第3話「ネカマ」

 ――FFにうどんが実装された当日。

 例によって、ダルラジオンはお祭り騒ぎ。細かなバグ修正だけではここまで盛り上がらなかっただろうけど、「東方料理」の実装は大きかった。また「宝探し」……地図を頼りに宝を探す……の報酬に、新アイテムが追加されたことも分かり、一攫千金を夢見る冒険者達は、宝の地図を握り締め、世界中を飛び回るのだった。

 ただ、そんな騒ぎも三日も経てば一段落……したはずなのに、アンジェはまだうどんを口にすることができないでいた。……僕はまぁ、構わないのだけれど。

 くだんのうどんは順当に調理師用の新レシピだったが、その主要素材「東方小麦とうほうこむぎ」の入手方法が畑での栽培だと判明。しかも、その種は「交雑こうざつ」……異なる種の掛け合わせ……でなければ手に入らないとの噂で、どの種を交雑すればいいのかは検証待ち……という状況の中、ヴォジャノーイで誰よりも早くうどんを手に入れることを目標としている白薔薇騎士団の面々は、鎧から農作業着に着替え、剣や槍をクワへと持ち替えて、せっせと庭で畑を耕していた。(アンジェはそれを見守るのが役目)

 一方で、宝箱探しの報酬として種を手に入れたという報告(証拠画像はなし)もあり、収穫を待つ間、競売で宝の地図(価格は普段の十倍!)を落札しては宝を探す……ということが、今も続いている。(これにはアンジェも参加、団員達と手分けして百回以上宝箱を開けているけれど……種はおろか、新アイテムも出てこない)

 ちなみに、東方小麦の入手方法が栽培のみだった場合、ゲームの仕様上、最短でも入手までに十日は必要で、フォーラム……プレイヤーと開発陣の意見交換の場……では、公式ブログでも煽っていたアイテムが、ここまで入手困難なのはおかしいと、随分荒れていたみたいだけれど……それはもう、アップデート後のお約束だった。

 ただ、実物はなくとも性能は明かされており……幸か不幸か、実戦で使えるような代物ではなく、そもそも、冒険に持ち出すことのできない「料理家具」であった。

 料理に家具とは何ぞや……と思われるかもしれないけれど、普通の料理が携帯用で、使用すると戦闘や製作に有用な効果をお腹が空くまで付与するのに対し、料理家具はその名の通り家具であり、家の中に設置することになる。一番の違いは料理のグラフィックが用意されているということで、うどんはちゃんと丼に入った状態のものを、机の上に置くことができるのだ。しかも、既存の料理家具を踏襲するなら、それを食べるモーションも存在するはずで……これはいいなと、僕も思った。

 とはいえ、うどん製作の難しさは前述の通りで、アンジェはもちろん、まだ誰もそれを口にしたものはいない。同時に実装された蕎麦や納豆は次々に生産され、それを頬張る写真がSNSやコミュニティサイトで公開されているというのに、なぜうどんだけが異常な難易度なのかは……開発陣のみぞ知る事実だ。

 ――しかし。今の僕にとって、そんなことはどうでもいい話(団員達には悪いのだけれど……)で、差し当たっての問題は、来週に迫った中間考査だった。

 授業は相変わらず難しく、このままでは赤点も必至……そう自覚するほど、僕は追い詰められていた。不安……アップデートの高揚感で誤魔化されていたそれが、今さらながら暗い影を落とす中、僕は金剛寺先輩に一つの提案をすることに決めた。

 それは中間考査が終わるまで、放課後のお話をお休みしたいというもの。とにかく勉強時間を捻出するより他に道はなく、FFのプレイ時間を削ることができない以上、削れるものは睡眠時間と放課後ぐらいしかなかったのだ。

 僕の自分勝手な提案を、金剛寺先輩は快く了承してくれた……だけでなく、話は思いも寄らなかった方向へと進んでいくのであった。

 

「……うん、全問正解だ」

 金剛寺先輩は肯くと、僕の解答用紙に朱色の筆ペンで大きな花丸を描いた。たいへんよくできました……しみじみと嬉しい。花丸を貰うなんて、いつ以来だろう? 

「では、次はこの問題だ。さっきより複雑だが、今の師匠なら解けるはずだ」

 金剛寺先輩が僕の目の前に置いたのは、筆ペンで直筆の問題用紙。それが数学なのは、僕の苦手科目だからだ。展開せよ、方程式を解け、因数分解せよ、命題の真偽をいえ……むむ……で、でも、頑張るぞ! 金剛寺先輩のご厚意に報いるためにも!


 ――そう、僕の提案に対して、金剛寺先輩はそれなら勉強を見てやろうと買って出てくれたのである。それはありがたくも恐れ多い話で、第一、先輩だって勉強をしないといけないはず……と恐縮しきりの僕に、金剛寺先輩は堂々と胸を張るのだった。

「私は金剛寺だぞ」 

 ……確かに、金剛寺先輩は常にトップの成績だと、学校のパンフレットにも書いてあった覚えがある。そして、中間考査に不安しかない僕は、ご厚意に甘えさせて貰うことにした。……あの時の金剛寺先輩には、後光が射して見えたものである。

 そんな僕が今、必死に数学の問題を解いている場所は、もちろん屋上だ。金剛寺先輩に勉強を見て貰うことになった翌日、屋上に机と椅子が用意されていたのである。

 青空の下、屋上にぽつんと置かれた机と椅子。それはちょっとしたアートのようで、何よりも、これを金剛寺先輩が僕のために……と思うと、感慨も一入である。

 さらに驚きだったのは……手作りの問題集である。それは全て筆ペンで書かれており、作るのは相当大変だったろうと思うけれど……金剛寺先輩はさも当然といった感じで、僕は「ありがとうございます!」と感謝を口にすることしかできなかった。

 金剛寺先輩は手始めに、僕の実力を知りたいとテストを実施。英語、OC、数学、現代文、古典、理科総合、現代社会……その範囲は中間考査が実施される全教科に及び、翌日の結果発表では、数学以外で赤点を取ることはないだろうとの評価。つまり、数学は赤点の可能性があるわけで……教わる教科は決まった。

 それは願ったり叶ったりというか、自覚している弱点だった。数学は展開にしろ因数分解にしろ、それを解くためには公式を覚えないといけないのだけれど、僕はそれをただ覚えるのが苦手で、なぜそうなるのかまで納得できないと、気になって先に進むことができないのだ。その上、公式を覚えるだけでは解けない問題まで出てきて……「たすき掛け」って何だろう? というか「たすき」って何?

 ……そんな僕に、金剛寺先輩は公式を一つ一つ、丁寧に教えてくれた。何度教えられても首を傾げる僕を相手に、金剛寺先輩は声を荒げるようなこともなく、根気強く、僕が納得できるまで、説明してくれた。たすき掛けに至っては、たすきが分からないという僕に、金剛寺先輩はたすきを持参の上、それを制服の上から結び、実演してくれた。ちなみに、背中で交差させる結び方は「綾襷あやだすき」と言うらしい。


 全ての問題を解き終えた僕は、金剛寺先輩に解答用紙を提出。僕の隣で立ったまま採点している金剛寺先輩の姿を、僕は固唾を飲んで見守る。その結果、ケアレスミスがいくつかあって、花丸を貰うことはできなかった。「9」と「6」を書き間違えるとは、我ながら情けない……僕は返却された解答用紙を見詰めながら、溜息をつく。

「そう落ち込むことはない。ミスは誰でもするものだからな」

 僕は解答用紙から顔を上げ、金剛寺先輩を見上げた。……そうである、金剛寺先輩はいつもこんな調子で、僕自身が呆れてしまうような質問や回答をしてしまっても、笑顔……こそないものの、「問題ない」「大丈夫だ」と、励ましてくれるのである。

「……金剛寺先輩って、怒らないんですね?」

「怒る? 私が怒らないといけないようなことが、何かあったか?」

「いや、こんな問題も分からないのかとか、こんなミスをするなんてとか……」

「分からないことは何も悪いことではない。分からないことが分かっている以上、分かるようになるまで勉学に励めばいいだけのことだ。学び とは、そのための場所なのだからな。ミスだってそうだ。学生ですらミスが許されないというのなら、いつ許されるというのだ? だから今は、存分にミスをするべきなんだ」

 金剛寺先輩は僕に肯いて見せると、その先を続ける。

「……とはいえ、叱ることはあるかもしれん。分からないことが分かるようになりたい……それが師匠の望みである以上、それを師匠の怠惰が妨げるようなら、私は心を鬼にすることもやぶさかではない……のだが、師匠はよくやってくれている。それは教える身としては何よりも嬉しいことだし、励みにもなっている。ただ、叱ることと怒ることが別ものである以上、私が怒る理由は何もないと思うのだが……」

 小首を傾げる金剛寺先輩に、僕は率直な感想を口にした。

「……金剛寺先輩が先生だったらなぁ」

「私が?」

「教え方もとっても上手ですし……将来は学校の先生って、どうです?」

 それはお世辞もなんでもなく、心の底からの想いだった。さっきのお話といい、金剛寺先輩のような人が先生になってくれたら……学校が楽しくなるに違いない。

「私が、先生」

 そう呟く金剛寺先輩の頬に、一筋の滴が流れ落ちた。僕は一瞬、雨かと思ったけれど、こんな雲一つない青空で雨なんてことがあるはずもなく、汗にしたって不自然……いや、不自然といえばこれも負けてはいないけれど……それは、涙だった。

「ど、どうしました!」

 金剛寺先輩はそこで初めて気付いたといった感じで、頬に白い手袋を当てると、制服から白いハンカチを取りだして、頬を拭った。続いて目元を拭う金剛寺先輩が淡々としているので、僕は目にゴミでも入ったのかなと思いながらも、また、失礼だろうとは思いながらも、金剛寺先輩の顔から目を離すことができなかった。 

「驚かしてしまったな」

 それはもう……だが、僕はそんな内心とは裏腹に、ぶんぶんと首を振って見せた。

「たまにこういうことがあってな。別に困ることではないし、痛みがあるわけでもないから、医者にも診せたこともなくて……まぁ、気にしないでくれ」

「でも……」

「気にするな、というのも無理な話か。師匠なら尚更なおさら……いや、ちょっと想像してみたのだよ。先生になった自分というものを。すると、それも良いかもしれない……そんな風に思う自分に驚いて……将来のことなど、考えるまでもなかったからな」

 そう言って、金剛寺先輩はハンカチをしまった。涙は気になる。でも、僕はそれ以上に、金剛寺先輩が自分の将来を他人事のように語ったことが気になった。

「金剛寺先輩は……やっぱり、金剛寺大学に?」

 金剛寺大学は名門中の名門で、世界大学ランキングでも常に上位だる。だが、金剛寺先輩が肯いても、僕は驚かなかった。金剛寺先輩ほどの人が、僕と同じ学校に通っている方が不自然なのである。時風高校と金剛寺家の繋がりがあればこその、今。

「多分な」

「多分?」

「慣例なら、婿を貰うところだ」

「むこっ!?」

 それは……結婚する、ということだろうか? いや、十八歳なら結婚はできるけど……まさか、それって、婚約者がいる……とか、そういう話なのだろうか? 

 僕の混乱を余所に、金剛寺先輩は平然としている。

「私は金剛寺……だが、女である以上、家を継ぐことはできない。兄か弟がいれば話は別なのだが……そうではない以上、婿養子を迎えるというのが筋というものだ」

「そんな、時代錯誤な……」

 僕は思わずそう口にしてしまったが、金剛寺先輩は僕を叱ることなく肯いた。

「全くだ。家制度も過去のものだが……法律だけではままならぬものも、この世にはあるのだよ。だからこそ、と言うべきか……家も私の処遇を決め兼ているようでな。このままいけば、私は大学に進学することになるだろう。先延ばし、という奴だ」

 ……どうやら、金剛寺先輩は高校を卒業してすぐに結婚することも、将来を誓い合った婚約者がいるわけでもなさそうだと分かり、僕はほっと一安心……って、なんでほっとしているんだろう? それに、先延ばしということは……。

「それじゃ、大学を卒業したら?」

「大学院まで進むのか、婿を貰うのか……いずれにしても、家が決めることだ」

「そんな、金剛寺先輩の意思はどうなるんです?」

「私の意思か……そんなこと、考えたこともなかったな」

 金剛寺先輩の言葉に、僕は言葉を失った。……考えたことも、ない?

「私は金剛寺だからな。望むと望まないにもかかわらず、将来は決まっている。それを時に窮屈だと感じることもあれば、堪らなく楽だと感じることもある。将来が決まっているからこそ、それ以外のことに専念することができるのだからな」

 ――籠の鳥。窮屈だけど、餌と安全は保証されている……そういうことなのだろうか? ……ただ、僕には金剛寺先輩がそうだとは思えない……のは、その籠……金剛寺が、とても大きいものだったから……ただ、そう見えていただけかもしれない。

「師匠こそ、どうなんだ?」

「え?」

「将来の夢はあるのか?」

 ……そんなこと、僕だって考えたことがあったかどうか。そもそも、この時風高校に進学した理由だって、うどんと呼ばれたくない一心だったし……お父さんとお母さんが喜んでくれたから、それは良かったけれど、それ以前に、なぜ高校に進学したのかと考えると……皆が行っているから……それに尽きると思う。

 それ以外の選択肢はなかった……いや、本当にそうだろうか? 見えなかっただけ? それとも、隠されていた? ……そういえば、中学卒業後に就職する生徒が表彰されていたっけ。そう、働くという選択肢だってあったはずなのに。

 そんな僕が、金剛寺先輩に将来を語ることなんて……できるはずもなかった。

「……分かりません。まだ、高校に入ったばかりですし」

「そうだったな。変なことを聞いてすまない」

「いえ、そんな……」

 僕は金剛寺先輩に首を振って見せる。金剛寺先輩は「こほん」と咳払いすると、足下に置かれた鞄に手を伸ばした。見るからに丈夫そうな、革製の学生鞄。

「……数学はもう大丈夫だと思うが、師匠ならもっと上を目指せると思うぞ? それか、他の教科もやってみるか? 一応、問題なら全教科分……」

 鞄の中から次々と、まるで手品のように問題用紙を取り出す金剛寺先輩。それが机の上に所狭しと積み上げられていく光景を見て、僕は目を丸くした。

「……金剛寺先輩って、本当に凄いですね」

「金剛寺だからな」

「……苦手な科目ってないんですか?」

「金剛寺だからな」……という返事はなく、僕は問題用紙に向けていた視線を、金剛寺先輩に向ける。すると、金剛寺先輩はそっぽを向いた。

「金剛寺先輩?」

「……私には絵心がなくてな」

「絵心って……美術が苦手なんですか?」

「……好きな名画を自由に模写するという授業があってな」

「あ、それは今、僕達もやってますよ。山崎先生ですよね?」

「そうだ。私はゴッホのひまわりを模写してみたのだが……それを、山崎先生にムンクの叫びと評されてな。山崎先生はそれも個性だと仰ってくれたのだが……」

「それは……意外ですね。字はこんなに綺麗で、花丸だって上手なのに……」

「書道は得意なのだ。あとは――」

 シャコン!

 IDに突入する準備が整い、僕は思わず身構えた……が、もちろん屋上にFFをプレイする環境があるわけもなく、その音は金剛寺先輩の鞄の中から聞こえてきた。

 金剛寺先輩は鞄の中から携帯電話……スマホではなくガラケー……を取り出し、それを開いて中身を確認。携帯電話を閉じると、僕に向かって頭を下げた

「……すまない。今日はここまでにして貰えないか?」

「はい。……何かあったんですか?」

「ちょっとな。……ああ、今夜は復習も兼ねてこれをやっておくといい」

 金剛寺先輩は取り上げた数枚の問題用紙を僕に手渡すと、机の上に積み上がった残りの問題用紙を鞄の中に戻した。僕は受け取った問題用紙を自分の鞄にしまう。

 僕と金剛寺先輩は揃って校舎に戻ると、金剛寺先輩はいつものように引き戸を南京錠で施錠し、僕に鍵を差し出した。僕はそれを受け取り、ポケットへ。

 階段を下りて三階へ。金剛寺先輩は僕に「気をつけて帰るんだぞ」と声をかけ、廊下を歩いて行く。三年生の教室がある方向……僕は金剛寺先輩の後をついていこうとして、思い止まった。僕は「さようなら」と返事をしてから、階段に向かう。

 ――早く帰ろう。そして問題を解くのだ……明日、大きな花丸を貰うために。

 

 それからも、放課後の勉強会は続いた。

 金剛寺先輩は大丈夫だと言ってくれたけれど、僕はまだまだ不安だったので、最後まで数学を勉強したかった。そんな僕の思いを金剛寺先輩は汲んでくれて、それならばと数学の問題を大量生産。難易度もそれ相応に上昇し、花丸を貰うのも一苦労……だけど、上達の実感はあったし、何より「惜しかったな」「次はいけるさ」といった金剛寺先輩の励ましが嬉しく、心強くて、僕は諦めることなく問題に挑み続けた。

 中間考査に向けた航海は、順風満帆。ただ、気になることもあった。それは他の教科のことではなく……そっちは定例会が始まるまで勉強しているから、大丈夫だと思う……金剛寺時先輩の携帯電話が、連日「シャコる」ようになったことである。

 どうやら「シャコン!」という音はメールの着信音らしく、それが鳴ったら勉強会はお開き。時には、問題用紙を受け取っただけで終わり……という日もあった。

 ただ、これで僕がどうこう言うのは筋違いだろう。シャコる度、申し訳なさそうな顔で頭を下げる金剛寺先輩に僕がかけるべき言葉は、「僕は大丈夫ですから、金剛寺先輩の用事を優先してください!」のはずだ。……でも、僕は放課後の勉強会を終わりにしましょうと、金剛寺先輩に提案することはできなかった。それをしてしまうと、僕と金剛寺先輩の師弟関係も終わってしまう……そんな気がしたから。

 ……そう。忘れかけていたけれど、僕は金剛寺先輩の師匠なのだ。弟子に勉強を教えて貰っている駄目な師匠であっても、師匠と呼ばれていることは間違いない。

 もし師匠を盾に金剛寺先輩を引き止めたら……などと、僕は不埒ふらちなことを考える。「師匠よりも大事なことなんですか?」「行っちゃうなら、師匠を辞めますよ?」……金剛寺先輩はどんな反応をするだろう? 「見損なったぞ」そう言い残して立ち去る金剛寺先輩の後ろ姿……そんな光景がありありと浮かび、僕は頭を振った。


 中間考査が始まる前日。今日は最後の仕上げとして、教科を問わず、僕の質問に金剛寺先輩が答えてくれることになっていた。正直、僕は試験の前日まで勉強を教えて貰うのは悪い気がしたけれど、金剛寺先輩は「前日だからこそだ」と主張。それを拒否する理由もなく、僕は質問をノートにまとめて、放課後、屋上に向かった……が、扉に南京錠はなく、引き戸を開けて外に出ると、金剛寺先輩の姿はなかった。

 僕が金剛寺先輩より先に到着するのは、初めてのこと。僕はぽつんと置いてある椅子に腰掛け、机に向かった。早々にシャコって、遅れているのかもしれない……僕は鞄からノートを引っ張り出し、質問事項を確認する。

 ……三十分、一時間、そして、二時間が経過。

「連絡ぐらいくれてもいいのになぁ……」

 僕はノートを机の上に投げ出し、夕焼け空を見上げて呟いた……のだが、考えてみれば、金剛寺先輩とメールアドレスも電話番号も交換していないことに気付く。FFでフレンド登録はしているけれど……ログインしないことには、意味がなかった。

 ――帰ろう。僕はノートを鞄にしまい、椅子から立ち上がった。校舎に戻ると、階段を下りて三階へ……と、僕は足を止め、別れを交わした金剛寺先輩が決まって歩き去っていく廊下の先を見やる。そして、僕はそちらに向かって歩き始めた。

 三階は三年生の教室が中心で、まず一年生が訪れることはない。造りは一階……一年生の教室が中心……とほとんど同じなのに、どこか違って見えるのが不思議だ。

 教室は空っぽ。放課後も放課後だし、試験の前日なら当然だろう。図書室は大盛況かもしれないけど……と、そんなことを考えていると、耳に聞き慣れた声が届いた。

「この問題は……」

 ――金剛寺先輩だ。それが聞こえてきたのは、三年A組の教室だった。そこは他の教室とは違って、多くの生徒で埋め尽くされていた。机と椅子が足りず、立ったままの生徒も大勢いる。そして、その教壇に立ってるのは……金剛寺先輩だった。

 黒板には板書された数々の公式が並び、金剛寺先輩はそれらを指し示しながら、堂々と解説を続けていた。やがて、生徒の一人が手を挙げて質問。それに金剛寺先輩が答えると、「おー!」や「なるほど!」といった声が、次々と上がるのだった。

 ……そうか、こういうことのだったのかと、僕は腑に落ちた。勉強を教えていたのは僕だけではなかったのである。考えてみれば当然のことで、あれだけ教え方が上手なら、誰もが教えて欲しいと思うに違いないのだ。ただ、いつの間に……?

 僕はふと、エドのことを思い出した。アップデートの前日、嬉しそうにテルを送ってきたエド。挨拶をしたら、挨拶を返してくれた……きっとあれ以来、金剛寺先輩はすれ違う人すれ違う人に、挨拶をするようになったのではないだろうか? その結果、周囲が抱く金剛寺先輩のイメージが、少しずつ変わっていったに違いない。

 金剛寺先輩に誰も近づかなかったのは、金剛寺家が恐れ多かったからで、金剛寺先輩を嫌っている人はいなかったはずだ。そんな金剛寺先輩が歩み寄って来てくれたとなれば……誰もが仲良くなりたいと思うはずだろう。僕だって、そうなのだから。

 ……それにしても、恐るべきは金剛寺先輩である。挨拶という些細なきっかけから周囲の壁を壊し、この短期間で勉強会を開くまでになった……だけでなく、その参加者が教室を埋め尽くしているというのだから……そのカリスマ性は、計り知れない。

 教壇に立つ金剛寺先輩の表情は相変わらずだけど……内心では、とても喜んでいるに違いないと、僕は思う。それと分かるのは、僕が師匠だから……なんてね。

 金剛寺先輩はチョークを置くと、教室中の生徒を見渡した。

「では、今日はここまでに――」

「金剛寺先輩! ここも教えてください!」

「あっ! ズルい! 私も質問があったのにぃ!」

「私だって!」

「俺も! お願いしまーす!」

 生徒達が口々に声を上げながら、大挙として教壇に押し寄せる。

「わ、分かった! でも、ちょっと待ってくれ! 私には行くべき場所が――」 

 金剛寺先輩は廊下に顔を向け……大きく目を見開いた。眉根を寄せ、唇を引き結び……そんな金剛寺先輩に向かって僕は、親指を立てて見せる。満面の笑みで。

 何でそんなことを……多分、僕は嬉しかったのだと思う。金剛寺先輩が大勢の生徒に囲まれている……それこそ、本来あるべき姿だと思ったから。今までが不自然で、金剛寺先輩が僕一人のために……なんてことが、許されるべきではなかったのだ。

 ――免許皆伝。僕はそんなことを思った。僕が教えられることはもう何もないだろう。何を教えることができたかも定かではないけれど、金剛寺先輩なら大丈夫。フレンドではない、本当の友達ができるのも時間の問題……いや、もうできているかもしれない。それなら、僕にできることは……笑顔で祝福することだけだ。

 僕は振り返ると、廊下を走り出した。思いっきり、全速力で。


 ――それから。どうやって家に帰ってきたのか、僕はよく覚えてない。ただ、ひたすら走り続けていたようで、お母さんは「凄い汗……早くお風呂に入っちゃいなさい!」と、僕をお風呂場まで連行。僕は言われるまま制服を脱ぎ、シャワーを浴び、髪と体を洗って、湯船の中へ。暖かいお風呂に肩まで浸かると、もうどうでもよくなってきて……僕は息を止め、頭まで湯船に浸かるのだった。……ぶくぶく。

 夕飯を食べ、自分の部屋に戻ってきた僕は、さぁ、最後の追い込みを……と頭では考えながらも、ベッドの上に寝転んだ。……すると、そのまま眠ってしまったようで、ピピピ……寝ぼけ眼を目覚まし時計に向けると、もう定例会の時間である。

 ……今日はもういいかな。こんな気持ち、初めてだった。風邪をひこうが、試験前だろうが、試験中だろうが……ログインしなくてもいいなんて、思うことはなかったのに。今の僕には……なぜか、FFがとても空虚なものに思えるのだった。

 ……まぁ、明日から高校生になって初めての中間考査が始まるわけで、緊張しているだけだろうと僕は考える。学生の本分は勉強……それに、一日ぐらいログインしなくたって、問題が起きるとは思えなかった。白薔薇騎士団の団員は心配するかも……あるいは、無断欠勤を咎められるかもしれないが、メイトリアークを裁くことはできないとは、ランディも言っていたことである。ただ一言ぐらい……とも考えたけれど、理由を問い質され、言い訳するのは……いかにも面倒だった。

 僕はベッドから起き上がると、机に向かった。今日は数学の手作り問題集がないので、学校指定の問題集を解いてみる。手書きの問題に慣れていたためか、活字の計算式は無機質で取っつきにくかったけれど、本番も活字だろうから、慣れておいた方が良いはずだ。……だから、これで良かったんだと、僕は自分に言い聞かせる。

 

 ――三日間の中間考査が始まった。

 最初の科目はいきなりの数学だったけれど、勉強の甲斐もあって、すいすいと解くことができた。全ての解答欄を埋めた後、見直しする時間も残っていたぐらい。続く理科総合もまずまずの出来で、あっという間に初日が終了。まだ午前中である。

 そういえば……この三日間、放課後の勉強会をどうするかを決めていなかった。それも昨日、金剛寺先輩に聞こうと思っていたことだったのだけれど……。

 屋上に行ってみようかな。それとも、三年A組の教室へ? ……人気のなくなった教室で一人、僕はあれこれ考えた末、家へ帰ることにした。中間考査の日程も一年と三年では異なるだろうし、山場である数学を無難に終えた今、僕はもう大丈夫という気がしていたからである。もちろん、赤点を取ることはないだろうという話だ。

 ただ、もし屋上で金剛寺先輩が僕を待っているとしたら……あの金剛寺先輩を待たせるなんて、とんでもない話である。でも、やっぱり屋上に金剛寺先輩がいなかったとしたら……そう考えると、僕はとても屋上に足を向けることができなかった。

 家に帰ってもまだ午前。「お昼ご飯、まだできてないけど……」と、お母さんも驚いていた。明日の科目は現代文と古典……正直、今から勉強する気にはなれない。

 となればFFかな……と思い立ったが、定例会を休んだことを思いだし、コントローラに伸ばした手が止まった。心配か、詰問か……いずれにせよ、何からのメッセージが届いているだろうとな思うと、ログインするのが億劫になる。……でも、やっぱり無断欠席は良くなかった。きちんと連絡するのが筋だろう。時間もあるし……そう、時間はあるのだ。今すぐログインしなくても良いではないか。

 僕は久々に本棚から漫画を引っ張り出し、読み始めた。やがて、お母さんに呼ばれた僕はお昼ご飯(レバニラ)を食べ、午後も漫画を手に取ったのだけれど……思ったより時間が進まない。FFをプレイしていると、あっという間に過ぎていくのに。

 ……ここ数年、僕はFFしかやっていなかったんだなぁと、しみじみ思う。本棚に並んでいる漫画はどれも、僕がFFを始める前に買ったもので、今なら新刊も出てているだろうけれど……近所のすずしろ書店まで、足を向ける気にはならなかった。

 それでも。僕は何となく、ログインするのが躊躇われた。では何を……と考えても勉強ぐらいしか思いつかず、僕は机に向かって、現代文と古典の勉強を始めた……ものの、時間が遅々として進まない。そこで僕が取り出したのは……自分でも意外だったけれど……数学の問題集だった。もうやらなくてもいいのは分かっているが、問題を解いている間は無心になれるというか、問題が解けると嬉しいというか……ともあれ、FFほどではないにしろ、時間が早く経過する……要は、暇潰しだった。

 やがて夜になり、お風呂に入って、夕飯を……と、何だかんだで定例会の時間である。そこで僕は……今夜もログインすることなく、寝ることにした。いつもはまだ起きている時間だから、眠くはなかったのだれど……部屋の電気を消して、ベッドで横になり、目を閉じていると……いつの間にか眠っていて、目が覚めたら朝である。

 台所に顔を出すと、朝ご飯の支度をしていたお母さんが「早起きね!」とびっくり。顔を洗って歯を磨き、テレビでニュース番組を観ていると、お父さんも起きてきて、僕を見るなり「早起きだな!」と驚いた。……いつもはまだ寝てるもんね。

 朝食。お父さんに中間考査の出来を聞かれ、僕はまぁまぁだと答える。それから、お父さんは会社に出勤、僕も制服に着替え、歯を磨いてから、学校へと向かった。


 ――二日目の現代文と古典、三日目の英語とOC、現代社会も滞りなく終え、中間考査は終わった。……どの教科も赤点は免れただろうというのが、自己評価である。

 お昼頃に自宅へ帰ってきた僕は、お昼ご飯(酢豚)を食べた後、久し振りにログインしてみようと思った。……そう、結局僕は、二日目もログインしなかったのである。だから久し振り……といっても、たった三日ではある。それでも、三日連続でログインしなかったなんて、二年程前にFFを始めてから初めてのことであった。

 依然として、どんなメッセージが届いているのかは心配だったけれど、このままログインしないわけにもかない。それに、中間考査を終えたばかりの僕の心は穏やかで、今ならどんなメッセージも受け止められるような気がしていた。やはり、高校生になって初めての中間考査ということで、僕は神経質になっていたのだろう。

 金剛寺先輩についても、明日の放課後は屋上へ行ってみようと思っていた。もし屋上にいなかったら、三年A組の教室へ行ってみるのもいいかもしれない。……いや、これからログインするのだから、エドにメッセージを送ってみるとか? うん、それがいい。誤爆の可能性が高いから、テルでのやり取りは厳禁だったけれど、メッセージは禁止していない。メッセージは自室からも送ることができるから、プライバシーもバッチリだ。それに……もしかしたら、エドからメッセージが届いているかもしれないじゃないか! そうだ、そうだよ! 何でそれに気が付かなかったんだろう! 僕と金剛寺先輩が連絡を取れる、唯一の手段なのに……!

 俄然がぜんやる気が出てきた僕は、ゲーム機のコントローラを強く握り締めた。


 ログインするとアンジェは見慣れた自室……ではなく、屋外に立っていた。アンジェは白い門構え……白薔薇騎士団の本部がある敷地の入り口……を見上げる。

 ……何でだろう? いつもベッドでログアウトしているのに……私は首を傾げながらも、とりあえずメッセージを確認しようと、アンジェを自室に……ピッ!


 このエリアへの立ち入りが許可されていません。


 私は画面に表示された赤文字を見て、目をぱちくり。アンジェは何度も敷地に入ろうとしたが、その度に警告音と赤文字が表示され、先に進むことができなかった。

 ……どういうことだろう? 敷地は誰でも自由に出入りすることができる。もちろん、迷惑行為をするキャラクターを立ち入り禁止にすることもできるが……滅多に設定されることはない(立ち入り禁止の前に、GMコールの出番)。ちなみに、白薔薇騎士団指定の要注意人物であるエドでさえ、立ち入り禁止にはなっていない。

 私はアンジェのステータス画面を開いて確認。すると、アンジェが昨晩、白薔薇騎士団から除名されていることが分かった。……除名だって? そんな馬鹿な……。

 まず思い浮かんだのは、アカウントハック……IDとパスワードが盗まれ、アンジェが第三者に乗っ取られたという可能性。でも、パスワードはこまめに変更しているし、ワンタイムパス……一定時間のみ有効なパスワード……だって導入済だ。それに、アンジェの装備はいつも通りだし、所持金やアイテムも無事。何より「脱退」ならまだしも、自分を「除名」することはできない。……そう、アンジェは除名されていたのだ。一体誰に? ……考えるまでもなかった。白薔薇騎士団である。

 私はフレンドリストでランディにウィルソン、その他の団員の名前を探したが、全て黒くなっており、事情を聞こうにも、誰もログインしていないようだった。

 この三日間に何が起きたのか……今、それを知る手がかりとなり得るのは……届いているのかすらまだ分からないけれど……メッセージしかない。だが、自分の部屋以外でメッセージを受け取れるのは、誰もが利用できる共用ポストしかなく、私は冒険の序盤でお世話になったそのポストの場所を思い出しつつ、アンジェを走らせた。

 純白の鎧をカチャカチャと鳴らしながら、アンジェは住宅街を駆け抜けていく。


 ――海洋都市「バスク・ロマンサ」が誇る住宅街「ミルク・ヴィレッジ」の外れに、お目当ての共用ポストはぽつんと置かれていた。木の板ならぬ木の棒に乗った赤いカマボコみたいな外観に懐かしさを感じながら、アンジェはポストに手を伸ばす。すると、まず驚いたのは届いているメッセージの数。百通……受信上限だ。何でこんなに沢山……私は不審に思いながらも、最新のメッセージを開いてみる。


「このネカマ野郎が」


 ――さっと心が凍りついた。次のメッセージ、次のメッセージも似たり寄ったり……暴言が延々と続いている。ガチガチガチ……変な音の正体は、僕の歯だった。

 震えが止まらない。顔は熱いのに、体は芯まで冷え切っていた。これ以上、見る必要はない。そう分かっていても、コントローラから手を放すことはできなかった。

「騙された」

「死ね」

「糞が」

「詐欺師」

「変態」

「くたばれ」

「ゲスが」

「辞めろ」

「弁償しろ」

「謝罪しろ」

「消えろ」

 ……そんな言葉の数々が、多彩な修飾語を伴って綴られていた。送信者はランディにウィルソン、白薔薇騎士団の団員達。そして、フレンドもちらほら。どうやら、白薔薇騎士団以外にも知れ渡っているらしい。アンジェが……僕が男だということが。

 機械的にメッセージを開いてると、一つのアドレスが目に留まった。その先で、僕の悪行が暴かれているらしい。僕は長いアドレスをメモ帳に書き写すと、パソコンのブラウザを起動し、キーボードで一文字ずつ、アドレスバーに入力していった。

 ――そして僕が辿り着いたのは、某掲示板だった。「【FF】白薔薇の姫騎士の正体を探るスレ【蛙鯖】」……そこでは、アンジェのプレイヤーが男か女かについて、白熱した議論が交わされていた。大元のスレッドが立てられた日付は随分と昔で……アンジェが白薔薇の騎士団に招かれる前……その数も百を越えている。そこでは概ね女性であるという意見が優勢で、だからこそか、アンジェに対するセクハラ発言が赤裸々に並んでいたが、最近になって「有力な情報」が寄せられ急転直下、アンジェのプレイヤーは男だという結論に達した。もちろん、いかに「有力な情報」とはいえ、アンジェが女性だと信じる人達の反発は激しかったが、不審な動き……定例会の無駄欠席……があることも事実で、その点についても「有力な情報」は中間考査だからとズバリ。真偽を問い質そうにもアンジェはログインしてこないし、その理由は中間考査だけでなく、このスレッドを読んでいるからではないか……最終的にはこの疑惑が決め手となり、議論は決着した。

 ……かくして、アンジェのプレイヤーは女性を装って男性プレイヤーを惑わし、騙し、貢がせ、果ては自分の奴隷で騎士団をも組織した、悪逆非道の変態男となる。

 そして、その「有力な情報」とやらを覗いてみると……。


 香川伸幸 時風高校一年A組 


 ……続く生年月日や住所も正確で、中学校の名前はもちろん、当時の僕がなんと呼ばれていたかも明らかになっていた。すなわち……うどんである。


 うどんwww うはwww うどん県www うどんの姫騎士じゃねぇかwww こんなのでwww くっそwww ワロタwww うwどwんw うどん君、見てる? うどん、うどん、うどん、うどん、うどん、うどん、うどん、うどん、うどん、うどん、うどんうどんうどんうどんうどんうどんうどんうどんうどんうどん。


 ……もう、限界だった。僕は部屋を飛び出し、トイレに駆け込んだ。水を流しながら、全て吐き出す……せっかく、お母さんが作ってくれたのに。涙が溢れ、鼻水が垂れ……僕は手拭き用のタオルを引ったくって顔を埋め、嗚咽を堪える。泣き声なんて、聞かせるわけにはいかない。大丈夫、僕が耐えればいいだけだ……でも!

 恥ずかしいやら、悔しいやら、悲しいやら、腹立たしいやら……いくつもの感情がぐしゃぐしゃになって押し寄せ……僕はもう、消えて無くなってしまいたかった。


 翌日。僕は休むこともなく、いつも通り学校に向かっていた。

 ……どうして休むことができるのだろう? 別に何かあったわけでもない。単に、僕がネカマであるという事実が、白日の下に曝されただけ……個人情報と共に。そんなことぐらいで、学校を休んでいいはずがないではないか。……第一こんなことを、お母さんにどうやって説明すればいいというのだろう?

 そして……僕の目には、道行く人、道行く人が、モンスターのように見えた。一体誰が……そして、どれだけの人が、僕のことを知っているのだろうか? 駅に急ぐサラリーマンも、散歩中のお婆さんも、FFプレイヤーの可能性はゼロじゃないのだ。

 学校に着いた僕は、酷い顔をしていたのだろう。七海さんからも「香川君、大丈夫?」と心配されてしまったが、そんな七海さんもFFプレイヤーなわけで、僕のことを知っているのではないかと、気が気ではなかった。その心配そうな顔の裏で、僕のことをあざ笑っている……大丈夫かだって? 大丈夫なわけないじゃないか!


 放課後。僕は誰もいない屋上で一人、ぼんやりと立っていた。

 目に映るのは、嫌味なぐらい晴れ渡った青空と、机と、椅子。そして、その奥に広がる金網……これを乗り越えたらなんて、僕は考えたりしない。そもそも、運動音痴の僕には上ることすら……いや、老朽化が進んでいれば、引き倒すことぐらい……。

「師匠っ!」

 僕が振り返るなり、金剛寺先輩は深々と頭を下げた。地面に対して、ほぼ直角に。

「……すまないっ!」

「金剛寺先輩?」

「全部、私の責任だ」

 ――金剛寺先輩は話し始めた。僕の予想通りだったことと、予想外のことを。


 僕の予想通りだったこと……それは、金剛寺先輩が挨拶をするようになったこと。後輩や同級生、先生にまで分け隔て無く……その結果、挨拶を返してくれるだけでなく、挨拶をしてくれるように……つまり、話かけられるようになったんだ……そう語る金剛寺先輩は喜びを隠せずにいて、僕も素直に笑顔を見せることができた。

 そして、中間考査が間近に迫ったある日、金剛寺先輩は同級生から勉強を教えて欲しいと頼まれたのだという。金剛寺先輩はもちろん了承、そして金剛寺先輩の教え方が上手だということはすぐ評判となり、僕も、私もと、金剛寺先輩に勉強を教えて欲しいと願う生徒の数は増え続け、ついには教室で勉強会を開くまでになったのだ。

「……師匠には、ちゃんと話しておくべきだった」

 確かに、話して欲しかったなとは思う。そうすれば、僕は喜んでそちらを優先して下さいと……僕がそう言うと、金剛寺先輩は「師匠なら、そう言うと思ったんだ」と呟いた。そう思っていてくれたなら、なおさら……話してくれても良かったのに。

 ……ただ、ここまでは大体、僕の予想通りで、金剛寺先輩が頭を下げることは何もないのだけれど……続く金剛寺先輩の話は予想外も予想外、まさかの展開だった。

 それは、同級生にFFプレイヤーがいたということ。それも一人だけではなく、中にはヴォジャノーイ・ワールドでプレイ中の人まで……凄い偶然だけれど、僕と金剛寺先輩のことを考えると……そんなに珍しいことではないのかもしれない。さすがは、二十年以上も続いている老舗のMMORPG……といったところだろうか。

 きっかけは、金剛寺先輩の携帯電話……メールの着信音だった。シャコン! あの音に反応しないFFプレイヤーはいないだろう。それからはとんとん拍子で親しくなっていき、勉強だけでなく、FFの話をするようになるのも当然だった。

 それだけなら何も問題ないし、予想通り……いや、理想の展開だろう。これなら友達はもちろん、フレンドだって……って、それは確かに、予想外のことだけれども。

 だが、予想外なことは別にあった。それは、FFの話をする中で、白薔薇の姫騎士……アンジェが登場したのである。白い肌に白い髪、純白の鎧を身にまとい、美男子揃いの白薔薇騎士団を率いる美少女。その存在はワールドの壁を越え、有名キャラクターとして知れ渡っているという。そんな白薔薇の姫騎士とぜひお近づきになりたい……そんな話を、金剛寺先輩はうずうずしながら聞いていたのだが、同級生に白薔薇の姫騎士を知っているかと聞かれて、つい話してしまったのだ。自分があの白薔薇の姫騎士とフレンドであること、そして……そのプレイヤーも知っていることを。

「……我慢できなかったんだ。師匠は私の憧れだけでなく、皆の憧れだった……さすがは師匠だと、心の底から、誇らしい気持ちになったんだ。だから……すまない」

 そして、プレイヤーを知っていると言ってしまった以上、それは誰なのかと知りたくなるのが人情というもの。同級生に詰め寄られ、窮した金剛寺先輩は、「他言無用」と「ここだけの話」という二つの誘惑に、抗うことができなくなってしまった。

「……私だって、それが当てにならないことぐらい分かっている。それでも、嘘はつきたくなかったんだ。それに、私はあの白薔薇の姫騎士が同じ学校にいる、身近な存在だと知って、本当に嬉しかったんだ。だから、皆も喜ぶと思って……」

 そんな思いとは裏腹に、金剛寺先輩がプレイヤーが誰かを明かした瞬間、その場の空気が凍り付いたという。金剛寺先輩はそれがなぜか分からないみたいだけれど、僕にはその理由がはっきりと分かる。もちろん、僕が男だからである。そして、それだけでも、白薔薇の姫騎士が、金剛寺先輩が言うような誇らしい存在だと思われていなかったことかよく分かる。いや、そうだったのかもしれないけれど、プレイヤーが男だと知って興醒めしたというのが、事実に近いかもしれない。

 ……と、ここまで話を聞けば、僕には金剛寺先輩が何を言わんとしているかが分かるような気がした。つまり、それは例の「有力な情報」の源……ソースが、金剛寺先輩の同級生だということ。それなら、僕の個人情報が特定されたルートも検討がつく。名前や学年は他でもない金剛寺先輩が明かしたのだろうし、この学校には中学生の僕を知る生徒はほとんどいないけれど、全くいないわけではない。また、金剛寺先輩の同級生にその兄や姉がいる可能性だって十分あった。……地元だもんね。

 ただ、僕がそれ以上に気になったのは、どうやら金剛寺先輩が僕の身に起こったことを把握しているらしいということ。つまり、あの掲示板を金剛寺先輩も利用していたのだろうか……僕がその点について尋ねると、金剛寺先輩は首を横に振った。

 中間考査前日の夜。金剛寺先輩はエドからアンジェに宛ててメッセージを送っていたのだという。だが、僕はログインしておらず、そのメッセージがどういう内容なのかは分からない(メッセージの確認を中断しているし……)。翌日の夜、アンジェがログインしていないことを知ったエドが、改めてアンジェにメッセージを送ろうとした時、白薔薇騎士団の候補生からテルが来たのだという。そして、アンジェの正体が男だったこと、白薔薇騎士団から除名されたこと、そして例の掲示板のアドレスを伝えられたのだ。何でも、立場は違えどアンジェを愛し、また裏切られたことに違いはなく、同志に事実を伝えることこそ、自らに課せられた使命なのだという。

 ……こうして金剛寺先輩は僕の事情を知り、その原因が自分にあると悟った。

「すぐに謝罪しようと思った。だが、試験の前にこのような……師匠はログインしていなかったから、何が起こっているかも知らないはずだしな。だから、試験が終わったら……そう思っていたのだが、勉強会のお礼をしたいと、皆に誘われて……」

 確かに、試験前にそんな事実を明かされていたら……赤点どころの騒ぎじゃなかっただろうと思う。それに……勉強会のお礼だなんて、素敵な話だ。どんなお礼だったんだろう……カラオケパーティとか? 金剛寺先輩って、歌は得意なのだろうか?

「誰が掲示板に書き込んだのかは分からない。だが、絶対に突き止めてやる!」

 力強く肯く金剛寺先輩に、僕は首を傾げて見せた。

「突き止めて、どうするんです?」

「それはもちろん、まずは師匠に謝罪を――」

「謝罪して貰うことなんて、何もないです」

「な……だって、あんな――」

「あの掲示板に書かれていることは、嘘じゃありませんから」

「……個人情報だって、そうだろう?」

「確かに、あれはやり過ぎだったと思います」

「あんなことは……犯罪だ」

「いいんですよ。もう手遅れなんですから」

「しかし……」

 真剣な表情。それがおかしてく、僕は噴き出してしまった。……こんな失礼なことをしてしまったら、金剛寺先輩でも……だが、金剛寺先輩は怒りで肩を震わせることもなく、ただじっと僕を見詰めている。それがまた面白くて、僕は再び笑い出した。

 ……笑いの発作が治まると、僕は目元に浮かんだ涙を拭いながら口を開く。

「そんなに真剣にならなくてもいいんですよ。たかがゲームの話なんですから」

「師匠……」

「個人情報だって大丈夫です。何かあったら、警察に相談しますから」

「何かあってからじゃ――」

「だから、手遅れなんですよ、もう」

「……大丈夫だ。師匠のことは金剛寺が――」

「手遅れだって言ってるじゃないですかっ!」

 僕は思わず怒鳴ってしまった。口元を押さえ、気持ちを必死に落ち着ける。

「……すでに起きてしまったことを、なかったことにはできませんから。金剛寺だって、時間を遡らせることはできませんよね?」

「それは……」

「だから、いいんです。よくあることですから」

 身バレ……ネット上のトラブル。誰にでも起こり得ることで、それが今回、僕に起こっただけだ。何も特別なことじゃない。でも、金剛寺先輩は引き下がらなかった。

「魔女様なら……何か良い方法を教えてくれるかもしれない!」

「魔女様?」

 目をぱちくりする僕に、金剛寺先輩は肯いて見せた。 

「……私は、魔女様から師匠のことを聞いたんだ」

 黒絹の魔女。どんな望みでも叶えてくれるという、都市伝説的な存在だ。まさか実在するなんて……確か、出会うにはレアアイテムを捨てないといけないんだっけ。

 金剛寺先輩はアンジェのプレイヤーに会いたい一心で、一年以上の長きに渡り、手に入れたアイテムというアイテムを、黒絹の森にある穴の前で捨ててきたのだという。エドは一人で冒険しているので、レアなアイテムを手に入れる機会は滅多にない。だから、質より量だと考えたのだが……一向に、魔女様は姿を現さなかった。

 それならばと、アイテムだけでなく装備品も捨てようと思い立ち、次々と捨てた結果、残る装備は自分が身につけているものだけとなり、穴の前で装備を脱ぎ始めたところ、「バカッ! 何脱いでンのよっ!」……と、魔女様が現れたのだという。

「……魔女様の力は本物だ。時を遡ることはできないだろうが、何か別の――」

「魔女様が犯人かもしれませんよ?」

 それは単なる思いつきだが、可能性は十分あるような気がした。何せ、他ならぬ僕の個人情報を金剛寺先輩にもたらしたのは、魔女様なのだから。金剛寺先輩もその可能性に思い至ったのか、大きく目を見開いたものの、すぐに首を振った

「……その点も含めて、魔女様と話そう。きっと力になってくれる。だから、家に帰ってログインするんだ。早まった真似をするんじゃないぞ!」

 早まった真似……そう聞いて、僕の視線は自然と金網に向けられていた。いやいや、さすがに……でも、家に帰って……ああ、アンジェを削除するなということか。……なるほど、それは名案だ。これほど素晴らしい解決作は、他にないだろう。

 僕は被害者だ。でも、そうなった原因……僕が男性なのは事実だ。僕が女性だったら、誹謗中傷だと言えるだろうけど、男性の僕が女性のアンジェだったことも事実だ。それらの事実に対して、世間はどう思うか……僕の状況を見れば、火を見るより明らかだろう。それ以前に、アンジェのことを快く思っていなかった人……お姫様気取りで、美男子をはべらせている……が多かったということも、掲示板から判明した事実だ。それらの事実を覆すだけの熱意が、僕にはもう残されていなかった。

 だからこその、キャラクター削除。FFを引退すれば、少なくとも、これ以上何かを言われることもない。掲示板に残った個人情報は気になるけれど……あれを見たからといって、何か行動を起こすような暇人はいないだろう。何かあれば警察に……それは、僕が金剛寺先輩に言ったことだ。そうだ、それでいい。それしかない。

 僕は金剛寺先輩に肯いて見せた。……笑顔で。


 ――金剛寺先輩と別れた僕は、昇降口へ。下駄箱の蓋を開けると、靴の上に手紙が置かれていた。……金剛寺先輩に違いない。僕が屋上に来なかった時のことを想定して、先手を打っていたのだろう。僕はその場で手紙を開き、釘付けとなった。

 手紙を何度も読み直した僕は、その場で笑うことしかできなかった。

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