第32話:惜別の言葉

32、


 もう今日が終わるのか――そんな思いが梨花たちの胸を去来する。

 空を見上げると、青かった空は鮮やかな茜色に染まり、東の空からは紺碧こんぺきが迫りつつあった。一日が終わることを告げる合図のような空模様の変化に、源邸の縁側でそれを見ていた梨花たちの中から、誰ともなく嘆息がこぼれる。空の美しさに見とれたのではなく、今日もまた無為に終わってしまうのかという意味での溜息であった。


「晴明殿、帰ってこないね」


 ぽつりと、そう言葉を漏らしたのは桃花であった。縁側に腰を下ろし、足をぶらぶらと所在なく揺らしながら、彼女たちは晴明の帰還と彼からの良い報せを待っていた。

 彼が樹神を連れ戻してくることを宣言して出て行ってからだいぶ時間が経っている。が、彼はまだ帰還しておらず、梨花たちは結果の良し悪しはともかく、待ちくたびれつつあった。


「首尾よく見つかったとしても一悶着ひともんちゃくあるかもしれないわ。まだ待ちくたびれるには早いわよ」

「一悶着って?」


 梨花の言葉に、梅が訊く。それを受け、梨花は説明する。


「いろいろあるじゃない。どうして急にいなくなったのとかいう詰問とか、樹神様の返答とか。私たちの前から急にいなくなったんだもん。何か普通じゃない理由があるに違いないわ」


 彼女の返答に、桃花と梅は納得した様子で頷いた。自分たちの前から急にいなくなったのには何か理由があるはず――そう信じる彼女たちからすれば、その考えは当然のものといえる。

 そのような言葉を交わしつつ、三人は縁側から空を見上げる。空模様は、美しいと同時にどこかしら不吉な未来を告げるような印象を与えさせた。

 しばらく、三人は他愛無い言葉を交わしながら、そんな空を見上げ続けた。

 そんな中、である。

 一体最初に誰が気づいたのか、ふと視線を縁側の前に広がる邸宅の庭へ向ける。庭といっても、草が剥げた飾り気のないものであったが、そんな何もないはずの庭の向こうに、薄らぼんやりとして人影が生まれていた。

 影は、ゆっくりとこちらに向かい近づいてくる。

 三人がそれに気づいて視線を向けると、やがて全員の顔色が変わった。そんな彼女らの反応の理由は当然ともいえた。三人にとって、それは先ほどまで話に挙がっていた人物であったからだ。

 そんな影は、ゆっくりとこちらに近づいてくる。


「樹神様!」


 影の正体を見て、梨花が声を上げた。薄暗くても、見慣れたその姿を見誤ることはない。それは、間違いなく樹神であった。

 彼女が現れたのを見て、三人は慌ててその場を立ち、庭に降りようとする。その出鼻であった。


「来ないで、三人とも。そのままでいて」


 しん、と樹神の声が静かに流れる。その声に、三人は動きを止めた。不思議と、樹神の言葉は三人をその場に縫い付ける。

 その代わりに、樹神はゆったりと三人へ近づいてくる。すぐ近くまでやってくる彼女に、やがて三人は違和感を覚えた。

 何故だろう。今の樹神は、何かいつもと雰囲気が違うように感じた。いつもは穏やかで温かい彼女が、今はどこか悲しげな、寂しげであるように感じたのだ。


「樹神様?」

「……お別れを、言いに来たの」


 暗がりの中で、樹神は薄らと笑みを浮かべる。

 その言葉に、三人は目を点にした。


「え……。お別れ?」

「ごめんなさい。あまり説明している時間はないの。だから、単刀直入に話すから、口を挟まないで頂戴」


 そう言うと、樹神は三人のすぐ近くまで歩み寄ってくる。


「いろいろあってね。私はここにいられなくなったの。というより、貴女たちと一緒にいられなくなった。別に貴女たちが嫌いになったわけではない。でも、貴女たちと一緒にいては迷惑になることになったの」

「え……何を言って……え?」

「遠くへ、とても遠くへ行かなければならない。だから、最後にこうしてお別れを告げにきた。本当は時間も惜しいのだけど、やっぱり何も言わずにいなくなるのは無責任だと思ってね。せめて貴女たちだけにでも、挨拶しておきたくて」


 困惑する三人に、樹神は構わず続ける。


「今までありがとう。貴女たちと過ごせた数年は、間違いなく私の宝物よ。いろいろあったし、怒ったことも泣き合ったこともあったけど、全てまとめて、私は幸せだったと思うわ。貴女たちといられたから、私は穏やかな時間を、楽しい時間を過ごせた」


 そう言って、樹神はすっと頭を下げた。


「これからいろんなことがあると思う。辛いことも悲しいことも。でもね、そんな時に私といた時間を思い出してほしい。差し出がましいかもしれないけど、私との時間で覚えたことを思い出して頂戴。そして、励みにしてほしい。思い出して笑っていてほしい。それだけが、私の望みよ」

「樹神様、何が言いたいの?」


 梨花が、樹神の言葉を聞いて強張った笑みを浮かべる。

 聡い彼女は、すでに樹神が何を言いに来たのか理解していた。理解していたが、理解したくはなかった。樹神からの別れの言葉を、素直に受け止められるはずがなかった。

 それの証拠に、彼女は拒否反応を示す。


「きゅ、急にいなくなるなんて言わないで! どうしたんですか、樹神様!」

「何があったのです、樹神様?」

「そ、そうです。いきなりお別れだなんて……!」


 梨花に続き、梅や桃花も口々に言葉を発する。

 三人が続々と、胸の内から溢れる疑問を漏らす。到底納得できないと言った様子に、樹神はただ静かに、笑う。


「ごめんなさい。時間がないの。こうしてこの場に留まり続ける余裕も、ね。だから最後に言わせて頂戴。私は、貴女たちを愛している。きっとこれから、貴女たちには杏からびっくりする報せを聞くことになると思うけど、それでも私を信じて。私は、貴女たちを心から愛しているのだから」


 笑みを薄いものに変えながら、そう言って樹神は半身を翻す。


「……じゃあね。もういかなきゃ。どうか末永く、幸せに――」

「ま、待ってよ、樹神様!」


 踵を返し、この場を去ろうとする樹神に、梨花は慌てて庭へ下りようとした。このままでは、本当に樹神がいなくなってしまう……そんな危機感が、梨花の胸中を慌てさせた。

 追いかけようとする梨花、去ろうとする樹神――その二人の間を、一筋の奔流が断ち切る。飛んできたそれは樹神に向かって襲い掛かり、樹神はそれを慌てることなく前へ飛んで避けた。躱されたそれが地面に当たると、金切り声をあげて四散、その場で爆ぜて砕け散った。

 突然の投擲物に、梨花はぎょっと、樹神は焦ることなく静かに振り返る。

 二人を含めたその場の全員がそちらへ目を向けると、そこには新たな人影が、屋敷のへいの上から飛び降りてくるところだった。


「……また、来たのですね」


 その姿を見て、樹神は涼しげな顔で言う。特に焦りも辟易も見せず、彼女はただ単に問う。

 それに対して、その人物は鋭い目を更に鋭く変えて、言う。


「逃がすと思っていたのか、鬼女が。ここまで来て、見失ってなるものか」


 険しい顔で告げたその青年・蘆屋道満は、その手に袖から木札を取り出す。

 突然の彼の登場に、梨花たちは固まる。過去に見知った道士との再会に驚きを覚えると共に、不審を覚える。その理由は彼の姿にある。元々黒かっただろう彼の衣服は、今は何やら泥を含んだ汚れでひどくけがれている。まるで、泥沼に落ちたとでも言うようなひどい状態であった。


「ど、道満さん⁈ 一体どうしてここに――いや……」


 梨花は、声を発しながら気づく。

 一体、道満が今何をしたかを悟り、その顔は驚きから険悪なものへ変わっていき、糾弾に発展する。


「何のつもり! 樹神様に術符を投げてくるだなんて……」

「決まっている」


 批難の声に、道満は淡々としていた。淡白であるが、その顔は険しい。厳しい感情により、強張っていた。

 そして、彼は告げる。


「その女――否、その鬼を殺す。そのために、俺は播磨から追ってきたのだからな」


 殺意で濡れたその言葉は、紛うことなき殺意を含んでいた。

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