第4話 監視密室
目が覚める。冬吾はカーペットの上に横たわっていた。
同時に、溶けた鉄を飲まされたかのような激烈な不快感が全身を襲った。身体が熱い。意識は混濁し、呼吸が乱れる。
……寝ていたのか? まさか。こんな場所で? 信じられない。何があった? たしか……急に眠くなって――頭痛がする。思わず右手で眉間を押さえる。
ついでに右手首に巻いた腕時計に目をやる。午後三時二十分。あれから三十分ほどは気絶していたことになる。
どうして――ひどい頭痛と吐き気で、なかなか思考が働かなかった。
回復するのにしばらく待つ必要がある。呼吸をするのに全神経を集中させないと、そのまま息が止まってしまいそうなのだ。
何度か深呼吸を試みて息を整えると、気怠い身体を無理やり起こす。近くにあった長机の一つに手をついて、喘ぎながらなんとか立ち上がる。
気を失った時に身体がぶつかって崩してしまったらしい紙の山が、カーペットの上で散乱していた。いけない、片付けないと――そう思ってふと視線を上げた。信じられないモノがそこにあった。
「……なん、で」
泣き出しそうな声は、自分のものだった。ふらふらとした足取りで、それに近づいていく。
「起きてくださいよ……嘘なんでしょ……?」
そうであってほしいという願いだった。
だが――その男は起き上がらなかった。長机でできた列の一番端――部屋の最も奥側にあるその上に、男は仰向けに寝かされていた。その首には、黒い柄のナイフが突き立てられ、赤黒い血が滲んでいる。
――死んでいる。男性の目は閉じられ、表情は眠っているかのようにも見えるが、首にナイフを突き刺されて生きていられる人間がいようものか。
「あ……?」
冬吾は、ナイフの柄頭に、金色の文字の加工がされているのに気がついた。黒い木製の柄で、そこだけ判子のように彫刻の細工が施されている。文字の形だけを残して周囲を彫ることで文字を出っ張らせる、盛り字という技法だ。
浮き出た文字は金色に塗られていて、そこには、『C・I』とあった。
「これって……」
思わずナイフに触れそうになるが、ぎりぎりで思いとどまった。
――やめておこう。素人が不用意に触らないほうがいいだろう。
しかし、どうして――冬吾は慌てて、自分が倒れていたところへ戻り、置きっぱなしにしていた鞄の中を探る。
鞄の中には、ナイフの鞘だけがあった。肝心の本体は――ない。“鞄の中に入れていたはずのナイフがなくなっている”。
するとやはり、この男性の命を奪ったのは、冬吾の所有物であるナイフということになってしまう。
『C・I』とは、戌井千裕のイニシャル……つまりこれは、冬吾の父親の遺品なのだ。
特注で作られたものであるから、同じものが凶器に使われたということは、あり得ない。
どういうことだ……? 冬吾は熱でいまいちよく働かない頭で、必死に考える。
そう――つまり、こういうことなのではないか。
自分が気を失った後で、殺されている男ともう一人の人物Xがこの会議室へ入ってくる。どういう事情があったかは知らないが、Xは自分の鞄の中からナイフを見つけ出し、それを使ってこの男を殺した。逃げるようにXは部屋を出て行く……。
「…………」
冬吾は改めて死体を見つめた。
冬吾の知らない人間だった。服装はスーツ姿だが、上着は脱いでいる。ワイシャツの襟周りには首から流れた血によって染みができていた。
歳は四十半ばか、それより少し上というところだろう。体型は細めで、背は成人男性の平均くらい。口上に髭があり、穏やかそうな人相をしていた。
知らない……はずだ。なのに、奇妙な感覚があった。
「この人どっかで……」
なぜか、既視感がある。記憶を辿ってみようとしたその時、冬吾の後方で部屋の扉が開かれる音がした。
「おい、そこの!」
男の声。その隣で息を呑むような音が聞こえた。どうやら二人いるらしい。
「動くなよ。ゆっくりこちらを向け」
いきなり矛盾したことを言われた。とにかくこういう場合、後者の方を採用したほうが良さそうだ。慎重に入口の方を向く。
「なっ……!?」
冬吾が驚くのも当然だった。なぜなら、部屋の入口で立っている男は、自分へ銃を向けていたからである。
「下手な真似はするなよ。身体に穴を開けられたくはないだろう」
二十代半ばほどの、オールバックヘアーに眼鏡をかけたその男は、ひどく冷めた目つきでこちらを見据えていた。一分の油断も許されないような厳格な眼。鉄の男――それが冬吾が相手に抱いた印象だった。
眼鏡の男の隣には長髪で背の高い男が立っていた。ガタイがよく、眼鏡の男よりはいくらか歳上に見える。二人ともスーツ姿であることを考えると、ここの社員だろうか。その長髪の男が、何かに気づいて言う。
「お、おい、乃神(のがみ)。あそこで寝てるの、もしかして……岸上さんじゃ」
岸上? ここで死んでいる男の名前は、岸上というのか? 俺をここに呼び出した、あの岸上豪斗?
乃神と呼ばれた眼鏡の男は、一瞬だけ、血の気が引いたような顔をしたが、すぐに元通りになって言った。
「死んでいるのか?」
冬吾は頷く。
「……どうやら、そうみたいだ」
「お前が殺したんだな?」
「ち、違う! 俺は――」
「とぼけんじゃねえ! お前以外に誰がいるんだよ!」
破裂音がして、冬吾の足元で床が短く揺れたような衝撃があった。
「っ……!」
冬吾は驚きのあまり声が出せなかった。長髪の男が上着の内側から銃を引き抜き、発砲したのだ。冬吾の足からほんの十センチくらい先の方で、カーペットに弾丸が埋まっていた。
……あの銃、本物なんだ。玩具やドラマの小道具じゃない。撃てば人が死ぬ、紛れもない本物。
待て。ということは、本物の銃を持った男二人から、身内を殺した殺人犯だと疑われているというのが、俺の現在の状況なのか? 頭もまだすっきりしない上に、いまいち現実感のない展開で、甚だ困惑するが……これって、かなりまずいんじゃないのか?
「待つんだ島原(しまばら)さん。この男が犯人だとしても、だ。いったいどこからの刺客か、突き止めるのが先決でしょう」
言っていることはよくわからないが、この乃神という男は冷静だ。その一言で、渋々といった様子ではあるものの、島原と呼ばれた方の男は銃を下げた。
……ひとまず助かった、のか?
「とりあえず、こいつを拘束しておくものが必要だな。島原さん、取ってきてくれますか。それと――」
乃神は島原へ何かを耳打ちする。
「ああ、わかった」
島原が部屋を出て行く。乃神は銃をこちらに向けたまま、問いかける。
「一つ訊いておこう。お前はどうやってここへ入った?」
「どうって……裏口の扉から、普通にだよ」
「普通に、だと?」
乃神は怪訝そうに眉を歪めた。
「……そんな馬鹿なことがあるか。裏口は常に電子ロックによって施錠されている。内側からパネルを操作しなければならないから、中から外へ出ることはできても外から中へは入れない。お前のような外部の人間が、あそこから入れるはずがないんだよ」
施錠されている、だって? でもあの時、扉は普通に開いたはずだ。神村はそもそも扉に近づきさえもしなかったし、何か特殊な手続きをした様子もなかったが――。
「入れたとするなら表口からということになるが……しかし、表口は表口で、常に警備の人間が立っている。お前のようなやつを通したとは思えない。いったいどこから侵入したんだ?」
「ちょ、ちょっと待て! 落ち着いて話そう、落ち着いて」
「俺は充分落ち着いている。頭を冷やすのはお前のほうだ、侵入者。なんなら、その頭に二、三個穴を開けて涼しくしてやろうか」
ひやりとしたものが背筋を走る。
「……冗談に聞こえないぞ」
「冗談で済ましてやってるうちに、質問に答えろ」
「言っておくけど、俺は侵入者なんかじゃない! 岸上って人に呼ばれて、ここへやって来ただけなんだ!」
「ほう、ではなぜその岸上さんを殺したのだ?」
やはり、ここで死んでいるこの男は、岸上豪斗なのか。
「だから、俺は殺してないんだよ! 会議室で待っておけって言われてたからここにいたんだ。そしたら急に意識がなくなって……気がついたら、こんなことになってて……」
「ふん、これはこれは、随分とまた苦しい言い訳だな」
たしかに、事情を知らない者からすれば冬吾は非常に怪しい容疑者だ。冬吾だって乃神の立場ならこんなあやふやで馬鹿馬鹿しい証言を信じようとはしないかもしれない。
「くそっ……どうやって説明したら……そ、そうだ! 神村! 神村って人を呼んできてくれ! 俺はその人に案内されたんだ」
「神村……? 誰だ、それは?」
「ここの社員だろ?」
「俺はここのメンバーの全員の顔と名前を記憶しているが……そんな奴は知らないな」
「なんだって……?」
いや、でも……たしかに。岸上とは上司と部下なのではないかと尋ねた時にも神村ははっきりとは返答せず、自分がナイツグループの社員であるとも言っていなかった。なんてことだ……じゃああの人、一体何者だったんだよ!
「……まあいい。侵入方法については後ほどじっくり問いただすとしよう」
「あのさ、念の為に訊いておきたいんだけど……警察は呼ばないのか?」
乃神は呆気にとられたような顔をする。
「いや、呼ぶわけないよな。いいよ。わかってる。……もう勝手にしてくれ」
なんだか自棄になってきた。当然のように銃なんてものを持ってるってことは、つまりこいつらはヤクザ……とか、それに類するものなんだろう。だったらアジト内に警察を呼びこむなんて真似、するはずがないというものだ。
先ほど出て行った島原という男が戻ってきた。
「乃神。これでいいか?」
男が持っていたのは、手錠だった。おいおい……そんなものまであるのか。
乃神は島原から手錠を受け取ると、こちらへ近寄ってくる。すかさず島原がこちらへ銃を向ける。不審な動きをすれば躊躇なく撃ってくるだろう。
「どちらでもいい。手を出せ」
「……わかったよ」
舌打ちをして左手首を差し出す。ガチャ、と音がして、堅い鉄の輪をかけられる。まさかこんな経験をすることになろうとは……。
乃神は長机の列から一つを少し横へずらし、天板より十センチほど下、脚同士の間に横渡しされているパイプ状の支柱へと手錠のもう片輪を嵌めた。これで、逃げ出そうとするならこの机を抱えて走らなければならなくなってしまったわけだ。そんな逃避行を演じたところで、ものの数秒で失敗するのは目に見えている。
もちろんこんな仕打ちに納得はいかない。だが、ここで抵抗したとしても望ましい結果が得られるとは思えなかった。
大丈夫……これは、誤解なんだ。その誤解を解く機会はこの先必ずある。一つ一つ、きちんと説明すればきっとわかってもらえるはずだ。
「そうだ、乃神」島原が思いついたように言う。「静谷(しずや)のやつには例のことを頼む時にもう伝えちまったけどよ。このこと、他の連中にも知らせたほうがいいか?」
「いや、それはまだよしておきましょう。余計に騒ぎ立てることもありません。知らせるのは事態が収束してからで充分です。今はまだ、このことを知っているのは我々のうちに留めておきます。ただ、出張中の社長には連絡を入れておいてくれますか。今繋がるかはわかりませんが、報告は必要でしょう」
「そうだな、わかった。すぐ戻る」
島原が会議室を出て行く。どうやら乃神たちは自分たちだけで事態の解決を図るようだ。とすると、彼らから深い容疑をかけられている現在の状況は芳しいとは言えないだろう。なんとか誤解を解かなければならないが……。
それにしても、『社長』とはいったいどんな人物なのだろう。ここがヤクザのフロント企業のようなものだとしたら、そのトップに立つのは相当恐ろしい人物なんじゃないだろうか。出張中と言っていたから、今はここにいないのだろうが……。
ふと、嫌な想像が脳裏をよぎる。
ここはいわば、無法者たちの巣窟だ。そんな場所に、知らなかったとはいえ足を踏み入れてしまった者を、彼らは無事に帰すだろうか?
彼らからすれば、誤解が解けたとしても冬吾を解放するメリットはないのだ。冬吾が余計なことを口外してしまう前に始末する――それがこの先想像される展開として、一番しっくりきてしまう。
――馬鹿な! そんなことがあってたまるか。俺が死んだら、あいつは……妹はどうなる? 両親が死に、身寄りのない妹は一人ぼっちになってしまう。
あいつはたった一人で生きていけるほど強くはないんだ。だから、死ねない。……死ぬわけには、いかない。
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――三十分後。
手錠をかけられた冬吾は、依然として会議室の中にいた。一応、危険なものを隠し持っていないか乃神から簡単な身体検査をされたが、当然ながらそんなものは持っていない。
今は入口から見て右寄り、手錠を固定された机に寄り添うように座っている。座っていると左腕を上げっぱなしになるのでややしんどくなってきた。
この先どうなるのか……考えるだけで気が滅入ってくる。だが、思考放棄にはまだ早い。自分が気を失っている間に何が起こったのか、よく考えてみよう。もしかしたら、少しは状況を好転させる何かを思いつけるかもしれない。
まず気になるのは、なぜ気を失ってしまったかということだ。それについてはおそらく、あの時嗅いだ妙な臭いが関係しているはずだ。
会議室に入った瞬間から感じていた、薬品のような臭い。多分、催眠効果のあるガスのようなものが撒かれていたのではないか。突飛な発想のように思われるが、そうでも考えないと急に眠ってしまったことの説明がつかない。
そういえば、と気がつく。岸上豪斗の死体が現れたことはもちろんだが、それ以外にも入った時と目が覚めた後でこの部屋で変化しているものがある。だが、それが何を意味するのか冬吾にはわからなかった。どうしてあんなものが動いているのだろうか?
「おい、なにきょろきょろしてんだ」島原が言う。「諦めろよ。今さら何しようが無駄だぜ。大人しく罪を認めるんだな」
完全にこちらのことを犯人だと決めつけているようだ。
「認めたら殺すんだろ。それなら死んでも認めてやるもんか。俺は死にたくないからな」
「あ? 妙な言い回しすんじゃねえよ。それと言っておくが、お前が認める認めないに関わらず、今ここで死んでもらったってこっちは一向に構わないんだぜ?」
そう言って銃をこちらへ向ける。
――大丈夫、ただの脅しだ。さっきの島原と乃神の会話からして、冬吾が誰の命令で、そして如何にしてこのビルへ侵入したかを明かさないうちは殺すつもりはないらしいとわかった。もっとも、神村に言われたまま普通に入っただけなのだが。
少なくともこの状況が変わるまでは、殺されることはない。言葉で恫喝されるだけでも恐ろしくはあるが、それがわかるだけで気の持ちようは違ってくる。
冬吾はこんな修羅場を幾つもくぐってきたというわけではないが、それでも形だけの言葉というのは、なんとなくわかるものだ。ここで相手を下手に刺激しても不利になるだけだから、それを口には出さないが……。
ふと、こんな状況で奇妙なほど落ち着いている自分に気が付き、おかしくなった。昔からそうだった。危機的な状況に追い込まれれば追い込まれるほど、冷静になる性質。それは、冬吾が幼少期に経験した出来事が原因なのかもしれない。
ともかく、島原が近くで監視しているため、今はじっと座っていることしかできない。一方、乃神は先ほどから冬吾の持ち物を見分していた。
「戌井、冬吾……」
財布から取り出した学生証を見て、乃神は呟いた。
「……? 俺の名前がどうかしたか?」
「いや……なんでもない。それより、説明して欲しいんだが……これは、どういうことだ?」
そう言って鞄からナイフの鞘を取り出す。ナイフの柄と同じく、黒色の木鞘だ。
「これは、岸上さんの首に刺さっているナイフの鞘ではないのか?」
「……そうだよ」
「ほう、お前のものであると認めるんだな?」
「ああ」
事実だし、ナイフの鞘だけが鞄の中にある状態で否定しても説得力がない。
「やっぱりてめえが殺したんじゃねえか!」
島原が吼える。冬吾も負けじと言い返した。
「違うって言ってるだろ! さっきも言ったけど、この部屋へ入ってから意識がなくなって、気がついたらこんな状態になってた。俺が眠ってる間に誰かが岸上さんを殺したんだよ……きっと、俺に罪を着せるために。そのために俺のナイフを使ったんだ」
「なるほど、面白い推理だが……」乃神は嫌味な笑みを浮かべて言う。「そんな都合のいい話を、信用するとでも思ったか?」
「あんたらがどう思おうと、真実はそうなんだよ。説明する手立てがないんだから、仕方ないだろ」
「おまえよぉ、なんか投げやりになってないか?」
島原が言う。ああ、そうだよ。途方に暮れているのさ。だってお前ら何言っても信じないんだから。
「あの……すんませ~ん」
妙に間延びした声が聞こえる。入口のほうに女性が立っていた。
年の頃は二十歳過ぎくらい、黒いTシャツに灰色のスラックスと、飾り気のない格好をしている。眠そうな眼をしているが、寝起きという感じではない。ロングの髪はあまり手入れがされていないのかところどころハネており、身だしなみにはあまり関心がなさそうである。
「頼まれたもの、取ってきましたけど……これで良かったですか、島原さん?」
「おお、ありがとよ。静谷」
島原は静谷と呼んだ女性からノートパソコンを受け取る。静谷、という名前には聞き覚えがあったが、ついさっきのことだ。島原が何かを頼んでいた女性の名前。パソコンを持ってくるように言いつけていたのだろうか。
「んで、映像の入ったSDカードがこれです」
映像……? いったい何のことだろうか。
「ねぇ島原さん。岸上さん、まじで死んでるんですか?」
島原は黙って手の親指でその方向を指した。静谷は会議室の奥、長机の上に未だ残されたままの遺体を見て顔をギョッとさせる。
「うぅわ……。ほんっとに死んでるよ……やばいなこれ……」
……怖がっているのか、それとも案外平気なのか、解釈に困る反応だ。今度は乃神が尋ねる。
「静谷。守衛室の警備員はいったい何をしていたんだ? こんな侵入者を見逃すなど、考えられん」
「あー、そうそう。それがですね。守衛室、もぬけの殻だったんですよ」
「なんだと? 最低一人は常に監視カメラの映像をチェックしておくようになっているはずだが」
「でも、だーれもいませんでしたよ。この映像だって、勝手に持って来ちゃったんですけど。……大丈夫、ですよね?」
「まぁ……そういうことなら問題ないだろう」
「あのぉ、じゃあもう戻ってもいいですか? 私、血とか死体とか勘弁って感じなんですけど……」
「ああ、助かった。もう戻っていい」
静谷がいそいそと帰っていくのを見届けた後、乃神は独り言のように言う。
「だが、一体どうなってる……? 守衛室を無人にするなど、職務怠慢もいいところだ」
「大方、気の抜けた新入りがサボってたってところだろうぜ」島原がパソコンとSDカードを乃神へ手渡しながら言う。「で、乃神。これ、どうするんだ?」
乃神は不敵に笑って、
「いやなに、こいつの罪を証明してやろうと思いましてね」
と、不穏なことを口にする。
「言い逃れの余地などないということをわからせてやれば、大人しく全てを白状するでしょう。拷問などといった野蛮な手段に頼るより、そちらのほうがスマートなやり方だとは思いませんか?」
冬吾は思わず口を挟む。
「ま……待ってくれ! その、映像ってのは一体なんのことだよ?」
「それを説明する前に確認しておくことがある」
そう言うと、乃神は部屋中央に並ぶ長机の列の横、入口から見てその右側に立つ。
列の真ん中あたりから、長机を一つ、横から引き抜くようにずらしていく。長机の脚にはキャスターがついており、カーペットの上をスムーズに移動した。
「おい乃神。なにしてんだ?」
島原が声をかける。
「まあ、待っていてください。この確認が後から効いてくるはずです」
長机を移動させると、そこに現れたのは、『窓』だった。幅は縦、横ともに七、八十センチといったところだろうか。床に取り付けられた窓というのは奇妙な光景だった。天窓ならぬ、床窓だ。
窓ガラスからは薄暗い空間が見える。なぜそのような構造になっているかはわからないが、どうやら下の部屋へと繋がっているらしい。
乃神は床へ片膝をつくと、窓のサッシ部分に付いた取手に手をかけ引く――が、窓には鍵がかかっているようで、開かなかった。乃神はそれを確認すると立ち上がって言った。
「施錠されているな。この窓の施錠には鍵が必要だ。反対側から鍵をかける仕組みはないので、つまりはこちら側からでしか施錠できないようになっている」
たしかに、窓の取手がついた近くには鍵穴のようなものが見える。
「ところで、お前は当然、これには触れていないな?」
「当たり前だろ。そんなとこに窓があったってこと自体、今初めて知ったよ」
長机の下に完全に隠れていて、見えなかったのだ。
「ふん……。その言葉、忘れるなよ」
「ど、どういう意味だよ」
冷や汗が滲む。何か――致命的な失態を犯してしまった気がする。
乃神は冬吾に向き直り、眼鏡のブリッジを人差し指の背で押し上げ位置を調整しながら言う。
「お前が気がついていたかどうかは知らんが、この会議室の前の廊下は監視カメラによって撮影されている」
……気付かなかった。
「つまり、お前の言うことが正しいのならば、お前がこの部屋に入った後で、岸上さんを殺した何者かが侵入したということになるな?」
「あ……!」
「この建物内の監視カメラの映像は、全て守衛室のサーバーに保存されている。そして、先ほど静谷に守衛室から持ってきてもらったこのSDカードが、そこの監視カメラの映像を記録したものだ」
目の前の闇が開けていくようだった。なんという僥倖だ。そんなものがあるなら、いとも簡単に自分の証言が正しいということを証明できるじゃないか!
乃神は長机の上にパソコンを置き、電源ボタンを入れて立ち上がるのを待ちながら尋ねた。
「島原さん、映像を見る前に確認しておきたいんですが……。島原さんは初めに異常に気がついた時、この会議室へは入らなかったんですよね?」
「ん? おお、そうだ。扉のガラス越しにそいつが倒れてるのが見えてな。知らない奴がなぜか会議室で倒れてる――俺は直感的にやばいと思って、下手に一人で中へ入ろうとせずに、お前を呼んできたってわけだ。ま、その選択は正解だったようだな。あの時一人で中へ入ってたら、俺が犯人だったと疑われてたかもしれないんだからよ」
つまり、この島原という男はガラス越しに冬吾を見つけただけで、乃神と一緒に駆けつけるまで会議室内には入らなかったということだ。その証言が正しいなら、たしかに犯人からは除外されるだろう。
「ちなみに、岸上さんの死体は見えたんでしょうか?」
「奥のほうで机の上に誰かが寝てるってことはわかった。俺は元々岸上さんに用があってここへ来たからよ。倒れてるこいつが岸上さんじゃないってことはすぐにわかったから、じゃあ机の上に寝てるそっちのほうかとも思ったが、なんでそんなとこに寝てるのかも意味不明だし、遠いこともあってその時ははっきりとはわからなかった。もちろん、その寝ている誰かがもう死んでるってことも気が付かなかったぜ」
「なるほど……」
乃神は頷いてから、パソコンへ向き直る。
「さて、では確かめてみようじゃないか、戌井冬吾。お前が白か、あるいは黒であるかを」
乃神はパソコンへカードを差し込み、ファイルを開く。
映像がディスプレイに映し出された。廊下をエレベーターのある方向とは逆側、つまりは廊下の行き止まり側から俯瞰して撮影されている。監視カメラの設置位置としては、行き止まりの壁際左隅の天井近く、ということになる。
画面右側に会議室の両扉、その手前に一枚扉が写っている。冬吾が会議室へ入る前に見た通り、この廊下にはその二部屋しかない。その奥は丁字路になっており、左右の道の先は壁で阻まれ見えない。画面左側がエレベーターのあった方向だ。
画面右下には、撮影された時刻が表示されている。映像の始まりは午前九時ちょうどからだった。
「問題の箇所は……お前が会議室へ入った後だろうな」
映像をおおよその時間までシークさせた後、該当の場面まで早回しにする。
「……いた。ここだ」
一時停止。十四時四十二分、冬吾の姿が画面左側から現れたところだ。ここから等速で再生する。
冬吾は会議室の扉をノックした後、扉のガラス越しに会議室を覗いている。自分の姿を客観的に見せられるというのは、何だか居心地が悪い。
「これは何をしている?」
「何って、ノックの返事がなかったから、中に人がいるかどうか確かめただけだ」
「で、どうだったんだ?」
「いなかったよ。その時は中で待っておけって言われてたから、そうした」
「言われてた……誰から?」
「神村って人だ」
「また神村か。そんな人間、実在するのかな」
乃神は馬鹿馬鹿しいとばかりに鼻で笑う。映像は冬吾が会議室の中へ入ったところだった。
「会議室の中の様子がわかれば言うことなしだったんだが、このカメラでは角度的に見えないな」
監視カメラは、壁の扉がある側に近い位置からほぼ真正面に廊下を映しているため、画面右側の会議室の中までは見えない。
もっとも、カメラが右側を向いていて会議室内部の様子が見えたとしても、それは扉を開閉するタイミングの一瞬だけだろうからあまり意味はないかもしれない。ガラスの部分を通して見ることは可能かもしれないが、映像の解像度の問題で何が映っているか把握するのは難しかっただろう。
「ここから早回しにして、誰が会議室へ入ったかを確認する。お前よりも後に会議室へ入った人間がいれば、そいつが犯人である可能性はある」
乃神はあくまで冬吾は容疑者の内であるということを強調するように言う。いいさ、それでも構わない。犯人の可能性がある人間が他にもいるということさえわかれば、大きな前進だ。
映像が早回しにされる。会議室の中で冬吾が目を覚ました時刻は十五時二十分だったと確認している。それまでに会議室へ侵入した人物こそが、岸上豪斗を殺害した犯人だ。
――しかし。廊下にはその後しばらく誰も現れなかった。
十五時十八分。島原が丁字路右側から現れる。
「ちょっと室長に聞きたいことがあってよ」
訊かれてもいないのに島原は説明する。室長、というのは岸上のことだろう。と、すると。乃神、島原、それに静谷の三人は同じ部署の仲間であり、岸上の部下ということで間違いなさそうだ。それにしても、いったい何をする部署なのだろう。ここがまともな会社でないことは既にわかりきったことであるが。
映像の中の島原は、会議室の前で何かに気づいた素振りを見せた。
「部屋の中で、倒れてるこいつを見つけたんだ」
島原は慎重な動きで扉に近寄ると、右腕を扉について、顔を更にガラスへ近づけた。鼻がガラスに当たりそうなほど、食い入るように中の様子を凝視している。腕が邪魔で表情はよく見えないが、驚いているらしいことは窺えた。
「だってよ、明らかにおかしいじゃねーか。異常事態だぜ。知らねー人間が入り込んでて、しかも倒れてるんだからよ。とにかく誰かに知らせるのが先決だと思った」
「すぐに確認しようとはしなかったのか?」
冬吾が尋ねる。
「俺はな、警戒心が強い男なんだ。倒れてるふりしてただけで、俺が入ったらいきなり襲いかかる算段だったかもしれねえ」
「訂正するのも馬鹿馬鹿しいけど、そんな算段してないぞ。意識がなかったんだから」
「今となっちゃどうとでも言えらぁな」
言うだけ無駄か。
映像は島原が再び丁字路の右側へ消えていくところだった。しばらくして島原が乃神を連れて戻ってくる。異常事態だと知ったらしく、二人とも早足で会議室へ入っていく。この時に冬吾と二人の邂逅となったわけだ。
「以上だ」
乃神は映像を停止する。
「えっ……」
一転、目の前が真っ暗になったような錯覚を見る。終わり? もう終わったのか?
「一つ訊いておきたいのだが、お前はノックの返答がないから中へ入ったと言ったな。それは本当か?」
「あ、ああ、そんなことで嘘ついてもしょうがないだろ」
「では、その時に岸上さんは部屋にいなかったことになるな。だが、その後岸上さんが会議室の中へ入る様子が映っていないのはどういうことだ?」
「それは…………」
冬吾もそれには気がついていた。犯人だけでなく、当の被害者である岸上豪斗の姿さえもカメラには映っていない。冬吾が会議室へ入った時には岸上の姿はなかった。それが、どういうわけか目が覚めた時には岸上の死体が机の上にあった。ということは、岸上がカメラに映っていなければおかしいのだ。
「島原さん。岸上さんは資料整理で会議室へ篭っていたはずでしたね」
「ああ、正午過ぎだったかな? オフィスルームを出ていったのを覚えてるぜ」
資料整理……ここにダンボール箱や紙の山がいくつも積まれているのは、そのためか?
「俺が資料整理の手伝いでここへ来た時には、まだいたけどな。おい、お前。本当に誰もいなかったんだろうな?」
島原が訝しむように尋ねる。
「いなかったよ。いたらノックに反応が返ってくるはずだ」
「この映像では音まではわかんねえからな。実はちゃんと岸上さんは中にいて、ノックに応じる声もあったのかもしれねえ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 俺がそんな嘘ついて何になるんだよ! 岸上って人が元々ここにいたとして、そのことで嘘をついても俺には何のメリットもないだろう」
「む……そ、それはだな……」
島原は言い澱む。
「確認してみようか。お前が会議室へ入る前の時間を」
乃神は映像を前の時間へとシークさせる。
「……ここだ。十二時三十分。岸上さんが会議室へ入ったところだ」
映像には、たしかに死体の人物と同じ姿が映っていた。オフィスがあるという右側の廊下から出てきた男は、両手にダンボール箱を抱えており、会議室の扉を身体で押すようにして中へ入っていく。そこから乃神は映像を早回しにし、一気に冬吾が会議室へ入る時間である午後二時四十二分の時点までを確認する。
結果として、会議室への出入りをする者こそいたものの、肝心の岸上豪斗は十二時三十分に会議室へ入ったきり、一度も部屋を出ていないことが判明した。
「そんな……嘘だ……」
じゃあ、どうしてあの時、部屋の中に岸上の姿がなかったのだ?
「些細なことだ。ノックへの返事がたまたま遅れただけだったんだろう。そこでお前はガラスを覗き込み、岸上さんの姿を確認してから、中へ入ったんだ」
「ち、違う! たしかに誰もいなかったんだ!」
「気持ちはわかるよ」乃神は感情のない声で言う。「自分が殺したことがばれたら、何をされるかわからないものな。妄言で時間稼ぎしたくなるというのも仕方ない。……だがそれはそれとして、余計な手間を取らせた代償は払ってもらう」
いきなり顔面に強い衝撃があって、冬吾は後ろに倒れた。手錠で机に固定された左腕が伸びきる。
「いってぇな……くそ……」
鼻に鈍い激痛があった。乃神に膝蹴りをくらったのだ。こいつ、顔色一つ変えないで殴りやがって!
じわっと鼻から何か垂れてくる。右の袖で拭ってみると、自分でも驚くほど大量の血がべったりと付いていた。上顎の奥からじんじんと痛む。痛むが、鼻の骨までは折れてない……はずだ。
それにしても、どうして。……なぜ、監視カメラの映像には犯人らしき人物が映っていなかった?
冬吾は鼻梁を襲う鈍痛に耐えながら、必死に頭を働かせる。
整理しよう。俺の持っていたナイフが犯行に使われている以上、殺害は俺が会議室へ入った後で行われたことは間違いない。
犯人は眠っている俺を横目に、鞄からナイフを盗みだして岸上という男を殺した――そう思っていた。だが、犯人と思しき人物はカメラに映っていない。そしてそれは、岸上の姿も同様だ。俺が会議室に入った時、人の気配はなかったから、当然岸上もあの時会議室にはいなかったはずだ。それなのに……。
「おい」乃神は冬吾の髪の毛を引っ掴んで無理やり引き起こす。「もう一度訊くぞ。誰の命令で殺った?」
冬吾は乃神を睨みつけて言う。
「……殺してねぇって言ってんだろ」
「まだ理解できないのか? それとも理解できないふりなのか? どちらでもいいが、あまり惨めな真似は勘弁してほしいな。見ているこっちがたまらないよ。いいか? してないと言い張るだけならガキでもできる。否定し自分を弁護するならそれなりの根拠が必要なんだ」
「…………」
「会議室の出入口は監視カメラで見張られた扉と、内部にある床の窓のみ。窓には鍵がかかっているから、ここから何者かの出入りが行われた可能性はゼロだ。つまり、犯人の部屋の出入りは扉から行われたと断定できる。そして今映像を確認した通り、お前の後で会議室へ入った人間も、出た人間もいなかった」
そうか。さっき窓の話になったとき、嫌な予感がしたのはこういうことか……。部屋に残っていた俺自身が、窓に触っていないとはっきり言ってしまったのだから、そこから犯人が逃げ出した可能性もなくなるという論理だ。
「更に、岸上さんを殺したナイフはお前のものだという……全ての状況がお前を指しているんだ。お前が犯人でしかあり得ないんだよ」
「違う……」
「お前が殺したんだ。戌井冬吾」
「違う……俺は……何もやってない……」
冬吾は項垂れる。状況はまさに四方も八方も手詰まり。こうしてみると、自分の記憶のほうが間違っているような気がしてきて、反抗心の炎も消えかかっていた。
何かがおかしい、間違っている。そのはずなのに、その違和感の正体がわからない。
「なあ乃神よう」島原が言う。「そいつ多分、いつまで経ってもそんな感じだぜ。パニック状態って言うのか? 自分でも何が何だかわかんなくなってやがるんだ。そういう奴は、どうせ最後まで何も言わねえよ」
……だったらどうだと言うのか。
「だからさっさと殺しちまおう。な? どうせ生かしておく理由はねえんだ。手っ取り早くいこうぜ」
「……そうですね。俺も、そう思っていたところでした」
乃神は懐から銃を抜く。まずい――こいつは……やる。本気で俺を殺すつもりだ。虫を潰すみたいに、躊躇いなくやれるタイプの人間だ。素人の目で見てもそれはわかる。
……そんな。俺は死ぬのか。こんなにあっさり終わってしまうのか。守ると決めた者がいるのに。何の役目も果たせぬまま、こんな場所で、虫けらのように殺されるというのか。
「待てよ……! 待ってくれ! こんなのおかしいだろ!」
「いいや。何もおかしくないのさ。信賞必罰、それが世の道理というものだ」
銃口が眼前に迫る。
「じゃあな」
「――っ!」
冬吾は目を瞑った。最期の瞬間、思い浮かべようとしたのは大切な妹の姿だった。母は幼い頃に病死、そして四年前に父が殺され、冬吾の肉親は妹の灯里のみだった。冬吾にとって最も大切な存在。父に代わって妹を守ってやること、それが自分の役割であり、生きている意味だと信じてきた。その末路がこんな無様な最期だなんて、余りにも非情としか言い様がない。
冬吾は己の不幸な運命を呪いながら、心中で妹への言葉を紡ぐ。
灯里…………ごめん。
引き金が引かれる――
「その人、たぶん違うよー」
――寸前で、すっとぼけたような場違いな声がそれを遮った。
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