第2話 2滴目の毒薬

「どうぞごゆっくり。」

冗談めいてそう言った先輩は、ひらひらと手を振った。

(なんだか、不思議な人だな。もっと無口な人かと思った。)

言われた通りの場所にあるバスタオルを取り、借り物の服と共に籠に置く。

人の家の風呂に入るというのは、何年振りのことだろうか。

以前、友人の家に泊まった時以来だ。

少なくとも数年は前のことだ。

蛇口を捻り、シャワーを浴びる。

酔いが徐々に醒めていくのを感じた。

早めに風呂を終えて、服を着替える。

洗面所の鏡に映る自分は、貧相に見えた。

やはり、上背のない自分には服のサイズが幾らか大きいようだった。

筋トレするかなあなどと、ぼんやり考えながらリビングに戻った。

「戻りましたー。バスタオルは洗濯機の横に掛けて置きました。」

「おかえりー。ちょっと、服大きかったけど寝るだけだし良い?」

「あ、はい。大丈夫です。」

なんとなく、気恥ずかしい。

先輩の方が背が高いのだから、当たり前のことなのだが。

「じゃあ、僕も行ってこようかな。」

よいしょ、と言って立ち上がった先輩を見送る。

「はい。」

ふう、と溜息が洩れる。

酔いが醒めてきたので、とんでもない流れになったなと今になって思った。

(終電で帰る予定だったんだけどなあ…。)

テーブルに突っ伏して、壁掛け時計を見上げる。深夜2時過ぎだ。

先輩と仲良くなるのは嫌なことじゃないし、むしろ嬉しいところだ。

急に泊まってしまったことは申し訳なかったな、と思った。

そういえば、自分はいつから先輩のことを下の名前で呼んでいたのだろう。

今更元に戻しにくいではないか…。

そうしてとりとめなく考え事をしていたら、先輩が戻って来た。

「さっぱりしたー。」

「おかえりなさい。」

黒のシャツにグレーのスウェットを着ていた。

こういったラフな格好を見るのも初めてで、なんだか物珍しく感じられる。


 「そろそろ寝よっか。竜也たつやくん、ベッド使っていいよ。僕、ソファで寝る。」

「えっ、いや、それは流石に…。僕の方が小さいから、僕がソファで寝ますよ。」

流石に、ベッドまで借りるのは悪いと思った。

「大丈夫大丈夫。」

そう言いながら、かける先輩はソファに寝床を作っている。

毛布を持ってきたり、枕を持ってきたりで忙しそうだ。

こうなった先輩の止め方を、僕はまだ知らないのでおろおろしながら見ているばかりである。

全くもって役に立たない後輩である。

「うん、出来た。」

かける先輩は、満足そうにソファで毛布に包まれている。

ソファに収まるように少し窮屈そうに、体を折り曲げていた。

竜也たつやくんは、ベッドをどうぞ。」

「う、はい…。おやすみなさい。」

そうして仕方なく、先輩のベッドをお借りすることになった。

ベッドに座り、そっと羽毛布団の中に足を入れる。

暖かい。ふわりとした羽毛布団に包まれて、足先がじんわりと温まる。

「はっくしょん!」

クシャミの主は、先輩だった。

やはり、少し寒いのだろう。

少しの間、僕は考える。

変な誤解を与えてしまうだろうか?

でも、先輩なら僕の言いたいことを分かってくれるのではないだろうか。

かける先輩、まだ起きてます?」

「うん?どうしたんだい?」

こちらを振り返る先輩の目は優しい。

この人の本質は、優しさで出来ているのだろうか。

「先輩が嫌じゃなければなんですけど、ベッド来ます?ソファよりは、暖かいと思うので…。」

少し驚いた顔をした先輩は、その後に笑った。

「はは、何かと思ったよ。いいの?お邪魔して。」

「どちらかと言うと、お邪魔しているの僕なので…。」

「良いんだね?少し窮屈になるだろうけど。」

「あ、それは全然大丈夫です…。」

そう言うと、ソファから立ち上がった先輩は一つ伸びをしてから、こちらへとやってきた。

月光に照らされた髪の毛は、艶やかで綺麗だった。

先輩が持ってきた枕を2つ並べて、ベッドを整える。

「ど、どうぞ…。」

僕はなるべく、端っこに寄って先輩に場所を譲った。

「じゃあ、お邪魔するよ。」

するりと同じ布団の中に、入ってきた。

何故か、緊張する。寝られるだろうか?

竜也たつやくん、今日はありがとうね。良い気分転換になったし、色々と話してくれて嬉しかったよ。」

その声に誘われる様に、左側を見る。

先輩はガラス玉に似た目で、ゆっくり瞬きをする。少し眠そうだ。

「こちらこそ、ありがとうございます。泊めて頂いて…。」

もっと色々言いたいことはあったのだけど、こういう場面で僕は上手く言葉を紡ぐことが出来ないのだ。

手が布団の中で、僅かに触れた。

咄嗟に、すみませんと言って手を引っ込めようとしたら、手を繋がれた。

「あ、あの。」

「こうしているのは、嫌かい?」

「いや、そういう訳では…。」

急なことに、頭がついていかない。

少し体温の低い先輩の掌、細い指の節目、切り揃えられた綺麗な爪。

綺麗な手だ、と思う。

「暫くこうしていても、良いかい?」

「は、はい。」

「そんな、緊張しなくて大丈夫だよ。」

先輩はそう言って、手の甲を親指でそっと撫でる。

なんだか、不思議な心地がした。

恥ずかしいのか緊張しているだけなのか、自分でもよく分からない。

竜也たつやくん、我儘言ってごめんね。」

「え、そんな、大丈夫ですよ。」

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