北の灯り

七星いつか

北の灯り

 自分の生きてきた日々に疲れると、僕は決まって、北へ向かう。何がそうさせているのか、自分でもよく分からない。出身は東京だし、両親の実家があるわけでもない。それでも何となく、足は日本列島の上の方を向く。東北へ来ると、なぜだか、長い期間空けていた家に帰ってきたような、そんな空気を感じる。それが厳しい冬であっても、足早に過ぎ去ってゆく夏であっても。身体の芯からきん、と冷えるような寒さの質とか、明確な秋の訪れとか、寡黙な人々、それら全てが僕の心の扉を優しく開き、安らぎへと巧みにエスコートしてくれる。「一人北へ向かうって、なんかセンチメンタル過ぎると思わない?狙ってるっていうか、ベタっていうか...。」前付き合っていた彼女にそのことを話したら、そう言われた。「それに、寒いところって、私あんまり好きじゃないわ。どうも、辛気くさくて。南国とか、こう、年中浮かれた観光気分が漂っているじゃない?そういうのに浸る方が、よっぽど楽しいと思うけど。」

 青森駅で電車を降りた。何もかも埋もれてしまいそうな雪が、空から一目散に落ちてくる十二月の夕方であった。

 多分、今も疲れているんだと思う。何となく、自分はいらないもののように思えて、こんなとき、どういう気持ちで生きたらいいのか分からなかった。そんなことは、ごくありふれた悩みで、実にくだらない、けれどそう思っていても、喉に刺さった魚の骨みたいに心をちくちくと痛めつける。砂漠の旅人が水を求めるように、赤子が母親の乳を求めるように、僕は北へ向かった。僕にとって、ここは母のようでもあり、ふるさとのようでもあった。

 改札口で長距離切符を見せる。改札口の駅員は、出発地に記された駅名に一瞬眉を動かしたが、すぐに真剣な顔に戻って、はいどうぞ、と言った。遠いところを、だったり、寒い中ご苦労様、だったり、駅員の言いたいことはだいたい伝わってきた。言葉にするとなんだか白々しくなってしまうことを、あえて言葉にしない。それが、ここの流儀だと言うかのように。そういうところも、僕は妙に、好きなのだ。駅の外に出ると、電車の中から見るよりも、雪ははっきりとした意志を持ってこの街を白く染めようとしているみたいだった。

 「あなたも、お一人ですか?」突然声をかけられたので、僕はとっさに「え」と「あ」の中間のような返答をしてしまった。行き場のなくなった白い言葉が闇に溶けてゆく。すぐに、ええ、と言い直すとその真面目そうな青年は、お暇でしたら、ラーメンでも食べに行きませんか、と言った。

 「いやあ、ひとりで、こうやって寒いところを旅していると、無性に誰かと話したくなるんですよ。」九州から各駅停車で日本縦断をしていると言う青年の言葉も、やっぱり白かった。「それでね、駅で降りるたびにこうやって、一人旅をしておられそうな方と話しながら歩いたり、ご飯を食べにいったりするのが恒例?っていうか、好きなんですよ。」青年はコートのポケットに手を突っ込んだまま、人懐っこく喋った。駅前の通りをしばらく歩いていくと、こぢんまりした食堂があった。「青森の名物ラーメン、知ってます?」彼はいたずらっぽく笑う。「まあとにかく、行きましょう。」

 味噌カレー牛乳ラーメン、というのがそれだった。昔ながら、という表現がしっくり来る店内で、割烹着のおばちゃんが湯気の立つ丼を二つ、恭しく運んできた。彼女の顔に浮かぶ皺のすべてに、この北国で重ねてきた日々の表情が刻まれているような気がして、こっくりと濃厚な味わいのラーメンによく似合うな、と思った。

 青年と別れ、あてもなく駅に戻る。もとより自由な旅だ。すっかり日の落ちた駅前では、海の方、つまりかつての連絡船乗り場の桟橋あたりまで和紙でできた張りぼての雪だるまが一列に行儀よく並び、吹き付ける粉雪の中で、柔らかく光っていた。竹籤でできた骨組みのまわりに和紙を貼って色をつけ、灯籠のように中で灯りをともす。この辺りで有名なねぶたの技法を使っているのだろう。「あおもり 灯りと紙のページェント」、何かの雑誌で見た記事を思い出した。よく見ると有名なアニメのキャラクターが可愛らしいタッチで描かれているものもある。地元の子どもたちが製作したものかも知れない。大きな丸形のものは職人が作ったのだろうか、色彩豊かで、降り積んだ雪によく映えた。

 夜と同化した濃紺の海のすぐそば、欄干に並ぶ橙色の灯りに照らされた木の桟橋へと僕は足を進める。頭の上では港をひとまたぎするベイブリッジが電飾に浮かび上がり、そのスポットライトを浴びながら幾億もの白い粒が、自分たちの晴れ舞台とばかりに踊り狂い、そして、音もなく散っていった。

 どこまでも続いているような、張りぼての灯りたち。整然と並ぶ、誰かの日々。ゆっくりと、僕はその一つ一つを確かめるように、歩いていった。全然知らなかった人たちの時間を繋いでいくのが旅なんだな、と僕は唐突に思った。改札口の駅員も、一人旅の青年も、ラーメン屋で丼を運ぶおばちゃんも、出会うはずじゃなかった。でも、出会った。それは、僕が旅に出たから、たったそれだけの、恐ろしいほど単純な行動による結果だ。家を出て、今この場所に降り立った、それだけで、ばらばらの点だった誰かの時間が線になり、意味をなした。運命とか、そういう僕じゃどうしようもないものに、ほんの少しだけ抗えるような、悪くない気分だ。僕が繋いだこの旅に、自信が持てると、思った。悩みは消えないけれど、悩みを抱えた自分を肯定できれば、それでいい。自分さえ否定してしまう自分に、解決策なんか出せるはずが無いのだ。真っ白になった桟橋で、僕の後ろ、足跡が静かに消えていった。僕はコートについた白い結晶たちを愛おしく思いながら、光の列の中、前を向いて歩き始めた。

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