第2話「姫」

 ――ログインして早々、アンジェが自室から出ると、団員達の視線が集まった。立ち上がることはなく、ただじっと、アンジェに顔を向けている。

「ごめんなさい。遅れてしまって」

 アンジェが頭を下げると、ランディが首を振って応じた。

「何も謝ることはありませんよ、姫様」

「……でも、時間厳守ですから」

 遅刻は団員達の貴重な時間を奪う行為として、白薔薇騎士団では重大な規律違反と定められており、降格はもちろん、正当な理由なき場合は除名の可能性すらある。

 アンジェは白薔薇騎士団に入ってからもうすぐ一年だが、事前に連絡をしないまま遅刻してしまうのは、今回が初めてのことだった。

「仰るとおりです。ですが、姫様はこの白薔薇騎士団のメイトリアーク……一体、誰が姫様を裁けましょう?」

 ランディの言葉に、団員達が一斉に肯く。……おとがめなし、ということだろうか? 遅刻の理由をどう答えたものかと悩み、ログインする時間がさらに遅くなってしまったのに、とんだ取り越し苦労――いや、安心するのはまだ早い。大事なのはこれから……それはランディも同じだったようだ。

「大事なのはこれからです。今夜はうどんの素材について話し合っていたのですが、その具材……天かすやカマボコまでが、中間素材として必要となるのかどうか――」

「あの……」

「ご安心ください。姫様のご意見も後ほど――」

「そうではなくて、私、本日はお休みしたいのですけれど……」

「休み、ですか? 姫様、何かあったのですか?」

 ――何かあったどころの騒ぎではなかった。あの金剛寺先輩から、弟子入りを志願されたのだから。それだけでもお腹は一杯、うどんも喉を通らないというのに、これからまだやらないといけないことがあるなんて……。

「姫様?」

 ……あっと、黙り込んでばかりもいられない。アンジェは私がログインする前、遅刻の理由以上に悩み抜き、考え出した言い訳を口にした。

「友人との約束がありまして」

「約束、ですか? 初耳ですね」

「……急に決まったのです」

「ということは、リアルのご友人ですか?」

 ランディがそう口にした瞬間、私はその場の空気が変わったように感じた。画面越しの緊張感……チャット画面に流れるアンジェとランディの言葉を、団員達が凝視ぎょうししていることはまず間違いないだろう。

 私は深呼吸を一つ。指先をキーボードにおいて、アンジェを肯かせた。

「よもや、男性ではありますまい?」

 ――やっぱり。その点にこだわるのではないかと、私は薄々思っていた。これまで団員達にリアルの話を一切してこなかったのは、そんな話をする必要がなかった……話すような内容もなかったけれど……と同時に、こんな反応があるのではないかと感じていたからでもある。ここから導き出される答えは一つ……団員達は私を本物の女性だと思っている可能性が高いということだ。

 ……でも、そんなの関係ない。私はアンジェとして答えた。

「違います」

 しばしの沈黙。やがて、ランディはにっこりと笑った。

「丁度良かった」

「え?」

「実はアップデート前に休日を、と考えておりまして。この一ヶ月、白薔薇のコサージュ獲得に奔走ほんそうしておりましたし……はい、決めました。本日は休みにしましょう」

 願ってもない展開に、私とアンジェは何度も肯いた。

「ですから、我々もぜひお供させてください」

 ……何だって? 想定外の展開に、私とアンジェは呆然とする。

「遠慮なさることはありません。我々なら、きっと何かのお役に立てるでしょう」

 ランディの言葉に、団員達が一斉に肯いた。

「で、でも、せっかくのお休みを――」

「休日を姫様と過ごせるのは、我々の喜びなのですよ。姫様のご友人……ぜひ我々にも紹介して頂きたいものですな。もちろん、相応の敬意を持って接する所存です」

 ……まずいことになった。ただ、この窮地を生んだのが約束なら、それを救うのもまた約束で……こういうのも、不幸中の幸いと言うのだろうか? ともあれ……。

「申し出は嬉しいのですが、目的地はダラカンの古城でして」

「……ダンジョンとなると、人数制限がございますな」

「そう、そうなんです! ですから――」

「ご友人はお一人ですか?」

「え? あ、はい」

「突入できるのは4名……では、代表して私とウィルソンがお供しましょう」

 ……しまった! つい正直に答えてしまった。ああ、どうにかしないと……。

「えっと、その、二人で行こうかと……」

「4人用のダンジョンに、二人で?」

「それは、ちょっとしたチャレンジというか……」

「レベル75の姫様なら、お一人でも十分でしょうが……ご友人のレベルは?」

「それは……」

「ご友人なのに、レベルも知らない、と?」

「……その、失念してしまって」

「ふむ。何だか怪しいですな」

「な、何がですか?」

「本当にご友人なのですか?」

「それは……」

「……ますます怪しいですな。どうやら姫様は、我々が同行することに難色を示しておられる。それは、我々が邪魔だということですかな?」

「はい」……と言えたらどれほど楽か。いや、邪魔ではない。団員達は親切心から同行を申し出てくれているだけなのだから。でも、それはまずい。非常にまずいのだ。

 私がどうしたものかと頭を捻っていると、ランディが首を振った。

「姫様、我々は何があろうと姫様の味方です。包み隠さず、お話頂けませんか? お話頂ければ、我々も聞き分けます。姫様の望みこそ、我々の望みなのですから」

 ……包み隠さず話したところで、きっと伝わらないだろなと私は思う。誰よりも、私自身が混乱しているのだから。私の望みは一人で行くこと……だから、私はそれを伝えるためにはどうしたらいいかを考え、まとめ、キーボードを叩いた。

「女同士の大切なお話がありまして。殿方にはご遠慮頂きたいのです」

 ――半分本当で、半分嘘。これが、私の精一杯。

「大切なお話、とは?」

 そ、それを聞いちゃうの? えーっと、女同士の、お話、大切な……。

「……恋の話です」

「姫様が、恋」

「私じゃありません。友人がどうしても話を聞いて欲しい、リアルでは無理だということで、二人っきりで話せる場所、それならダンジョンしかないと、それで……」

 伝われ、この乙女心! ……そんなアンジェの熱弁に、ランディは笑い出した。

「……失礼。そうムキになることはございませんよ、姫様。なるほど、大切なご友人なのですね。その語らいを邪魔するなど野暮の極み……大変、失礼致しました」

 ランディが頭を下げ、団員達もそれに続いた。大きな溜息をつく私。……ともあれ、納得してくれてよかった。アンジェが頷きを返すと、ランディが頭を上げる。

「……それにしても、大切な話をする場所にダンジョンを選ぶ念の入りよう……随分と照れ屋なのですね。姫様のご友人に相応しく、さぞお美しいお方なのでしょうな」

 アンジェは再び肯いた。照れ屋云々はともかく、美しいのは間違いない……と、急がなければ。時間の指定はなかったが、ずっと待っている……そんな気がしたから。

「では、行ってきます」

「行ってらっしゃいませ、姫様」

 アンジェが団員達に見守られる中、私はメンバー募集画面を開いた。「プライベート」タブを選択し、お目当ての募集を探す……と、ほどなく「遺跡観光いせきかんこう ダラカンの古城こじょう」の名前を発見。募集主の名前を何度も確かめ、「参加」ボタンを選択。続くパスワード入力欄に「0406」と入力し……アンジェはメンバーの一員となった。 

「お待たせしました」

「気にするな! 早速、行くぜ!」

 チャット画面に威勢の良い言葉が流れた瞬間、シャコンという効果音と共にダラカンの古城への突入確認が表示され、私は「突入」ボタンを選択。画面が暗転する。

 

 ――アンジェは砂漠の廃墟に立っていた。

 ダラカンの古城……城跡と言った方が正しいだろう。石造りの城壁は大半が崩れ落ち、かつての面影はない。数百年前、南アルザナ一帯を支配していたダラカン王朝の遺跡で、地域振興の目玉として一般開放する前に、日頃の慰安も兼ねてと冒険者を招待したまでは良かったが……という展開のID(インスタンスダンジョン)である。

 IDとは突入毎に生成されるダンジョンのことで、その場には突入を申請したメンバーの他は誰もいない……ただし、モンスターを除いて……という場所であり、見方によっては密室である。陽光が降り注ぎ、開放感に溢れているとしても。

 そして、数あるIDの中でこの場所が選ばれた理由は……。

「オレはここが好きなんだ。いつも良い天気だし、この乾いた空気感が好きなんだ。たまに一人で来て、時間切れになるまでぼーっとしていることもある」

 そう言って振り返ったのは、大柄なガルディン族の男……エドモンドだった。アンジェが頷きを返すと、白い歯を見せてにかっと笑う。対するアンジェは、硬い表情。

 エドモンドは前を向いて歩き出し、アンジェもそれに続く。黄色い砂上に浮かぶ石畳を歩いていくと、かつては噴水だったであろう石造りの円環があった。その手前で足を止め、再び振り返るエドモンド。アンジェも立ち止まり、その顔を見上げた。

「写真を撮ってもいいか?」

 アンジェが肯くと、エドモンドは腕を組んで仁王立ち。微動だにしないが、きっとカメラを寄せたり、引いたり、ぐるぐると回転させたりしながら、撮影中のはずだ。

 その間、アンジェはポーズを取るわけでもなく……両手の指先をお腹の前で絡ませているぐらい……たたずんでいた。鎧が陽光を受けてぴかぴかと輝き、吹き抜ける風が白い髪をなびかせている。エドモンドもアンジェにポーズのリクエストをすることはなく、ただ静かに時間が流れていった。――やがて、エドモンドが肯く。

「ふぅ、ありがとな。ここぞとばかりに撮りまくってやったぜ。いつもだったら、白薔薇騎士団の連中に止められているだろうからな」

「ごめんなさい」

 アンジェが頭を下げると、エドモンドは頭を振った。

「あんたが謝ることはないさ。謝るのはこっちの方だ。この前はすまなかったな。その白薔薇のコサージュをつけているあんたが余りにも可憐で……我慢できなかった」

 深々と頭を下げるエドモンドに、アンジェは首を振って見せる。

「でも、あんなに寄って集って……」

「優しいな」

「そんなこと……」

「いや、優しいよ。学校では不躾な呼び出しにも応じてくれたし、今もこうして……弟子云々以前にな、オレはあんたのその心遣いが嬉しいんだ」

 ……そうである。エドモンド……白薔薇騎士団指定の要注意人物にして、アンジェの熱烈なファン……は、金剛寺先輩だった。弟子入り志願に続く、二つめの衝撃。

 学校の屋上で金剛寺先輩から弟子入りを志願された僕は、当然のように混乱。それでも何とか口走った「初対面」という言葉に、金剛寺先輩は「初対面じゃない」と応じ、僕に明かしたのだ。「私はエドモンドだ」と。

 ……エドモンド? 僕の知っているエドモンドは一人。それでは、エドモンドとは誰かと思っている僕に、金剛寺先輩は「私はFFプレイヤーなんだ」とも明かした。つまり、エドモンドとはあのエドモンドであり、このエドモンドだったのである。

 僕の頭はもう真っ白。とても話せる状態ではなく……いや、平時でも金剛寺先輩と話ができたかは怪しいけれど……黙り込んでしまった。そんな僕に、金剛寺先輩は「FFで話そう」と提案。場所はダラカンの古城、メンバー募集を立て、パスワードは……僕は機械的に肯いていたが、くしゃみで我に返ると、屋上に金剛寺先輩の姿はなく、家に帰って思い返しても、あれが現実だとは信じられず、ただ、定例会に遅刻していることは事実で、となれば余程のことがあったことは間違いなく……果たして、エドモンドが募集主のメンバー募集が存在し、パスワードも……ということは、やはり現実だったのである。……金剛寺先輩の弟子入り志願も。

「あの、金剛寺先輩……」

 アンジェが声をかけると、エドモンドは苦虫を噛み潰したような顔をした。

「ここではエドモンド……いや、エドと呼んでくれ」

「ご、ごめんなさい……じゃあ、エド?」

 エドは一転して笑顔で「おう!」と応じる。

「その、どうして私に……弟子入りを?」

「憧れって奴だな。あんたは、オレにとって理想の女性なんだ」

 ……なんですと? それは容姿、ということだろうか? でも……。

「ガルディンなのに?」

「ああ、これはな。FFを始める時に、どうせなら現実とは違う感じにしようと思ったんだが……駄目だった。性別を変えようがどうしようが、どうも似てしまう」

「そんな……」

 エドと金剛寺先輩は似ても似つかない。そりゃ髪の色は同じ黒だけど、長さも違うし、金剛寺先輩も長身だけど、2メートル50はないわけで……それに、エドの肌色は灰色に近いし、筋骨隆々だし、性別だって、口調だって……と、全然違う。

 エドは首を軽く振ると、アンジェをすっと指さした。

「あんたと同じグラフィックにすれば、オレもあんたになれる。……見た目はな。だが、オレが求めているのはそういうことじゃない。その奥にあるものなんだ」

「奥?」

「そうだ。だからこそ、オレはリアルのあんたに会う必要があったんだよ。まさか、憧れのあんたが同じ学校の生徒、しかも後輩だとは思わなかったがな」

 私だって同じだ。エドが金剛寺先輩だなんてとても……あっ、そういえば……。

「どうして、私がアンジェだと?」

「ああ、それは魔……おっと、企業秘密だ」

 ――企業秘密。それはやはり、金剛寺家の力……なのだろうか? そう考えると、アンジェの正体を調べることなど、造作も無いことのように思えてくる。

 ……ただ、そんな金剛寺家の令嬢に、私が何を教えられるといというのだろう?

「私、エドに教えられることなんて……」

「ああ、そんなに恐縮することはない……と言っても、無理な話か。いきなり弟子入り志願だもんな。だが、あんたが戸惑うことを承知の上で……酷い話だが、それでも、オレはそうせざるを得なかったんだ。その代わり……というのもなんだが、あんたの好きなようにやってくれて構わない。要望があれば、何だって聞く。……いや、それ以前に確認しなければならないな。オレを……弟子にしてくれるか?」

「それは……はい」

 私は自分でも意外なほどあっさり、アンジェにそう答えさせていた。エドはそんな私をいぶかしがることもなく「ありがとな!」と叫び、アンジェに抱きついた……が、すぐに飛び退すさり、深々と頭を下げた。アンジェは身動みじろぎ一つしない。

「……何度もすまない。それにしても……いや、本当に優しいんだな」

「そんなこと……」

 断れないだけだ。誰かに何かをして欲しいと頼まれたら、断れないタイプ……でも、ちゃんと断ることも……アンジェに対する告白がそうだ。そう考えると、断れないということは、断りたくないということなのかもしれない。

「そうと決まれば、何でも言ってくれ!」

 エドはどんと胸を叩いた。何でもって言われても……何を教えていいのかも分からないのに……そうだ、要望というより、決めておかなければならないことがあった。

「あの、それはどこで?」

「どこって……ああ、ここじゃ駄目なのか?」

 エドは周囲を見渡した。私達の他は誰もいない、開けた密室を。

「できれば、リアルでお願いしたいんです」

 ……本当は、私だってここの方が良い。ここなら……エドが相手なら、アンジェとして話しやすいと思うから。それがリアル……金剛寺先輩が相手で、私がちゃんと話せるかは疑わしい……というより、難しいだろう。……でも、ここには白薔薇騎士団がいる。今日は運良く休日となったが、今後もこうしたことが続いていくとなれば、何を言われるか、何と思われるか、分かったものではない。……そんなの関係ないと言いながら、私はここを失いたくないのだ。でも、こんな我が儘――。

「分かった。じゃあ、オレの家に来るか?」

「だ、駄目です!」

 私とアンジェはぶんぶんと首を振った。……金剛寺家のお屋敷に招かれでもしたら、私は卒倒してしまうことだろう。そんなアンジェに、エドは肯いて見せた。

「……人目があるか」

 そうだ。学校外で私と一緒にいるのを見られたら、金剛寺先輩の名に傷がつく。

「では、屋上だな。あそこに一般の生徒が立ち入ることはないからな」

「はい、そこでお願いします」

「他には?」

「えっと……特には」

「遠慮することはないんだぞ? 謝礼だって、望みの額を――」

「そ、そんなのいいですから!」

 再び首をふるアンジェに、エドは「そうか」と肯く。……謝礼だなんて、思いも寄らなかった。結局まだ、私がエドに何を教えられるのかも分からないというのに。

「……エドは、何を知りたいんですか?」

「そうだな。あんたみたいな柔らかな女性になる秘訣があれば……」

「秘訣って、僕は男ですよ?」

 そこはずっと引っ掛かっていたところである。どうやって男性の僕が、女性の金剛寺先輩に柔らかな……っていうのはよく分からないけれど、女性になる秘訣を教えられるというのだろう? 金剛寺先輩はどう控えめにみても完璧な女性だし、僕はあくまでFFでは女性なだけで、お化粧もファッションも分からないというのに……。

 アンジェ……というか僕の言葉に、エドはお腹を抱えて笑った。

「……ああ、すまん。別にあんたから女性の作法を聞こうというわけじゃ……いや、そうなるのか? まぁ、細かいことは抜きにして……そうだな、まずは話をしよう」

「話?」

「ああ。あんたと話をしながら、オレはオレなりに答えを探す。だからあんたは、何か思いついた時にでも、それをオレに教えてくれればいい。これでどうだ?」

「まぁ、それなら……」

 金剛寺先輩と話すのも十分に高いハードルなのだが……うう、大丈夫だろうか。

「恩に着る。では早速、明日から頼めるか?」

「は、はい」

「ありがとな。……そうだ、もう一つ頼みがあったんだ」

「もう一つ?」

「あんたのことを、師匠と呼ばせて貰えないか?」

 ……師匠か。背中がむず痒くなる響きだが、今更断る理由もなかった。アンジェが肯くと、エドはぐっと腕を引いて「よしっ!」と吠える。

「……話はまとまったが、まだ時間は残っている。師匠、良かったらこのまま一緒に攻略しないか? 白薔薇の姫騎士の戦い振りを、ぜひ間近で拝見したいんだが……」

 アンジェは笑顔で肯く。そういう申し出なら大歓迎だ。せっかくの休日だし、IDを攻略するなんて久し振りである。しかもダラカンの古城なんて……確かここは……アンジェは駆け足で噴水の円環を迂回し、さらにその奥を目指す……と、大きな地響き。画面が揺れ、砂地にいくつもの亀裂が走った。そして、大地が崩れ落ちる。

 そうそう、こんな感じ! アンジェと一緒に、後ろから駆けつけたエドも落ちていく。この先はモンスターの巣窟となっており、そこからの脱出を目指すのだ。落下しながら、アンジェは剣を抜き放つ。さ~て、最初の敵はどんなのだっけかな?

 ――かくして、僕と金剛寺先輩の奇妙な師弟関係が始まったのだった。


 ――ああ、そわそわする。

 朝からそわそわ、雨雲にそわそわ、授業中もそわそわ、お昼休みもそわそわ……放課後に金剛寺先輩とのお話が待っているかと思うと……もう、気もそぞろだった。

 余りにも落ち着きがなかったのか、七海さんからも「大丈夫?」と心配されてしまい……さらにそわそわしてしまったことは、内緒にしておきたい事実である。

 お弁当もかなり残してしまった。……うう、お母さん心配するだろうなぁ。でも、ゴミ箱に捨てることなんてできないし、でも家に持ち帰ったらどうせ……はぁ。

 ――放課後。雨はしとしとと降り続いている。

 こんな雨の日に屋上もないだろうと思いながらも、僕は行かずにはいられなかった。雨が降ろうが槍が降ろうが、金剛寺先輩なら必ずいる……そんな気がしたから。

 屋上に出るための引き戸には南京錠。……実は記憶にないのだが、僕は先輩に南京錠をちゃんと返却したらしい。そして、鍵は僕が受け取って……事実、制服のポケットには鍵だけが残されていた。僕は南京錠に鍵を差し込み、カチリと解錠。

 引き戸を開けると、雨降りの屋上に、黒い傘をさした金剛寺先輩が立っていた。

「師匠」

 金剛寺先輩は、僕を振り返って一言。……あ、僕のことか。そっか、リアルでも師匠と呼ばれることになるのか。ああ、それよりも……僕は深々と頭を下げた。

「お、お待たせしました!」

「気にするな。私もさっき来たばかりだ」

 僕は屋上に出て傘を……あ、傘立てに置きっ放しだ! 校舎に引き返そうとすると、金剛寺先輩が腕を伸ばし、僕の上に傘を差し出した。木製の手元を握る、白い手袋。ありがたいけど、これじゃ金剛寺先輩が濡れてしまう……僕は一歩、金剛寺先輩に近づいて……え、これって相合い傘? ……なんて考えるともう駄目で、僕のそわそわはドキドキに変わった……けれど、金剛寺先輩は平然としていて、そんな金剛寺先輩の顔を見上げていると……金剛寺先輩の方が背が高いので、自然にそうなる……不思議と、僕の気持ちまで落ち着いていくのだった。

 僕は大人しく金剛寺先輩の隣に収まり、正面を向いて、雨音に耳を澄ませる。

 ――沈黙。

「すまない」

 突然の謝罪に、僕は金剛寺先輩の横顔を見上げた。

「話をすればいいと言ったのに、話題を振らないのは気が利かないな」

「いえ、そんな……」

 僕はそれだけ言って、正面に向き直った。雨脚が、少し強くなった気がする。

 ――沈黙。

「雨は好きか?」

「好き……かもしれません。雨粒が傘に当たる音とか。……濡れるのは嫌ですけど」

 ぽつ、ぽつ、ぽつ。

「そうか」

 ――沈黙。

「金剛寺先輩は、晴れが好きなんですよね?」

「よく知ってるな」

「昨晩、ダラカンの古城で……」

「ああ、よく覚えているな。だが、こうしていると、雨も悪くないな」

「そうですか」

 ――沈黙。

「師匠は強かったな」

「レベル75ですから」

 ちなみに、エドのレベルは50。ダラカンの古城の適正レベルだ。

「そうか」

 ――沈黙。

「すまない」

 再びの謝罪に、僕は金剛寺先輩の横顔を見上げた。

「私は話すのが苦手なんだ。エドでいるときは、まだましなんだが……」

「それは、僕も同じです」

「そうか」

 ――沈黙。

「ありがとう」

 今度は感謝……僕は金剛寺先輩の横顔を見上げた。その表情に変化はない。

「師匠になってくれて」

 ……師匠らしいことは、まだ何一つできていないのだけれど。

「本当に感謝しているんだ。何の得にもならないのに、師匠は無償で引き受けてくれた。それなのに、私は謝礼などと浅ましいことを口にしてしまった……情けない」

 そこで初めて……金剛寺先輩は目を伏せた。だから、僕は……。

「無償じゃないですよ」

「え?」

 僕は金剛寺先輩に向かって、人差し指を立てて見せる。

「傘を貸して貰ってます」

 相合い傘をして貰ってます……とまでは言えなかった僕である。

「……さすが、師匠だな」

 そう言って、金剛寺先輩は顔を上げた。……さすがって、何だろう?

 ――結局、雨脚がさらに強くなり、僕の師匠デビューは幕を閉じた。進展は……金剛寺先輩に南京錠を返却したことを、ちゃんと覚えていたことぐらいだろう。


 翌日の放課後。空は雲一つ無く晴れ渡り、屋上に残る雨の痕跡は、排水溝脇の小さな水溜まりぐらい。今日も金剛寺先輩は僕より早く屋上に到着していて……かなり急いで来たつもりなんだけど……引き戸を開けた僕を、腕組みして出迎えてくれた。

「師匠」

「お、お待たせしました!」

「気にするな。私もさっき来たばかりだ」

 ――沈黙。これでは、昨日と何も変わらない。雨が降っているか、降っていないかの違いだけだ。……いや、他にも明確な違いがあった。それは僕と金剛寺先輩の立ち位置である。昨日より距離は離れているものの、向かい合う格好となっている。僕としては、話さなくてもいいならそれに超したことがないけれど……この立ち位置で沈黙が続くのは具合が悪い。かといって、横に並ぶのも不自然だし……ベンチでもあればいいのだが、そんな都合のいいものが屋上にあるわけもなかった。

 ……ただ、今日の僕は全くの無策というわけでもなかった。金剛寺先輩は話をしようと言っていたけれど……それが難しいなら、話題を考えておいた方がいいだろうと思ったのである。だから僕は……帰宅中も、お風呂中も、夕飯中も、未だに議題がうどんの定例会中も、寝る前も、夢の中でも、朝食中も、登校中も、授業中も、昼休み中も……ずーっと考え続けていたのだった。そして……。

「僕、考えたんですけど……」

「何をだ?」

「その、例の秘訣って――」

「おお! それはぜひ拝聴したいな!」

 金剛寺先輩の声が弾んだ。それだけで、僕は何だか嬉しくなってしまったのだけれど、それも金剛寺先輩が制服から手帳と筆ペンを取り出すまでだった。僕を見詰める鋭い眼差し……獲物を狙う猛禽類のような……すると、僕は相当怯えた表情をしてしまったのか、金剛寺先輩は手帳と筆ペンを制服に戻し、両手をぱっと広げて見せる。

「……すまん、焦ってしまった。安心してくれ、師匠が何を言おうと、記録には残さない。一言一句、聞き漏らすことのないよう、全身全霊を傾けて拝聴するだけだ」

 そっちの方がプレッシャーなんだけど……ともかく、金剛寺先輩のどう猛さは鳴りを潜め、それでも目を合わせることができない僕は、俯いたまま口を開いた。

「えっと、アンジェはきっと……僕にとっても理想の女性なんだと思うんです」

「ほう」

「アンジェは僕が女性だったら……というのものではなく、僕はアンジェというキャラクターを演じているといった方が近いというか……」

「それは、ロールプレイという奴か?」

「そう……なのかもしれません。そうだと意識したことはないんですが」

「つまり、アンジェと師匠は同じではない……そういうことか?」

「はい。だから、アンジェは僕の空想……妄想の産物というか……だから、金剛寺先輩が言っていた、その奥というのも、結局はそういうことで……」

「なるほど」

 肯く金剛寺先輩を見て、僕は何だか居た堪れなくなった。

「……ごめんなさい」

「何を謝る?」

「多分、金剛寺先輩が求めていた答えって、こういうことじゃないんじゃないかって。僕は金剛寺先輩の期待に応えることができな――」

「そんなことないぞ」

 金剛寺先輩は首を振った。

「私は答えが分からないからこそ、師匠に弟子入りを志願したのだ。答え合わせをしたい訳ではない。それに、師匠の言葉は示唆に富んでいる。アンジェが師匠が理想の女性を演じたものだとすれば、私もそのように演じれば、理想の女性になれるのが道理だろう? 私はそれを為すためには自分を変えるしかないと考えていたが……演じれば良いのなら、自分を変える必要はなくなる……うん、さすが師匠だ」

 しきりに肯く金剛寺先輩。……いいのかな、こんなんで。

「それでは、師匠の理想の女性……アンジェとは、どんな女性なのだ?」

「それは……僕よりも、金剛寺先輩の方が良く分かってるんじゃないですか?」

「私が?」

「はい。だって、アンジェが理想の女性なんですから……」

 金剛寺先輩は小首を傾げて考え込んでいたが、やがて首を横に振った。

「……駄目だ。容姿、声、性格、言葉遣い、立ち振る舞い……私にはアンジェの全てが素晴らしいものに思える。それが憧れというものだろうが……どうして憧れるようになったのか、すでに憧れてしまっている私には、判断することが難しいのだよ」

 ……確かに、そういうものかもしれない。でも、それなら僕だって……いや、僕と金剛寺先輩には決定的な違いがある。僕はアンジェを演じているのだ。演じる以上は台本……演じるポイントがあるわけで、それがアンジェをアンジェたらしめているのかもしれない。それは何か……そう考えて、真っ先に思い浮かんだのが……。

「無口な女性です」

「ほう」

「それは演じるというか、僕自身、話すのが苦手だから、自然とそいういう役回りに……聞き役になっていったように思います」

 ……それがアンジェの魅力と言うと語弊があるかもしれないが、お喋りなアンジェがあり得ないことを考えると……やっぱり、外せないポイントの一つだとは思う。

「なるほど。無口なら私も得意だが、聞き役は……駄目だ」

「え?」

「……私には、誰も寄りつかないから」

 六人掛けのテーブルにたった一人……僕の脳裏に、食堂の光景が鮮明に蘇る。金剛寺先輩は目に見えて肩を落とし、力なく首を振った。

「理由はさっぱり分からないんだが……」

 ……えっ、本当に? 僕は金剛寺先輩の呟きに耳を疑った。

「それは――」

「それは?」

 素早く切り返す金剛寺先輩。一歩、また一歩と、僕に迫ってくる。

「……師匠! ぜひ教えてくれ!」

 必死の形相……僕はその迫力に押され、一言だけ、口にした。

「……金剛寺」

 金剛寺先輩はぴたりと立ち止まり、朱色の唇を噛んだ。

「……全ての生徒の模範となれ。それが、みなを遠ざけているというのか?」

 それだけでも、金剛寺先輩が特別な存在だと思われていることは間違いない。ただ、それ以前に……もっと根本的な問題があると、僕は思っていた。それは……。

「いかにもなんです」

「いかにも?」

「そうです。金剛寺先輩は、皆が抱いている金剛寺のイメージそのままなんです」

 僕の言葉に、金剛寺先輩は目をしばたたかせる。

「それは……そうだろう? 私は金剛寺家現当主である金剛寺雅臣こんごうじまさおみの一人娘、金剛寺姫子なんだぞ? それに、師匠が言う金剛寺家のイメージとは一体何だ?」

「それは……完全無欠、それに尽きると思います。ですから、皆からすると、金剛寺先輩はまさに雲の上の存在で、恐れ多くて近づけないというか……」

「完全無欠」

「はい。ですから、そのイメージを変えないと――」

「し、師匠は、この私に金剛寺家を捨てろと言うのか!」 

 素っ頓狂な声を上げる金剛寺先輩に、僕はぶんぶんと頭を振って見せる。

「そ、そこまでしなくても……だから、演じればいいんですよ!」

「……ああ! そこで秘訣というわけか! だが、私は何を演じればいいのだ?」

「それは……」

 僕は言葉に詰まる。金剛寺先輩は完璧過ぎるから近づけないと考えると、完璧じゃなくなればいい……ということだろうか? それは、隙を見せるということ? もっと親しみやすく、社交的に……ただ、演じるにも限度があるだろうし……。

「……そんなに難しいのか?」

 そう言う金剛寺先輩は不安そうで……今日だけで金剛寺先輩の色々な表情を見ることができた気がする……何とかしてあげたいとは思うのだけれど……。

「金剛寺先輩は完璧過ぎるんです。ですから――」

「そんなことはない!」

 金剛寺先輩は僕の言葉を遮ると、小さく首を振った。

「……現に、私は皆を遠ざけている。真に完全無欠な存在が、そんなことになるものだろうか? 私は何か欠けているに違いないのだ。大きな、何かが……」

 それも一理あるかもしれない。だけど、僕の目から見ても、金剛寺先輩に欠けているものなんて……そう考えた時、なぜか僕の頭に思い浮かんだのは……エドだった。

 白い歯を見せてにかっと笑うエド。お腹を抱えて笑うエド。……ああ、そうか!

「笑顔」

「笑顔?」

「金剛寺先輩に欠けているものです! 笑ってください、演技でもいいですから!」

「そ、そう言われても……」

 金剛寺先輩は両手で頬を擦ったり、人差し指と親指で口角を広げたり、笑顔を作ろうと試行錯誤を繰り返したが、お世辞にも、笑顔と呼べる表情は生まれなかった。

「……難しいな」

 ――そんなこんなで日が暮れて、僕と金剛寺先輩は屋上を後にするのだった。


 ……それからも、僕と金剛寺先輩の師弟関係は続いた。といっても、やっていることは相変わらず……放課後に屋上でお話する……で、僕の秘訣も笑顔で頭打ち。それも金剛寺先輩には難しいようで……結局、進展らしい進展は何もなかった。

 金剛寺先輩に顔を合わせる機会が増え、僕も少しずつ緊張が解けてきた……ような気がしないでもないけれど、毎回の話題不足と沈黙は健在。ただ、僕と金剛寺先輩に共通する話題……FFについては、ちゃんと話せるようになってきた……のかなぁ?

「明日はいよいよアップデートだな」

 開口一番。僕が屋上の引き戸を開くなり、金剛寺先輩は本題に入った。

「そうですね」

「うどんが実装されるらしい」

 うどん。余り耳にしたくない言葉……定例会もうどんばっかりだし……だが、金剛寺先輩がそれを口にしても、嫌な感じがしないから不思議である。それにしても、数あるアップデート項目の中から、うどんをチョイスするということは……。

「好きなんですか?」

「ああ。白くて、柔らかくて、つるつるして……どれも、私にはないものだから」

 ……そうだろうか? 僕が見る限り、金剛寺先輩の肌は白くて綺麗だと思う。……柔らかくて、つるつるしているかまでは、見るだけじゃ分からないけれど……。

「そういえば、師匠の名字は香川だったな。うどん県だ」

 まさかの一撃。狼狽うろたえる僕を見て、金剛寺先輩は目を瞬かせた。

「触れてはいけなかったか?」

「……いえ、別に」

「師匠、泣きそうな顔をしているぞ?」

 僕は頬に手をやった。うどん肌。そんな僕を見て、金剛寺先輩は頭を下げた。

「すまない。名前の重さは、身をもつて知っているはずなのに」

「……嫌いなんですか?」

 口をついた不躾な質問にも、金剛寺先輩は嫌な顔一つすることはなかった。

「いや。誇りを持っている。師匠は嫌いなのか?」

 俯いて黙り込む僕……これでは、そうだと言っているのと同じだった。

「私は好きだな。特に、伸幸というのがいい。伸びる幸せ……素敵じゃないか?」

 ……名前を褒められることが、こんなに恥ずかしいものだとは思わなかった。僕はとても金剛寺先輩に顔を向けることができず、俯いたまま、落ち着くのを待つ。

「……それでだな、師匠。少々気が早いが、明日は休みにしようかと……あ、いや、別に私は構わないのだが……師匠がほら、色々あるだろう? 私は構わないんだそ? 私は構わないのだが……私はな! これはあくまで――」

 不自然なほど「私は」と繰り返す金剛寺先輩に、僕は噴き出してしまった。……金剛寺先輩も楽しみなんだろうな。オンゲーをやっている人が、アップデートを楽しみにしないはずがない。あれは一種のお祭りで、オンゲーの醍醐味のなのだから。

「師匠の笑顔は自然だな」  

 ……へ? 僕は金剛寺先輩に顔を向けた。頬に手を当てる金剛寺先輩。

「私は駄目だ。自然に笑うことができない。感情を表に出してならない、相手につけいる隙を与えてはならない……幼少より、そう教えられてきたのだから。せっかく、師匠から笑顔という秘訣を教えて貰ったのに……だから、私はいつも……」

 ……あっ、そういうことか。僕はすとんと、先輩の望みが腑に落ちた。

「お友達が欲しかったんですか?」

「な……」

 金剛寺先輩の瞳が大きく見開かれ、徐々にいつもの大きさへと戻っていく。

「……そうかもしれない。師匠の周りには、いつも友達がいっぱいだった」

 僕は首を傾げ、FFのことだろうと思い直した。つい勘違いしそうになったが、金剛寺先輩が憧れているのは僕ではなく、アンジェなのだから。でも……。

「白薔薇騎士団は、友達というより――」

「違う」

「え?」

「私が言ってるのは、昔の師匠だ」

 ……思い返せば、確かにいつもフレンドと遊んでいた気がする。ナナはもちろん、冒険で出会う人、出会う人とはフレンド登録をし続けていたので、何かと誘われる機会が多かったのだ。……白薔薇騎士団に、メイトリアークとして招かれるまでは。

「今の師匠は籠の鳥だ。まるで、私みたいに」

「鳥?」

「……何でもない」

 顔を背ける金剛寺先輩。その横顔は、酷く寂しそうに見えた。だから……。

「だ、大丈夫ですよ! 金剛寺先輩なら!」 

「気休めはいい。ちゃんと話すこともできないのに……」

「話せてるじゃないですか! 今、こうして僕と!」

 金剛寺先輩は僕に顔を向けた。じっと見詰められて、僕は視線を逸らす。

「……僕だって、話すのは苦手で、リアルでは、友達なんていなくて……」

「私がいるじゃないか」

 僕は驚いて顔を上げたが、金剛寺先輩の方が驚きが大きかったようで、目をぱちくりしながら、口元を抑えている。やがて金剛寺先輩は手を下ろし、首を振った。

「すまない。師匠は……師匠だったな」

 僕にとっても、金剛寺先輩は弟子……いや、先輩である。でも……ああ、まただ。こういう時に思い浮かぶのは、どういうわけか、あのガルディン族の男だった。

「友達です。だって、フレンド登録もしたじゃないですか?」

 ……別れ際、アンジェがエドに申請して交わされた、久し振りのフレンド登録。

「そ、そうだなっ! 私もそれが言いたかったんだっ! 本当だぞっ?」

 口早に話す金剛寺先輩の表情は険しかったが、ちっとも怖くなかった。そんな僕の様子に気付いたのか、金剛寺先輩は腕を伸ばして、ビシッと僕を指さした。

「それに、師匠だって私と話せているじゃないか!」

 そういえば……と、目をぱちくりする僕。あれ? ……何でだろう? 

「……っく、あはははは!」

 ――金剛寺先輩が笑った。僕はそれを見て、思わず……。

「それそれっ! それですっ! それなんですっ! 笑顔っ! 自然なっ!」

 僕は「それですっ!」と何度も先輩を指さしたが、金剛寺先輩の笑顔はすでになく……僕は「ごめんなさい!」と頭を下げた。そんな僕に、金剛寺先輩は一言。

「そうか、私も笑えるのか」

 僕が頭を上げると、金剛寺先輩は目を閉じて、頬に手の平を当てていた。

 ――それから。僕と金剛寺先輩は、日が暮れるまで明日のアップデートについて、あれこれと話し続けた。うどんのことも、うどん以外のことも。


 ……すっかり遅くなってしまった。

 放課後に金剛寺先輩とお話する時間が出来たとはいえ、毎日の勉強をおろそかにするわけには……いや、正直、おろそかにしてしまっていた。宿題をするので精一杯、復習に予習なんてとてもとても……うう、中間考査も間近に迫ってきたというのに。

 今日は特に数学の宿題が難問で、定例会までに終わらせることができるか怪しかったが……今夜は明日のアップデートに備えた大事な会議であり、それが深夜まで及ぶことは間違いなく、その後で……なんて、僕には無理なことも分かっていたから、解けない問題はどんどん飛ばした結果、大半を飛ばすことになり、それが功を奏して定例会ギリギリにログイン、アンジェを玉座に座らせることができた。やれやれ。

 ……定例会の合間に勉強すればいいと思われるかもしれないが、メイトリアークであるアンジェは重要な局面で意見を求められることが多く、そこで適切な受け答えをするためにも、チャットの内容を全て把握している必要があった。それを他のことをやりながらなんて……不器用な僕には、とてもできない芸当だった。

 ……でも、今日の僕はチャット画面に目を向けながらも、頭の中では放課後に金剛寺先輩と交わしたアップデート談義が渦巻いていた。アップデートは毎回楽しみで、盛り上がるのは当然なのだけれど、今日ほど楽しかったのはいつ以来だろう……と思ってしまうほど、楽しかった。いつの間にか、何かをしたいというよりも、何かをしなければならない……そんな思いに埋め尽くされていたような気がする。

 ――もし、アンジェが白薔薇騎士団を抜けたら。ふとそんな思いが頭をもたげ、僕は慌てて首を振った。何てことを……ここはぼくの大切な居場所である。白薔薇騎士団にいるからこそ、僕は白薔薇の姫騎士でいられるのだ。……確かに勉強との両立は大変だし、自由がないと感じることもある。籠の鳥……それは、金剛寺先輩が僕……アンジェに向けて言った言葉。そうなのかもしれない。……だけど、それでも。

 団員達はいつだって真剣だ。本気でゲームに取り込んでいる。だからこそ、こうやって毎日定例会も開いているのだ。そこにゲームだからと、冷めた考えはない。ゲームだからこそ、本気で遊ぶ。その方がずっと面白い……それを、僕はナナから教えてもらった。何せ、彼女は本気で……オンゲーに出会いを求めていたのだから。

 ……ただ、アンジェが白薔薇騎士団にいる限り、エド……金剛寺先輩と遊ぶことはできないんだと思うと、それは……胸が締め付けられるほど……寂しかった。

『師匠!』

 いきなりの「テル」とそれを知らせる効果音に、僕の心臓は飛び出そうになった。テルは個人に宛てたプライベートなメッセージなので、その内容はもちろん、それをいつ、誰が、誰に送ったのか、他の人が知る術はない。ただ、チャットモードの切り替えを忘れ、テルで送るべき内容が他の人に知られてしまう……「誤爆」の可能性もあり、テルでのやり取りは厳禁だと、ちゃんと伝えておいたのに……!

 僕は動揺を抑えながら、チャットモードを切り替え、エドに返信を送る。

『どうしたんですか?』

『決まりを破ってすまない! でも、どうしても師匠に伝えたくてな! あの後、まだ校舎に残っている生徒がいたからさ、これはチャンスだと思って、笑顔をだな、思い切って演じてみたんだよ! そして、オレは言ったんだ! 気をつけて帰るんだぞ……ってな! すると……挨拶を返してくれたんだよ! はい、金剛寺先輩、さようなら……って! しかも、笑顔で……これも、師匠のお陰だ! ありがとう! 明日は休みだし、明後日までなんて待ってられなくてな! その、勘弁してくれ!』

 ……テキストだけなのに、嬉しそうな声まで聞こえてくるかのようだった。

「良かったですね」

「姫様、何がですかな?」

 ――誤爆。僕は慌ててチャット画面を遡り、無難な答えを捻り出す。

「その、うどんが早く食べられそうで……」

「おお、姫様もうどんを楽しみしてくれているのですね! これは頑張らねば!」

 ランディの言葉に、団員達は揃って肯いた。

 ……なんとかごまかせたようだ。もし定例会中にテルをしているとバレたら……しかも、相手があのエドモンド……僕は声を出して笑ってしまった。そして、今度は誤爆しないように気をつけながら、エドに『良かったですね』と送信する。

 ああ、楽しい。こんなに愉快な、幸せな気持ちになるのは、本当に久し振りだ。

 ――アンジェは微笑を浮かべ、定例会の行く末をじっと見守っていた。

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