する。


「待って。今から詰めをするから」


 彼女はおもむろに右手の人差し指を口元の前で立て、両眼を閉じた。明らかに彼女の纏う空気が変わり、深い集中状態に入ったことがわかった。


「…………」


 ほんの十秒ほどでそれは終わり、禊屋はゆっくりと眼を開ける。


「――謎は禊祓われた」


 彼女はぽつりと言う。神聖な儀式において祈りの言葉を口にする時のような、静謐と厳粛の響きがあった。一転して禊屋は微笑む。


「安心して。キミはもうすぐ自由の身だよ」


 嬉しそうな彼女の笑顔に思わず見惚れそうになるが、今はそれよりも。


「……わかったのか? 犯人が」

「あと一つ決め手があれば申し分ないけど、まあこれでも十分でしょ」

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