幕間、あるいは閑話休題
第30話「ちーっす、バリスタの珈琲」
その施設は、町外れの山手にひっそりと建っている。
医療施設だと知る者は少ない。
当然だ……多くの場合、ここへの入院は世間からの隔絶、社会からの
見捨てられた患者を見て見ぬふりができない、そういう男だからだ。
「おはよう、今日は調子はどうかな? 食欲は……あるようだね」
今日も架は、病室の一つを訪れる。
入院患者は子供が圧倒的に多い。そして、大人になれぬまま消えてしまう。ある日突然、説明もされず病室が綺麗になっているのだ。
ここはニュータントウィルス感染者の中でも、特殊な症例の子供が集められている。
その中でも、この病室の少年は特別だ。
「ふぁっ、ほはよーございまふ! 架先生っ」
「今朝も元気だね、天輝君。ああ、ゆっくり食べてくれよ? 味わって、ゆっくりね」
「ほい!」
病室では、ベッドの上で一人の少年が朝食を食べている。
酷く
もっくもっくと、彼は一生懸命食べ続ける。
名は、
正確には、ニュータントになりきれなかった子である。
「ぷあ! おいしかった……ねね、先生はごはん、食べた?」
「ああ、さっき車での道中にね。夜勤明けだから、コンビニのもので済ませてしまったよ」
「大変だよね、自分の病院もあるのに」
「そう、大変なのさ。でも、それはここに来なくていい理由にはならないよ」
この笑顔も、時が来れば突然失われるだろう。
そして、架にできることはあまりにも少ない。
恩師であり父親のように思っている医師、
ニュータントをヒーローだヴィランだと、世間は白と黒に分ける。
だが、医師にとっては等しくニュータントウィルスの感染者……つまり、患者に過ぎない。ならば、
「さ、血圧を測ろうか」
「あ、待って待って! ……せんせ、コーヒー飲みたくない?」
「君が今朝は最後だから、終わってからゆっくりいただこうかな」
「夜勤明けでしょ? いいから行こ! 血圧はほら、ボク朝は弱い方だからだ大丈夫だよ」
恐らく低血圧だと言いたいんだろうが、何が大丈夫なのだろうか。
だが、天輝はベッドを飛び降りスリッパを引っ掛ける。
ペタペタと歩き出した彼に、自然と柔らかな苦笑が零れた。
「聞いてるよ、天輝君。そうやってよく、先生達に自販機の飲み物を
「ま、そういう可能性もあると思われー! さ、行こ行こッ!」
「可能性、か」
静かな病院の廊下は、まるで
消毒液の匂いが満ちた、無菌に近い清潔な空間。
どこまでいっても、見えない死がそこかしこで口を空けている。だが、天輝は他の患者達と違って驚くほど明るい。あとを追って歩けば、振り向く天輝も再び進み出した。
リノリウムの上に、安物のスリッパの引きずるような音が元気よく響いた。
「天輝君、君の症状だけど……どうも、カルテの記述が
「そぉ? 単純な話だよ、ボクの力なんて」
「可能性の拡張、というのはどういう意味だい?」
「拡張、っていう言葉は違うかも。んー、なんてゆーか、足せるの。付け足せる」
腕組み難しい顔をする天輝に並んで、架は小さな
天輝はニュートラルウィルスによって、恐るべき力を得た。しかし、その肉体が力に耐えきれず、こうして入院しての投薬と静養が必要になったのだ。
対外的には、そういうことになっている。
真実は少し、違う。
「……それはそうと、天輝君」
「んー? あ、ほら! 自販機! 新しいの、入ってるかなあ」
「御家族は、来てくれたりするかい?」
「ゴカゾク……おお!
「そっか。よかった」
「あとはねー、こないだは
ぴゅー、と天輝は自動販売機に向かって走り出す。
ロビーにも人の気配はない。
やれやれと架がポケットに
慌てて駆け寄り、支えてやった。
その身は驚く程に痩せていて、冷たかった。
「ありゃりゃ……転んじゃった」
「急に走ると危ないよ。さ、立てるかい?」
「ん、だいじょーぶ。でも……最近、よく転ぶんだ。すっ、て力が抜けるの」
「……大丈夫。体力が落ちてるみたいだけど、きっと病気が治れば。オレが、治せば」
ニュータントウィルスを物理的に無効化する治療法は確立している。
架の師が、命がけで完成させた分離技術があるのだ。
だが、その治療を身に招くには、天輝の肉体は弱過ぎる。
彼は、持って生まれた力に身体を喰い潰されながら、貴重なモルモットとして閉じ込められているのだ。他ならぬ両親が、気味悪がって隔離を望んだのだ。
カルテで読んでもピンとこない、その能力の名は……【第XXの選択肢】という。
「可能性を足してやる、か……だが、その力が君の可能性を奪っているんだ」
「ん、ボク? そっかあ……ボクは確かに、ボクの可能性は増やせないもんね」
――可能性は、たった無限の数しかない。
彼はいつもそう言って笑う。
ニュータントは通常、特殊な力に加えて、身体能力や感覚が強化される。特殊能力自体が怪力や超スピードの類もあるが、基本的に頑強な体力を持っている
だが、天輝はもともと病弱な上に、
嘘か本当か、人の持つ未来の選択肢を増やせるのだという。
思わずじっと見詰めてしまったが、立ち上がった天輝はエヘヘと笑う。
「あ、力の話だよね。んと、あんまし使うなって冥夜ちゃんに言われてるんだ」
「それがいい。まずは体力をつけて、身体を丈夫にしないとね」
「うんっ! ……だから、一回だけね。一回、だけ」
不意に、天輝が架の
その瞬間、奇妙な感覚に囚われる。
不快感はないし、何も変化を感じない。
だが、確かに何かが変わったような……それは直感でしか拾えぬ違和感。
「ねね、せんせっ! ……自販機の下、見てみて?」
「えっ?」
「可能性ってね、無限大なんだよ? でも、実は……可能性の数と種類は、みんな決まってる。生まれた時に選択肢が設定されてるの。ただの無限でしかない、未来」
架は背筋がぞくりと
無垢な天輝の笑顔が、不意に遠ざかってしまうような気がした。
治すべき患者が、連れて行かれるような感覚。
彼の能力に触れたことが、それでわかった。
長らくニュータントと敵だったり、味方だったり。その両者が等しく患者だと思えたからこそ、架は激しい戦いの中で道を誤らなかった。
だが、それが生まれ持った運命のようなものだと天輝は言う。
そうならない可能性もあったが、それも等しく存在した無限の未来の一つらしい。
「先生……あの自動販売機の下に、大金が落ちてたら……なんて、考えたことある?」
「大金?」
「そうっ、いちおくせんまんえん! それくらい、大金!」
「いや、それは……ない、
ちらりと架は、天輝の前に立つ自販機を見やる。省エネモードで照明が落ちているが、モーターの作動音が鈍く響いている。並んだ飲み物はどれもきらびやかな缶で、殺風景な施設内で、ここだけが別世界のようだ。
そして……下には小さな小さな
架の手が入るかどうかといった狭いものだ。
その下に、大金が? ありえない。新札の
常識では、そうだ。
だが、思わず架はゴクリと
「……っ! これは」
「そう、可能性だよ。僕が足した可能性。でも、僕がどういう可能性を足せるかは、上手く制御できないんだ。だから……ここの施設で、それができるように、訓練? 調教? とにかく、色々身体をいじられてるんだあ」
「可能性を足す……こういうことなんだね」
「うんっ! でも、僕が足した可能性を引き寄せられるかどうか、それは……その人次第かなあ。そういうのはね、冥夜ちゃんが得意なんだよぅ」
立ち上がった架はそっと手を開く。
しわくちゃになって
天輝が能力で触れてこなければ、自販機の下と言わなければ……拾われなかった金だ。そして、もしかしたら……天輝が能力【第XXの選択肢】を使ったことで、突然自販機の下に千円札が出現したとも考えられる。
が、架は丁寧に千円札を手で伸ばしながら
「オレは可能性がなくても、必要とあらば誰にでも手を伸ばす。手を、差し出すさ」
「そなの?」
「ああ、そうなんだ。これはあとで守衛さんに届けておくよ。君のコーヒーを買うのは、僕のポケットマネーだ。それは、さっきからずっとオレが決めてたことだよ」
「なるほどー、先生にとっては可能性の全てが必然、自分の意志なんだねっ! 医師だけに、意志……っ! ぷぷ、くくっ……やばい、これ傑作……あははっ! あとで冥夜ちゃんにメールしなきゃ」
ちょっと、天輝のことはよくわからない。
本人に思い詰めた様子はない。だが、彼の能力欲しさに浅ましい大人が暗躍している気配だけは察した。
人の欲、それも度が過ぎれば病魔となって心を
そして、それを治療するのもまた、架の医師としての戦いなのだった。
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