第3話「黒絹の魔女」

「……驚きね」

 放課後。机を挟んで向かい合う構図は先週と同じだけれど、ユッキーは笑わなかった。クラスメートの姿もすでになく、教室には私とユッキーの二人ぼっち。

「でしょ? カケルさん、出会って一週間でエタコンの話をするなんて――」

「ううん、そうじゃなくて」

「へ?」

「……私が驚いてるのはね、ナナ、あなたのことよ」

 私がきょとんとしていると、ユッキーは机に頬杖を突いた。目を閉じて、指先でコツ、コツ、コツ……と机を叩く。私は居住まいを正し、前傾姿勢でそれを見守った。

「客観的に見るとね」

 ユッキーは指を止め、目を開いた。私は「うんうん」と肯く。

「助けられて、一目惚れして、結婚まで……その相手ってさ、ナナのことだと思う」

「それは……うん、そうだよ、ね?」

「あっ……あー……ややこしいな。いや、ごめん、言葉が足りなかった。えっと、ナナはナナでも、FFのキャラクターの方ね」

「FFのナナ?」

「そう。だから、ロールプレイじゃないかってこと。意味、分かるでしょ?」

 私は肯いた。もちろん、その意味は分かる。FFだって、広い意味ではRPG……「ロールプレイングゲーム」なのだから。

 ロールプレイとは、役割を演じること。つまり、私もFFではナナという冒険者を演じているわけだけれど……普段はそれを意識することなんてないし、そんな感じで遊んでいるプレイヤーの方が、日本では主流だ。ただ、FFの世界の住人として振る舞うという遊び方もあって、それはロールプレイと呼ばれ……あっ!

「カケルさんが、演技をしてるってこと?」

「そこまで厳密じゃないかもしれないけれど……ともあれ、オンゲーのキャラクターとしてナナを好きになったというなら、まだ理解できる気がする」

「で、でも、ロールプレイしてますっていう、専用のアイコンが――」

「それって、初心者に分かるもの?」

「うっ……」

「それに……もし、カケルさんがオンゲー初体験だったら、どう?」

「ど、どうって?」

「今まさに、オンゲーで一緒に遊んでいるキャラクターをよ? 世界のどこかで本物の人間が操作してるっていうイメージ、持ちにくいんじゃない?」

 ……確かに、そうかも。私だって、それは当然のことだと思いながらも、実際に遊んでいる時にどこまでそう思っているかは……ううむ、どうだろう?(とは言っても、他のキャラクターをNPC……ノンプレイヤーキャラクター、ゲームの登場人物だと思っているわけでもなくて……ああ、うまく言えない!)

 私が「うーん」と首を捻っていると、ユッキーは両手を上げて伸びをした。

「……っからね、きっとカケルさんにとってナナはナナ……FFのナナなのよ」

「このナナじゃないってこと?」

 私が自分を指さして見せると、ユッキーは大きく肯いた。

「そもそもさ、ナナがナナだってことも知らないわけだし、性別とか年齢とか、そういう話だって、別にカケルさんとしてるわけじゃないんでしょ?」

 うん、それはもちろんだ。毎日FFの話をしているだけで、あっとう間におやすみタイムなんだから……何度も肯く私を見て、ユッキーは困ったように眉根を寄せる。

「だからさ、言い方は悪いかもしれないけれど……カケルさんにとっては、告白も結婚もゲームの一部……遊びの範疇はんちゆうなんだと思う」

「……そっか。まぁ、そうだよね。ゲームなんだし、うんうん」

 拍子抜け……というより、という感覚。そして、そう感じたことが、何よりも驚きだった。……せめてさ、ぐらいして欲しかったなぁ、私。

「でもさ」

 ユッキーはそう続けると、腕組みして目を細めた。

「それにしたって、性急過ぎるわよね。いくらロールプレイだからって、軽薄というか、手慣れてるというか……ちょっと、危険な感じがするわ」

「危険?」

「別に。余計なことだから、気にしな――」

「気になるっ!」

「……気分、悪くしないでよ?」

「うんうん」

「……まぁ、ナナの方がオンゲーに詳しいから、もあるってことは知ってるだろうけど……オンゲーに出会いを求めてるのは、ナナだけじゃないってこと」

「それは……うん、そうだと思うよ?」

 ユッキーはぴんと立てた人差し指を、くるくると水平に回した。

「だからさ、オンゲーで仲良くなってリアルで……出会いは出会いでも、出会い系サイトみたいに利用している人もいるって話。オンゲーをやっている人は、リアルでの付き合いやコミュニケーションに免疫がないから、ちょろいだろうって――」

「そんなの、偏見だよっ!」

「……本当にね。ただ、オンゲーに出会いを求める人は、確かにいる。……こう言っちゃ何だけど、客観的に見れば、ナナだって同じなのよ?」

「ひ、酷いっ! 私は、そんな――」

「客観的に見れば、ね。オンゲーにゲーム以上の関係、リアルの関係を求めていることは事実だし、その動機が純粋か、不純かなんて、第三者は知りようがないもの。だから、カケルさんの目的がそういうことだっていう可能性だって、あるとは思う」

「そんな……」

「だってさ、それだけ積極的なのよ? エタコンだっけ、それだけで済むと思う? 次はリアルで会いましょうって話が、すぐ出てくるんじゃないの?」

「で、でもさ、そういうことが目的なら、別にエタコンは必要ないよね?」

「そうね。ただ、それも手の内かもよ? 結婚詐欺ならぬ、エタコン詐欺ってね」

「そんなぁ……」

 あのカケルさんがそんな人だったら……嫌だなぁ。本当に……うう、嫌だなぁ。

「もう、泣くんじゃないの! ああ、だから言いたくなかったのに……ごめんごめん、私ってほら、いつも余計なことばっか考えちゃうからさ」

 私は涙を指先で拭いながら、首を横に振った。

「……ううん、そんなことないよ。私だって知ってるもん、そいう人がいるってこと。私の身の周りでもね、FFでつきまとわれたり、オフ会でいきなり……とか、そういうことになっちゃって、FFを引退しちゃった人もいるんだから」

「ああ、そうだったの」

「うん。パパが言うにはね、生身の人間が関わっている以上、人間関係のもつれは必ず生じるものなんだって。それはゲームとかリアルとか、関係ないって」

「そうね」

「だけど……カケルさんは、そうじゃないと思う」 

 ……とは言っても、根拠があるわけではない。強いて言えば、乙女の勘……ううん、私はきっと、カケルさんを信じたいのだと思う。カケルさんの、想いを。

 ユッキーは両肘を机に突いて前傾し、指を絡ませた両手の上に顎を載せた。

「……ナナは、どうなの?」

「どうって?」

「カケルさんのこと、好き?」

 シンプルな質問。それに、私は向き合わないといけない。でも、その前に……。

「それって、どっちのナナ?」

「あー……っと、それは、ナナは別にナナを演じてる訳じゃなさそうだし、ナナはナナとして、ナナが……とにかく、あなたの気持ちはどうなの?」

 私は胸に手を当て考え……いや、好きか嫌いなら、考えることもなかった。

「好きだよ。だけど――」

「恋、ではなさそう?」 

「……うん」

 それは多分、友達としての、好き。私が求めているものとは、異なるカタチ。

「それでも、好きだと思えるなら、悪い人じゃないかもしれないわね」

「そういうもの……なの?」

「きっとね。それか、人を騙すのが上手いだけかもしれないけれど」

「えー……」

「私だって、何が答えかなんて、分からないわよ。でも、分からないならさ、自分の想いが答えだって、信じるしかないんじゃないの?」

「……それが、間違っていたら?」

「その時は、自分を責めるなり、カケルさんを責めるなり、私を責めるなり、ご自由に。ただね、誰かを疑って正解するよりも、誰かを信じて間違う方が、ナナにはずっと似合っていると思う。ま、見えている地雷を踏みそうになることもあるけど」

 私はふむふむと頷き、その言葉を噛み締めながらも、頭の中で考えていることは、カケルさんのこと……ではなく、ユッキーのことだった。

「ユッキーって、大人だなぁ」

「老けてるってこと?」

「そうじゃなくて、考え方がしっかりしているというか……」

「理屈っぽいだけよ」

「本を沢山、読んでいるからかな?」

「それは、あるかもね」

「頼りになるなぁ」

「褒めたって、何も出ないわよ?」

「経験豊富っていうか……」

「何の経験よ?」

「……恋、とか?」

 ユッキーは怪訝そうに首を傾げたが、すぐに目を細め、にやりと笑った。

「なるほど、そういうことね」

 私は思わず両手で頬を挟んだ。あつ……うう、赤くなってるかも。

「リアルのお付き合いにも、ちゃんと興味があるんだ?」

「そ、そりゃあ……出会いこそオンゲーに求めてるけど、その先だって……」

「その先って?」

「だから、パパとママみたいに――」

「子供が欲しい?」

「な、なんでそこまで飛躍するのっ!」

「違うの?」

「ち、違わないけど、その前にさ、やることがあるでしょ!」

「確かに、やらないと子供はできないもんね」

「そ、それのことじゃないっ!」

「それって?」

「うーっ……」

 私は唸りながらユッキーを睨みつけていたが、やがて脱力し、下を向いた。

 ……実は、ユッキーとお話をしている間、ずっと頭の中をぐるぐる飛び回っていることがあった。それを私は考えないように、見えないものとして扱ってきたけれど、今やその輪郭はどうしようもないほどくっきり、はっきりとしていて、もはや無視することはできなかった。それは今更で、どうしようもないことなんだけれど……。

「ナナ?」

 ユッキーの声が引き金となり、私は口を開いた。

「オンゲーに出会いを求めるなんて、私、変なのかな?」

 自分の言葉なのに、それを耳にした私は、何だかとても落ち込んでしまった。

 ……私だって、それが普通じゃないことぐらい分かる。何でそんなややこしいことをするのか、意味が分からないとか、馬鹿だとか言われたって、ぐうの音もでない。

 パパとママは憧れだけど、だからといってそうなれる保証はないし、それは奇跡だったということも、痛いぐらい分かる。でも、そうなりたいと思って何が悪い! 私の自由じゃないか! ……と思いながらも、不安だって感じずにはいられない。

 それも元気な時、FFで遊んでいる時は気にもならないのだけれど……ふと立ち止まった時、それは姿を現す。他でもない、私の頭から。つまり、それはいつも私と一緒にいるわけで、それを気付かないようにしているのは、ただの逃避……などと考えるともう駄目で、ぐるぐる、ぐるぐると、どこまでも落ち込んでしまうのだ。

 また、こうして話を聞いて貰ったところで、私はどうして欲しいのか……それもよく分からない。変ではないと肯定して欲しいのか、変だと否定して欲しいのか。……きっと、そのどちらでも良いのだろう。自分の進むべき道を、誰かに決めて欲しいという甘え……うう、自分の人生なのに、自分で決められないなんて。

 ――そんな私のぐるぐるを知ってか知らずか、ユッキーが口にしたのは……。

「確かに変。でも、おかしくはないと思う」

 顔を上げた私に、ユッキーは肯いて見せる。

「変って言うのはね、少数派ってことよ。多数派が普通だと思っていることから外れている……ただ、それだけのこと。おかしい、おかしくないっていう、善し悪しとは関係ないと思う。だってさ、考えてみてよ? 昔は親が子供の結婚相手を決めるのが当たり前だったのよ? それにさ、普通の出会いって何? 学校や職場での出会いが普通だとしたら、お見合い、合コン、ナンパ、婚活……その辺りの出会いは全部、変ってことになるでしょ? もっと言えば、そういった出会いだからって幸せになれないこともなくて、逆も又然りってね。だから、大事なのは……」

 ……熱弁を振るうユッキーには悪いけれど、私は最初の言葉だけで満足というか、安心というか……私は立ち上がってユッキーの前に回り込み、がばっと抱きついた。

「ユッキー、大好きっ!」

「はいはい。元気出た?」

 私は肯いてユッキーから身を離すと、胸の前で両手を合わせた。

「ねね、質問があるんだけど……」

「何?」

「ユッキーって、彼氏いるの?」

「元気になった途端、それ?」

「だって……それだけ語れるんだもん、きっと彼氏の一人や二人……」

「一人はいるけど」

「おお、やっぱりね!」

「やっぱり?」

「モテるだろうなって、思ってたから」

「そう?」

「ユッキー、美人さんだもん!」

「ナナも可愛いわよ?」

「そ、そう? えへへ……」

「質問は終わり?」

「ああ、ええと、馴れ初めは?」

「告白されて……まぁ、別に断る理由もなくて」

「……好きだったんじゃないの?」

「嫌いではなかったけどね」

「そんなこと言っちゃって、照れるな、照れるな!」

「そういうんじゃ――」

「デートはしたの?」

「そりゃね」

「手を繋いじゃったり?」

「そういうこともあったわね」

「……キスしたり?」

「何度かね」

「おー……」

「エッチはしてないわよ?」

「しててたまるかっ! まだ早いでしょうがっ!」

「……そうでもないみたいよ?」

「ええーっ!」

「本当かどうかは分からないけどね」

「……嘘よ嘘っ! そういうのは、うん、大事にしないとっ!」

「ナナって、純情よね」

「ユッキーだって、大事にしないと駄目なんだからねっ!」

「はいはい」

「……もしかして、その、迫られたことがあったり?」

「興味はあるんだ?」

「えへへ……」

「一度だけね。母親が刑事だって言ったら、すぐ引き下がったけど」

「……何かその、いけない相手なの?」

「まさか。同級生よ。まぁ、やましいと思うようなことをするんじゃないって話」

「ううむ、正論だ!」

「……そりゃね、興味が全くないかと言えば、嘘になるけどさ。部活とか勉強とか、学生がやるべきことは他にも沢山あるんだから。それに……」

「それに?」

「……まぁいいわ、私のことは。それより、問題はナナでしょ? どうするの?」

「ああ、そうだった……うう、どうしよう……」

 頭を抱える私を見上げながら、ユッキーは眼鏡のブリッジに中指を添えた。

「……正直に話すしかないんじゃない?」

「正直に?」

「そ、正直に。ナナはカケルさんが好きなんでしょ? だけど、そのニュアンスは恋とは違う……そういう細かいことから、自分が感じている戸惑いとか……そうね、カケルさんを信じるなら、オンゲーに出会いを求めてることから話すのも手だと思う。個人的にはお勧めできないけれど……決めるのは、あなたよ」

「うう、できるかな……」

「それかいっそ、勢いに任せちゃうとか」

「勢い?」

「行き着くところまで、関係を進めてみるってこと。そうすればカケルさんの意図もはっきりするだろうし、ナナの気持ちだって変わるかもよ?」

「それはちょっと……」

「それなら、正直に話すしかないって。それに、話を聞いてカケルさんがどう反応したとしても、それはナナの責任じゃない。まぁ、ちゃんと理解を示してくれるなら、信用してもいいかもね。ナナと同じ可能性だって、ないわけじゃないし」

「私と同じ?」

「オンゲーに出会いを求めてるってこと。清く正しいお付き合い。本物の恋。カケルさんがあなたを好き……いや、好きになろうとしているのかもしれないってこと」

 ユッキーは立ち上がると、私の頭をぽんぽんと軽く叩いた。

「……そうなのかな?」

「それを確認するためにも、ちゃんと話さないとね」

「うんっ! 帰ったら早速、話してみるっ! ユッキー、ありがとうっ!」

「どういたしまして。さ、帰りましょ」

 私とユッキーは鞄を片手に、夕日に染まった教室を後にした。

 

 帰宅した私は、宿題、ご飯、お風呂、その他の細々とした用事を早々に片付け、FFにログイン。だが、ナナが家に入った時、カケルさんの出迎えはなかった。

 ……早かったかな。時計を見ると、いつもより一時間も早い。ナナは椅子に座って扉をじっと見詰めながら、カケルさんのログインを今か今かと待ち続けるのだった。

 ――だが、日付が変わるまで待ってもカケルさんはログインせず、私はログアウトしてベッドに潜り込んだ。……どうしたのかな? まぁ、そんな日もあるよね。

 ――翌日、またその次の日と、カケルさんはログインしてこなかった。そして、カケルさんがログインしないまま、あっという間に一週間が経過した。

 

「……で、どうして俺なんだ?」

 放課後の教室。私と机を挟んで向かい合い、腕組みしているのはコータだった。他には誰もいない……というか、こちらを窺うクラスメートにコータが睨みを利かせたところ、一瞬でいなくなってしまったのである。さすが、すずしろ書店の番犬だ。

「だって、ユッキーはデートだから……」

 もちろん、まずはユッキーに声をかけた。でも、ユッキーは遠距離恋愛(!)中の彼氏と会う予定で、また明日……という話だったんだけれど、私の心は一杯一杯、表面張力も限界だった。だから、私はコータをメールで呼び出したのである。

「……彼氏、いたんだな」

 コータはむすっとして、そう呟いた。……はは~ん。

「何だよ、その顔?」

「べっつに~? それより、コータは?」

「何がだ?」

「彼女、いないの?」

「……いるように見えるか?」

「見えない」

「おい」

「でも、女子から人気あるんでしょ?」

「誰からの情報だ?」

「私。だってさ、中学の頃、コータのことけっこー聞かれたもん」

「……マジか?」

 半信半疑といった表情のコータに、私はうんうんと肯いて見せる。

 ……そう、マジもマジ、大マジな話だ。まぁ、分からなくもない……かな? 体つきはがっちりしてるし、顔つきも……ワイルド過ぎる気はするけど、そこが素敵って言う子もいたしなぁ。それに、空手の日本一っていうのは、インパクトあるよね。

 性格だって、悪くないと思う。何だかんだで人の話も聞いてくれるし、見た目に反して大人しいというか、優しいというか……とにかく、気の良い奴なのだ。

 それで、私が幼馴染みだと知っている子はもちろん、そうだと知らない子からも、コータについてあれこれ聞かれることがあった。中学生の頃、私とコータは疎遠だったと思うけれど、廊下で会った時などは普通に喋っていたから、それが端から見ると親しくしているように見えたらしい。それもあってか、中には私とコータが付き合っているのかと聞いてきた子もいて……とんでもない!

 もちろんコータのことは好きだ。でも、それは幼馴染みとして、友達としての好きで、恋とは違うと思うし、何よりコータが好きなのは……おっと。ともかく、私はそんなことないよ、頑張ってねと、恋する乙女の背中を押していたのだけれど……。

 コータはすっと天井を見上げ、への字にしていた唇を開いた。

「……正直言うと、告白されたことはある」

「おーっ!」

「でも、断った」

「……なんで?」

「いいだろ、別に」

「ええー、気になるっ!」

「……お前さ、それより気になることがあるんじゃないのか?」

「あ、そうだった! ……ねぇ、どうすればいいと思う?」

 もちろん、カケルさんのことだ。一週間、毎日一緒だったのに、今度は一週間、音沙汰なし。何かあったことは間違いないだろうけど、その何かを知る術はないわけで、でもこのまま放っておくわけにも……ああん、もうっ!

 溺れる者は藁をもつかむ。その点、コータは丸太みたいだから、ちゃんと水に浮くだろう……って、筋肉質だと沈むんだっけ? ともかく、我ながら無理難題を押しつけてる気もするけれど、きっとコータなら……でも、その答えは素っ気なかった。

「どうするって、どうしようもないだろ?」

「それは、そうだけど……」

「それが分かってるなら、悩むことないさ。まぁ、そういう奴だったってことだよ」

「そういう奴?」

 何か、嫌な言い方。私がむすっとしていると、コータは「あ、いや」と呟いた。

「……そうだ、その、飽きたんじゃないか? 一週間もあればクリアできるだろ?」

「いつの時代よ! オフゲーだって、スマホゲーだって、今時さ、そんな一週間でクリアできるゲームなんてない! ましてや、オンゲーは何年、何十年――」

「じゃあ、他に何があるってんだよ?」

「それは、ゲーム機が壊れたとか、忙しくなったとか、事故とか、病気とか……」

「まぁ、そんなところだろうな。とにかく、何らかの理由でFFをプレイしなくなった、もしくはプレイできなくなった……ただ、それだけのことだろ?」

「何かさ、随分と冷たいんじゃない? いくらオンゲーが嫌いだからって――」

「違うな。むしろ、お前がお人好し過ぎるだけだと思うぜ?」

「私が? どういう意味?」

「見ず知らずの相手を、心配しすぎってことだ」

「そんなことない! カケルさんはルヴァーゼ族の白魔術士で――」

「それはゲームの話だろ? お前はリアルのカケルさんを知っているのか?」

「……知らないけど」

「ログインする、って言うんだっけか? ゲームをやる、やらないっていうのは、リアルの領分だ。それを何も知らないお前が心配したって、どうにもならないだろ?」

「オンゲーの付き合いは、本物じゃないっていうの?」

「そんなこと言ってないだろ? お前はもっと、ゲームとリアルの区別を――」

「分かってるっ! 分かってるけど、心配なんだから、仕方がないじゃないっ!」

「……だから、お人好しだって言うんだよ」

「悪い?」

「いや、偉いと思うよ、マジで」

「馬鹿にして」

「とんでもない。褒めてるんだよ、俺は」

「……わけわかんない」

 私は首を振った。何が褒めてるよ。椅子を蹴って立ち上がり、鞄に手を伸ばす。

「もういいっ! コータに聞いた私が馬鹿だった!」

 帰ろうとする私の手首を、コータがむんずと掴んだ。振り解こうにも、びくともしない……うう、この馬鹿力めっ! 私は振り返って、コータを睨み付ける。

「放してよっ!」

「落ち着けって」

 ……落ち着け? 落ち着けと言いました? 何でこうなったか、分からないの? ……そうだよね、浩太には分からないんだ。私が、どんな思いだったかなんてさ。

 コータの手がすっと離れる。私は手首をさすりながら、口を開いた。

「……私がさ、どれだけ寂しかったと思う?」

「何の話だ?」

「三年前のこと。私、FFを一緒に遊ぶの、すっごく楽しみにしてたのに……ユッキーは引っ越ししちゃうし、コータもお母さんが駄目だって……」

「それは……仕方ないだろ?」

「……うん。でもさ、離れ離れになるなんて、思ってなかったんだもん」

 ――青天の霹靂へきれき、という奴だろうか。

 ママからFFを勧められた時、私は当然のようにユッキーとコータもプレイするものだと思っていた。自宅にいながら三人で冒険できる……朝だって、夜だって、休日には、一日中だって……そんな夢のような未来に、ワクワクが止まらなかった。

 だから二人をFFに誘って、それを断られた時、描いていた夢が、未来が、音を立てて崩れ去っていった。もっと一緒にいられると思っていたのに、バラバラになってしまうなんて……寂しくて、寂しくて、堪らなかった。

 ――それでも。そんな寂しさを埋めてくれたのもまた、FFだった。初めてプレイしたオンゲーの面白さに、私はすぐ虜となった。ただ、夢中になって遊んでいても、脳裏に浮かぶのは……ユッキーがいたら、コータがいたら……そんな想いだった。

 だから、中学生になってからも、私は二人をFFに誘い続けた。

 ユッキーは誘う度に「落ち着いたら」「考えとく」……と断られ続け、落胆する私には「ごめんね」と口にするのがお約束だった。だから、中学二年の頃から、誘わないようにしている。この前は勢いで誘っちゃったけど……多分、駄目だろうなぁ。 

 コータの場合はお母さんが関わっているから、断られることは分かっていたけれど、誘わずにはいられなかった。また、コータから遊びに誘われることもあって……ただ、ユッキーがいないのに、二人で何をしたらいいのか分からなくて……断った。FFを理由にして。それが何度か続いたら、コータから誘われることはなくなった。

 ――もし、私がFFをやらなかったら……そんなことを考えなくてもいいほど、また、考えなくなるまで、私はFFを大いにやりこみ、楽しんできたのである。

「悪かった」

 ぼそりと口にする前から、私はコータならそう言うだろうなと思っていた。

 コータだって、心の中では思うところがあるはずだ。それなのに、悪かったと言ってしまうコータ。だから、ずっと言うまいと思っていたのに……ごめんね、コータ。

 ……本当、優しいんだよね。その優しさに、私はついつい甘えてしまうのだ。ユッキーに甘え、コータに甘え……うう、私って、つくづく駄目だなぁ。

「とにかく座れって」

 私は「うん」と肯いて、言われるまま椅子に腰を下ろした。

「……何か予兆はなかったのか?」

「え?」

「カケルさんだよ。ログインしなくなる前触れというか、何か特別なことは?」

「うーん、特には……あ、エタコン宣言されたぐらいかな?」

「エタコンって、何だっけ?」

「FFの結婚式だよ」

「……ってことは、プロポーズされたのか?」

「そう、なるのかな?」

「……とんでもないことが起こってるじゃねぇか。それをお前、断ったのか?」

「あ、いや、私も驚いちゃって、何も……」

「それなら、プロポーズを断られたショックというわけでもないか」

 顎先に人差し指と親指を当て、ふむと肯くコータ。それを見て、私は口を開いた。

「ありがとう」

「何がだ?」

「だってさ、気を遣ってくれてるじゃない?」

「そんなことねぇって」

「本当に?」

「ああ。むしろごめんな。お前が真剣に悩んでるってことぐらい、分からないはずもないんだが……俺は一般的な見方に捕らわれてしまうんだ。ほら、常識人だから」

「誰が?」

「……とにかく、礼を言われる筋合いはない。分かったか?」

 私は机に両肘を突き、付け根を合わせた両手の上に顎を載せ、浩太を眺める。

 ……なーんか、妙なとこだけ素直じゃないんだよねぇ。それは出会った頃、幼い頃から変わらない。見た目はごっつくなって、声も低くなったけど、可愛いところもまだ残ってるんじゃない。私が思わず笑うと、コータは怪訝そうに眉をひそめた。

「何がおかしいんだ?」

「ううん。コータのそういうとこ、好き」

「……お前なぁ、好きとか気軽に言うもんじゃないぞ?」

「なんで?」

「なんでって、お前……」

 うーん、好きなものを好きと言って何が……あ、そういえば。

「どうして、告白を断ったの?」

「そこに戻るのか? ……別に良いだろ、そんな――」

「よくないっ! ねぇ、教えてよっ! ねぇったらっ!」

 コータはそっぽを向いて黙り込んでいたが、やがて頬を掻きつつ口を開いた。

「……他に好きな子がいるからだよ」

「ユッキーでしょ?」

 コータはぎょっとして私に顔を向けたが、即座に否定することはなかった。ええ、そうでしょうとも。代わりに、コータの口から出たのは突っ込みだった。

「なんで有紀が出てくるんだよ?」

「だって、好きなんでしょ? 彼氏、いたんだな……って、寂しそうだったもん」

「誰がだよ。単にその、驚いただけだ」

「えー、あのユッキーだよ? 彼氏の一人や二人、いないと思ってたの?」

「まぁ、いてもおかしくはないな」

「でしょ? それなのに驚いたんだから……相当、ショックだったんでしょ?」 

「……お前は、俺と有紀をくっつけたいのか?」

「そうなるといいな~とは、思う」

 それは私の願いだ。二人は幼馴染みで、大切な親友でもある。そんな二人が一緒になれば……それはそれは幸せで、素敵なことだと思う。(ユッキーのお祖母ちゃんも、二人が道場を継いでくれると信じている)

 私はと言えば、オンゲーで運命の人と出会い、リアルでも一緒になるのだ。もちろん、二人にも紹介する。そして四人でダブルデートとか……ああ、夢が広がるなぁ。

「生憎だが、そうはならないぞ」

 水を差すコータに、私は首を傾げて見せる。

「ユッキーのこと、嫌いなの?」

「そんなわけ――」

「だよね! だけど、ユッキーには彼氏が……うーん、でもなぁ、私はユッキーが本当に好きなのはコータだと――」

「それはないな」

 コータの断定がすっと割り込んで来たので、私は「もう、照れちゃって!」と突っ込む機会を失ってしまった。コータは「こほん」と咳払い。

「有紀の気持ちは有紀のものだ。それに、俺が好きな子は別にいる」

「ユッキー以外に? えっと、誰だろ?」

「お前だよ」

 私は目をぱちくりする。私? 前髪を指先に巻き付けながら、私は肯いた。

「えっと……ありがとう?」

「……これだからな」

 がっくりと項垂れるコータ。……ふむ。私がコータを好きなように、コータが私を好きでいてくれるのは嬉しいし、ちょっとだけ、ドキっともした。

 ……ただ、同じ好きでも意味合いは様々。私がカケルさんを好きというのと、コータを好きというのと、ユッキーを好きというのも、微妙に違う。パパとママを好きというのも、FFを好きというのも……どれも違うのに、なぜ同じ言葉なのだろう?

「……難しいなぁ」

「俺にはお前が難しいよ」

「そう? ユッキーは私のこと、分かりやすいって言うけど」

「ある意味では、とてつもなくな。……で、カケルさんはどうするんだ?」

「うーん……」

 ……そう、問題はそれだ。でも、どうしようもないことだろうとは思う。こんな出口の見えない問題に付き合ってくれているのだから、コータこそお人好しだよ。

 私はただ、話を聞いて欲しかっただけかもしれない。誰でも……ではなく、ユッキーにコータ……気の置けない友人に。パパとママにはちょっと、話しづらいし。

「何かメッセージを送る手段はないのか?」

「あるにはあるけど、ログインしないと受け取れないから」

「それじゃ、意味ないか。ログインしてくれれば、一発なんだがなぁ」

「……待つしかないのかな?」

「そうだな。今夜あたり、ふらっとやってくるかもしれないし。お前ががFFを続けている限り、可能性はあるさ。後はもう、神様にでもお祈りするんだな」

 ――神様? 私は思わず立ち上がった。

「どうした?」

「神様……そうか、神様だっ!」

「……お前、神様に心当たりがあるのか?」

 そう、心当たりがあった。神様というより女神様で、本当は魔女様だけれど。


 ――黒絹の魔女。

 FFをプレイしたことがある人なら、一度は耳にしたことがあるであろう彼女の話。といっても、有名なプレイヤーでも、NPCでもなく……いや、実際はそのどちらかなのだろうけれど、その正体が謎に包まれた、言わば都市伝説である。

 サービス開始当初……二十年前から実在が囁かれてはいるものの、未だにそれを証明する確固たる証拠はない。そんな黒絹の魔女……魔女様の概要は、次の通り。

 黒絹の森の外れ。クエストや採取で訪れることもないエリアの片隅に、プレイヤー一人分ほどの穴がある。(小柄なラルフェル族ではなく、大柄なガルディン族基準)

 丸く、ぽっかりと空いたその穴はどこまでも真っ黒で、立体感もなく、周囲の風景と整合性が取れていないことから、グラフィックの不具合であろうと言われていた。(開発は仕様だと回答しているものの、どんな仕様なのかは明言されていない)

 この穴に……正確にはこの穴の前で、自分が持っている最も大切で、価値のあるアイテムを捨てると、黒絹の魔女が現れ、どんな願いも叶えてくれるというのだ。

 話の発端は、とあるプレイヤーが穴の前で誤って装備を捨ててしまい、途方に暮れていたところ、見たこともないグラフィックのキャラクターが出現し、装備を返してくれたというエピソードが、コミュニティサイトに投稿されたことによる。

 内容はテキストのみ。大方、初心者がGM……ゲームマスターを呼んだ時の様子を、言葉足らずに書き記しただけだろうと思われていたが、それが投稿される前から「あの穴は何だろう?」と思っていたプレイヤーも少なくなく、そこに一つの答えが与えられたことで、これを元に……いや、ネタにした投稿が、相次ぐことになった。

 装備を返してくれただけでなく、欲しかったレア装備もくれた、大金もくれた、レベルも上がった、ステータスも上がった、学力も上がった、恋人もできた、結婚もできた、宝くじも当たった、家出した猫も戻ってきた、家出した妻も……などなど。

 また、出現したキャラクターについても、GMのグラフィックではなかった、ヒュー族だった、女性だった、美人だった、魔女っぽい服装だった、むしろ魔女だった、黒絹の魔女だ……となり、ついには「描いてみた」とファンアートまで登場。

 ここに「捨てるのはレアアイテムに限る」「大切なアイテムがの方がいい」「大切なレアアイテムなら確実」……などの情報が加わり、そのイメージが煮詰まってきたところに証拠写真(後に捏造と発覚)が投稿され、魔女様騒動が勃発した。

 騒動の概要は至って簡単。魔女様に会おうと多数の冒険者が穴の前に殺到、アイテムを捨てまくる「魔女様召喚の儀」が、ワールドを問わずに開催されたのである。

 これだけなら大規模なユーザーイベントで終わったかもしれないが、アイテムを捨てても魔女様と出会えなかったプレイヤーが、GMにアイテムの返還を要求する行為(これを見越しての召喚の儀だった)が横行。その結果、黒絹の森で捨てたアイテムはいかなる理由があろうと返還しないと、公式にアナウンスされる事態となった。

 一方で、召喚の儀によって魔女様が出現したという報告はなく、証拠写真の捏造が発覚したこともあり、魔女様騒動は急速に鎮静化するのであった。

 これで魔女様の存在は完全に否定された……訳でもなく、いるかいないかは別にして、魔女様はFFの歴史とプレイヤーの記憶に、しっかりと刻まれることになった。

 また、交流イベントでプレイヤーから直接その存在の有無を尋ねられたプロデューサー兼ディレクターの吉井氏は、「僕はそういう存在がこの世界にいるのだとしたら、素敵なことだと思う」と発言。これもあって、今も魔女様の存在を信じている人は少なくなく、召喚の儀を行うプレイヤーもいた。(今では引退前の儀式として定着しているが、それで魔女様と出会えたという報告はない)

 ……私の魔女様に対する想いは吉Pと同じで、魔女様がいたら本当に素敵だなと思う。それに、これだけ多くの人が魔女様を知っていて、話題にしているということは、それだけで魔女様がいると言っても過言ではない……そんな気もするのだ。

 ともあれ、私は何より「恋愛の女神」としての魔女様に惹かれていた。魔女様の計らいでし、結婚まで辿り着いたという投稿(魔女様には秘密だと言われていたみたいだけれど、書かずにはいられなかったそうだ)を素敵な話だと思ったし、コータが口にした神様という言葉と共に、私が魔女様にカケルさんのことをお願いしようと思ったのは、このエピソードが決め手だった。

 ……というわけで、ナナは黒絹の森にいた。そして、足下の穴をじっと見詰めている。真っ黒な穴。底も見えず、木漏れ日も届かない、ブラックホールのような穴を。

 

 さて、何を捨てようか……そう思った時、真っ先に思い浮かんだのは……思い浮かんでしまったのは、「エンハンスブレード」だった。

 これは魔法剣士の武器ではトップクラスの性能を誇り、レア度もダントツ……約一千万人いるFFプレイヤーの中でも、所持しているのは数人という代物である。

 なぜここまでレアなのか……ざっくり言うと、数日に一度だけ現れるモンスターを倒して、そのモンスターが希に落とすアイテムを使って、希に出現するモンスターを倒して、そのモンスターが希に落としたアイテムを使って、希に出現したモンスターを倒して……ということを十回ほど繰り返し、最後に出現したモンスターを、レベル100の冒険者が百人がかりで、六時間程かけて倒すと、落とすことがある武器だからだ。

 私がこれを手に入れるまで、約三年かかった。というのも、FFを始めたばかりの頃、魔法剣士を目指す過程でこの剣の存在を知った私は、その美しい外見はもちろんのこと、「魔法剣効果アップ」という垂涎の性能に魅了され、思わす「欲しい!」と口にし、それを耳にしたパパとママが、入手に向けて動き出していたのである。

 ……そんなことはつゆ知らず、私は最後の戦いに参加したのだけれど、激闘の末にモンスターがエンハンスブレードを落としただけでも半泣きだったのに、パパとママから私へのプレゼントだと明かされて、戦いに参加した百人の冒険者から祝福された時にはもう、泣いて泣いて……お礼のチャットもままならなかったぐらいである。

 ……いや~、嬉しかったなぁ。あの瞬間が、私の人生にとってピークだったのではないかと、今でも思う。そして、使うのがもったいないというか、何だか申し訳なくて、実戦に用いることほとんどなく、時々、思い出したように装備しては、それを構えたナナの姿を眺めてにやにやする……幸せな宝物だ。


 ……そんなエンハンスブレードが私の最も大切で、価値のあるアイテムであることは疑いようもなく、私が魔女様に会うためには、これを手放さなければならない。

 躊躇いはある。ないわけがない。魔女様はいて欲しいけれど、実際に呼び出すとなると話は別だ。私がエンハンスブレードを捨てて、魔女様が現れなかったら……GMの救済も期待できない以上、エンハンスブレードはただ消滅するだけである。

 他のアイテムを捨てて様子見……とも考えたけれど、きっと、そんな心構えで臨んではいけないような気がするし、もしそれが通用してしまったら……それはもう、魔女様ではないと思う。……自分でも、変な考えだとは思うけどね。

 ナナは穴の前を行ったり来たり。立ち止まってフレンドリストを確認しても、カケルさんの名前は黒いまま。それでも、いつかログインすること信じ、待ち続ける。それが一番なのは間違いない。「ナナさん、こんばんは!」……そう言ってログインするカケルさんの姿が、目に浮かぶようだ。毎日一緒に遊んでいたのだから。

 ……でも、そんなカケルさんが急に姿を見せなくなったのも事実だ。そう意識することはなくても、明日もまた会えると思っていたのに……それが単なる自分の思い込みだったことに愕然とする。――青天の霹靂。同じ明日が来るとは限らない、夢見た明日が来るとも限らない……それはもう、痛いぐらいに思い知ったはずなのに。

 ――日付が変わった。カケルさんはログインしなかった。眠い。今日……昨日は諦めて明日……今日、ユッキーにも話を聞いて貰おうかな。こんなに眠くちゃ、冷静な判断も……私はあくびをしながら、開きっぱなしのアイテムリストを見やった。選択状態のエンハンスブレードを見て、危ない危ないと、コントローラを操作。出現した確認画面のボックスにチェックを入れ、明るくなった「OK」ボタンを選択する。 


 エンハンスブレードを捨てた。


 ――ひゅっと息を飲み込む私。いや、いやいやいや! ちょ、ちょっと待って! 眠気なんて一瞬で吹き飛び、心臓が早鐘のように鳴り始めた。両手から取り落としたコントローラが、ガチャンとテーブルを跳ねる。私は空いた両手で頭を抱えた。

 ……やってしまった。溢れる涙で滲んだチャット画面に、新たな文字が流れる。

「バカっ! 何やってンのよっ!」

 はっとして目を動かすと、ナナの前に小さな女の子が……浮かんでいた。

 ストレートの金髪。ルビーのような赤い瞳。そして、透き通るような白い肌。その顔立ちは幼いものの、きりっと上がった眉毛は凜々しく、芯の強さを窺わせた。

 黒を基調としたドレスを身にまとい、カチューシャ、手袋、ブーツも全て漆黒。それらの衣装を、深紅のリボンと純白のフリルが、ビビットにまとめ上げている。

 その背中には小さな体に不釣り合いなほど大きく、禍々しい意匠……髑髏しやれこうべの口から刃が飛び出ている……が施された大鎌を背負っている。今はぷかぷかと浮かんでいるからいいけれど、地面に下りたら後ろにひっくり返ってしまいそうだ。

 ――そして、その頭上に頂く名前は「Alice」。アリス。確かに、不思議の国にいそうな感じはある。ちょっと、攻撃的過ぎるような気もするけれど。

「これを捨てるバカが、どこにいンのよっ! 全ワールドに二つしかないのよ? 戻して上げるから、二度のこんなバカなことすンじゃないわよっ!」

 ……戻す? 私はアイテムリストを確認。すると、さっき捨ててしまったはずのエンハンスブレードのアイコンが並んでいた。捨てたアイテムを元に戻すなんて、プレイヤーにできる芸当ではない。GMだって、黒絹の森では……つまり、きっと。

 私は震える指先をキーボードに載せて、慎重に言葉を打ち込んでいく。

「あなたが、黒絹の魔女……様?」

「そう呼ぶ人もいるわね。……それにしても、エンハンスブレードを捨てるなンてねぇ。これを取るのがどれだけ大変か、貴女なら知らないはずもないでしょ?」

「ご、ごめんなさい! ……って、私のこと、知ってるんですか?」

「ええ、魔女ですもの」

 こくりと肯く魔女様を見て、私は首を傾げる。それにしても……。

「女の子だったんですね?」

 そう、一般的なイメージ……ファンアートで描かれる魔女様は、艶やかな黒髪が麗しい、ヒュー族の女性である。一方、目の前にいる魔女様は金髪。そして、ヒュー族はヒュー族なのだが……女の子である。美人というのは、イメージ通りだけど。

 魔女様は両手を腰に当て、首を振った。

「……皆、勘違いしてるけどね、大聖堂の女性は黒絹のノフィエンナよ? 好評発売中の公式設定資料集にも書いてあンのに……ちゃんと読めってのっ!」

 魔女様は背中の大鎌を手にすると、天高く振り上げた。思わず頭を下げるナナ。

「ご、ごめんなさいっ!」

 あれ……高くて買ってないなんて言ったら……魔女様、怒るだろうなぁ。魔女様は大鎌を背中に戻すと、腕組みして肯いた。

「……まぁ、いいわ。思わず出てきちゃった以上、貴女の願いを叶えて上げる。ログインしなくなったプレイヤーと、コンタクトを取りたいのよね?」

「そ、そんなことまで分かるんですかっ?」

「魔女ですもの」

「凄いなぁ……でも、いいんですか?」

「何が?」

「その、そんなことをしても……」

 今更という気もするが、私の願いは悪いことではない……とは思いたいけれど、裏ワザを使おうとしていることは間違いない。それが今、とんとん拍子で現実味を帯びていくことに、不安や戸惑いがないと言えば嘘になる。だが、魔女様はそんな私の想いを、背中に背負った大鎌ではなく、その言葉で一刀両断するのだった。

「そんなことも何も、それを願ったのは貴女でしょ? そして、私にはそれを叶える力がある。貴女は私に覚悟を見せてくれた。私はそれに報いたいだけ。私はね、そういう存在なの。この世界を愛し、この世界を愛する人を愛す……分かる?」

「……それは、素敵ですね」

 私は心の底からそう思った。今の言葉だけでも、魔女様がこの世界を……FFを好きだということがよく分かる。私だって、同じ気持ちだから。

「そう、私は素敵なの」

 にっこりと笑う魔女様。でも、それは一瞬のことだった。

「確認」

 魔女様は人差し指をぴんと立てると、鋭い眼差しをナナに向けた。

「私の力が及ぶのは、この世界の境界線まで。それ以上の領域……リアル、現実世界には届かない。だから、私が貴女の願いを叶えたことで、貴女が現実世界でどれだけ辛い目に遭ったとしても……それを、私が助けることはできない。いいわね?」

 ナナは肯いた。そして、私も。リアルのことはリアルのナナ……私が、どうにかしないとね。リアルの私は強くないけど……仲間がいるから、大丈夫。

「よろしい。少し時間を貰うわ。……そうそう、分かってるとは思うけど、私のことは秘密にしておくこと。もし誰かに喋ったら……真っ二つよ?」

 人差し指を赤い唇に当て、ウィンクする魔女様。その姿が……消えた。

 ――何事もなかったかのように。チャット画面に目を向けると……魔女様の言葉だけでなく、ナナの言葉も消えていた。アイテムリストには、エンハンスブレード。

 ……夢を見ていたのだろうか?


「夢だな」

「ええーっ!」

 朝のホームルーム直前の教室に、私の声が響いた。

 寝坊し、遅刻しそうになりながらも教室に滑り込んだ私は、ユッキーとコータを捕まえ、魔女様のことを話した。放課後までなんて、待ってられないものっ!

 それなのに、コータは冷めた反応……そりゃ、夢みたいな話だけどさっ!

「ユッキーはどう思う?」

「……夢かどうかはともかく、秘密にしておかなくて良かったの、それ?」

「あ……あーっ! そ、そうだったっ! ごめんなさい、魔女様っ!」

 私はどこにいるともしれぬ魔女様に向かって両手を合わせ、頭を何度も下げた。

「ナナったら……ほら、もう先生が来るわよ?」

「うう……うっ?」

 ポケット中でぶるぶるとスマホが震えた。取りだして確認すると、メールが届いてる。スパムかな……画面を指先でタッチした瞬間、私の目は釘付けとなった。

 ――差出人は「Alice」。件名はなく、本文に待ち合わせの時間と場所、そして目印が書かれていた。

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