二の舞を踏む(慣用句ではない)

 「二の舞を踏む」が誤用だと言われるとの話を目にしました。

 日本古来の「舞」は足踏みするイメージが強いものですから、個人的には「踏む」で違和感がありません。だから誤用とされるのにびっくりです。


 ところが、「舞を踏む」と言う言い方をしないらしくて、またびっくりです。

 「舞」を「踏まない」なら、「二の舞」だって「踏まない」に決まってるじゃないですか。どうして慣用句とされる場合だけ「踏む」のでしょう。意味が判りません。

 慣用句とは、字面は字面で意味が通っていて、字面通りとは違う意味を持つ言葉ではないでしょうか。例えば「足を洗う」。

 恐らく、誤用だと言った人物も同じことを考えたのだと思います。


 但しこれは「二の舞を踏む」を慣用句とした場合の話です。

 慣用句でなければ何でもありません。


 そもそも「二の舞」だけで「前の人と同じ失敗をすること」を意味します。「二の舞になる」や「~の二の舞だ」を耳にすることも多いのではないでしょうか。

 その「二の舞」を単純(「足を踏む」や「地雷を踏む」)に、あるいは経験(「初舞台を踏む」)として「踏む」だけなのでしょう。言い換えれば、「前の人と同じ失敗を踏む」となります。これなら誤用とは言われないのではないでしょうか。


 誤用とされたのは「二の舞を踏む」が慣用句に見えることからの錯覚によるものだと考えられます。「二の舞」は本来の意味では一般的ではありません。また、慣用句の多くは「腹が座る」のように「名詞+助詞+動詞」の形を採ります。この二点から、「二の舞」のような言葉が出て来た場合、その形式に沿って慣用句だと判断されてしまうのではないでしょうか。

 そして慣用句でないものが慣用句として独り歩きしてしまう。


 同様の誤用論議は、当エッセイの別項に挙げた「正鵠を得る」にも有ります。

 「正鵠」だけで「物事の急所・要点」を意味します。「物事の急所・要点を得た意見」と書かれていれば、この「得た」が誤用と判断されることはそうそう無いのではないでしょうか。そう「正鵠を得る」「的を得る」の「得る」は単純な意味で「得る」なのです。

 これも慣用句と見るからおかしな話になるのです。


 他にも同様に、慣用句とされながら実は慣用句ではない言葉が幾つも有るかも知れません。



※追記


 「二の舞を踏む」が誤用とされる中で、代わりに使われたのが「二の舞を演じる」「二の舞になる」だと思います。


 「二の舞を演じる」はともかくとして、「二の舞になる」は奇妙に感じられませんか?

 「~の二の舞だ」と同じことなので、慣用句でも何でもありません。慣用句とされる言葉の代用にその一部を切り取って使ったらOKと言うのは、どうにも筋の通らない話でしょう。

 元の言葉「二の舞を踏む」が慣用句ではない証左です。


 それはさておき、「二の舞を踏む」「二の舞を演じる」「二の舞になる」には微妙なニュアンスの違いがあります。「踏む」「演じる」「なる」のニュアンスの差がそのままそれです。

 「踏む」だと「原因を知らずにやっちゃった」感が、「演じる」だと「原因を知っててやらかした」感が、「なる」だと「失敗そのものを知らなかった」感が有ります。

 このニュアンスの差で、それぞれを使い分けるのが良いのではないでしょうか。


 余談ですが、「二の舞を踏む」の代わりが「二の舞を舞う」ではなく「二の舞を演じる」なのは、きっと重言警察の仕業でしょう。

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